読書の即効性と遅効性について

小説を書く者にとって、闇雲に文字を書き連ねることは賢明な判断と言えない。個人の内にある資源には限りがあり、アウトプットを続けていればそれは必ず枯渇するからだ。

その対策として、すなわちアウトプットできなくなったときの処方箋として、当然インプットが考えられる。インプットの種類にも様々あるが、ここでは「読書」をその最たる例として挙げておきたいと思う。言葉を紡ぐために、自分の中に言葉を仕込む。そうして、自分の世界を広げていく。そのような戦略が想定される。

ここで言う「読書」は、何も小説に限定されるものではない。詩集や批評、あるいは自己啓発所やビジネス書もあなたに何かしらの力を与えてくれるかもしれない。また、まとまった書籍の形をとっている必要はなく、インターネット上のテキストが「読書」の代替として作用するかもしれない。

ここでは、ひとまず外部のテキストを自分の中に取り入れる行為を「読書」と定義して、それが小説執筆(もしくは、コラムや批評などの執筆)に与える影響について、即効的な側面と遅効的な側面から考えてみたいと
思う。

遅効的な側面について

読書の小説執筆に与える効果について、まずは遅効的な側面から考える必要がある。それは、純粋に「アウトプット」に対しての「インプット」としての効果があるからだ。

「インプット」とは、「新しい概念の獲得」と言い換えても良いだろう。小説を書くとき、僕たちは何か新奇なものを書くことを求められる。そしてその為に、僕たちの素朴な実感やそこから導かれる倫理や論理などを小説に込めることになる。

ところが、僕たちが生きる範囲というのは限られている。たとえば僕で言うならば、平日は朝から働きにでて、夜に帰って来て寝る。家と職場の二点をひたすら往復することになる。

もちろん、月曜日と火曜日に経験したことが全く同じであるはずはないし、それは火曜日と水曜日も同様である。ただ、たとえばそれを日記にしてみようとしたときに(実際、僕はそれを試みた)、大して書くことは見当たらない。新奇なことが書けない。これは、生活の中で新しい概念を全く獲得できていないことを表している。

もちろん、世界には僕のような人間ばかりではないはずだから、日常の些細な変化から新たな概念を抽出できる人もいるだろうし、あるいは毎日が刺激に満ちあふれているという人もいるかもしれない。

しかし、そうではない、毎日の暮らしに新奇性を見つけられない人にこそ、積極的に読書をしてほしいと考える。

話が少しそれた。読書の遅効的な側面について話そう。それは、上でも述べたように「新たな概念の獲得」ことに外ならない。

しかし、この「新たな概念」というのはすぐに役立つわけではない。その本に書いてあることをそのまま表現してしまえば、それは剽窃となってしまう。それを別の言葉で語る個人的な言葉を有していればそれで良いが、大抵はそうならない。

また、そこで概念を獲得できない場合もあるだろう。既知のことばかり書いてあるかもしれないし、そこに書いてあることが理解できない場合もあるだろう。

そのような場合、僕たちは単に準備をしている段階だと考えなければならない。読書をした段階で、僕たちは概念を掴みかけている場合が往々にしてある。

読書をする際に、そこに書いてあるすべてのことを理解しようなんてことは無理な話だ。読了後すぐにでも、そこに書いてあったすべてのことを語ることなんてできるはずがない。しかし、それで良いのだ。そこで自分が重要だと感じたいくつのことと、意味がわからずとも引っかかった単語だけが自分の中に蓄積されていればそれでよい。

それらはいつか、自分の中で新しい概念として芽吹く可能性を秘めている。何気ない日常の中で気づくものかもしれないし、別の読書の最中で気づくものかもしれない。

僕たちは、読書の中で、いつか獲得するかもしれない概念の種を自分の中に蒔いているのだ。

これが、読書の遅効的側面である。

読書の即効的な側面について

それでは、読書の即効的な効果とは何だろうか。

ここまでの文章で、その答えの一端が登場している。読書をすることによって、これまで抱えていた概念の種が芽を出すことがあるだろうと、いうのがそれだ。

これまでに抱えていたモヤモヤとしたものが読書によって何か一つの概念にまとまることがあるだろう。小説を書いているのであれば、それをテキストの中に組み込むことで何かしらのものは書けるはずだ。

だが、これはかなり具体的な効果だ。そんなに上手く、自分の中に持っている種が芽を出すことはあまりないだろう。

それよりも、もっと小さな動きに敏感になるべきだ。みなさんにもおそらく経験があると思うのだけど、そこに書かれているテキストに導かれて、何か全く別のものを想像することがあると思う。

たとえば、みなさんが今呼んでいるこの記事は、とある哲学書を呼んだときに発想されている。しかし、その哲学書には読書の即効性と遅効性などということについては全く触れられていない。僕はただ、他者の言葉と触れる中で、突然この発想を導き出すことができた。

他にも、僕はその本を読んでいる間に、その本とは全く異なる領域でのいくつかの発想を手に入れることができた。それは概念と呼ぶには脆く、今後もっと鍛えるべきものである。ところが、そこには普段の生活の中では絶対に手に入れることができないような発想がたくさん転がっている。

僕は、そのすべてをメモすることにしている。時には恥ずかしい発想だってあるだろう。生のままでは誰にも提出できないような、低俗な発想だってあるかもしれない。でも、それも書きためておく。そのようなものをいくつか集めて鍛えることで、新たな概念を作り出すことを目指す。

この営みはかなり即効性がある。他者の言葉と自分の種が科学反応を起こしてできた、突然変異的な概念たちは、オリジナリティを帯びていることが多い。それを元に小説を書くことは不可能ではないはずだ。

ところが、多くの場合はこの奇妙な発想は読書をしている間に忘れられてしまう。なぜなら、それはほとんどの場合、その読書をする目的とは離れているところにあるからだ。

たとえば、マーケティングの本を読んでいるときには、マーケティングの技術や思想を学ぶところに目的がある。その間に、何か文学的な気づきや小説的な発想を得るかもしれない。ところが、それは目的にはかなわないので、忘れ去られてしまう。

このちょっとした気づきをしっかりとメモして利用していく。些細な引っかかりを鍛え上げて一つの発想とする。

これを実践することで、あらゆる読書に即効性が生まれるはずだ。

まとめ

読書をするということは、他者の言葉と触れあうということである。その営みの中で、突然変異的に新奇な発想を得ることができるだろう。これは、短歌でいうところの「二物衝撃」と似ている作用かもしれない。

ここで生まれた発想を拾い上げて適切に鍛え上げることで、読書を即効的なものにすることができる。

また、読書とは長い目でいえば概念の種を獲得することである。それは、また違う読書や日常の経験の中で確固たる概念として築きあげられる日が来るだろう。その日のための準備をしていると考えるのが、読書の遅効的な側面だ。

小説やその他あらゆるテキストを書く人は、このことを意識することで、読書=インプットをさらに有意義なものにできるだろう。ぜひ、次の読書には「即効性」と「遅効性」ということを考えながら望んでみてほしい。