「文芸誌連載小説のスマホ無料公開」から考える純文学の「流通」について【後編】

 

※前編はこちら→「文芸誌連載小説のスマホ無料公開」から考える純文学の「流通」について【前編】

 

さて、これからの文章を読むにあたっては、改めて前編でも紹介した以下の記事を読んで頂きたいと思う。

BUZZFEED NEWS『なぜ純文学をヤフーに流すのか? 『新潮』編集長が語る文学、新たな挑戦』
https://www.buzzfeed.com/jp/satoruishido/shincho?utm_term=.gp9ZDKbKk#.ceeoeWOWz

これは新潮の編集長のインタビューに記事の書き手の意見を織り交ぜつつ構成されている。僕が決定的に今回の企画に対して「今頃なの?」と首を傾げてしまったのは、この記事における文学ないしは純文学の語り方に強い違和感を覚えたからというのがある。これについてちょっと述べてみたい。

この記事では「文学の力」なるものの例として大岡昇平の『野火』が60年後に映画化されたことを挙げている。時間を超えて強いメッセージを後世に伝えることをして「文学の力」としている。そして現代でも作家達の文学的想像力は衰えていないのだと……しかしちょっと待ってほしい。

もし時間を超えて強いメッセージを後世に伝えるのが「文学の力」だというのなら、一体『野火』のように六十年後になって映画化されるような現代の文学作品というのは、この十年や二十年でどれだけあっただろう? 原作版・映画版『この世界の片隅に』に匹敵するぐらいに末永く後世に影響を与えられる可能性がある文学作品というのはどれだけあっただろう? 時代を代表する名作として度々名前が挙がる『AKIRA』や『新世紀エヴァンゲリオン』や『リバーズ・エッジ』や『寄生獣』などといった漫画作品やアニメ作品に匹敵する文学作品はどれだけあっただろう? 一体僕等はいつまで村上春樹や村上龍にばかり頼り続けなければならないのだろう?

 

「文学の力」という表現の傲慢さ

僕は常々「文学の力」といった表現に傲慢を感じている。時代を代表する、後世に残る、強い影響力がある、読んでおくべき教養となる……これ等はもう現代においては、文学だけが負うべきものではなくなっているからだ。いわんやもう少し概念を絞って純文学ともなれば尚更である。この記事の前編で僕は、純文学の定義のアプローチとして「方法」「理念」「流通」の三つを挙げたが、この「文学の力」「文学的想像力」なるものは「方法」も「流通」も無化したうえでまさに純文学を「理念」から捉えようとするものだ。

しかし既に純文学以外にも、物語の強さ、物語の豊かな想像力を発揮して、時代を代表する名作として後世にまで多大な影響力を持った、強度の強いエンタメ小説や映画や漫画やアニメなどの他形態の作品だって充分に蓄積されている。いやそれどころか、原作漫画版・映画版『この世界の片隅に』のように、よっぽど同時代の純文学作品よりも遥かに強靭な想像力と物語の強度を持った名作が登場してすらいる。

純文学に必要なのは「文学の力」のような一時代前に通用していた「理念」に踏ん反り返ることではなく、同時代の『AKIRA』や『新世紀エヴァンゲリオン』や『寄生獣』や『リバーズ・エッジ』や、そして『この世界の片隅に』に匹敵するような、時代を代表するに足る強靭な物語を可能にするような新しい「方法」を育成すること、或いはそれをより強力に多くの人々に届けるための新しい「流通」を整備することであったはずだった。

勿論そういう試みは幾らかは為されていたはずである。しかし前掲のBUZZFEED NEWSの記事が「文学の力」なるもののために『野火』という非常に古い作品を持ち出さねばならなかったということ、そして『野火』に匹敵するぐらい「文学の力」を体現しているであろう今現在の具体的な純文学作品を提示出来ていないことを鑑みれば、そういう試みは眼に見える形では成功していなかったのだろうという印象を受ける。結局この記事における「文学の力」は抽象的に宙に浮かざるをえないのである。

文学的想像力は衰えていないとこの記事は語る。しかしならば何故、純文学はこうも勢いがないのだろう。何故その想像力は世界に注目されなくなっていったのだろう。それは「文学の力」や「文学的想像力」といった抽象的な「理念」でばかり純文学を語り過ぎたせいで、本当に時代にクリティカルに切り込み、そして後世の人々にまで届くような純文学の「方法」や純文学の「流通」を捉え損ねているからではないのか。もし新たなる純文学の「方法」や純文学の「流通」に、ここで語られるような純文学の「理念」が邪魔になるというのなら、僕等は純文学なるものを一度根底からぶっ壊す必要すらあるかもしれない。

余りにも小さな一歩

≪スマホにたまたま流れてきたテキストを読んだことで、その人の心に決定的な影響を与える。それこそが文学の力だ≫なんて表現をこの2017年に通用させてはいけなかったのだ。そのずっと以前から、プロアマ問わず様々なジャンルの創作者達が、スマホでたまたま辿り着いた読者の心に決定的な影響を与えようと努力し続けてきたはずなのだから。そして実際、そのうちの幾つかは、よっぽど純文学よりもその目論見を成功させているはずなのだから。SNSのような誤配装置を用いてすら昨今の純文学は思ったようになかなか世界に決定的な影響を与えられなかったのである。

純文学だろうが漫画だろうがYouTubeの動画だろうが、尽くあらゆる創作物は何かしらを読者・鑑賞者に訴え掛ける「物語の力」を自ずから持っている。漫画の「物語の力」は純文学の「物語の力」に劣る、なんて証拠は何処にもない。ブコウスキーを読んでアメリカから帰らなくなった誰かがいるなら、とある名もなきアマチュアが書いた一枚のTwitter漫画に触発されてアメリカから帰らなくなった誰かだっているかもしれない。

そういう「物語の力」が与えうる可能性を殊更に「文学の力」へと強引に捻じ曲げて、それで純文学には特別な価値があるんだ、という「理念」に寄り掛かった言説がこの2017年に平気で罷り通る、そういう現状がこの記事には見事に反映されているように思われる。だがそんなのは、もうみんな御存じの通りとっくに時代錯誤である。

だからまず純文学が直面すべきは、スマホで純文学連載小説を無料公開するという今時ごく普通の企画ですら、未だに「文学の力」などという良く考えてみればぶっちゃけ何の意味も持たない「理念」を引っ張り出してこなければならない現状そものものである。こういう現状を打破するためには、純文学を漠然とした印象論ではなくちゃんと「方法」から「理念」から「流通」からそれぞれ吟味して、どれをどのように刷新してくべきなのかを問わねばならない。

確かに今回の案件は「流通」の問題を一歩だけ別のステージに進めたかもしれないが、しかし残念ながら余りにも小さい一歩である。しかも「文芸ファン以外に偶然届く=誤配」のフォーマットすらろくに整えていなかった疑惑が挙がっている。流石にこれは頭を抱えるしかない。

「文学の力」の二つの意味

この記事は一つ奇妙な捻じれを孕んでいる。実はこの捻じれこそがこの記事を些か読み解きにくくしている。お気付きだろうか。前掲の2章の間で、僕の述べている議論が微妙にズレしまっているのもそれが原因である。すなわち、この記事で挙げられる「文学の力」は途中で意味がすり替わっているのだ。

最初に「文学の力」として挙げられた『野火』は、未だに書店に行けば新潮文庫で買うことが出来るロングセラー作品である。60年前の小説でありながら2017年度の「新潮文庫の100冊」にも選ばれているぐらいに(※1)いわば時代を越えてみんな読んでおくべき教養の一つになっている。この『野火』が60年後に映画化されてそれなりの注目を集めたのは、言わずもがな『野火』が60年間も出版の「流通」に残り続けたという社会的な功績があるはずなのである。現在全く「流通」すらしていない過去の純文学作品で60年後に映画化されるなんてことは滅多にないし、万が一そうなっても世間の注目を集める可能性は極めて低いだろう。

※1→http://www.100satsu.com/

にも拘らず記事も後半に進むと、今度はブコウスキーを例に挙げて、部数には反映されなくても偶然届いた一人一人の個人に影響を与えられることを指して「文学の力」と説明してしまうのである。戦争文学の代表格として未だに読み継がれている『野火』と、ちくま文庫『パルプ』で伝説のカルト作家とまで紹介されている(※2)ブコウスキーとを並べて同じ「文学の力」と一纏めにするのはちょっと乱暴である。

※2→https://www.amazon.co.jp/dp/4480433473?tag=webchikuma06-22&ie=UTF8

ブコウスキーだと最近はちくま文庫での再刊行が進んでいてちょっとややこしくなるので、別の例に置き換えてみよう。例えば夏目漱石『こころ』や太宰治『人間失格』は未だに時代を超えて売れ続けている。漱石や太宰は国語の教科書や日本新教科書や、それこそ雑誌やテレビなどのメディアにも未だに登場し続ける。この社会的に存在感を放ち続けることをして「文学の力」と呼ぶのは分からないでもない。

一方で青空文庫を適当に漁っていたら偶然にも物凄くマイナーな小説家を見つけて、その小説に人生が変わるぐらいの感動を覚えるということもあるだろう。何十年も前に書かれて歴史に埋もれた小説が、時代を超えて何処かの誰かに届く、それもまた確かに「文学の力」かもしれない。

だがこの二つの「文学の力」は明らかに前提が違っている。前者の理屈に立てば、時代に忘れさられてかろうじて青空文庫の片隅にだけ残されたような小説家は「力がない」ということになりかねない。

この記事は、二つの異なる「文学の力」を何となく一緒なものとして扱ってしまう。最初は社会的に認められた純文学を挙げて社会へと通用する「文学の力」を語りつつ、しかしその後にブコウスキーのようなごく通好みの作家を引き合いに出して個人へと通用する「文学の力」を語り、この二つのズレに一向に自覚的にならない。

いや、純文学が今や『野火』のような強靭な作品を産み出せていないのではないか、という問題は後者の理屈で誤魔化し、偶然に誰かに届いて一人一人の個人に影響を与える可能性はむしろ文学が一歩遅れを取っているのではないか、という問題を前者の理屈で誤魔化す、そういう具合に純文学の現状から眼を背けているようにすら思ってしまうのだ。

誤配を試みるアマチュア純文学作家

このようにして純文学は「社会に影響を与えることが出来る大きな小説」でありながら「伝わる人間にさえ伝わればいい小さな小説」でもあるという、よくよく考えてみれば都合の良過ぎるものとして漠然と語られてしまう。それ故に当初は今回の企画で「量が質に転化する瞬間」が来ると豪語しておきながら、しかし記事の締めは≪スマホを経由して、どれだけ文学の力を人の心に届けることができるのか。本もスマホもその先にいるのは人間だ。/数字だけに還元されない価値が文学にはある。/なにかにつけ、数字や方法論ばかりが議論される、いまのインターネット業界にはない価値観そのものを創り出すことができるのか≫という、大事なのは量的な結果ではなくて一人一人の読者の心に響くことなのだみたいな消極的な結論に落ち着いてしまわねばならない。

数字だけに還元されない価値? 繰り返すがそれなら純文学に限らず、やっぱりありとあらゆる種類の創作者が、そういう「価値を理解してくれる人間に一人でも多く届け」という願いを込めてインターネットで活動し続けているはずではないか。誤配されるのを祈りながら頑張り続けているではないか。

大手出版社が2017年になるまでろくに純文学の「流通」をスマホに進出させなかったその足元では、有象無象のアマチュア純文学作家達が、細々とはいえ「物語の力」が誰かに届くことを信じてインターネットで活動し続けてきたはずなのである。大手出版社の純文学文芸誌に掲載されでもしない限りどうしたって多くの読者を獲得する見込みが薄いこの時代にあっても、数字だけに還元されない価値や想像力をこの世の何処かにいる誰かに届けようとしてきたはずなのである。にも拘らず彼等の活動を純文学の「流通」と見做さずに無視し続けてきたのは一体誰だったのか。いや未だに無視し続けるであろうは一体誰なのだろうか。

まとめ

≪インターネットの登場によって、世界中で小説だけでなく、フィクションの大変化というものが間近にあるような気がしてならないんですよ≫なんて言葉が2017年に出てくるのが日本文学の現状である。このフィクションの大変化というのが何を指すのかは分からないが、少なくとも僕等は二十世紀の終わりにはテレビアニメ『デジモンアドベンチャー』で(※3)デジタル世界が現実世界に繋がる・同化する・侵食するという壮大なフィクションに子供ながら熱中していたわけで、そもそもインターネットが登場してから随分と経つにも拘わらずこれまで一向にフィクションを更新してこなかったのは純文学ぐらいだったのではないのか? とすら思ってしまうのだ。間近にある? そんなもんとっくに到来しているだろう?

※3→https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%87%E3%82%B8%E3%83%A2%E3%83%B3%E3%82%A2%E3%83%89%E3%83%99%E3%83%B3%E3%83%81%E3%83%A3%E3%83%BC

僕は決して出版業界の専門的な知識や情報に通じているような人間ではないから、今回ここで書いた内容には色々と不備もあるかもしれない。何か重大な誤解や間違いがある場合には是非とも指摘して頂きたい。ただそれでも、僕のような素人が感じたこの「今頃なの?」という印象をこのように整理したうえで語るというのも一つ意味のあることだと信じたい。だから僕は容赦なく「今頃なの?」と首を傾げよう。この企画に、この記事に、そしてその背後に存在する古臭くて狭苦しい認識に首を傾げよう。つくづく今頃になって一体何を言ってるんだ? と首を傾げてやろう。

それで少しでも時代の流れが純文学の背中を蹴っ飛ばして、加速するにせよ転ぶにせよ、もう少し遠くまで思いっ切り押し出してくれることを、この言葉がネットを通じて誤配されて色んな人々に届くことを、この場を借りて細々と祈るばかりである。