「文芸誌連載小説のスマホ無料公開」から考える純文学の「流通」について【前編】

2017年9月7日のこと。

僕のタイムラインに興味深いニュースが流れてきた。

新潮新人賞・三島由紀夫賞作家の上田岳弘の新作『キュー』が、文芸雑誌『新潮』と同時連載でYahoo! JAPANのスマートフォン版でも無料公開されるというニュースである。NHKのニュース番組でも取り上げてもらっていたので結構な気合の入った企画であるようだ。

 

今頃なの?

この企画の詳しい内容については、僕が説明するよりも下記リンクなどを参照して頂ければと思う。特に今回集中して触れるはずの②の記事は出来れば事前に御読み頂けるとありがたい。

①NHK NEWS WEB『文芸誌連載小説をスマホ無料公開』
http://www3.nhk.or.jp/shutoken-news/20170907/3642521.html

②BUZZFEED NEWS『なぜ純文学をヤフーに流すのか? 『新潮』編集長が語る文学、新たな挑戦』
https://www.buzzfeed.com/jp/satoruishido/shincho?utm_term=.gp9ZDKbKk#.ceeoeWOWz

③KAI-YOU『スマホで純文学連載という珍しい試み 『新潮』とYahoo! JAPANで上田岳弘が同時連載』
http://kai-you.net/article/45228

④Yahoo! JAPAN当該特設ページ『三島賞作家・上田岳弘の長編『キュー』』
https://bibliobibuli.yahoo.co.jp/q/

さて、僕がこの話題に興味を持ったのは、何だか凄い企画が始まったぞ! みたいな高揚感に依るものではなかった。むしろ逆だった。これ等のニュースがタイムラインで流れてきて僕が真っ先に覚えたのは「今頃なの?」という印象であった。

この「今頃なの?」が今回の記事の主たる問題である。この2017年という時代に、ネットで純文学小説の連載を無料で公開するのが「新たな挑戦」で「珍しい試み」として扱われてしまっている、そういう状況に僕は思わず首を傾げてしまったのである。

ネット上の無料漫画

御存じの通り……というべきか、この2017年現在、ネットでは大手出版社によって無料で連載が公開されている「漫画」は割と幾らでもある。集英社の『となりのヤングジャンプ』ではアニメ化もされた大ヒット少年漫画『ワンパンマン』の連載が無料公開されていて、しかも単行本化されているにも拘わらず現在でも百話以上が読める。

このような無料web漫画サイトは、ちょっと調べてみただけでも小学館ならば『やわらかスピリッツ』があり、カドカワならば『ヤングエースUP』があり、スクウェア・エニックスなら『ガンガンONLINE』があり……そして新潮社だって『くらげパンチ』というサイトを通じて無料で連載漫画を公開している。

僕のイチ推しの漫画である平方イコルスン『スペシャル』はリイド社の『トーチ』で連載されているし、最近アニメ化されてその作画クオリティに舌を巻いているつくしあきひと『メイドインアビス』は竹書房の『コミックガンマ』で連載されている。

それなりに漫画を読んでいる人間ならば今や無料web漫画サイト発の作品を見掛けないことのほうが難しい時代である。詳しくはこれ等のサイト名でGoogle検索して頂ければと思う。

例えば僕が日頃から良く利用している『ガンガンONLINE』は、これまでに『私がモテないのはどう考えてもお前らが悪い!』『月刊少女野崎くん』『田中くんはいつもけだるげ』のようなアニメ化もされた有名ヒット作品を輩出している無料web漫画サイトであるが、これが開設されたのは何と2008年のことだという(※1)。

※1→https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AC%E3%83%B3%E3%82%AC%E3%83%B3ONLINE

 

二十代中盤の僕等がまだ高校一年生で普通にガラケーを使っていたような時代だ。もう十年近く前には出版社主導の無料web漫画サイトが登場していた、ということを考えるならば、2017年に「出版社主導でネットでの純文学連載小説の無料公開が始まった」というニュースは今更それほどに新鮮さを感じるものではない。

いやもし、このニュースに新鮮さを感じる、ないしは注目に値する新しい企画だと思ってしまえるとしたら、それは「文芸」が「漫画」から十年は後れを取っていたという証明ですらある。

純文学は紙離れのリスクを背負えない?

 漫画という前例を踏まえると、前掲の②で「ネット配信は紙離れを進行させてしまうのではないか」という懸念が挙げられていたのは、もはや時代錯誤ですらある。

ネット配信が紙離れをより加速させる可能性は、漫画業界がとっくに懸念していただろうというのは想像に難くない。それでも各出版社は先に挙げたような無料web漫画サイトの運営に乗り出してきた。新潮社だって『くらげパンチ』で当たり前のようにやっている。

これは『ワンパンマン』が百話以上を無料公開しながら単行本で軽くミリオンヒットを達成してアニメ化もされたように、漫画の場合は連載を無料公開したとしても単行本やメディアミックスなどでリターンを期待出来る見込みがあったということなのかもしれない。

だが小説、特に「純文学」の場合だと、紙離れというリスクを背負えるほどのリターンが期待出来ないのかもしれない。だから有名文学賞の受賞歴のある期待の新人を一人だけ選び、さらにYahoo!JAPANという大手検索メディアの協力まで取り付けて、しかもNHKのニュース番組でまで取り上げて貰って、そこまで徹底的に御膳立てして初めて「ネットでの純文学連載小説の無料公開」が実行に移される。

2017年とは思えないこの過剰な慎重さこそ、十年近く前に既に開拓されているはずの冒険にすら躊躇しなければならなかった、いや「未だに躊躇し続けている」文芸業界の実情を露骨に反映しているのかもしれない。

小説とインターネット

漫画と小説では色々と状況が違っている、この二つを比べるのは良くない、という指摘もあろう。しかし僕が「今頃なの?」と感じてしまった理由はまだ他にもある。

つい直近の例を挙げるならば「小説家になろう」に投稿された『君の膵臓を食べたい』が書籍化されて大ヒットになったのは記憶に新しい多くの商業デビュー作を産んだという「小説家になろう」が開設されたのは2004年、規模の拡大により法人化されたのが2010年とのことだから、やはりそれなりの歴史はある(※2)。

※2→http://ebook.itmedia.co.jp/ebook/articles/1412/25/news072.html

 

最近ではカドカワが絡んでいる「カクヨム」も頻繁に名前を聞くし、とある大学の論文で投稿されていたR-18小説が引用されて問題になった「pixiv」など(※3)アマチュア小説投稿サイトの存在感は今や到底無視出来るものではない。それこそ、ネットで小説を読む、という文化はかの携帯小説が大流行した頃合いから……携帯小説の代表格『恋空』が投稿されたのは2005年である(※4)……もう既にかなり幅広く浸透しているはずなのである。

※3→https://news.yahoo.co.jp/byline/soichiromatsutani/20170527-00071377/

※4→https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%81%8B%E7%A9%BA

 

プロの作品だから意味があるのだ、という指摘もあるかもしれない。しかしそれならば何故、プロの漫画家の作品は無料公開されているのにプロの小説家の作品はこれまで無料公開出来なかったのだろうか。

無料という部分に眼を瞑れば、プロ作家の小説がネットを通じて読める電子書籍という文化がとっくに導入されているのである。勿論のこと芥川賞受賞作品だって電子書籍で読める(※5)。ちょっと調べてみると、ものによっては紙の本ではあり得ない程の大幅値引きが効いたり、試し読みが無料で配信されている電子書籍も結構あるようだ。

※5→https://booklive.jp/feature/index/id/agnk

 

因みに読書あるある漫画『バーナード嬢曰く。』の第一巻十二冊目で電子書籍がネタにされているのは2013年のこと。しかもそれに依れば、電子書籍元年は2010年なのだという。そしてその2010年の段階でもう、村上龍は坂本龍一の音楽とコラボした『歌うクジラ』の電子書籍をセルフプロデュースで発表しているのだ(※6、7)。

※6→https://www.nikkei.com/article/DGXNZO66768600T10C14A2XX1000/

※7→http://www.appbank.net/2010/07/16/ipad/143251.php

 

僕がまだ高校生だった頃には既にそんな風な電子書籍の可能性を模索した試みが行われていたというに、この2017年になって「ネットでの純文学連載小説の無料公開」と言われたところで特に何も驚かない。やはり「今頃なの?」である。

純文学とは何か

今回流れたニュースは「純文学」「無料」「ネット」という三つのキーワードの組み合わせに何らかの意味を見出していたように思う。しかしその認識に決定的に待ったをかけるのが、御存じ「青空文庫」の存在である。

著作権が切れた作家限定とはいえ「評価の高い純文学作品を」「無料で」「ネットを通じて」読めるこの非常に有り難いサイトが設立されたのは1997年。何と二十年前である。そして「青空文庫のしくみ」をざっと読み通す限り(※8、9)このサイトの運営に大手出版社などが資金面、情報面、人員面などで積極的に関与しているような痕跡はない。

※8→http://www.aozora.gr.jp/shikumi.html

※9→http://www.aozora.gr.jp/aozora_bunkono_shikumi.html

 

出版業界とは距離を置いた有志プロジェクトが二十年前から数多くの「純文学」を「無料」で「ネットで」読める仕組みを作っているなかで、幾らプロ作家の完全新作とはいえたった一作品の純文学連載小説をネットで無料公開する程度のことが「新たな挑戦」になってしまうというのは疑問である。

そもそも、純文学、とは何だろう。先に「小説家になろう」を挙げたが、この投稿サイトにもちゃんと純文学というカテゴリがある。「カクヨム」にも純文学のカテゴリはある。この『蓼食う本の虫』の記事でも紹介されていたように(※10)ラノベ以外の作品が集まり易い「クランチマガジン」や「破滅派」のような投稿サイトもある。

※10→http://tadeku.net/391

 

Google検索を掛ければかなり小規模とはいえ純文学寄りの無料web文芸誌だって幾つか引っ掛かる。純文学系の作品を発表している個人サイトまで含めれば、ネットで無料公開されている「自称純文学」はそれなりに沢山あるはずである。

先に挙げた①②③の記事が今回の企画を「新しいもの」「珍しいもの」として取り上げているのは、新潮のような有名で伝統のある雑誌に掲載されているような小説こそが「純文学」であり、それがネットで無料公開されるから新しいのだ、という暗黙の了解が前提にあるように思われる。

例えば「出版社主導でライトノベルの連載小説が一作品だけネットで無料公開された」というニュースだったらまずここまで注目されないだろう。既に「小説家になろう」などで投稿された作品が次々に商業出版されて、「カクヨム」のように出版社が自ら投稿サイトの運営に関与し始めている時代なのだから。

今回のニュースがテレビでまで取り上げられる程度に注目されたその背景を鑑みれば、投稿サイトや個人サイトや小規模の無料web文芸誌で公開されている純文学はそもそも純文学扱いされていない、という状況が透けて出てくる。純文学とは、大手出版社の純文学文芸誌などに掲載されるようなものであり、或いはこれ等の文芸誌が主催する新人賞で入賞したようなものであり、この極めて限定された枠組みに則らないものは勝手に純文学と名乗っているだけの紛い物でしかないのだ。

純文学の流通

これを僕は「流通」の問題と呼んでいる。

純文学を定義付けようとする場合、そのアプローチは大きく三種類に分けることが出来る。文体や人物造形やストーリーや比喩といった手法的な特徴から定義される「方法」としての純文学、創作に掛ける姿勢や社会へのコミットメント性や歴史的価値などから定義される「理念」としての純文学、そして出版流通システムや教育・研究システムの都合によって貼られたラベルから定義する「流通」としての純文学である。

例えばあなたが無作為に選ばれたとある小説を読んで「純文学っぽい」「エンタメっぽい」「ラノベっぽい」という印象を受けたとしたら、それはその小説がそういう印象を引き起こすような手法=「方法」で書かれているということを意味している。しかし例えば有名な純文学文芸誌に掲載されたある作品を読んで「あんまり純文学っぽくない」とあなたが感じたとしても、その小説はあなたの印象など気にすることなく、純文学文芸誌に掲載されていたからという理由で純文学として「流通」されることになる。

僕がどんなに以前読んだ佐藤友哉『1000の小説をバック・ベアード』を「これはあんまり純文学っぽくない」と思ったとしても、つまり純文学的な「方法」で書かれていないと感じたとしても、新潮に掲載されて三島賞まで受賞したこの作品は「流通」から見れば間違いなく純文学なのである。

後手に回る文芸の流通

既にネットには、各々の書き手達がこれこそ純文学だと考える「方法」で書かれた小説は沢山ある。また社会的に純文学として見做されている文豪達の作品を無料公開する青空文庫もある。

だが今回のニュースが暗に示唆しているのは、これ等が「純文学として流通されていなかった」ということ……大手出版社などの「流通」が絡んでいないものは純文学扱いされていなかったということだ。大手出版社がようやく今回のような企画を主導して初めて「遂に純文学がネットで無料で流通する新しい時代がやって来た」となるのである。

前掲の②でこの2017年に今更「紙離れ」への懸念を挙げていた時代錯誤を考えると、未だに純文学は電子書籍ですらも「流通」の埒外として考えられているのかもしれない。芥川賞作家の小説が普通に電子書籍で買って読めるような時代なのに、それでも電子書籍が純文学の「流通」として見做されていないかもしれないなんてのは、一見すると奇妙な矛盾であるように思われるが、現代の純文学の事情を考えればそういう捻じれは実際にあり得るというのが僕の印象である。

先に僕はイチ推しの漫画として「トーチ」で無料公開されている平方イコルスン『スペシャル』に触れたが、この作品はwebサイトの作品紹介や単行本の帯で「文学系スクールライフ・コメディ」と宣伝されている(※11)。この作品が本当に文学的なのかは議論の余地があるが、ちょっとマイナーな出版社とはいえ2014年にはとある「文学系」漫画の連載がネットで無料公開されていた一方で、肝心の「文学」小説の連載がネットで無料公開される機運が高まったのがやっと2017年だとするならば、如何に漫画業界と文芸業界とのあいだで「流通」への意識にズレがあるかが見えてこようというものだ。

※11→http://to-ti.in/product/special

 

もし文芸業界の「流通」がこのように後手後手に回り続けるならば、そのうち「文学」小説よりも「文学系」漫画のほうがよっぽど強力に「流通」するような時代になってしまうかもしれない。

SNSによる誤配

 いや待て、お前の議論は的を外している、今回のニュースにおいて一番重要なのはYahoo!JAPANと協力して無料の純文学連載小説を公開するということ、つまり前掲の②で書かれていたように「文芸ファン以外に偶然届く=誤配」の可能性が開かれたことではないのか……という指摘もあると思う。

その指摘は極めて正しい。成程「小説家になろう」も青空文庫も電子書籍も、幾らネットで開かれているとはいっても普段小説を読まない人間にはなかなか触れる機会のないものなのかもしれない。そういう事情を考えらたらYahoo!JAPANという大手検索メディアの協力を取り付けたというのは重大なことなのかもしれない。

しかしそれでも、如何せん2017年という時代に「文芸ファン以外に偶然届く=誤配」をこのように強調するのは遅きに失している印象を受ける。今の時代はTwitterやFacebookといったSNSが非常に大規模な「誤配」の可能性を世界に開いているからだ。

アニメに滅法疎い僕ですら『けものフレンズ』が徐々に巨大な現象になっていった経緯をTwitterを通じてリアルタイムに「経験」している。シギサワカヤがTwitterで挙げていたファンイラストを通じて中村博文を知り、氏のイラスト集を買ったり個展に出掛けたりするようになったという僕の体験も、まさに「誤配」の一例であったように思う。当然にSNS空間では誰かが何処かで純文学作品について何かを語っているはずなのである。

映画と誤配

例えば「誤配」の顕著な例を挙げるなら、去年公開された映画版『この世界の片隅に』があろう。この映画はクラウドファンディングで映画ジャンルにおける当時国内最高額の支援を受けたことでも話題になったが、これは同時に、それまで誰もこの作品のスポンサーとして資金援助をしてくれなかったということでもあった(※12)。

http://business.nikkeibp.co.jp/atcl/interview/15/284031/120100018/

 

劇場パンフレットにも書かれていた通り、クラウドファンディングの正式な名目は「作品への出資企業を募るためのパイロットフィルム制作費用」である。そんな具合に売れる見込みがないもの、資金が回収できる見込みがないものと見做され、やっと公開にこぎつけても当初63館という小規模で始まったこの映画が、結果的に300以上の映画館で公開されるに至り、動員数200万人、興行収入26億円という異例の大ヒットを記録したというのは皆さんも記憶に新しいことであろう。

そしてその背景として挙げられるのがSNSによる口コミ効果である(※13、14)。実際僕も、クラウドファンディングに参加したとある方が積極的にSNSで拡散してくれたお蔭で公開前からリアルタイムに情報を知ることが出来た。

※13→http://www.viet-jo.com/news/entertainment/170818164842.html

※14→https://mainichi.jp/articles/20170127/dde/012/020/010000c

 

2016年といえば『シン・ゴジラ』『君の名は。』が爆発的に大ヒットして社会現象にもなったが、その背景としても度々SNSによる拡散が指摘されている。『この世界の片隅に』同様に120館という比較的小規模の公開でありながら興行収入20億を超えた『聲の形』も(※15)その成功の原動力にSNSがあった可能性は充分に考えられる。

人気低迷で一度途絶えていたゴジラシリーズが、知る人ぞ知るアニメ監督ではあったが前作『言の葉の庭』が公開23館に留まっていた(※16)ようにまだまだ知名度が高くなかった新海誠が、そして小規模公開だった『この世界の片隅に』や『聲の形』がそれぞれこのような顕著な成功を収めるためには、従来は特撮にもアニメにも小規模公開映画にも興味が薄いような人達の動員が不可欠であっただろう。

※15→https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%98%A0%E7%94%BB_%E8%81%B2%E3%81%AE%E5%BD%A2#cite_note-12

※16→https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%B0%E6%B5%B7%E8%AA%A0

 

SNSによる口コミはそういう「特定ファン以外に偶然届く=誤配」を凄まじい規模で巻き起こし得る媒体であった。

SNSに流れる純文学の情報

前掲の②ではYahoo!JAPANとの協力を「誤配」を引き起こすための非常に新しい試みとしているが、良く考えてみれば既に純文学だって、とっくの昔にSNSという非常に強力な誤配装置にその情報が色々と流されているはずなのである。

新潮だって2009年からTwitterアカウントを持っていて日々情報を発信している(※17)。だがそれでも……ちょっと極端な表現が許されるならば、それでも一向に彼等が望んでいるような誤配が起きていないというのが一番の問題なのである。

※17→https://twitter.com/monthly_shincho

 

映画版『この世界の片隅に』はSNSの口コミようなネットを通じた大規模な誤配にも後押しされる形で動員200万人という顕著な成功を収めた。では文芸は? では純文学はどうなのか? 勿論それなりに誤配は起きているはずだし、その恩恵に与った作者や読者はそれなりの数はいるはずだ。SNSにはちゃんと純文学に関する新鮮な情報が色々と流れ続けている。

それでもSNSが先に述べたような大規模な誤配を起こし得るようなこの時代にも拘わらず、今更Yahoo!JAPANとの協力を誤配の可能性を開拓する「新たな挑戦」と表現しなければならない程度には、まだその結果は充分に現れてはいないということだ。前掲の②曰く「量が質に転化する瞬間」は未だに来ていないのである。これが一体何故なのか、誰の責任なのかは、僕に断言出来ることではない。

本当に誤配を期待できるのか?

一応明言しておくが、僕はこの企画に対して批判したり反対したりするつもりは一切ない。あくまでも僕は「今頃なの?」という疑問をここで整理しているだけで、たとえ今頃であっても、決して間違った試みではないと思っている。

この企画は確かに純文学の「流通」の古さや狭さを大いに示唆しているように思われるが、とはいえこの試みを足掛かりに純文学の「流通」に何かしら変化があればいいな、とは思っている……思ってはいるのだが、企画が開始されて二日後の9月9日、僕はある事実に衝撃を受けることになる。

この記事を書き始めるにあたって、これはちゃんとこの作品がどのように連載されているのか直接確認せねばなるまい、とYahoo! JAPANのスマートフォン版を開いた。因みに僕のスマホはdocomoなのでブラウザはdmenuに設定されている。なのでYahoo! JAPANを開くまでに既にわざわざGoogle検索を掛けるという一手間があったわけだがまぁそれは良い。

Yahoo! JAPANのホーム画面にあたる「すべて」のカテゴリに着いたはいいが、しかし幾らスライドしてもスライドしても、一向に作品を連載しているページで飛ぶリンクが見つからない。ニュースや芸能のカテゴリをスクロールしてみても見当たらない。わざわざアプリをインストールしてみたが特に変わりはない。

余りにも一向に見当たらないので思わずGoogleで検索を掛けてようやく目的のページえある前掲の④に辿り着くことが出来た。

因みにあれこれを探し回った結果、ホーム画面の検索欄の右上にあるサイドメニューを開くと、その「お知らせ」のところにURLが記載された企画の案内記事が出てくる。僕が知る限りではYahoo! JAPANのスマートフォン版ホーム画面から直接目的のページに飛ぶ方法はこれだけである。まず普通に使っていて偶然辿り着ける場所ではない。

試しにこの前掲④のページをPCで開いてみると、連載を読む方法として、画面に表示されたQRコードを読み取る、スマホのYahoo!検索で「上田岳弘 キュー」と検索する、という二つの方法が推奨されていた。

しかしYahoo! JAPANのスマートフォン版ホーム画面のどこそこにあるリンクからページに飛ぶ、といった方法は書かれていなかった。

これには、正直驚いてしまった。前掲の②であれだけ自信たっぷりと「文芸ファン以外に偶然届く=誤配」を強調していたにも拘わらず、どう考えても現状では、最初からその連載をスマホで読もうと目的のページを探しでもしない限りそこに辿り着けないのである。

或いは僕がリンクを見逃がしているのだろうか。しかしそうだとしても、最初からそのページを探している人間ですら見落とすぐらいに目立たないところにリンクが設定されているということである。9月12日に改めてYahoo! JAPANのスマートフォン版を開いてみたが同じ結果であった。

ここにおいて、前掲の②が強調していた「文芸ファン以外に偶然届く=誤配」の可能性は特別機能してないらしいということが明らかになった。これではもう文芸ファンしかまともに反応することが出来ない企画である。まだSNSの告知のほうがよっぽど誤配されている。こうなるといよいよ企画の目新しさは失われてしまうではないか!

……もしホーム画面からのリンクが何処かで見つかったらなら、是非とも御一報ください。

まとめ

さてここまでは比較的具体的な例を挙げつつ述べてきましたが、後編では前掲の②の記事について、ちょっと筆者自身の主観を強く交えつつ語っていこうと思います。興味のある方は続けてお読みください。

 

後編はこちら→「文芸誌連載小説のスマホ無料公開」から考える純文学の「流通」について【後編】