文芸部の目的って何?→部誌をたくさんの人に読んでもらうことではないだろうか

小説は一人でも書くことができる。なのに、どうして文芸部に入る必要があるのだろうか。

「文芸」なので小説だけに限らないかもしれないが、僕があってきた文芸部や文芸サークル(面倒なので以後、「文芸部」に統一する)の人たちは、小説を書いているという人が圧倒的だったから、ここでは小説を基準に話をしたいと思う。

 

小説なんて一人でも書ける

野球やサッカーはそもそも9人や11人でやるものだし、テニスなどの個人競技も相手がいなければ成立しない。文芸部と同じ文化部に目を向けてみれば、吹奏楽部や演劇部など、これまた1人では成立しないものばかりだ。

しかし、小説は1人でも書ける。別に練習のために他者を必要とするわけではない。ではどうして、文芸部に入る必要があるのだろうか。

ここで、「小説は1人で書くものじゃない。読者がいて初めて完成する」と思った人がいれば、それは概ね正しいと思う。しかし、これだけインターネットが普及した社会だ。クリック一つで世界中に作品を公開することができる。誰とも知らない人が自分の作品を読んでくれる。そんな中で、なぜ文芸部内に読者を求める必要があるだろうか。

文芸部の機能

僕は高校時代にほんの一瞬だけ「文芸愛好会」なるものを勝手に結成(活動は大してしていなかったが)し、大学では文芸サークルに所属していた。また、他の大学の文芸部の方と話したりそれぞれの部の活動を知ることがあり、文芸部の機能や役割について色々と考えるところがあった。

僕としては、文芸部の機能を3つ挙げたいと思う。

オタクコミュニティとしての文芸部

僕はこれが最も重要な機能だと考えている。文芸部に入るやつに、基本的には根が明るいやつなんて一人もいない。もちろん例外もいる。しかし、基本的には根暗なオタクコミュニティだ。

そういう人たちが楽しいキャンパスライフを夢見て文芸部に入るのは何一つ間違っていない。絵を描く方が好きならば漫研に入れば良い。僕も文芸部に入ることで、趣味の親しい友人を作ることができた(ような気がする)。

作品を読んでもらう場

「なぜ文芸部内に読者を求める必要があるだろうか」という疑問は依然として残るが、それでも自分の書いた作品を読んでもらう場としての機能はまああると思う。

インターネットはクリック一つで世界中に作品を公開することができる。しかし、そこには到底人類が処理しきれない量のコンテンツが溢れかえっている。その中で自分の小説を読んでもらえる可能性は低い。

しかし、文芸部には部誌の「読み合わせ」や「批評会」といった文化があるので、同じ文芸部員には少なくとも自分の作品を読んでもらうことができる。しかも、その小説に対する感想を貰えるというおまけ付きだ(当然、良い感想ばかりだとは限らないけれど)。

文芸修練の場としての文芸部

たぶん、最もあるべき姿としての文芸部はこれだと思う。野球もサッカーも演劇も吹奏楽も、みんな上達することを目指して活動している。そのために皆で集まって練習をするわけだ。

ところが、僕が見てきた文芸部の8割くらいは基本的にオタクコミュニティとしてしか機能していない。それはそれで別にいいことなのだけど、もっと文芸の修行をする場として文芸部が機能すればいいのにと思っている節がある。

しかし、文芸の修行といっても何をすればいいのだろうか?

基本的には、たくさんの小説を読んでたくさん小説を書くしか方法はないと思う。その途中で、誰かに作品を読んでもらうということは必要だろう。しかし、せっかく文芸部という集団なのだから、集団でしかできない修行があってもいいのではないだろうか。

文芸部という団体活動

僕も文芸サークルに入っていらい、せっかく集まったのだから何かしたいと考えていた。ところが、何もないのである。たまには批評会をしてあとはオタクコンテンツについて語り合う以外にやることがないのである。僕はそれで4年間過ごした(実際、それはそれでとても楽しかった)。

文芸部として団体活動をするにおいて何かもっと有意義な方法がなかったのかと考えることは未だにある。しかし、小説ぞ一人で書けるのに、いったい団体で何をするというのだろうか?

リレー小説をする

批評会以外で思いつく活動として、僕はまずリレー小説を挙げたい。これは僕も何度かやったことがある。というか、批評会以外にはこれしかやったことがないと言っても過言ではない。

リレー小説とは、文字通り小説でリレーをすることである。順番と時間(あるいは文字数)を決めて、ストーリー展開を相談することなく書き継いでいく。最初の人は後の人たちが困らないように書く必要があるし、途中の人たちは物語が破綻なく進むように書かなくてはならない。そして最後の人は、物語をきちんと終わらせなければならない。

…という風に書くと、なんだか役に立ちそうな活動な気がしてきた。いや、実際にこれはリアルタイムでやるとめちゃくちゃ楽しいし、ある程度練習にもなると思う。ただし、途中で奇妙奇天烈な話を書き出す僕みたいなやつがいると、他の部員が困ることになる。

読書会をする

そういえばこれも何度かやったことがある。既存の小説をみんなで読んできて、それについてみんなで意見を出しあったり討論したりするというものだ。

小説を書くという視点で改めて既存の小説を読み直すと、また違った視点で読むことができる。それはどの世界でも同じことだろう。僕はプロ野球を見る時にはせいぜい何点入ったかと一緒に飲むビールにくらいしか興味がないが、野球をやっている人であれば、プロの動きを参考にすることだろう。

部誌を作る

あった。まだ活動はあった。思い出してみれば、意外と色々な活動をしているものだ。

僕の所属していた文芸サークルでは、部誌に掲載されている作品を使って批評会をしていた。部誌にさえ載せれば、少なくともサークル員には自分の作品を読んでもらえるのだ(ただし、全く部誌を読んでいないのに批評会に参加する不届き者がいることも覚えておいてほしい)。

というか個人的に、文芸部はこの部誌づくりに心血を注ぐべきではないかと思う。文芸部としての唯一の成果物なのだ。演劇部でいうところの公演と一緒だ。もちろん、部誌を出したり公演をしたりというその行動自体が面白いというのは、どちらも経験があるから分かる。しかし、やはりそれだけでは駄目だろう。小説も演劇も、誰かに何かを届けておもしろいと思ってもらってこそ意味があるのだと思う。

部誌を作るということ

文学フリマによく行く。そこには、社会人に混じってたくさんの大学文芸部が部誌を頒布している。

僕も学生時代は、大学の部誌を優先的に買っていた。自分と同じ大学生がどのような小説を書いているか気になたからだ。

しかし、社会人になって文学フリマに参加すると。大学生が書いているからというだけでは買わなくなってしまった。東大文芸部とかは、なんか凄そうだから買う(そしてだいたい凄い)。けれど、他の大学のものは何を基準に買ったら良いのかわからない。

これは、偏差値が高くなければ良い小説が書けないと言っているわけではない。ただ、何も訴求がなければ、他にもたくさんの同人誌がある中でその部誌を手に取る理由がないのだ。

だから、もしも僕が大学の文芸サークルに戻るならば、「売れる部誌」「手にとってもらえる部誌」はどういうものかを考えると思う。それには個々の小説の力量が必要だし、編集や組版、デザイン、製本の知識もいる。マーケティングや企画も考える必要があるだろう。まさに団体戦だ。面白くない小説には容赦なく部員間でメスを入れ、より面白いものに仕上げていく。そうすることによって、個々の部員の筆力も上がる。

また、小説を書く力のみならず、先に挙げたような様々な力が問われる。それはこれから、小説を趣味として続けていく上で、あるいはなにか小説で面白いことをしてやろうとする上で、必要な力なのではないかと思う。

まとめ

とにかく何が言いたいかというと、文芸部はもっと部誌作りに力を入れるといいのではないかということだ。

部員がどんどん交代していくので、ノウハウがたまりづらいのは分かる。ある年代には、文章を書くことだけに興味があって、編集にも校正にもデザインにも誰も興味がないということもあるかもしれない。

しかし、大抵はそのどれもに興味がある人はいる。文芸部員は、小説を書く一人のクリエイターとして(どうでもいいけど、小説を書く人をクリエイターと呼ぶのは少し恥ずかしい)自分の作品をどう売り込むかということをもっと勉強するべきだし、色々と実験してみるべきだと思う。

そうしたときに、文芸部で力を合わせて部誌を作り上げるというのは、悪くない選択肢なのではないかと思う。

ただのオタクコミュティとして終わるのは勿体ない。そういう思いを持っている人ばかりではないと思うけれど、ちょっとそういう熱い活動をする大学生文芸部員と出会ってみたいなあと思う。