大人の肉体……ポスト・エヴァンゲリオン症候群私論

1.肉体の延長

道具は肉体の延長である、という考え方がある。

箸は指の延長、自転車は脚の延長、衣服は肌の延長、といった具合に。

肉体の延長としての道具……少しだけ解釈を変えてみれば、肉体を何らかの方向へと延長させる道具。肉体を道具によって延長させることで、僕等は生身の肉体だけでは出来ないことを可能にする。

だから道具があれば、肉体が未熟であってもそれを補うことが出来る。例えば目的地が二キロ先にあるとしてみよう。大人ならばこれを徒歩で往復するぐらいは決して大したことではないが、肉体的に未熟な小学一年生にこれを往復させるのはなかなかに酷なことだ。しかしその少年が自転車に乗れたなら? 自転車という脚の機能を延長させる道具を使えば、肉体が未熟な小学一年生でも、大人に遜色のない「二キロの距離を往復する能力」を獲得することが出来るというわけだ。

しかしものは考えようである。

小学一年生が大人と遜色ない「二キロの距離を往復する能力」を持つということは、それまでは母親の自動車で送り迎えして貰えたようなちょっと遠い場所に自分一人で行くことを要求される、ということでもある。お菓子が買いたい。友達の家に行きたい。お母さんは息子の成長を促す意味も含めて、少年にちょっとしたお小遣いを与え、もう一人で行けるよね、と微笑みかける。少年はこの事態に戸惑うだろう、或いは愚図ったりするだろう、幾ら道具を使って「能力」を得たからといっても彼はやっぱり小学一年生の精神しか持ち合わせていないのだから。

しかし彼は母親から与えられた課題を拒否し続けることは出来ない。少年は自転車という道具でもって、大人の徒歩と遜色ないぐらいの移動能力を得てしまったのだから。

 

2.『エイリアン9』の理不尽

富沢ひろし『エイリアン9』という漫画がある。連載期間は1998-1999年だ。

優れた戦闘能力を持った共生型エイリアン「ボウグ」を与えられた小学六年生の少女達が、エイリアン対策係という役職に就いて学校の平和を脅かす敵性エイリアン達の捕獲や駆除を担わされるという物語である。学校に現れる敵性エイリアン達は意味不明だしグロテスクだし非常に危険な存在で、性根が臆病者である主人公の大谷ゆりは仲間や先生に叱責されながらも怯えてばかりいる。幾ら強力な「ボウグ」によって守られているとはいえ、グロテスクな化物達が自分を攻撃してくるのだから、幾ら仲間や先生が厳しく鼓舞してきたとしても十二歳の少女が強烈な恐怖を覚えるのは実際仕方ないことだ。

しかし幾ら怯えても、幾ら怖がっても、彼女はエイリアン対策係を辞めることは出来ない。

臆病だから、無能だから、素質がないから、幼稚だからという理由では彼女は自分に与えられたこの危険な責務から逃れることが出来ない。一体この胸糞が悪くなるような理不尽さの根源は何処にあるのだろう? つまりこの理不尽の核を突き詰めていくと、要するに彼女が敵性エイリアンに対抗出来る共生型エイリアン「ボウグ」を与えられたから、というその一点に帰着してしまう。たとえ自分の意志でなくとも、たとえ素質がなくても、共生型エイリアン「ボウグ」を与えられた時点で、彼女はもう大人達から危険から守って貰える普通の子供の位置にはいられない。彼女にはもう敵性エイリアン達と存分に戦う能力、いわば「大人の肉体」に匹敵する能力を付与されていて、それに見合った活躍をする義務がある。

戦闘能力があるのだから、幾ら精神が未熟なままでも、能力に見合った責務を負わねばならない。

つまり共生型エイリアン「ボウグ」とは、彼女の肉体を大人へと延長させる道具なのだ。

『エイリアン9』はさらにもう一歩この問題に踏み込んでいく。共生型エイリアン「ボウグ」は、宿主とのより完全な共生、より完璧な肉体的な融合を目指している。そしてゆりは無理矢理に共生を試みようとする「ボウグ」に襲われて、これを激しく拒絶する。作中でも「結婚」という比喩が用いられるこのより完全な共生……「ボウグ」から伸びる触手は明らかに男根のメタファーだから、事実上これは性交の強要を意味している……これはあくまで与えられた道具によって、一時的に延長されていただけだったはずのゆりの肉体を、より逃れ難い形で「大人の肉体」へと作り変えてしまう理不尽極まりない要求である。これを受け入れてしまえば本格的にゆりはもう「子供の肉体」には戻れないのだ。当然ながら臆病な「子供の精神」を持ったゆりにそんな理不尽が耐えられるわけがない。そして怯えているゆりを襲い来る「ボウグ」から守ろうとするのは、先の戦闘の後遺症で肉体そのものが「ボウグ」化してしまった少女と、別のエイリアンに共生されてしまっている少女、すなわちもう既に「子供の肉体」を半ば放棄してしまったような少女達であった。もう言動も外見すらもこれまでとは違ってしまった二人に向かってゆりは叫ぶ。

《みんな みんなどうしちゃったの?》

子供の肉体を大人へと延長させてしまう道具、そして延長された「大人の肉体」と相変わらず臆病な「子供の精神」との激しい軋轢。『エイリアン9』は肉体を巡る想像力において非常に示唆的な見解を僕に与えてくれる。さてはてこういう見解は、一度獲得してしまえば、色んな方向へと応用していくことが出来るからとても便利だ。もうお気付きだろうが『エイリアン9』にも影響を与えたであろう『新世紀エヴァンゲリオン』はまさにこの理不尽な構造のモデルタイプを示している。十四歳の精神的に未熟な少年少女に与えられるのは、「汎用人型決戦兵器 人造人間エヴァンゲリオン」という高性能で外見も大人びた「大人の肉体」だった。幾らシンジが使徒との苛烈な戦闘に怯えようが嫌がろうが、彼が「汎用人型決戦兵器 人造人間エヴァンゲリオン」という「大人の肉体」を獲得してしまった以上は、ネルフという大人達の空間に混じって大人達の仕事に従事しなければならない。たとえ彼がどんなに面倒臭い「子供の精神」を発揮してところで、彼に与えられた義務からは逃れられないのだ。あなたはエヴァンゲリオンのパイロットなの、という理不尽な要求は言い換えるならば、貴方はもう大人としての責務を負うべき能力を持ってるの、という要求と常に重なり合っている。そして肉体と精神は激しく摩擦して彼等を疲弊させていく。

 

3.若者達の「大人の肉体」

自転車を手に入れた小学一年生は、もう自分で友達の家まで行かなければならない。しかし一方で、親に頼らないより自由な移動能力を得るということは、彼をこれまでのか弱い位置から解放するということでもある。能力は責務を与える一方で権利ももたらす。少年は一人で何処にだって行けるだろう。

だからアスカはむしろエヴァンゲリオンという「大人の肉体」を積極的に利用しようとする。エヴァンゲリオンのパイロットであるということは、彼女を十四歳の少女であるという事実から解放してくれる。エヴァンゲリオンで活躍すればするほどに彼女は子供を離れて大人になれるはずなのである。すると後半の展開、手柄はシンジに総取りされ、加地は死んでしまい、エヴァンゲリオンとのシンクロ率も下がり、しかも幼年期のトラウマを引き摺り出され、いわば「大人の肉体」から拒絶された存在へと成り下がっていくザマは余りにも痛切である。子供であることを嫌い、大人を夢見た子供が、大人の世界に対する不可能性を突き付けられてしまうということ。エヴァンゲリオンという「大人の肉体」を拒絶して子供で居続けようとするシンジとは見事に対象を成してはいるものの、結局は二人ともずっと子供のままだった、という点においては同じことなのだ。エヴァンゲリオンという「大人の肉体」は、それを適切に制御することが出来ない、大人の世界に対する不可能性にぶつかるシンジやアスカの存在を痛々しく浮き彫りにしていく。

「大人の肉体」を少年少女達に与える道具として、操縦型ロボットというモチーフほどに相応しいものはないだろう。少年少女達は人間の形をした操縦型ロボットに乗り込むことで、様々な段階を一気にすっ飛ばして大人の世界に参加することが出来てしまう。そして大人の世界で苦労し、学習し、その「大人の肉体」に見合うだけの活躍していくことで「大人の精神」を獲得していくことになるだろう。大学の講義でとある先生が述べていたことに依れば、『新世紀エヴァンゲリオン』が画期的だったのは、従来のロボットアニメが体現していた「ビルドゥングス・ロマン」を徹底的に否定したことにあるのだという……そういえばと引っ張り出してみた大塚英志の『「おたく」の精神史』でもこのアニメのアンチ・ビルドゥングス・ロマン性についての記述見つけたのだけども、ただしっかり読み込んでもいないテキストを引用するのは避けよう……しかしこの見解についてより具体的なことを述べるならば、『新世紀エヴァンゲリオン』が顕在化させたのは、たとえ「大人の肉体」を手に入れたからといって「子供の精神」はそれには決して追い付けない、という大人に対する不可能性であったとは言えはしないか。

肉体と精神が噛み合わないという理不尽さへの苦悩。

例えばこれを、どんどんとモラトリアムが延長していく僕等自身と重ねてみたらどうだろう?

今や二十歳を過ぎてもまだ「学業」という本当に実生活に役に立つのかも分からないものを消費しながら子供の位置でフラフラすることが出来てしまえるような時代だ。僕等の肉体はとっくに大人になっているのに、子供の精神はズルズルと延長されてしまえる。二十二歳の立派な大人であっても大学生ならばまだ子供扱いなのである。しかし日に日に僕等の「大人の肉体」に課せられていく要求は積み重なっていく。特に90年代ともなれば大学進学率はむしろ増加しているのに、バブル崩壊、就職氷河期が起こり、或いは良く言われるように阪神淡路大震災やオウム真理教事件などによって世相は暗くなり、これから飛び出していくべき「大人の世界」は一層と冷たく不可解で恐ろしいものになっていったことだろう。若者達のそんな掴みどころのない恐怖を形象したものこそ「使徒」であるというのは、もう御約束な理屈だ。

大人になりたくない、というピーターパン症候群を気取れる程に、僕等の肉体はもう未熟ではない。

この若者達の肉体と精神のズレこそを『新世紀エヴァンゲリオン』が引き受けて、少年少女達が強制的に「大人の肉体」を与えられる、という構造で表現したのだと考えてみよう。一体『新世紀エヴァンゲリオン』に強烈なシンパシーを感じたのはどれぐらいの年代層であったのだろう? 何故『新世紀エヴァンゲリオン』の深夜再放送は、それ以後の深夜アニメの隆盛を産み出すほどの視聴率を取れたのか。そんな時間帯でも起きていられるような、例えば、大学生ぐらいの「若者達」がそれを支えたからではないか? ただこれについてはどうにも知識が足りない。『セカイ系とは何か』の前島賢が82年生まれで、彼等の世代が「シンジ君は僕なんですよ!」と叫んでいたということだから僕の理解は間違っているかもしれない……だがもう一点だけ忘れてはならないのは、所謂ところのポスト・エヴァンゲリオン症候群がはっきりと現れ始めたのはゼロ年代に入ってからだったということだ。『エイリアン9』すらも98年~99年である。この数年間のズレが意味するところは何だろう? つまり「シンジ君は僕なんですよ!」と叫んだ前島賢の世代は、そのまま20歳前後までそれを引き摺り続け、ポスト・エヴァンゲリオン症候群の隆盛を用意したということになりはしないか。そして『エイリアン9』も『最終兵器彼女』も少年誌ではなく青年誌に掲載されていたのだ……因みに本来ならばセカイ系の議論で度々語られる18禁エロゲー(=中高生が容易に手が出せないもの)にまで触れねばらないのだろうけれど僕はそっち方面は微塵も手を付けていないので残念ながら割愛……さて改めて問いたい。エヴァンゲリオンや共生型エイリアンのような「大人の肉体」から逃げたかった「若者達」とは一体誰だったのだろうか?

 

4.少女達の「大人の肉体」

『新世紀エヴァンゲリオン』の影響を受けた作品群は、先に述べたようにポスト・エヴァンゲリオン症候群と呼ばれている。これは度々セカイ系と混合されるのだが、後にも述べるようにこれを一緒にしてしまうと色々と問題が出てくる。なのでここではセカイ系という言葉は避けて、『新世紀エヴァンゲリオン』が苛烈に描き出していた「大人の肉体」という問題からポスト・エヴァンゲリオン症候群を考えてみようと思う。

例えば『最終兵器彼女』や『イリヤの空、UFOの夏』の場合は、主人公ではなくて、ヒロインに「大人の肉体」が与えられていると考えてみればいい。『最終兵器彼女』のちせは肉体改造手術を受けて非常に強力な生体兵器として戦争の最前線に駆り出されている。『イリヤの空、UFOの夏』のイリヤは敵性宇宙人に対抗出来る強力な兵器を操縦出来る唯一のパイロットで、それ故に様々な国際問題などにも無理矢理駆り出されている。彼女達はまだ精神的には未熟だけども、すでに大人の世界にどっぷりと身を染めている。大人の世界に身を置かねばならないだけの能力が彼女達には意図せず与えられてしまっている。彼女達が戦争に巻き込まれているのは、彼女達にそういう能力や素質が元々備わっていたからではなくて、シンジと同様に、大人の世界に関与すべき「大人の肉体」を与えられているからというそれだけのことだ……だから彼女達もシンジと同じくまだ未熟な言動でもって大人達を振り回す……ちせやイリヤのようなちょっと頼りなさそうな子供っぽい可愛らしい少女達に強制的に「大人の肉体」を押し付けてみれば、当然ながらそのギャップが故に生じる理不尽さは強烈である。作者が僕等に突き付けるこの理不尽は、肉体と精神がズレてしまう時代を生きる僕達の社会に蔓延る理不尽でもある。そしてそのヒロインを愛する少年達は肉体も精神もやっぱり子供のままだ。きみとぼくの間に深甚と横たわる「肉体」のギャップ。

『新世紀エヴァンゲリオン』はいわば強制的に与えられた「大人の肉体」への拒絶反応であった。

しかし『最終兵器彼女』や『イリヤの空、UFOの夏』の場合はむしろ方向性が異なっている。少年達はまだ「大人の肉体」を持っていない。彼等は学校の教室にいて、少女達が大人の世界での仕事を終えてこちら側に帰って来るのを待ち続けることしか出来ない。子供に過ぎない少年達と、肉体改造によって「大人の肉体」を獲得した少女達との間には、深甚たる決定的な壁が存在している。二人は互いの肉体の位相が異なるというそれだけのために、幾ら互いに恋し合っていたとしても無理矢理に大人の世界と子供の世界に引き離されてしまう。だから碇シンジが「大人の肉体」を拒否しようとするのに対して、シュウジや浅羽はむしろ少女達に近付くために積極的に大人になろうと試みる。ちせと駆け落ちしたシュウジは、学校という場所を離れ、彼女と疑似的に夫婦関係を結ぶことで大人になろうとする。浅羽もまた自分に埋め込まれた発信器を刃物で抉り出すという通過儀礼でもって、イリヤを連れて学校を離れる。

しかし彼等は結局大人にはなり切れない。

理不尽な大人の世界が彼等の前に現れて、少女達を連れ去って行ってしまう。

大人の世界は、子供の世界を容赦なく破壊していく。少女達の「子供の精神」を蝕んでいくのは、肉体改造で「大人の肉体」を与えられたことによる甚大な後遺症だ。「大人の肉体」に無残にもどんどん蝕まれていく彼女達の無残な姿はそのまま大人の世界の残酷さと折り重なっている。かといって少年達は少女達を蝕んでいく「大人の肉体」に対して何の処置をすることも出来ない。セカイ系的な見えない敵との見えない戦争には関わることは出来ない。彼等はこの事態に対処出来るような大人ではないのだから。彼等に出来るのはせいぜい大人の世界の気配から少しでも遠い場所へと逃げることだ、或いは子供の世界たる学校から離れて、少しでも大人に近付こうと背伸びをすることぐらいだ。

結局方向性は違えども、ここには『新世紀エヴァンゲリオン』と同様の、大人の世界に対する不可能性が色濃く根付いているように思われる。シンジは背を向けたけれど、シュウジと浅羽は諦めなかった。それこそシュウジはちせと疑似的に夫婦関係を結び、せっせと肉体労働もこなし、そして最後にはちせと肉体的にも結ばれるのだけれども、それでもちせが身を置いている大人の世界に対しては最終的にどうにも無力なままである。第一話でなかなか治らない癖として挙げられていた「ぼく」という一人称は、最終話での絶望的な孤独のなかに取り残されたシュウジの叫びでも抜けることはない。そしてこの漫画は、文字通り、子供だけの世界へと二人が旅立っていくところで終わる。

《ぼくは「彼氏」で、ちせは「彼女」だから。》

《ぼくたちは、恋していく。》

夫婦ではなくて、彼氏と彼女なのだ。愛していくのではなく、恋していくのだ。ここには大人の世界から逃れて、子供の世界へと二人だけで閉じ籠ろうとする意志が漂っている。「大人の肉体」に改造されてしまったちせは、ここでは立体映像という形で肉体そのものを放棄することで、再びただの少女へと回帰して少年の前に現れる。大人になることは出来なかった、夫婦になることも出来なかった、だから地球ごと大人の世界を終わらせてしまって初めて、二人の平和な子供の世界の恋愛は完成するのである。

 

5.大人の世界に対する不可能性

『最終兵器彼女』最終巻の後書きで、作者がこの作品の対象年齢を「大学生から三十代くらいまでの大人」としているのが面白い。見えない敵、見えない戦争、精神の未熟と肉体の理不尽。この漫画における大人の世界に対する不可能性、不可視性はもはやシュウジや浅羽と同年代の中高生に向けたものではない。大人の世界を終わらせて子供の世界へと回帰していくこの結末は、むしろ「大人の肉体」の理不尽さを理解し始める年齢にこそ向けられている。『新世紀エヴァンゲリオン』的な極端なまでのアンチ・ビルドゥングス・ロマンは、ビルドゥングス・ロマンの不可能性に気付いてしまった年代の若者達にこそ突き刺さり得る。

大人の世界に対する不可能性。

そして自分を弾き出すこの不可能性は、大人の世界そのものの拒絶へと繋がっていく。

ポスト・エヴァンゲリオン症候群が世界の終わりというモチーフと親和性を持つのは、それが不可能性に満ちた大人の世界を否定する最も簡単な方法であるからだ。大人達はこの世界の秩序を維持しようと、何だか良く分からない複雑で厄介なことを遣っている。世界の終わりはそういう複雑さや厄介さを一気にリセットすることが出来る。だからこそ『最終兵器彼女』の結末は、平和な子供の世界の恋愛を成就させるため、複雑で厄介で醜く汚れた大人の世界を地球ごと滅ぼさねばならなかった。『イリヤの空、UFOの夏』の浅羽は、イリヤを苦しめる大人の世界に反旗を翻すために、積極的に世界の終わりを選ぼうとしなければならなかった。

例えばこれもまたポスト・エヴァンゲリオン症候群として名の上がる鬼頭莫宏の『なるたる』という作品がある。主人公の少女、秕の前に竜の子という不思議な存在が現れて、それを巡る大きな陰謀に巻き込まれていく。そしてこの陰謀の中心の一人である少年、須藤は、竜の子を持つ少年少女達を集めて暗躍し、最終的に竜の子の能力を使って核施設に侵入して世界中に核爆弾を降らせるという暴挙を実行に移してしまう。社会システムの改革者を自負する彼の言葉は、大人びているようでいて抽象的な理想論ばかりだし、最終的に核爆弾で人間を滅ぼすという大雑把な結論に辿り着いしまうあたりが実のところはとても子供じみている。子供じみた極端な理想に従って、大人が作った世界に直接反旗を翻す子供達。ただ彼のようなアンビバレントな存在だからこそ、子供の世界の純粋無垢な拒絶感は実現可能になる。

《それをさせることができるのは 人間以外になる可能性を持った 僕たちだ》

 大人と子供の中間に立たされた時、僕等は世界から疎外され、或いは世界から解放されもする。

『なるたる』は余りにも唐突極まりない結末を迎える。須藤の陰謀と関わるうちに地球そのもの(実は秕の本当の竜の子は地球そのものだった)と接続して大いなる力を獲得した秕は、理不尽にも武器を持った大人達から命を狙われてしまう。そしてその大人達の悪意を拒絶するためだけに人類はこの世界ごと滅ぼされてしまう。無関係なあらゆる全てを巻き込んだとしても、地球ごと破壊しない限り、この不可能性に満ちた大人の世界は破壊出来ないんだという鮮烈なまでの拒絶感がここにはある。その拒絶の意志は、核爆弾でも簡単に滅びなかった世界を「人間の腕」という非常に身体的なモチーフが簡単に滅ぼしてしまうという生々しさによって強調される。

そして一度世界が完全に滅ぼされ、新しい世界の秩序を産み出すべくこの世界に残された二人の少女……妊娠して腹の膨らんだ二人の少女達のその歪な姿によって、軋轢を生み続けた「大人の肉体」と「子供の精神」は非常に不気味な形で一つの調和を迎える。すなわち子供のまま大人になるということ。大人になっても子供であるということ。初潮を体験して大人の肉体へと踏み込んでいくことにショックを受けていたあの秕はいない。世界が終わってしまった場所では、もう「大人の肉体」と「子供の精神」の軋轢から生じる理不尽はもう存在しないのだから……子供のまま大人になり、大人のまま子供であり、腕を伸ばすだけで世界を拒絶出来てしまう、そんな世界をこの陰惨な物語の中に求めたのは一体誰だったのだろうか?

もう一人の少女は秕にこのように語り掛ける。

《大丈夫 気に入らない世界なら わたしが また潰してあげるから》

そしてページを捲ると、二人が産んだ子供だろうか、裸の男の子と女の子が描かれて物語は終わる。子供だけの世界。大人なんていない世界。大人の世界を否定する物語は、すなわち子供の世界の再創造と裏表である。大人の世界の理不尽から逃れた先には、アダムとイブのあの無垢な楽園への一周回った逆行がある。妊娠した少女達によって二つの世界は一度不気味な形で調和され、そして彼女達の唐突な退場とともに大人の世界はすっかりと消え去ってしまう。

大事なことだから何度でも繰り返そう……大人の世界に対する不可能性。

鬼頭莫宏といえば『ぼくらの』にも触れねばなるまい。少年少女達が突然に操縦型ロボットのジアースという「大人の肉体」を与えられる。心強い自衛隊員達によって精神面も常にサポートを受けつつ、生々しい大人の世界に足を踏み入れながら地球の存亡を賭けて敵のロボットと戦うという物語だ。だが彼等は文字通り絶対に大人になることは出来ない。何故ながらジアースを操縦した人間は、勝っても負けても、その力の代償として確実に命を奪われてしまうのだ。少年少女達が大人の世界に足を踏み入れるということは、そのまま彼等の絶対的な死を意味している。ジアースという「大人の肉体」を与えられた瞬間に、その責務だけを押し付けられて、大人になれないままに子供のまま死ぬことを定められてしまうという理不尽。彼等に出来ることはせいぜい精神だけでも大人に近付けて、周りに迷惑を掛けないように、自分自身の死を大人の態度で受け入れることぐらいだ。

彼等が戦闘=確実な死を前にして、その精神を無理矢理に成長させようともがけばもがくほどに、彼等は絶対に大人にはなれない、という不可能性が生々しく現前化していく。この物語が理不尽なのは設定だけの問題ではない。丁寧な語り口で子供達を精神的に成長させていく手際と、それが逆説的に意味する強烈なまでの不可能性こそが理不尽なのである。あれ程に周囲に対して粗暴だった最後のパイロット、宇白は、仲間達の死を乗り越えてジアースに相応しい「大人の精神」を身に付けて堂々と死んでいく。大人と同じだけの責任を背負わされて、大人と子供の中間に立たされて、せめて精神だけでも無理矢理に成長させて、彼等は子供のままでそっと呆気なく死んでいく。

絶対に大人になれない理不尽、それでも大人にならねばらない理不尽、この容赦のない苦悩は一体誰に最も深く突き刺さっただろう? 死ぬことによって「大人の肉体」から解放され、ようやく何の苦しみもない子供だけの世界に戻ることが出来た彼等の姿に最も心を打たれたのは、一体誰だったのだろう?

《ジアース、発進》

一番最後に置かれるこの一言は、絶対に大人になれない少年達に向けた、余りに痛切な遺言である。

 

6.中間項との断絶

《主人公と恋愛相手の感情的な人間関係(「きみとぼく」)を、社会や国家のような中間項の描写を挟むことなく、「世界の危機」「この世の終わり」といった大きな存在論的な問題に直結させる想像力》

さて『ゲーム的リアリズムの誕生』から引用してみた東浩紀によるこの有名なセカイ系の定義には、一つ注意しなければならないことがある。つまり、前島賢も『セカイ系とは何か?』のある個所で「排除」という表現を使っていたけれども、僕等はこのような定義を読んだ時、社会や国家といった中間項が「排除されている」「欠落している」と考えてしまうということだ。実際、東浩紀自身も『セカイからもっと近くに』で「セカイ系の困難」を「社会が描けない」「社会を描く気になれない」「社会を描かなくていい」というように表現している。

だが中間項の排除や欠落は本当に起きていただろうか?

つまり『新世紀エヴァンゲリオン』『最終兵器彼女』『イリヤの空、UFOの夏』『エイリアン9』『なるたる』『ぼくらの』などの作品群において、少年達を取り囲んでいる大人達は、物語世界で起きている地球規模の厄介極まりない出来事を彼等なりにちゃんと把握していて、それ相応の対処をしているのではないかということだ。大人達はちゃんと彼等なりにこの厄介で複雑な社会問題に対して社会的役割を果たそうと試みている。実は中間項は欠落していない。中間項=大人の世界は存在している。問題はそれらが少年少女達の理解出来る範疇にまで降りてこない、大人の世界と子供の世界が分断されているというところにある。『新世紀エヴァンゲリオン』の物語にはちゃんとネルフは存在している。だがまだ精神的に未熟なシンジは、ネルフがやろうとしていること、ネルフがやらねばならないことに馴染むことが出来ない。ネルフという「大人の世界」について良く理解出来ないまま、ネルフが対処しようとそこに関わっている地球規模の厄介な出来事に。中間項=大人の世界は確かに存在しているのだが、それに適切に関わる方法を知らないままに、一足飛びで巨大な世界に対面させられるのだ。大人達が子供達に積極的に歩み寄ってくれる『ぼくらの』はちょっとした例外にしても、この構造は『最終兵器彼女』や『イリヤの空、UFOの夏』においても同様に強力に働いている。どちらの物語も巨大な地球規模の困難に正面から立ち向かう自衛隊達がちゃんと活躍しているのだ。しかし少年達は自衛隊達の活動からはすっかり切り離されてしまって、大人の世界に関与出来ないのである。

だから本当は、中間項は欠落しているのではない。排除されているのでもない。確かにそのように感じられる面は大いにあるにしても、実際には中間項との間で断絶こそが起きているのである……実は最初に挙げた東浩紀の定義はちゃんと「描写を」というエクスキューズが付いていることにはお気付きだろうか。無いのではない、描かれていない、厳密に言えば子供達の眼からは上手く捉えられないということなのだ。ただセカイ系を巡る議論の中でこのエクスキューズは次第に失われていったようだけど。

ただ「大人の肉体」のみがこの断絶を超えていく。

いや、否応なく超えてしまうのである。

エヴァンゲリオンに乗ったシンジは、大人の世界に飛び込んで地球規模の危機と戦わされる。ちせやイリヤは、肉体改造を受けて大人の世界で苛烈な地球規模の戦争に身を置いている。「大人の肉体」があるせいで少年少女は大人の世界、さらにその先のもっと巨大な問題に向かってその肉体を引っ張られてしまう。しかし少年少女達の精神は、それでもやっぱり子供の世界に置き去りのままだ。だから子供の世界の象徴として微笑ましい学校生活があって、シンジもちせもイリヤも学校と戦場を行き来するわけだし、また最終的に学校生活は大人の世界の浸食によってどんどん崩壊していくことになる。そして大人の世界の理不尽が積もりに積もって、いっそのこと地球ごと大人の世界を滅ぼしてしまえという想像力にすら繋がっていく。

肉体と精神が分断してしまう状況、大人の世界への不可能性、不可視性、その深甚たる理不尽さこそがこれ等の作品群の核であるとすれば、東浩紀のセカイ系定義はもう一度再考する必要があるだろう。東浩紀は『世界からもっと近くに』でセカイ系の先駆として81年に発表された新井素子の『ひとめあなたに…』を挙げていて、確かにあの作品は、とある女性がもう直ぐで世界が終わるというシチュエーションでただ一目逢いたいと遠く離れた恋人に会いに行こうとするだけの物語……つまりほんの小さな人間関係を際立たせるためだけに世界の終わりという壮大な展開を持ってくるという、まさに中間項というべきものがすっぽり抜け落ちた作品だった。小さな人間関係のためにこそ世界の終わりを持ってくるような作品だから、この物語には殆んど理不尽さがない。むしろ世界の終わりのお蔭で二人は再び会えた、ぐらいの潔い物語ですらある。

世界の終わりというモチーフは、冷戦構造=核の脅威や、エコロジズム=公害問題などを背景にして戦後何度も物語られ続けられてきた。70年代には五島勉『ノストラダムスの大予言』に端を発する終末論がブームになっているし、その強烈な終末観から『新世紀エヴァンゲリオン』にも影響を与えたとされる永井豪の漫画版『デビルマン』も70年代の作品である。80年代後半にも『北斗の拳』『風の谷のナウシカ』『AKIRA』の三作品が核戦争や公害問題を背景にした終末的世界観を描いた象徴的作品として頻繁に言及されたりもしている。それに宮台真司は先駆的に『サブカルチャー神話解体』で80年代の一部の異世界マンガ・アニメに見られる「日常性+大世界」による「陳腐な終末世界」を指摘していた……この書物は些かややこし過ぎるので余り詳しくは触れたくないのだけども……因みに『ひとめあなたに…』のように男女の関係ばかりが焦点にあるような極端な形で中間項が欠落した物語といえば、岡崎京子も80年代に処女短編集『バージン』収録の『WHITEDAY SNOW DAY』でくだらない世界の終わりごっこをしている男女を描いている。僕は昔これを元ネタにして一つ小説を書いたのだけども、ある後輩が「これがセカイ系ですか?」と尋ねてきたことから分かる通り、『新世紀エヴァンゲリオン』を通過してしまった僕等はついついプレ・エヴァンゲリオンな想像力すらも僕等の基準で語ってしまいそうになる。

問題はこれらプレ・エヴァンゲリオンともいうべき作品群の脈絡が直接にセカイ系に繋がっていくのではなく、『新世紀エヴァンゲリオン』という特異点が登場して初めて、セカイ系が一つの特徴的なアプローチとして意識的に模倣され語られるようになっていったということだ。宮台真司は「陳腐な終末世界」を大友(克彦)領域としたが、しかしセカイ系はポスト・AKIRA症候群とは呼ばれなかった。一体何故『新世紀エヴァンゲリオン』は一つのジャンルの始祖足りえる程に一つのメルクマークなり得たのか?

それはつまり、『新世紀エヴァンゲリオン』によって提示された物語のモデルタイプとうのは、単に中間項が排除されたりが欠落したりした物語ではなく、若者達と中間項との痛烈な断絶こそを極端に表現したものだったからではなかったか?

だからこそ、僕等はポスト・エヴァンゲリオン症候群を考えるうえで、肉体という問題を考えてみなければならない。むしろ肉体の問題をもって僕等はポスト・エヴァンゲリオン症候群を……中間項の排除や欠落という意味で語られがちなセカイ系から一旦距離を置いて……改めて定義し直さなければならないのかもしれない。80年代後半の終末ものをリードしていた『風の谷のナウシカ』や『AKIRA』の少年少女達は、その類稀れな身体能力や、強靭な精神力などによって、大人の世界に積極的に関わっていくことが出来る。壮大なまでの地球規模の問題に少年少女達が関わっていったからといって、これ等はセカイ系の元祖にはなり得なかった。何故ならばこの少年少女達は肉体的にも精神的にもさほど大人の世界と断絶していないから。

『新世紀エヴァンゲリオン』は操縦型ロボットという「大人の肉体」を通じて、ここに極端なまでの断絶感を持ち込んだ。そしてポスト・エヴァンゲリオン症候群もまた操縦型ロボットや共生型エイリアンや肉体改造などを通じてこの断絶感を引き継いだはずだった。しかし僕等は『新世紀エヴァンゲリオン』やポスト・エヴァンゲリオン症候群がその表現として「世界の終わり」というモチーフを大胆に利用したがために、既にプレ・エヴァンゲリオンとして蓄積されていた「終末もの」作品群に先駆的に見られた中間項の欠落を、この断絶感といつの間にか混合してしまったのだ。いつしかセカイ系という言葉はその概念が独り歩きしながら過去の作品にまで遥々と遡っていき、ポスト・エヴァンゲリオン症候群(=『新世紀エヴァンゲリオンにこそ影響を受けた作品群)の特異性すらも無視して四方八方へと何処までも拡張され拡散されていく。

 

7.デジモン世代の想像力

セカイ系は終わったのか? という問いがある。

中間項の欠落という意味でのセカイ系は、『新世紀エヴァンゲリオン』の随分前からぼんやりと始まっていたし、今も一つの手法として受け継がれているだろうというのが僕の理解である。しかし中間項の断絶という意味でのセカイ系、すなわち僕が改めて捉えるべきとしたポスト・エヴァンゲリオン症候群は、もともと『新世紀エヴァンゲリオン』によって深刻に表現され後世に多大な影響を与えた「大人の肉体」という問題を僕等が顧みなくなった時点で、一区切りがついてしまっていただろうとは思う。

東浩紀が挙げていた『涼宮ハルヒの憂鬱』や『ぼくらは虚空に夜を視る』なんかも、確かに中間項の欠落を感じることは出来る。しかし『新世紀エヴァンゲリオン』が持っていたあの中間項との断絶感、大人の世界に対する不可能性などはこれ等の作品では随分と脱色されてしまっている印象があった。上遠野浩平『ぼくらは虚空に夜を視る』の主人公に到っては、ただ戦闘センスがあるというだけで、ロボットに乗らなくても生身で人智を超えた強敵に勝ててしまえる。彼は大人の世界に対して存分に参加出来る能力をごく自然に使いこなせてしまう。

むしろポスト・エヴァンゲリオン症候群の範疇を考えるなら、10年代の作品ではあるが田中相の『千年万年りんごの子』を挙げておこう。ここでは主人公の過失で神の嫁に選ばれてしまった彼の妻が、その超常の影響によって次第に肉体的に子供へと戻っていくというビジュアル的な表現によって、対照的に夫である主人公の「大人の肉体」が露わになっていくという構造が観られる。彼はまだ未熟なままの精神をどうにか奮い立たせ、まだ馴染み切らない村の共同体=大人の世界で必死にもがきながら、この理不尽に対して「大人の肉体」を持った「夫」という立場で立ち向かわねばらない……さてここで試しに「千年万年りんごの子 セカイ系」とGoogleで検索してみよう。すると冒頭に出てくるのは僕が以前書いた過疎レビューサイトの記事という始末なのである。

千年万年りんごの子|書評習慣

因みにTwitter検索だともっと極端で、現時点ではなんと引っ掛かる呟きはたった二つだけなのである。超常化したヒロイン、周囲に引き裂かれる二人、理不尽な事態に抗う主人公、そしてヒロインの犠牲的献身。この作品は『最終兵器彼女』や『イリヤの空、UFOの夏』のアプローチを見事に踏襲しているのだけども、この作品がセカイ系の範疇で顧みられている気配がないということはどういうことか。つまりセカイ系=中間項の排除・欠落とポスト・エヴァンゲリオン症候群=中間項との断絶という二つの在り方は、もう既にすっかり袂を別ってしまったということではないだろうか。

宇野常寛はかの『ゼロ年代の想像力』でセカイ系的想像力を批判する際に「碇シンジでは夜神月を止められない」というとても奇妙な比喩を使った。成程確かに宇野常寛が新しい想像力の代表格として挙げる『DEATH NOTE』には、もはや肉体と精神のズレに対する恐怖など微塵も無い。夜神月はデスノートという自分の能力を高める道具でもって、むしろ大人の階段を加速度的に登り詰めていこうとする。宇野常寛が提起した「引きこもり」と「サバイバル」の対立構造は……宇野自身が何処まで意識していたかは何ともいえないが……これもまた「大人の肉体」の問題なのである。

そしてもう一つ。

正直言えば、92年生まれの僕はセカイ系隆盛の時代からはズレている。僕なんかが変わり者なだけで、この御時勢にセカイ系だのポスト・エヴァンゲリオン症候群だの云々と語るのはわりと時代錯誤である。確かに『新世紀エヴァンゲリオン』は「大人の肉体」と「子供の精神」の摩擦を感じているような現代の「若者達」にもある程度は通用するだろうが、現象としてはもう随分と衰退してしまっている。90年代をあんまりよく覚えていない、セカイ系をあんまり知らない、しかし一応は90年代後半からゼロ年代前半に子供時代を過ごしていた、そんな僕等の世代を教育した想像力とは何だったのだろう?

僕達は所謂ポケモン世代と言われている。或いは初代『デジモンアドベンチャー』世代である。そしてコミックボンボンの読者だった僕等の記憶からすれば、メダロットやデビチルやロボポンといったゲームソフトやそのコミカライズ作品に大いに親しんだ世代だ。これ等のゲームやメディアミックス作品はロボットのような「大人の肉体」を借りて戦うわけでもないし、また「大人の肉体」に匹敵する能力を得るための武器装備や超能力を得るわけでもないし、また大人とも戦えるぐらいに自らの肉体を鍛え上げるでもない。ここでは「大人の肉体」の代わりに、人格を持った、しかし人間ではない仲間達に戦ってもらうという想像力が働いている。一見すれば竜の子が登場する『なるたる』の序盤の展開はこれに近い想像力を感じさせるが、先にも述べたようにこの作品は次第に大人の世界に対する不可能性とその拒絶を露わにして、ポスト・エヴァンゲリオン症候群の範疇へと収束していった。

ポスト・ポケモンともいうべきこの想像力が一つの物語として結実したものとしては、多分今もなお連載が続いているポケモン漫画の金字塔『ポケットモンスター SPECIAL』を挙げる人もいるだろうが、ここはやはり僕等の時代のバイブルとして未だに語り継がれている初代『デジモンアドベンチャー』を挙げよう。デジモンという電脳生物が住む異世界に飛ばされてしまった少年少女達が、仲間のデジモン達とともに敵のデジモン達と戦いながらサバイバルしていくという物語である。このアニメ作品が重要なのは、子供の精神的成長を、仲間であるモンスターの身体的成長に同調させて表現するという方法論を確立することに成功したところにあるだろう。子供達が未熟なうちはデジモン達の戦闘能力もまだまだ未熟で、子供達が精神的に成長していけば、それに合わせてデジモン達が肉体的に進化していく。そうやって段階的に、比較的安全な、しかし適度に危険な環境で子供達を大人の世界に参加させる。子供の肉体に対する負荷が非常に少ないこの方法論、そしてまた生身ではないデジタル世界のデジタルな冒険であるという舞台設定。このアニメは99年~00年放送で、かたやゼロ年代初頭にポスト・エヴァンゲリオン症候群が勃興し始めるまさに直前でありながら、見事に「大人の肉体」を巡る軋轢を先んじて回避しているのである。

僕等はこのアニメに、或いはポスト・ポケモン的想像力によって教育された世代であると言えるかもしれない。『新世紀エヴァンゲリオン』の前史において、大人の世界へと足を踏み入れていくうえで「大人の肉体は実はそんなに必要ない」「代わりに戦ってくれる仲間を持てばよい」という想像力を与えてくれた子供向けの物語はどれだけあっただろうか? ポスト・エヴァンゲリオン症候群が「大人の肉体を獲得した/していく」ようなビルドゥングス・ロマンの蓄積を前提としたアンチテーゼならば、勿論現代にもその想像力は存分に引き継がれているにしても、僕等の世代は「別の誰かに身体的な成長を任せつつ自分の精神を成長させていく」ようなポスト・ポケモン的な想像力というオルタナティブを既に獲得している。あくまで一つの仮説には過ぎないにせよ……これを証明するには僕の知識は不足過ぎる……僕等の世代はここでの子供時代の教育の賜物として、ポスト・エヴァンゲリオン症候群を過去へと追い遣ることが出来てしまえるのかもしれない。

そしてこのポスト・ポケモン的な想像力は、『真・女神転生デビルチルドレン』『メダロット』『ロボットポンコッツ』といった所謂ポケモン・フォロワーなゲームソフトを、よりにもよって対象年齢錯誤な過激な作風の漫画家達にコミカライズさせてしまったコミックボンボンにおいて一つの臨界点を迎えることになる。これ等の作品はコミカライズという性質からポスト・ポケモン的な想像力を一つの大前提として与えられつつも、むしろ激しく相対化していくようなヘビーな内容によって僕等の世代の一部の記憶に強く刻まれているのだが、しかし残念ながら僕等の世代がそれを語る能力を獲得する前にコミックボンボンは廃刊してしまった……セカイ系がここまで隆盛し得たのは、その需要層が充分に自分達の言葉を語る能力を持っていたからでもある。ひとえに時代の想像力といっても、それを体験した人々にそれを語る能力があるか否かというのは実は物凄く重要なことだ。ただ既に絶版になってしまっていたコミックボンボンの作品群がいよいよ復刊され始めているから、これ等の作品群の再評価が進んでいく日もそう遠くないのではないかとは思っている。

僕等の世代が自分達の生きていた90年代後半~ゼロ年代初頭を自分達で語り始めた時にこそ、ポスト・エヴァンゲリオン症候群は漸くはっきりと過去のものになるのではなかろうかと思うが、それはまた別の仕事であろう。

 

8.「大人にならない」新海誠

さてお気付きだろうが、僕は今回、徹底的に新海誠を脇に置き続けてきた。

新海誠については一応『ほしのこえ』と『雲のむこう、約束の場所』と『君の名は。』の三作品をこれまでに鑑賞している。僕自身は余り新海誠が好きではない。『君の名は。』についてもむしろ非寄りの感想を持っている。これについては「書評習慣」という僕のレビューサイトで色々述べているので出来ればそちらをご覧ください。

『君の名は。』|書評習慣

とはいえ『君の名は。』が社会現象になっているのにあやかって、今回の論考は新海誠で締めてみたいと思う。

『ほしのこえ』も『雲のむこう、約束の場所』も『君の名は。』も、これまで僕が取り上げ続けてきたセカイ系周辺の作品群とは異なるとある目立った特徴を有している。すなわち非常に大股な時間経過だ。例えば『ほしのこえ』ともなれば15歳だった少年は24歳の大人になってしまう。子供だった少年達は、大股で過ぎていく時間経過に伴って、きちんと肉体的には大人に近付いていく。その一方で少女達は過去に閉じ込められたまま成長を止めている。或いは相対性理論のためにずっと15歳のままの少女であり、或いはずっと眠り続ける少女であり、そして或いは過去の世界で離ればなれになってしまった少女である。少女は過去に囚われて成長を止め、その成長を止めた少女を想いながら、どんどんと肉体的に大人になっていくはずの少年達が、なおもぐずぐずと子供じみた独白を続けていく。

「大人の肉体」が、子供の世界に囚われた少女を媒介にして「子供の精神」を引き摺り続ける。

つまり過去に囚われた少女という一つの言い訳でもって、子供の世界を引き延ばしてしているのだ。

『新世紀エヴァンゲリオン』や『エイリアン9』がいわば「大人になりたくない」物語、そして『最終兵器彼女』や『イリヤの空、UFOの夏』がいわば「大人になれない」物語だとしたら、新海誠の作品はいわば「大人にならない」物語であるように思える。否応なく大人になっていく肉体、そして大人の世界に対する不可能性を味わう若者達に対して、ならば過去に杭を打ち込んで子供の世界を引き延ばせばいいのだと誘惑してくる甘美で優しい世界だ。だがそれ故に、ここでは肉体と精神の軋轢はそれほど如実には発生しない。それこそ大人の世界の気配が微塵も現れてこない『ほしのこえ』は、ポスト・エヴァンゲリオン症候群的な中間項との断絶ではなく、むしろ『ひとめあなたに…』に近い中間項の排除・欠落が起きている。だからこの物語の理不尽は、理不尽そのものが子供の世界の一つの甘美を成している。

ループ系や日常系のように子供の世界の時間を凍結させるのではない、敢えて大股な時間経過をそこに持ち込むことで「大人の肉体」に子供の世界を調和させてしまうという発想は、やはりポスト・エヴァンゲリオンの時代影響下で作られたからなのだろうという印象を受ける。しかし同じ三大セカイ系である『最終兵器彼女』『イリヤの空、UFOの夏』のような子供の世界が崩壊していく理不尽への絶望感はここにはない。大人の世界の不可能性に対して直接にはぶつからずに「ならば大人にならなければいい」という解答をもたらすこの作品は、確かに大人の世界の不可能性を眼前にした若者達に対して強い求心力を持ち得たではあろうが、だがその理不尽は酷く甘ったるい。僕が新海誠の作品に馴染めないのはこの甘ったるさなのである。

『雲のむこう、約束の場所』になると、中間項たる大人の世界はより顕在化していて、少年達と少女を引き裂く理不尽はより苦味を増している。だが彼等を引き裂いていくこの理不尽に対して、成長した青年達は、三人で再び集まって少年時代に作成していた飛行機を完成させて約束の場所に向かおう……というむしろ子供の世界への逆行を試みるわけだ。成長した肉体を持ちながら、彼等はそれでも子供の世界を選ぶということ、そしてこの決断による大人の世界と子供の世界の摩擦は、他のポスト・エヴァンゲリオン症候群に比べれば随分と穏やかであるということ。『最終兵器彼女』や『イリヤの空、UFOの夏』におけるあの無残な逃亡劇に比べてこの計画はなんて平和なことか! ここでは彼等を約束の場所に連れて行ってくれる飛行機は、少年達を「大人の肉体」へと延長させる道具というよりはむしろ「大人の肉体」へと成長してしまった彼等を再び子供の世界に引き戻してくれるための道具なのである。飛行機に乗って少年少女は危険な海峡を越える、だがこの海峡の向こうにあるのは大人の世界ではない。

「大人にならない」ということ。「大人の肉体」に子供の世界を引き伸ばしていく甘美な物語。

 

9.『君の名は。』と『シン・ゴジラ』

『君の名は。』もまた、この新海誠らしい傾向を引き摺った作品であるように思えた。

これまでの新海誠とは違う……という評判だったわけだけども、確かに二人が入れ替わりを自覚して変則的なドタバタ共同生活を送るまでの展開は、テンポが良くて少年少女の活き活きした躍動感に溢れた作品だったと思う。だが結局いつも通り新海は少女を過去に閉じ込めてしまった。さてこの作品、かなりの頻度で大人びた奥寺さんという女性が登場している。一つここに注目してみよう。

この奥寺さんは非常に回りくどい形ではあるが、実は「大人の肉体」を意味しているように思える。すなわち田舎町の少女と入れ替わりドタバタコメディを演じている餓鬼っぽい制服姿の瀧の姿と、外見も立ち振る舞いも大人びた奥寺さんと並んでいる仕事着姿・私服姿の瀧の姿とでは、年齢は変わらないにも拘らずその肉体の位相がこっそりズレているということだ。特に少年と少女の入れ替わりリンクが切れて以降は、奥寺さんがさらに画面に出しゃばってくるようになる。奥寺さんが傍にいるだけでビジュアル的に少年はそれに引き摺られて「大人の肉体」に近付いていく……奥寺さんと一緒にいる場面では当然ながら彼は学校の制服を着ていない……だがそれでもやっぱり、瀧は奥寺さんによって含意される大人びた世界よりも、遠く懸け離れた少女とのあのドタバタした餓鬼臭い世界こそを選んでしまうのだ。このように考えれば、「大人の肉体」に子供の世界を引き延ばしていくという手法はちゃんと『君の名は。』でも踏襲されていることが分かってくる。

そして彗星落下の被害は回避され、瀧はもう就活スーツに身を包んでいる。

すっかり「大人の肉体」を手に入れた彼は、それでも過去に囚われて子供の世界を引き摺り続ける。就活スーツが似合わない、就活もあんまり上手く行ってない瀧は、やはり子供のままである。「大人の肉体」で子供の世界を引き摺り続ける、それはとても甘美で優しい世界であろう。しかしその甘ったるさは僕の眼には些かまどろっこし過ぎた。そして僕はこんなことすらも考える。「大人の肉体」から顧みられる子供の世界は確かに甘美で優しい、しかしそうやって子供の世界を過去に閉じ込めることで、実は子供の世界そのものから新海誠は逃げようとしているのではないか、ということだ。

子供の世界の無垢や無邪気は、無知や無謀と同義でもある。子供の世界を描くということは、その美しさだけではなく、その弱さとも向き合うということだ。その弱さと向き合って初めて子供達は大人への一歩を踏み出せる。それは例えば宮崎駿『となりのトトロ』であり細田守『時をかける少女』であり……『君の名は。』はエンターテイメント性が強化され、宮崎駿や細田守などへの作風の接近をところどころに感じるからこそ、むしろ新海誠が尚もこれまで通りに「大人の肉体」に子供の世界を延長させるという方向性に進んでしまったことに僕は不満を感じたのである。確かに大人の場所から子供の世界を眺めるという迂遠的な方法論によって、子供の世界に本来付随するはずの弱さを暈したままその美しさだけを抽出することも出来るだろう。だがそれはある意味では、子供の世界に対する一つの不誠実ではないのか?

ただ子供の世界の弱さを隠しながら子供の世界をどんどん引き延ばしていく、そんな作品だったからこそ、大人の世界なんて知りたいとも思っていない、そんなものに踏み出そうとはまだ思っていない御年頃の中高生にこそ絶大な支持を得たのかもしれない。これまで新海誠を支持し続けてきたのが、大人と子供の境界に立って居心地の悪さを感じる「若者達」だったとすれば、エンタメ要素の追加によってその居心地の悪さをマイルドに緩和することで生まれるとても甘ったるい子供の世界の夢物語は、まさしく子供の世界にどっぷりと嵌った少年少女達にこそしっくりと噛み合ってしまったのである。オタクな『シン・ゴジラ』に対してリア充な『君の名は。』という対比はTwitterの呟きなどでも何度か見られたが……実際映画館で友達連れの大量の中高生達に遭遇して疎外感を感じたのはまさに僕のような人間だった……これまで通りに「大人の肉体」に子供の世界を延長させてしまおうとする新海誠の作品がこのような結果を産んだということは、やはり興味深い案件だったのではないかと僕なんかは思ってしまうのである。

さて思い出しておこう……今回の論考のキーワード。

「大人の世界に対する不可能性」。ポスト・エヴァンゲリオン症候群の核ともなるべきもの。

2016年は庵野秀明の『シン・ゴジラ』と新海誠『君の名は。』が連続して社会現象になった。セカイ系の始祖と、セカイ系の代表格が、セカイ系の文脈もすっかり薄れてしまったこの時代に爆発的な大ヒット映画を発表する。この事態をどのように考えてみるべきだろう?

例えば『シン・ゴジラ』は演出面や「ヤシオリ作戦」などエヴァっぽいエヴァっぽいと度々評価されている。しかし碇シンジに相当する人間が出て来ない時点で、この映画は『新世紀エヴァンゲリオン』とは根本的に異なっている。『シン・ゴジラ』でゴジラと戦う巨災対の面々は強いて言えば、シンジやアスカみたいな厄介極まりない子供達に振り回されずに大人達だけで使徒と戦ってこれを撃退することに成功したネルフだ。「大人の肉体」と「大人の精神」を持った大人達による、何処までも大人な世界の壮大なるプロジェクト。ここには「子供の精神」でもって面倒事を起こす子供達はいない。だから当然に、この映画には『新世紀エヴァンゲリオン』にあったようなもう大人の世界への不可能性などというものは殆んど見出せない。庵野秀明は自分自身がその先鞭をつけたポスト・エヴァンゲリオン症候群的な肉体の問題を、如何にもエヴァっぽいと評価されている作品において敢えて己の手で放棄してしまったのである。

そして時を同じくしての新海誠の『君の名は。』の社会現象化……大人の世界の不可能性に対して過去に杭を打ち込んで子供の世界を引き延ばすという「大人にならない」物語を紡いできた新海誠が、そこにエンタメ要素を加えることでそのくどさをマイルドに調整した結果、そもそも大人の世界に足を踏み込む恐怖すらも味わい切っていないであろう所謂「リア充な中高生達」を中心に消費されることになるということ。

ポスト・エヴァンゲリオン症候群は「大人の肉体」と「子供の精神」の軋轢の表象だったと考えてみよう。そしてこの2016年、庵野秀明は何処までも大人な世界を描き切って大人達を魅了し、また新海誠は相変わらず子供の世界が引き伸ばされていく物語によって現役の少年少女達を魅了した。セカイ系の代表格とされた二人のこの大活躍は、90年代後半から如実に表面化した「大人の肉体」と「子供の精神」の軋轢の文脈を見事に断ち切るような象徴的な事件ともいえるかもしれない。大人の世界と子供の世界は上手く棲み分けがなされて、理不尽にもその中間に立たされてしまった人々の痛切な悲鳴はもう響いてこない。

大人の世界と子供の世界の棲み分け。

それは大人の世界に対する不可能性そのものの希薄化を意味する。

勿論、この棲み分けが本当に進行しているかどうかは、もっと広い社会・文化事象を鑑みてみないと断言は出来ない。少なくとも90年代後半からゼロ年代前半に掛けてに比べれば進行(或いは断絶の「修復」というべきか?)しているのであろうという仮説が立てられるだけの話である。さて一体、この時代は本当にもう、大人の世界に対する不可能性なんてものは問題にならなくなってしまったのであろうか? かつて碇シンジに自分を重ね合わせた「若者達」の層は大人の世界と子供の世界に上手く割り振られて薄く潰れてしまったのだろうか? 或いは今もまだその問題意識は引き継がれ続けているが、それを従来のコンテンツが担わなくなっていっただけなのだろうか? 

いや或いは、そもそも大人の世界に対する不可能性への意識というもの自体が、アニメや漫画やライトノベルという媒介で噴出していたということ自体が一つの異常事態であったのかもしれない……これについては前島賢の『セカイ系とは何か』でも一部論じられていることだ……どうして『新世紀エヴァンゲリオン』の後半の展開は私小説的と評されたりしていたのだろうか。要するに本来ならば『新世紀エヴァンゲリオン』が示したような肉体や精神の問題は、文学の世界が担っていた領域だったからではないか? 僕は碇シンジだ、という叫びは、僕は太宰治の生まれ変わりだ、と叫んだという(例えば僕の友人の一人がそうだ)そんな若者達の声と同じ響きをしている。それこそ大人の世界に対する不可能性について言えば、例えば大江健三郎の初期作品なんかが苛烈なまでにその理不尽さや拒絶感を抉り出していたではないか。それに『新世紀エヴァンゲリオン』の碇シンジをこの10年代まで引き継いでいたのは、ボードレールを愛好する少年を描いた押見修造の『惡の華』ではなかったか?

だがこれ以上に踏み込むには、些か僕の知識は不足に過ぎる。

今現在を生きる「若者達」の肉体と精神の問題は、まぁ誰かが突き詰めてくれることを祈ろう。

 

10.終わりに

さて今回、有り難いことに今回『蓼食う本の虫』様に寄稿のお誘いを受けて、セカイ系……厳密にはポスト・エヴァンゲリオン症候群を「大人の肉体」や「大人の世界に対する不可能性」といったテーマからざっと語らせて頂く機会を得た。小説に関するwebサイトなのに漫画やアニメばかりが考察されているのは場違いも甚だしいですがまぁご容赦頂きたいと思う。本当はちゃんと大塚英志の『アトムの命題』あたりの議論を参照する必要があるのだろうが、無精な性格でまだ山に積んだままなのである。屁理屈を捏ね繰り回して都合良い視点から解釈をどんどん数珠繋ぎに引き伸ばしていくという相変わらず信用ならない手法ではあったけれども、ここに羅列した屁理屈の一つ二つでも、賛否を問わず、皆様の今後の思考の足掛かりなどにでもなれば僥倖です。

例えば僕は全然詳しくはないのだけれども、昨今隆盛しているライトノベル・ファンタジーを「大人の肉体」や「大人の世界に対する不可能性」といった側面から考えてみるとどうなるかとか、詳しい方々には是非とも考察を進めて欲しいのだ。彼等はどんな肉体を持っているのか、彼等がいるのは一体どんな世界なのだろうか……?

ではでは、乱筆を失礼。また何処かで。

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