ネット小説では純文学に居場所がないということを改めて知った

前回寄稿した『「文芸誌連載小説のスマホ無料公開」から考える純文学の「流通」について』という記事の特に前編が広く読まれたというのはとても有り難いことだった。というわけで前回同様に、今回もとある記事における純文学の「語り方」を検討することで純文学の現状を穿り出す、という遣り方をやってみたいと思う。というわけでまずは下記①の記事をお読み下さい。

①「書きたい人1000万人」ネット小説は鉱脈 投稿、倍々ゲーム 評価見ながら執筆も
https://mainichi.jp/articles/20170926/dde/012/040/003000c?utm_content=buffer22fe1

 この記事は「小説家になろう」について言及した記事である。それ故に、前回と違って今回はアマチュア小説書き達の状況についての考察となる。特にアマチュア純文学書きが知らず知らずに巻き込まれている純文学の「流通」状況をはっきりさせよう、というのがこの記事の目的である。

もしあなたがアマチュア小説書きで、かつライトノベルや長編エンタメを志向しているわけではない、もしかしたら純文学寄りの作風かもしれないという書き手であるならば、是非とも最後まで読んで頂きたいと思う。

 

ネット小説に「純文学」の居場所はないのか?

さて当該の①の記事であるが、冒頭の≪投稿サイト「小説家になろう」が人気だという≫という表現からして「何を今頃?」と思わなくもないし、また「なろう系」のような特徴的な傾向にも触れていないなど、色々と疑問が残る記事であるのは否めない。

先ほど確認したところ、やっぱり「小説家になろう」のTOPページにあるランキングは異世界ファンタジー小説に独占されていた。書籍出版化された作品の紹介ページを覗いてみれば、タイトルや表紙から鑑みる限りではあるが、詳しい定義は脇に置くにしてもライトノベルに類するような特定ジャンルが圧倒的に強いようだ。普通の一般書店ならば、異世界ファンタジーやライトノベルに限らず、恋愛小説や青春小説や時代小説やミステリ小説のような他のジャンルのエンタメ小説が沢山積まれている。それと比較すれば、この「小説家になろう」の総合ランキングや書籍化作品が明らかに特定ジャンルへ傾斜している状況は強く感じられる。そして多くの作者や読者がそのような特定ジャンルが強い場所として「小説家になろう」認識したうえで集まってきているであろうことは想像に難くない。

①の記事はあくまで純文学が見当たらない、としているだけで、そういう特定ジャンルの寡占状態にはこっそり眼を瞑ったうえで「小説家になろう」を肯定している。これもまた結構重要な一つの「語り方」の問題であろうと思う。

因みに『蓼食う本の虫』には、実は②のような記事が一年以上前に挙げられているのだ。ネット小説界隈の「流通」における寡占状態については、実は僕もまた、本稿の前編・後編でこっそり眼を瞑ったところでもある。いやこのような寡占状態が露骨に起きているからこそ、そういう状況を前にしてもなお未だに時代錯誤を続ける純文学の「流通」や「語り方」への疑念を、あのように書かねばならなかったともいえるのだが。


②「ネット小説はライトノベルにしか居場所がないということを改めて知った」
http://tadeku.net/391

投稿サイトと純文学に対する3人の意見

しかし、異世界ファンタジーやら転生ものやらライトノベルやら関しては殊更に知識の乏しい僕が、このようなことについてグダグダと語るのは野暮であろう。僕が注目したいのは、この記事の後半をがっつり使って「小説家になろう」と純文学の関係について触れている部分である。「小説家になろう」のような投稿サイトと純文学との連携の可能性について三人の関係者にインタビューをしたところ、三者三様で否定的な意見が出てきてしまった、というのが重要なのである。つまりこの記事は「ネット小説では純文学は居場所がないということを改めて知らしめて」しまったのである。

記事で紹介されている三人の意見は些か読み解きづらいのだけれども、三者の意見を要約すると次のようになると思われる。

  1. 純文学は所詮は文芸ジャーナリズムによって作られた制度であるから、投稿サイトで特別に「流通」させるようなものではない。
  2. 純文学のような「方法」は、短時間で読者を楽しませる投稿サイトの連載システムには向いていない。
  3. 純文学は市場原理で動いていないから絶対数が多くないし、また純文学は生き方や世界への視野において新しい発見を与えるといった「理念」を持ったジャンルなので、投稿サイトなんかからでは新しい領域が広がることはない。

解釈次第にもなってくるが、奇しくもこの三者はそれぞれ「流通」と「方法」と「理念」の三つの観点から投稿サイトと純文学との連携を否定してしまっているように思われる。それでいて、筆者本人は投稿サイトと純文学の連携に呑気なぐらい前向きな結論を述べて終わる。何とも奇妙な記事である。

ウェブ小説に詳しいライターの意見

さてここからは、例の如く「方法」「理念」「流通」の三つのカテゴリのことを念頭に入れて、三者の意見を一つ一つ検討していきたい。ただ如何せん、一体何を言いたいのか読み解きにくくて困ってしまう。これは発言者の責任というよりは、そのインタビューを記事に合わせて編集する筆者の要約力の問題であると思われるのだけれど、このような曖昧な「語り方」で本当に純文学が語れてしまって良いのかという状況への警鐘として敢えて厳しめに検討していこう。

一人目の意見はウェブ小説に詳しいライターによるものだ。

「純文学は日本だけの話。文芸ジャーナリズムを成立させるため、大衆文学と区別するために作った一制度にすぎない。純文学の新人賞を取っても出版されず、作家になれない人が多い。ネットに投稿する書き手はそれをよく見ています」と話す。純文学というジャンル分けを重視しない立場だ。

……この純文学が文芸ジャーナリズムから産まれた日本独自の制度に過ぎない、というのは僕も同意しよう。そして筆者による「ジャンル分けを重視しない」という注釈からして、この発言者は純文学が投稿サイトで独立した特別なジャンルとして「流通」することについて否定的である、とまでは言えると思う。

だがよく読んでみると、最後の「よく見ている」が完全に宙に浮いてしまっている。アマチュア作家達が「よく見ている」から、それで一体何なのだろう。よく見ているから純文学という制度を見限ってジャンルなどに縛られない個性的な作家達が投稿サイトに集まるだろう、とポジティブにも解釈出来る。しかし全く逆に、よく見ているから純文学という制度を見限ってみんな純文学のような作品を書かなくなるだろう、とネガティブにも解釈出来てしまう。結局「よく見ている」アマチュア作家達がそれでどう行動するだろうという説明がないので、これでは意味が断定出来ない。

すれ違う「方法」と「流通」

最初の筆者による質問は、人気作には純文学的な作品が見当たらないように思われるがどうか、であった。これを鑑みれば、それは作家にはなれない純文学なんて誰も書かないからだ、という返答のようにも思える。でも筆者による「純文学というジャンル分けを重視しない」という注釈からすると、そういう制度に縛られずに投稿サイトに集まるアマチュア作家達の可能性に言及しているようにも思われる。そもそも「投稿サイトの人気作には純文学的な作品が見当たらない」という問い掛けに対する結論が「純文学というジャンル分けは重要でない」というのは、些か質疑応答が破綻してやいないか?

これは要するに「方法」と「流通」の二つの定義軸が擦れ違っているのだと考えられる。そもそも最初の筆者による質問は「純文学的な印象を与えるような作品が見当たらない」というもの、すなわち純文学の「方法」で書かれていると思わしき作品が見当たらないのは何故か、少なくとも人気作にはなっていないのは何故か、ということであったはずだ。つまり筆者は投稿サイトという場所における純文学の「方法」と「流通」の関係について尋ねたのだと言える。それに対して、純文学など作られた制度に過ぎない、純文学なんてジャンル分けは意味がないと「方法」をすっかり無化して「流通」のみに特化した解答を置いても、これではそもそも質問に何も答えられていない。

「よく見ている」が宙に浮いてしまって意味が判断出来ない理由を突き詰めると、この一段落が純文学の「方法」と「流通」を区別して語れていないという問題に突き当たる。一体「よく見ている」アマチュア作家達はどうするというのだろう。作家になれない純文学の「方法」なんて見限ってしまうのだろうか。それとも作り物に過ぎない純文学の「流通」だけを見限って、投稿サイトという新たな場所で「方法」は維持するのだろうか。結局そこが本来は一番重要なところではないのか? このような質疑応答の破綻の原因が、発言者であるライターが実際にこのようにズレた解答をしたせいなのか、それとも筆者が記事に纏める際にこのようにズラしてしまったせいなのか、僕には判断を付けることは出来ない。

ネット出身作家の意見

 
さて次に進もう。二人目の意見はネット出身の作家によるものである。

純文学を「文字による思想、芸術表現」と定義し、「文芸誌の賞というゲートは、投稿サイトと競合せずに残り続ける」と言う。「短時間で楽しませる投稿サイトの連載スタイルは、タイトルの意味が最後の最後にわかるような純文学には向かない」からだ。

……ここでは思想だの芸術だの「理念」としての純文学を語っているようにも思われるが、とはいえ今回は投稿サイトの連載スタイルは純文学の目指すアプローチには向かない、という部分を拾って「方法」の問題として一応理解しておこう。

ただ、これもまた深く読み込んでみるとあやふやである。純文学が「文字による思想、芸術表現」だからといって、どうして文芸誌新人賞が投稿サイトに優越する理由になるのだろう? 思想や芸術を表現しているからといって、何故それが投稿サイトには向いていないということになるのだろう? そして投稿サイトで連載されている小説は短時間で読者を楽しめる「方法」に特化している……という解釈もまた、そもそも先に述べたように「小説家になろう」のような大手投稿サイトで起こっている異世界ファンタジーやライトノベルのような特定ジャンルの寡占状態が暗黙の了解になっているようにも思われる。となればむしろ重要なのは、純文学の「方法」で書かれた作品でも「流通」出来るような、他ジャンルの寡占状態に圧殺されないような独立性を持ったプラットフォームを作ることになるはずなのだが、そういうオルタナティブへの志向が特に考慮されることはない。

文學界編集長による意見

さて三人目の意見は、なんと文學界編集長によるものだ。文學界といえば芥川賞を主宰する文芸春秋の雑誌なので、芥川賞の候補や受賞作になり易いという有名な噂があるぐらいである。因みに詳しくは下記の③の記事をどうぞご覧下さい。そんな日本の純文学事情の超重要人物が何を語るかと思えば、これがまたなかなか衝撃的なものであった。

「投稿サイトが純文学の領域を押し広げるとは思えない」と話す。やはり、純文学というジャンルの登竜門にはなれないのか。「ライトノベルやエンタメとは違い、私たちが携わる純文学には、生き方でも世界への視野でも新しい発見がある点に、読む面白さがあります。ストーリーだけではないんです。どちらかと言えばノンフィクションに近いジャンルだと私は見ています。芸人さんがライブで客の反応をうかがうように、読者の反応がすぐにわかるのがサイトの利点ですが(領域を奪われる)脅威は感じません。エンタメ小説を目指す人がクラスに2、3人とすれば、純文学は全校で1人くらい。市場原理で動く世界ではないので絶対数も少ないんです」

③芥川賞候補作品と掲載雑誌の関係を調べてみた
http://atohs.hatenablog.com/entry/akutagawa-zasshi

純文学はストーリーだけではない、ノンフィクションに近い、というあたりは「方法」の問題かもしれないが、それよりも「生き方でも世界への視野でも新しい発見がある」とか「市場原理で動く世界ではない」という抽象的な発言からしてこれは「理念」としての純文学について語っていると考えたい。

そしてそんな抽象的な「理念」を主たる理由として、投稿サイトでは純文学の領域は広がらないと語る……これが大手純文学文芸誌の編集長の発言であるということを踏まえれば、純文学という分野においては投稿サイトは文芸誌には敵わない、と暗に断言しているわけである。

純文学雑誌の傲慢

この記事全体の結論として、筆者は呑気に

サイトに編集者が関わり、書き手を支える余地が生まれれば、純文学の分野でも、投稿サイトが伸びていく可能性はありそうだ

と述べている。この結論が逆説的に示しているのは、まさにその直前でインタビューをしている文学界編集長を含めて、現時点で投稿サイトと純文学の連携に乗り出そうとしている大手出版社はいないという事実である。もしも筆者が皮肉としてこのように書いたのだとしたら感服である。日本の純文学事情を事実上牛耳っている大手純文学文芸誌の、その一角を統べる編集長が、投稿サイトから新しい純文学の芽を育てる気はないと宣言したのだ!

ただ、ここにおける純文学文芸誌の優越は、この記事を読む限りではなんの確証も示されていない。そもそも何故、投稿サイトでは「生き方でも世界への視野でも新しい発見がある」ような小説は出てこないということになるのだろうか? 純文学はストーリーを重視しない、ノンフィクションに近い、というが、別に投稿サイトでストーリーを重視しないノンフィクションを書いてもいいではないか。例えば漫画分野になってしまうが、永田カビ『さみしすぎてレズ風俗に行きましたレポ』という漫画作品は、本人の苦難の人生を赤裸々に抉り出し、僕等には想像もつかなかったような苛烈で残酷な「世界の見え方」を見事に表現した作品であった。そしてこれはpixivで公開されたものが閲覧数480万を集める評判となって書籍化されたものなのだ。因みに『このマンガがすごい! 2017』のオンナ編の第三位にも選ばれている。

己の人生を赤裸々に曝け出して評判を集めた漫画が、まさに投稿サイトを経由して表舞台に登場するような時代なのである。ならば純文学文芸誌に比べて「生き方でも世界への視野でも新しい発見がある」「ノンフィクションに近い」作品が投稿サイトではろくに現れるまい、などという傲慢は時代遅れといって差し支えあるまい。繰り返すがこれを述べたのは文學界編集長である。


④『さびしすぎてレズ風俗に行きましたレポ』永田カビの最新読切が話題に『ヒバナ』3月号
https://ddnavi.com/news/352381/a/

純文学の領域を広げるために

さらに

市場原理で動く世界ではないので絶対数も少ないんです

に到っては、これは僕にはとんだ自爆としか思えなかった。投稿サイトでは純文学の領域は広がらない、という理由の一つに「書き手の絶対数の少なさ」を挙げてしまったら、全く同じ理由で、書き手の絶対数がエンタメに比べてもずっと少ない純文学文芸誌だってもうこれ以降は純文学の領域を広げることは出来ない……ということになってしまわないか? さもなくば、ただでさえ絶対数の少ない書き手のなかにいる選ばれた才能は投稿サイトなどに現れるはずがない、そういう書き手は大手純文学新人賞にこそのみ現れるのだ、という慢心に浸っているとしか考えられない。

大手純文学文芸誌文学や芥川賞文学ともいうべき保守的な領域から取り残された個性的な才能が、致し方なく在野で新しい領域をどんどんと拡大させようと頑張っている……などという可能性は考慮されたりはしない。そして「生き方でも世界への視野でも新しい発見が」あってかつ「市場原理で動く世界ではない」ところに生じる純文学の優れた書き手が、何故大手純文学文芸誌には集まって、何故投稿サイトには集まらないと言えるのか、少なくともこの記事には何の説明もされていない。強いて言えば純文学の「理念」は大手純文学文芸誌が司るものであって、それ以外の場所に現れる作品に「理念」なんてあるはずがない、という強い自負心が感じられるだけだ。文學界編集長ともあろう重要な人間が、純文学の「流通」や「方法」などは置いといて取り敢えず「理念」だけで文芸誌の優越を押し通してしまうのだ。

あくまでこれは記事の筆者による要約なので、実際に編集長がどのような発言をしたのかは何とも言えない。しかしたとえ筆者のバイアスがあったと考慮してみたとしても、文學界編集長はこのような態度である、ということが毎日新聞の記事によって一般に公開されたという事実は間違いなく残る。これが現代日本文学の一つの状況である。僕等はこれをいい加減に自覚しなければならない。

漫画と純文学の「語り」の違い

ちょっと話題は変わるが、このあいだ『コミティア30thクロニクル』全三巻を入手した。

コミティアで販売された同人作品からセレクトされた傑作選ともいうべき分厚い冊子であるが、これがまた、現役で活躍するプロ漫画家の同人作品が沢山収録されていて実に豪華なラインナップになっている。勿論内容的にも読み応えは充分であるが、この第二巻の「COMITIAヒストリー 第2回」に非常に興味深い記述があるので引用させて頂きたい。

(注:コミティアでは最大80誌近く、日本のほぼ全てのマンガ系出版社が「出張マンガ編集部」に出展していることについて)これはこの10年の間に出版不況、マンガ業界不況が言われ、プロ志望者の持込が激減したことが大きいだろう。背景にはインターネットの普及により、WEB上での作品発表が容易になり、わざわざ苦労してプロのマンガ家を目指さなくても…という認識が拡大した一面もある。(中略)こうした時代にマンガの編集者も、種を撒いて収穫する農耕民族から、獲物を狩りにゆく狩猟民族へ、意識改革が迫られている。かつてのように漫然と会社で待ち構えているわけにはいかず、コミティアの「出張マンガ編集部」は、アマチュアの描き手の集まりやすい場所での彼らの前線基地として利用されているのだろう。(中略)作家にとっては、同人誌も商業誌も、作品を発表する選択肢の一つなのだ

勿論のこと、漫画分野と小説分野、漫画分野と純文学分野とを単純に比較してしまうのは迂闊である。それぞれの分野には特有の歴史や環境があってそれを無化することは出来ない。しかし先程の文學界編集長の発言とこれを並べると、少なくとも純文学分野においては未だに「獲物を狩りにゆく」つもりは特にないらしい、という意識が垣間見えてしまうのだ。そして「ジャンル分けを重視しない立場」にある一人目のライターも、またネット小説出身の二人目の作家も、投稿サイトという空間にはきっと獲物がいるはずだ、それを出版社が積極的に狩りに行くのは有意義なことだ、とは言ってくれなかった。そういう可能性に期待を掛けることも、そういう可能性を広げる方策を提示することもない。

漫画分野と純文学分野では、これぐらいに「語り方」が違ってしまっている。そしてこんな「語り方」を許容するための方便として「思想」だの「芸術」だの「生き方」だの「世界への視野」だの「市場原理では動かない」だのの「理念」的な表現が使われる。しかし、それで結局何が産まれたのだろう?

純文学は草の根を支えるつもりがあるのか?

さて、この記事の筆者はインタビューの要約力には些か難があるかもしれないとは書いたけど、しかしさらっと非常に重要なことを最後に書き残している。

サイトに編集者が関わり、書き手を支える余地が生まれれば、純文学の分野でも、投稿サイトが伸びていく可能性はありそうだ

……純文学を扱う出版社の編集者達は、そもそもアマチュア純文学作家達を「支える」つもりはあるのだろうか? 大手純文学文芸誌の新人賞によってごく一握りまで選別された純文学以外を「支える」つもりはあるのだろうか?

純文学の流通を司る人達が最初から草の根を「支える」つもりがないのに、それで「思想」だの「芸術」だの「生き方」だの「世界への視野」だの「市場原理では動かない」だの、大袈裟極まりない慢心に満ちた「理念」的な表現が使われ続けているのだとしたら、それこそ純文学なるものは一度根底からぶっ壊される必要があっても仕方がないとすら思う。

僕は何度も「流通」という問題を語り続けてきたが、そもそも純文学分野に関しては「流通」のためのプラットフォームが極めて限定されてしまっているのである。投稿サイトが新しい「流通」の場として拡大していく可能性は三者三様に否定されてしまった。文学フリマという空間も、そこで純文学エリアにブースを出している人間の実感として、決して「流通」の場として強力な機能を果たしているとは言えない。出版社主導による純文学のweb無料公開は2017年になってようやく最初の一歩という段階である。結局のところは純文学を志す書き手達は、プロにせよアマチュアにせよ、大手純文学文芸誌というほぼ唯一といって良い確固たる「流通」経路に最終的には屈するしかなくなってしまっている。さもなくば純文学というジャンルそのものを見限って諦めてしまうしかない。

作品とジャンル・フォーマット

プラットフォームが限定されてしまっているというのは、実はこれは純文学だけの問題ではない。

僕の大学時代の文芸部にM先輩という方がいらっしゃった。広範で豊富な知識を持ち、創作論の造詣も深く、かつ旺盛な創作意欲の持ち主で、当時の文芸部で最も後輩達の尊敬を集めていた先輩だった。しかし先輩は長編小説を書く能力だって持ち合わせていたにもかかわらず……実際に新人賞に応募して選考を通過していくだけの実力も持っていたのだそうだ……美しく完成されたショートショートや短編小説こそを極めたいという道を選んでしまったがために、そもそもショートショートや短編小説では作家デビュー出来る新人賞が日本にはほぼ存在しない、という重大なジレンマに陥ってしまっていた。大学を卒業してから先輩が何かしら文芸活動を続けてらっしゃるという音沙汰を一向に聞かない。文学フリマでもお会い出来ていない。

新人賞を通じてデビューするには、それが要求するジャンルやフォーマットに従わなければならない。例えばエンタメ小説でデビューするなら、当たり前のように原稿用紙200枚300枚の長編小説を書かねばならないという事実がある。ではそもそも、自分の属するような、或いは目指しているような小説に適した新人賞がなかったとしたら、一体どうやって作家デビューすればいいのだろう?

漫画分野の場合は、アフタヌーン四季賞のような年四度開催でジャンルも規定枚数も制限がない自由度が極めて高い新人賞がある。そして最近では、先に挙げた永田カビのようにpixivに投稿した作品が注目されて商業出版されたり、今や『ダンジョン飯』でベストセラー作家となった九井諒子のように個人サイトやコミティアなどに発表された同人作品で商業単行本デビューを果たした漫画家もいる。鬼龍駿河というとあるマイナー漫画家は、新人賞の投稿では落選が続いていたが、同人誌即売会で直接編集者に声を掛けられてそのまま『楽園』という雑誌での連載デビューに漕ぎ着けたのだという(『乙女ループ』後書きより)……因みに僕も三年近く参加している文学フリマだが、出版社の編集者が未知なる才能を探してうろついているとか、それに声を掛けられてデビューに到ったとか、そんな噂は未だ一度として聞いたことはない。

⑤漫画セグメント分析第2弾!編集長が全作品担当!?…恋愛系コミック最先端『楽園 Le Paradis』掲載作品紹介!
http://honz.jp/articles/-/42554

⑥中村明日美子×沙村広明×かずまこを×木尾士目 座談会
http://natalie.mu/comic/pp/rakuen

[……蛇足だが、この『楽園』編集長の飯田氏というのがとても興味深い人物である。鬼龍駿河の他にも、僕が個人的に敬愛しているシギサワカヤという漫画家が、アマチュア時代に同人誌即売会で声を掛けられたのもどうやらこの飯田氏であるらしい(『箱舟の行方』後書きより)……また以前一推しとして紹介した『スペシャル』の平方イコルスンもまた、アマチュア時代に参加した合同誌をこの飯田氏に読まれたのがきっかけで『楽園』でデビューを果たしている(大森望・日下三蔵編『年刊日本SF傑作選 極光星群』参照)……飯田氏はかなりアマチュアの才能の発掘に積極的な編集者であるらしいのだが、こういう編集者は文芸界隈にはどれだけいるのだろう。ましてや純文学界隈には?]

アマチュア純文学作家に問う

小説分野だって確かに、新人賞を通さずに小説投稿サイトで注目を集めてデビューする……という可能性は確かに高まっている。しかし先に述べたように、投稿サイトでそもそも注目を受けることが出来るジャンルが限られている、という現状はどうも否定し難い。M先輩のショートショートや短編小説が幾ら優れたものであっても、しかし投稿サイトで注目を集めて商業書籍化されるという未来があるかといえばやはり怪しいと言わざるを得ない。独特の想像力に支えられたショートショートや短編を得意としていた九井諒子が、もしも仮にそれを表現する媒体として漫画ではなく小説を選んでいたなら、もしかしたらそもそもデビューすら出来ず未だに在野に居続けていたかもしれない。いやそういう不遇の才能が今や小説分野の在野にはゴロゴロしているかもしれない。

そして少なくとも純文学に関しては、投稿サイトに詳しいライター、ネット小説出身の作家、文学界編集長の三者からそれぞれ投稿サイトにおける可能性を否定されてしまったのだ。アマチュア純文学作家達はこのような状況を本格的に自覚する必要がある。大手純文学文芸誌に掲載されるざるは純文学にあらず。投稿サイトにはそもそも純文学なんていうジャンルは流通しない。投稿サイトには「思想」的で「芸術」的な純文学が注目されるなんてことはありえない。投稿サイトには「生き方でも世界への視野でも新しい発見」をもたらすような純文学が出てくることなんてありえない。だから別に投稿サイトと純文学が連携するような未来を踏まえてこれから何かやろうと計画する必要は特にない。そういう何だか奇妙な理屈がこうも平然と罷り通ってしまっている。まさに今現在、罷り通り続けている。

では皆さんに問いたい。特にアマチュア純文学の書き手の皆さんに問いたい。

これでいいのか?

純文学のこれからのために

勿論、小説分野ないし純文学分野の「流通」の現状については、僕の知らない事情であったり、或いは新しい動きであったりがあると思う。日々膨大な新刊が発行され続けているエンタメ小説の作家達がどのような経緯でデビューを果たしているのか、そのあたりをちゃんと調べて把握しているわけでもない。純文学にしたって、純文学文芸誌主導の同人誌批評みたいなものも未だに存在してて、文芸同人誌のなかから優秀な作品が大手純文学文芸誌に転載される場合もあるという話は聞いている。また『食べるのがおそい』「惑星と口笛ブックス」の西崎憲氏や、本屋発の文芸誌『草獅子』を発刊した双子のライオン堂のように、現状の純文学の「流通」のオルタナティブとなるような活動が実際に進んでいるという話も聞く。①の記事の最後で筆者が呑気に指摘したように、ふと何処かの編集者が思い立って、投稿サイトや個人サイトや文学フリマから純文学の新しい才能を探そうと何かしらの運動を起こす可能性もまだゼロではない。とはいえ、まだ眼に見える程に新しい「流通」の未来が見えては来ないのだけれども。

そして現時点で、僕自身が何かこの現状にコミット出来るような力は持ち合わせていない。何かしら新しい運動を起こすような活動力がある人間ではないからだ。僕はあくまでも在野のなかでもさらに片隅の片隅にいる凡庸な人間として、少しでも現状が変わっていくための僅かなりの一助となれればと思って、無知無謀を覚悟でこのような記事を書かせて頂いている。

純文学を守るにせよ壊すにせよ改めるにせよ、そろそろ僕等は自分達の「方法」と「理念」と「流通」をそれぞれ更新する必要があるだろう。僕等というのは当然に「流通」に直接関われる一部の人間などではなく、こうやって在野で何となく燻ぶり続けている僕達自身のことだ。こんな具合に純文学の「語り方」を詳しくしつこく検討してみることによって、皆様がより深く「純文学とは何か」「そして純文学はこれからどうすればいいのか」を積極的に考えて頂けることを切に祈って、本稿を終了致します。ではでは。

⑦文学ムック たべるのがおそい vol.4
http://www.tabeoso.jp/


⑧【本屋発の文芸誌】「草獅子」創刊!!
http://liondo.jp/?p=1175

さいごに

……最後にまた一つ、蛇足までにこんな記事を挙げておきます。下記⑨の記事は小説の「流通」の危機について熱く語っているインタビューなのだけれど、三ページ目でやっぱり「小説の力」なる言葉が登場して、もっともらしくはあるけれど何だか抽象的で「理念」的なことが語られてしまっている。

純文学だけでなくエンタメも含めた小説分野全体が、小説は他の媒体に比べて優位に立つという「理念」を立ててその存在価値を主張しないと「流通」の未来を語れない、という状況がこの記事からは露骨に透けて出てしまっている。最早エンタメ小説すら「面白ければ良い」で押し通すことが出来なくなっているようだ。むしろ僕はこんな抽象的な「理念」に頼らねばならなくなってしまった小説分野の脆弱さを思い知るばかりである。

小説は、なにも存在しない空間に、言葉だけで新たな世界を構築していく。読者はそれを追うことで、想像力も思考力も鍛えられる。一冊の本を読み、じっくり考えることで忍耐力も身につく。これこそが、小説の力なんですよ

⑨「小説が消滅するかも」17万部作家が、いま抱いている危惧
http://gendai.ismedia.jp/articles/-/53075