与謝野晶子『みだれ髪』/古びる言葉・作品と作家の呼応

与謝野晶子といえば、日露戦争のときに召集された弟のことを思って書いた詩「君死にたまふことなかれ」が有名です。また、夫である与謝野鉄幹と共に文化学院を創設するなど、教育者としての一面も持っています。

しかし、彼女の一番の功績は、短歌の新しい時代を切り拓いたところにあるでしょう。熱烈な女性の愛を表現した歌たちは現代でも愛され、代表歌である「やは肌のあつき血汐にふれも見でさびしからずや道を説く君」はTOYOTAのCMなどにも使われていて、年代を問わずご存じの方が多いのではないでしょうか。

僕は先日より作歌(短歌作り)を初めてみまして、勉強のためにという思いもあって、上に書いた代表歌も収められている『みだれ髪』を初めて読んでみました。

『みだれ髪』の個人的秀歌5選

『みだれ髪』は、1901年に刊行された与謝野晶子の第1歌集です。『明星』の主幹であった与謝野鉄幹の勧めで同誌に短歌の投稿を初めて彼女は瞬く間に頭角を表し、鉄幹の手によって歌集が世に出されることになります。

性の悦びまでも歌に織り込んだ彼女の情熱的な歌は当時としてはセンセーショナルなもので、文学界では賛否両論が巻き起こりました。しかし、彼女の作品たちがその後の短歌史に多大なる影響を与えたことは疑う余地はありません。

さて、僕は彼女の歌集を初めて読んだのですが、少し古びた日本語で書かれていることもあり、ぜんぶを理解できたかというと自信がありません。そんな中でも、個人的に気に入った歌を5首取り上げてみたいと思います。

 

①やは肌のあつき血汐にふれも見でさびしからずや道を説く君

上でも取り上げた与謝野晶子の代表歌。彼女の名前を知らなくても、この歌だけ知っているという方もいるのではないでしょうか。

与謝野晶子は明治時代の人物なので、言葉遣いが現代と違っていて直感的に意味のとれない歌もあるのですが、この歌は割とすぐに意味を判別することができるのでしょう。その上で、「やは肌」「血汐」など、現代では使わない少し古びた言葉たちが趣を演出しています。もちろん、当時はこの言葉の古び方に趣があったわけではないでしょうから、現代にこれを読む私たちだけの特権だということができます。

 

②のろひ歌かきかさねたる反古とりて黒き胡蝶をおさへぬるかな

「のろひ歌」「黒き胡蝶」などから、おどろおどろしいイメージが喚起されます。

「のろひ歌」とは、愛する人に対する呪いの短歌ということでしょうか。純度の高いのろひ歌を目指して、反古紙がどんどんと増えていく。「黒き胡蝶」というのも、主体の「のろひ」の具象化と解することができるでしょう。

 

③人の子にかせしは罪かわがかひな白きは神になどゆづるべき

「人の子」「罪」「神」が呼応していますね。もちろん、これはキリスト教的・聖書的な世界を背景としていると考えられます。

実際、与謝野晶子は聖書に興味を抱いていたらしく、他にも「羊」などキリスト教を思わせるようなキーワードが入った短歌が『みだれ髪』の中でもいくつか詠まれています。

 

④春みじかし何に不滅の命ぞとちからある乳を手にさぐらせぬ

「春」は『みだれ髪』の中で何度も出てくる単語なのですが、ほぼすべて「青春」のことを表しています。このように、隠語めいた言葉を使うのも『明星』の特徴であったとのこと。

女性が「乳さぐらせぬ」という表現を用いたのは、当時としては大胆な表現だったのでしょう。今読んでみても、かなり直接的な表現でドキドキします。その前の「何に不滅の命とぞ」と相まって、生々しくも活き活きとた性と生の印象が深まります。

 

⑤人の子の恋をもとむる唇に毒ある蜜をわれぬらむ願ひ

これも有名な歌ですね。僕は、これが一番好きだなあと思いました。

「毒ある蜜」を「ぬらむ」とするのは、おそらく嫉妬からではないでしょう。純粋無垢に恋を求める年下の乙女たちに、恋の厳しさを諭すような姿勢が見受けられます。でもそれはきっと優しさではなくて、彼女なりの通過儀礼のようなものなのでしょう。その妖しさが何とも良いじゃありませんか。

古びていく言葉たち

上でも書いたのですが、与謝野晶子の書いた文章には古びた感じがあります。それは当然ですよね、本当に古いのですから。でも、彼女の表現が当時としては清新であったにせよ、言葉遣いは普通の範囲を逸脱
するものではなかったはずです。

そして、時代を経る毎に僕らの使う言葉は変化していきます。与謝野晶子の詠んだ短歌たちはちっとも変化していないのに、相対的に古いものとなっていく。そんな古くて普段は使わないような言葉たちに僕たちはまた清新さを見つけ出すし、一種のロマンを感じとるのです。近代文学を鑑賞するとき、その内容にももちろん注目すべきですが、僕はその言葉の響きにこそ注目したいと思うのです。殊に短歌は定型詩で、音の数やリズムを大切にします。そこの、今の言葉と違ったルールの言葉が当てはめられている。すぐに意味が判別できずとも、その面白さはある程度知ることは十分に可能だと思うのです。

また、今回読んだ新潮文庫版の『みだれ髪』では、いくつかの歌に注釈が施されています。これを読むことでもちろん意味が判然としてきますし、その歌の背景にあるものも知ることができます。

青空文庫でも『みだれ髪』を読むことができますが、注釈は本にしか付いていません。ぜひこちらも合わせて読んでいただきたいと思います。

作品と作家の呼応

僕は小説家の中では太宰治が好きなのですが、彼はよく作品と作家を結び付けられて論じられがちです。作品が作家の手から生み出されたものである以上、その背景を知ろうとするのは正当な手法であると思いますし、ましてや太宰はエッセイとも小説ともつかぬ作品をいくつも残しているので、それはさらに仕方のないことです。もちろん、作品と作家を切り離して論じるという立場もありますし、僕はそれも肯定したいと思います。ただ、それぞれが共存し得るんだということです。

僕は近代短歌にそれほど明るいわけではないのですが、短歌作品における主体は、すなわち作者自身だとされる傾向が強いように思われます。そしてそれは、与謝野晶子も例外ではありません。

先にも書いたように新潮文庫版の『みだれ髪』には注釈がついており、また、監修者である松野盟子氏による評伝も収録されています。ここでは、与謝野晶子自身の人生と作品が絡み合っている前提で紹介がなされています。

もちろん、僕らはそんな与謝野晶子の人生なんて知らずとも「やは肌の」も「人の子の」も楽しく読むことができる。実際、僕はこの2つの歌にこめられた意味も裏にある与謝野晶子の人生も全然知らなかったけれども、好きだなあと感じました。そこに、注釈や評伝などで意味が加わっていく。一つの短歌で何度もおいしい。

小説ももちろん同じような楽しみ方ができるのですが、短歌は短い作品を何度も繰り返し鑑賞することができ、短歌に凝縮された意味をより深く味わうことができるように思います。

まとめ

以上、短歌にあまり親しんで来なかった僕による『みだれ髪』の感想でした。

与謝野晶子は『みだれ髪』ばかりが有名ですが、これは最初期の歌集でその後もたくさんの歌集を出しているとのこと。歳をとる毎に作風も変わっているはずですので、他の歌集も読んでその変化を比べてみたいなと思います。

皆さんも、与謝野晶子の言葉に触れてみてはいかがでしょうか?

 

これから短歌を始めてみたいと思っている人には、穂村弘の『はじめての短歌』がおすすめです。

優秀な短歌を「改悪」して、短歌作りのコツを示すという手法がユニーク。小説や詩など、他の散文芸術にも応用可能な内容ですので、短歌に興味がないという方もぜひ読んでみてください。

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