俺の妹はライトノベルの定義ができない

ライトノベルの定義については、これまでさまざまな意見が取り交わされてきた。しかし、ライトノベルの定義が何であるのかにたいする決定的な解答と呼べるものは、いまのところ見当たらない。ライトノベルの定義の候補はいろいろと提出されたものの、どれも一長一短があり、定義としてもっとも相応しいものはどれなのかが分からないのである。

だが、そもそもライトノベルの定義ということは可能なのであろうか。もしかすると、誰もが納得するようなライトノベルの定義を作ることなど、最初から無理な要求だったのではなかろうか。

本稿の目的は、この謎を解き明かすことにある。ライトノベルの定義はできるのかできないのか、できるとすればどのような仕方で可能なのか。これをはっきりさせるのがわれわれの目的である。したがって、本稿はライトノベルの定義それじたいを明らかにするものではない。しかしライトノベルの定義可能性を論ずるうちに、しだいにライトノベルの定義とは何であるのかにたいする答えも見えてくることであろう。

結論からさきに言うと、言葉の分析によって本質を同定しようとする素朴なやりかたでは、ライトノベルを定義することは絶対に不可能である。しかし、理論的定義というやりかたを採用すれば、ライトノベルを定義することは可能となる。このことの意味を理解するために、まずわれわれは問題の背景から順を追って確認してゆく必要がある。

問題の背景

ライトノベルという語が生まれて以来、ライトノベルの定義ということはたびたび問題になってきたと言ってよいであろう。実際ネット上でも、ライトノベルの定義を巡って何度か論争が生じている。それにもかかわらず、現在に至るまでライトノベルの定義は明らかになっていない。これは不思議なことである。

むろん、ライトノベルの定義の候補じたいはこれまでたくさん提案されてきた。たとえば、「読者がライトノベルだと思ったものがライトノベルである」「ライトノベルのレーベルから出版されたものがライトノベルである」など、定義の候補は数多く提案されてきたのである。

ところが、これらの定義候補のうち、どの定義が最も適切なのかは判断しがたい。というのも、どの定義にも長所と短所があり、そのためどの定義がライトノベルの定義に相応しいのか最終的な判断がつかないからだ。

こうしてみると、ライトノベルの定義ということは不可能なのではないかという疑念さえ生じてくる。では、ライトノベルの定義は不可能なのであろうか、それともわれわれの努力しだいでは可能なのであろうか。

この問題を考えるさいに重要なことは、定義の目的を明確化することである。つまり、なぜライトノベルの定義を求めようとするのかを明らかにしておく必要がある。というのも、そもそもわれわれはよほどのことがないかぎり、言葉の定義というものを求めたりはしないからだ。

高校の通学途中に出くわした友人に、「おはよう! ところで『学校』の定義って何だっけ?」などと尋ねられでもしたならば、こちらとしては狼狽するほかないであろう。しかも、よく考えてみると、われわれは「学校」の定義など知らずとも、「学校」という言葉を正しく使用することができるのである。つまり、われわれはふだん、言葉の定義を尋ねることはないし、また尋ねる必要もないことになる。

それゆえ、ライトノベルの定義が求められたのには、相応の目的があるはずである。その目的とはおそらく、ライトノベルについて議論をするためであったと考えられる。

ライトノベルの何を議論するにも、そもそもライトノベルの定義が分からなければ議論のしようがない、と考えられたのも無理はなかろう。ライトノベルを巡る問題は数多い。「ライトノベルは文学たりうるか」「ライトノベルは読解力を向上させるか、それともさせないか」「『ハリー・ポッター』はライトノベルか否か」。しかしこれらの問題に答えるためには、まずライトノベルとは何であるのか、それをはっきりとさせてからでなければ議論のしようがないではないか。このようにしてライトノベルの定義が求められたのだと推察される。

ライトノベルに本質はあるか

本質を見出すことの困難

ライトノベルについて議論するために必要な定義とは、どのようなものか。それは、ライトノベルであるものとそうでないものとを判別する基準を示してくれるような定義であろう。ライトノベルは、児童文学とも純文学とも異なり、SFやミステリとも異なる独自のジャンルであると考えられている。では具体的に、ライトノベルと純文学との違いは何か。ライトノベルだけがもち、純文学はもたない性質は何か。こういったものが、われわれの求めるライトノベルの定義ということである。

これを言い換えれば、われわれが求めているのは「ライトノベルの本質を表している定義」だということになる。「本質」というのは哲学用語で、「ある対象が当の対象であるためにもっていなければならない性質」※1のことである。噛み砕いて言えば、「Xの本質」とは、以下の二点を満たすような性質のことを言う(ちょっと噛み砕きすぎているかもしれないが、ここでは哲学用語を正確に解説することは目指されていないので、ご容赦願いたい)。

  • Xであれば必ずもっていなければならない性質(普遍性)。
  • Xでないものはもちえないような性質(固有性)。

ようするに、Xであるかどうかを判別する基準となるような性質ということである。よって、基準として機能しないような定義はわれわれの求める定義ではないことになる。

定義といってもいろいろあり、基準として機能しない定義は山ほどある。たとえば辞書的定義とは、辞書に載っている定義のことである。これは言葉が社会でどのように使われているかを調査し、その最大公約数的な意味を報告するという類の定義である。しかしわれわれが知りたいのは「ライトノベル」の最大公約数的な意味ではないはずだ。「ライトノベル」の最大公約数的な意味ということであれば、「マンガ的あるいはアニメ的なイラストが添付された、中高生を主要読者とするエンターテインメント小説」※2とでもすれば済む話であろう。だがこのような定義はいささか曖昧であり、基準としての役割を果たすものではない。ライトノベルだからといって必ずしも挿絵が添付されているわけでもない(普遍性を満たさない)。したがって、辞書的定義は本質を表現しておらず、それゆえ辞書的定義はわれわれの求める定義ではないと分かる。

ライトノベルの定義の候補として有名なものに、「レーベル説」がある。これは、「ライトノベルとは、ライトノベルのレーベルから出版されている小説である」と定義するのが正しいとする立場である。だが、この定義もわれわれの求める定義ではないことは明らかである。というのも、西尾維新という反例が挙げられるからだ。西尾維新の小説は一般にライトノベルと見做されるにもかかわらず、ライトノベルのレーベルから出版されてはいないのである(普遍性を満たさない)。あるいは、森鷗外の小説が何かの拍子でライトノベルのレーベルから出版されたとしよう。そうすると、森鷗外の小説はラノベだということになるとでも言うのであろうか。これはあまりにも不合理な帰結である(固有性を満たさない)。

ライトノベルの定義の候補としては、ほかにもいろいろ考えられる。しかしどの定義も、本質を同定することには失敗しているように思われる(詳しくは「『ライトノベル』と『一般小説』の違いってなんだろう?

このように考えてゆくと、ライトノベルの定義など不可能なのではないかと疑念が生じてくるのも無理からぬことである。しかし、適切なライトノベルの定義ができていないのは、たんにわれわれの努力不足によるのではないか、という疑いは残る。この疑いを除去し、ほんとうに、原理的にライトノベルの本質を特定することはできないのだということの証拠をわれわれは提示したい。

ライトノベルと家族的類似性

ライトノベルの本質が明確にならないのは、われわれの努力不足ではない。原理的に、ライトノベルかどうか判別する基準を見出すことはできないのである。これを示すのが家族的類似性※3というアイディアである。

「ゲーム」という概念は、家族的類似性をもつと言われる。ゲームと呼ばれるものはきわめて多様である。ぷよぷよ、トランプのゲーム、チェス・ゲーム、サッカーの試合、これらはすべてゲームと呼ばれる。だが、これらすべてが共有する「ゲーム性」のようなものはない。つまり、「ゲーム」という概念には本質がなく、個々のゲームどうしはただ家族のように似通っているだけである。これが家族的類似性ということの意味である。

「ライトノベル」という概念も、家族的類似性をもつ概念である可能性が高い。このことを示唆するのが、「ライトノベル度診断表」である。『ライトノベル☆めった斬り!』において大森望らは、「ライトノベルとは何であるか」という問いは程度問題であると主張している。つまり、ある小説がライトノベルであるかどうかは、ライトノベル度という点数によって測定されるとし、点数が高ければ高いほど「よりライトノベルらしい」と考えたのである。これは、ライトノベルという概念を家族的類似性をもつものとして捉えようという試みにほかならない。

「ライトノベル度診断表」を見れば分かるとおり、この診断表はかなり的を射ていると思われる。だが、われわれはこの診断表を、「ライトノベルの定義」であるとして受け入れてよいのであろうか。そうではないと私は考える。ライトノベルの定義の探求は、これで終わったわけではない。

理論的定義の可能性

「ライトノベル度診断表」では満足できない理由とは何か。それは、この診断表は、ライトノベルの定義の探求において出発点でしかないと思われるからである。

「ライトノベル度診断表」は、「どういう性質をもつ小説がライトノベルと呼ばれやすいか」を示しているにすぎない。「どういう性質をもつ小説がライトノベルと呼ばれるべきか」は示していないのである。

このことは生物学での事例を考えてみると分かりやすい。たとえば、「鳥」という概念について考えてみよう。生物学という学問が発達する以前の大昔においては、「鳥」は、いまよりもっと曖昧な概念であったろう。「鳥」は、①くちばしをもつ、②翼をもつ、③飛ぶ、といった特徴を備えていればいるほど「鳥」度が高くなる、そのような概念であったはずである(「鳥」と言われて思い浮かべる典型例は、スズメやカラスやハトのような動物であろう)。したがって、スズメやカラスに比べて、ダチョウやペンギンはあまり「鳥」度が高くない動物である。逆に、ある意味ではコウモリも翼をもち飛ぶという点では「鳥」っぽい。カモノハシもくちばしをもつから、多少は「鳥」っぽい。

だがわれわれは、「鳥」をそのような曖昧な概念のままでよしとしなかった。「鳥」を調べるうち、ペンギンやダチョウは、スズメやカラスと骨格が共通していたり、よく似た遺伝子をもっていたりということが判明してくる。逆にコウモリやカモノハシは、スズメやカラスの仲間とするには骨格や遺伝子が違いすぎる。このように、生物学的な調査によって、われわれは「鳥」という概念を改定してきたはずである。概念を改訂しさえすれば、「鳥とは、これこれの遺伝子をもつ動物である」と定義できる道も見えてくる。

この例から分かるように、概念というものは、具体的な調査を踏まえて再定義されるものなのである。日常的な概念というものはしばしば曖昧であるし、ふつうに日常生活を営むうえでは曖昧なままでも何の問題もない。だが、知的な議論をおこなううえでは、そのような曖昧さは除去されねばならない。

「ライトノベル」という語も再定義する余地が残されている。むろん、ライトノベルの場合は科学的な調査というわけにはゆかない。だが、ライトノベルを取り巻く理論というものはあるはずである。たとえば文学理論がそうである。ライトノベル度が高そうな小説を具体的に吟味してゆくうちに、どのような小説がライトノベルと呼ばれるに相応しいかが分かってくるはずである。

理論と観察に即して概念の再定義をすることを、「理論的定義」と言う※4。「鳥」の場合は、鳥らしい動物を観察したり、遺伝子構造にかんする生物学の理論を踏まえたりしたうえで、概念が再定義された。「ライトノベル」の場合も、個々のライトノベルらしき小説の読解と、文学理論とを踏まえれば、再定義が可能となるはずである。

ここに来て、上で否定された「レーベル説」などといったものが再び定義の候補として浮上してくる。理論的定義であれば、日常の語法と多少ずれた定義であったとしても問題ないからである(むろん、日常の語法とのずれがなるべく小さいほうが望ましいのは言うまでもない)。

ただし、「レーベル説」を支持したいならば、ライトノベルと一般小説とを具体的に読解してみせ、ときに文学理論を参照しつつ、両者の違いはただ出版レーベルだけであることを説得的に示さねばならないであろう。さらに、「レーベル説」を支持する以上は、たとえば「西尾維新の小説はライトノベルではない」「たとえ森鷗外の小説であってもラノベレーベルから出版されればラノベである」といった結論を引き受けなければならない。むろん、それは容易なことではあるまい。

ライトノベルの理論的定義の候補として有力なものに、東浩紀によるものがある。『ゲーム的リアリズムの誕生』において、東浩紀はライトノベルの定義をおこなっている。東浩紀によれば、ライトノベルは「キャラクターのデータベースを環境として書かれる小説」と定義される。これは、東浩紀の提唱するデータベース理論を踏まえたうえでの再定義であり、つまり理論的定義である。

こういうわけで、「ライトノベル度診断表」をわれわれは鵜呑みにする必要はない。診断表は議論の出発点でしかない。「ライトノベルと呼ばれやすい小説」について具体的な研究を経たうえで、ライトノベルの理論的定義というものをおこなう余地は残されているのである。

ある概念の再定義というのは、往々にしてこのように学問の発展とともにおこなわれ、しばしば学問の最終的到達点ともなりうる。生物学は、「鳥」の概念を明確にしてから開始されるわけではない。むしろ、「鳥」とは何であるのかという疑問に答えることは、生物学という学問の一つの目標であろう。ライトノベルの理論的定義が判明するのも、ライトノベルについての知的探求が一通り終わった後であるはずだ。こう考えると、ライトノベルの定義が今日に至るまで判明していないのも、決して不思議なことではない。

日常会話では定義は不要である

最初のほうで、ライトノベルの定義が求められた目的は、ライトノベルについて議論するためだったのだろうと述べた。しかし、他の目的というのも考えられないわけではない。

いまひとつ、ライトノベルの定義が求められた背景として、ネット掲示板の存在が挙げられるであろう。5chのような掲示板では、板(スレッド)が細分化されており、ライトノベル板ではライトノベルのことしか語ってはいけないというルールがある。ライトノベル板で純文学作家について語ることはスレチ(スレッド違い)でしかない。だがライトノベルの定義が明確でないために、スレチかどうか判断がつかないことが多々ある。このような経緯でライトノベルの定義が求められたとも想像される。

これまでの議論で明らかになったように、われわれがライトノベルの定義を知るには、文学研究の発展を待つほかない。だがそうだとすると、掲示板のライトノベル板で、どの小説については語ってもよく、どの小説について語ればスレチとなるのかの基準すら、文学理論の精緻な完成を待たなければ得られないということになるのであろうか。

そうではあるまい。というのも、言葉というものはふつう、定義などなくとも使えるからである。われわれが赤ん坊のころ、日本語を習得してゆくとき、辞書で意味をいちいち確認することはしなかった。われわれはただ、周りの人間が、言葉をどう使うかを聞いて日本語を習得したのである。言葉というものは、定義がなくともその使いかたさえなんとなく決まっていれば、本来は困らないはずのものだ。

言葉というものは、日常会話では曖昧なまま使われているものである。むろん学問という場では、曖昧な概念は学問の発展とともに再定義されてゆき、しだいに曖昧さの少ない概念になってゆくべきである。だが、日常会話という文脈において、曖昧さを無理に除去しようとしてもそれは不可能なことであるし、不毛なことでもある。

したがって、ライトノベル板で何について話せばよいのかは、別に厳密に定義されていなくてもよいのである。あえて明文化しようとすれば、「あなたがそうだと思うものがライトノベルです。ただし、他人の同意を得られるとは限りません」※5とでも書くことになろう。われわれが日常会話をするときにはふつう、どんな言葉Xについても、「あなたがそうだと思うものがXです。ただし、他人の同意を得られるとは限りません」というスタンスで会話しているはずである。

まとめ

  • 素朴なやりかたでは、ライトノベルを定義することはできない。
  • ライトノベルを定義するには、理論と観察が不可欠である。
  • 日常会話のレベルでは、ライトノベルの定義は不要である。

ネット上で、何の論拠もないのに「ライトノベルとは、ラノベのレーベルから出版された小説である」というレーベル説を絶対的に正しいものとして振りかざす人を、しばしば見かける。私は、このような不合理な態度に強い反発を覚えるものである。

堅牢な理論と具体的な読解を抜きにして、日常的な語感や抽象的思弁のみによってライトノベルを定義しようとするのは不毛である。このことは、いくら強調してもしすぎるということがない※6


脚注

※1 鈴木生郎ほか『現代形而上学――分析哲学が問う、人・因果・存在の謎』新曜社、2014年、100頁。

 

※2 東浩紀『ゲーム的リアリズムの誕生』講談社現代新書、2007年、27頁。

 

※3 家族的類似性とは、哲学者ウィトゲンシュタインが導入した哲学用語である。家族的類似性というアイディアは、現代の言語学においてもプロトタイプ理論という認知言語学上の理論のなかで応用されている。

 

※4 戸田山和久『哲学入門』ちくま新書、2014年、125頁。

 

※5 これは5chのライトノベル板に実際に書かれている文であるという(http://dic.nicovideo.jp/a/%E3%83%A9%E3%82%A4%E3%83%88%E3%83%8E%E3%83%99%E3%83%AB})。

 

※6 最後に、細部にこだわる人に向けて註を記しておく。本稿の中盤からは、生物学とのアナロジーによって論を進めている。しかしそこには少なくとも二つの難点がある。第一は、生物種は本質をもたないかもしれないという点である。生物種は、類概念と種差によって定義できないのはもちろんのこと、DNAに訴えてさえ定義できない。なぜならば、アルビノなど、遺伝子が欠損して生まれる個体も珍しくないからである。それゆえ、生物学者や哲学者のなかには、「生物種は内包によっては定義ができない」と考える者も少なくないようである。第二に、文学理論は理論ではないかもしれないという点である。「文学理論は、科学理論などとはまったく性格を異にする。文学理論・文芸批評は、たんに文学鑑賞の規範を示す文の集まりなのであって、世界についての真理を教えてくれる説明体系などではない」といった見解を取る哲学者もいるのである。以上の二点が正しいとするならば、ライトノベルの理論的定義ということの妥当性がいくぶんか怪しまれることになろう。だがこの点にかんして明快に応答する術を、いまの私はあいにくもちあわせてはいない。

ABOUTこの記事をかいた人

餅方りお

幼少期から早くも哲学的な才能を見せ、八歳になる頃にはハイデガーを読みこなしているかのような顔つきを体得。以来、その顔つきのままぼーっとする日々をすごす。出版未定の著書に、餅に擬態する日々から着想を得た論文集『餅の哲学』(全二〇巻)などがある。