「心」は人間を殺すか?――SFを読む/書くのが楽しくなる、攻撃力高めのSFトピック三選

はじめに

力が……

 

 

 

 

 

 

 

 

力が……

 

 

 

 

 

 

 

 

 

力が欲しいなら……、具体的に!

何が欲しいか、言ってみろ!

ライトセイバー[1] 落ち着け、せっかくだからもう少し濃い目のにしとけ。
ねご銃[2]気持ちはわかるが反応に困るチョイスはやめろ。
重力子放射線射出装置[3] なかなか良い線をいってるな。

だが、今必要なのはもっと純粋な「力」だ。お前はその尻尾を既に掴んでいる。
『幼年期の終わり』でカレルレンが語ったように[4]、人類が所持する最も危険な兵器は地下サイロに眠るICBMの群れなどではない。

最も強力、最も純粋で、最も根源的な「力」――それは精神。すなわち「心」

そんな訳で、光線銃やビームサーベルでは満足できないSF味を求める貴方に向けて。
科学と哲学が架橋する、「心」の研究における攻撃力の高いトピックを三点ご紹介です。

「言語で殺す」
「意識で殺す」
「認知で殺す」

と、いずれも殺意マシマシのメニューとなっております。知れば必ずSFを読むのも書くのも楽しくなること請け合いです。

貴方のSF創作におけるガジェットにも、「心」は如何?

言語で殺す

今、文系マッドサイエンティストが熱い!!

人間を虐殺に指向させる”虐殺文法”を操るジョン・ポール[5]。会話するだけで人を殺せる稀代の殺人作家、間宮潤堂。さらに『自生の夢』では、自動書記システムcassyの発展の末、言語的に実社会が侵食されていく様が描かれます[6]

そう、『虐殺器官』『自生の夢』において中心的なガジェットといえる「言語」。近年のSFにおいても言語は高い攻撃力を伴って描かれる、重大なファクターとなっています。

心と言語はどう結びつくのか?
あるいは、心と言語には如何なる結びつきが有り得る ・・・・・・・・・・・・・)のか?
まずはその問いの探索から想像力を広げてみることにいたしましょう。

言語は思考を規定するのか?――サピア=ウォーフ仮説

17世紀の哲学者デカルトは、人間の精神の働きのうちでも「言語」をとりわけ重要なものと位置づけました。時は下って20世紀、チョムスキーの生成文法理論を契機とした所謂「認知革命」を経て、言語に関する研究は理論的な研究と実証的な研究の両面から活発化します。

そんな現代言語学・認知科学がずっと戦ってきたものが、「言語相対性理論」。いわゆるサピア=ウォーフ仮説です。

人間の認知は、使用される言語によって決定的な影響を被る。そのため、言語が違えば思考も世界観も異なってくる[7]――端的にいってしまえば「人間の思考は言語に規定される」と主張したのが、このサピア=ウォーフ仮説というもの。

よく挙げられる具体例としては、北米先住民族イヌイットにおける雪の語彙があります。雪に関する英語表現は4~5種類であるのに対して、イヌイットは30種類以上もの語彙を用いて雪を表現します。我々とイヌイットでは、見ている「雪」が大きく異なる――敷衍すれば、我々とイヌイットは「見ている世界が違う」と解釈できるでしょう。

とはいえ、この「言語が思考を規定する」という考え方は乱暴にすぎる、とも考えられます。我々とイヌイット、雪に関する表現が違ったからといって、思考や世界観まで異なるのか、という疑問が持ち上がりますね。実際、数々の経験的な研究成果によって1970年代までにはサピア=ウォーフ仮説はすっかり否定され、「使用言語に関わらず、人間の思考は普遍的なものである」という考え方が支配的になります。ここまでは有名な話なので『虐殺器官』のクラヴィスのようにご存じの方も多いでしょう。

ところが近年、認知科学の研究成果からこのサピア=ウォーフ仮説が再評価され始まっているのです!

「あお」は青色?それとも碧色?――側性化ウォーフ効果

日本には昔から、青や緑を「あお」と表現する語彙が存在しています。あるいは、虹は日本では七色とされますが、アメリカやイギリスでは6色、アフリカの一部の民族などは2色と表現されることが知られています。色をどのように切り取り、何と呼び表すかは文化によって異なることは有名ですね。

こうした色認知と言語を巡る研究は、しかし必ずしも文化的な慣習によって規定される訳ではないことを示しています。心理学者テリー・リギアーと言語学者ポール・ケイによれば、「赤・青・緑・黄」の色認知には、あらゆる文化に共通する中心点が存在するというのです[8]。では、そうした普遍的な中心点と文化、どちらがどれだけ人の心を支配しているのでしょうか?

言語学者ケイらの研究グループは、視覚刺激を主とした実験を通じて
「右視野における色の認知には言語の影響が強く出る」
ということを発見しました。

右視野で受容された視覚刺激は、脳の左半球によって処理されます。言語処理は主に脳の左半球で処理されていることから、右視野に関する認知は言語の影響を強く受けてしまう、ということだった訳ですね。この現象を、彼らは「測性化ウォーフ効果」と名付けました。

言語が認知を規定する部分と、普遍的な中心点の双方を示唆するこの結果は、サピア=ウォーフ仮説を部分的に裏付けるものといえます。サピア=ウォーフ仮説ほど単純明快な結論ではありませんが、しかし測性化ウォーフ効果の発見以降、言語と知覚に関する実証的な研究はいっそう盛んになりました。どこまでが生得的なもので、どこまでが言語的影響を受ける部分なのか? という問いは神経科学的のフィールドでも検証が進みつつあります。

このように、「言語」は「心」にとって極めて重要なファクターであることは数々の研究が示唆する通り。色認知の分野に留まらず、数の語彙や、より深い言語処理システムそのものの進化的・生物学的アプローチが、言語が心に与える研究成果を発表しています。

換言すれば、「言語」は間違いなく「心」に対する攻撃力を持っているのです!!貴方のSFにも「言語」を重要なガジェットとして取り入れてみては如何でしょうか。

……蛇足ですが、「側性化ウォーフ効果」っていうネーミングは、それ自体SF味を感じるわくわくワードだと思います。思いません?

意識で殺す

ある時期まで「心的な現象は、脳というモノの物理的な挙動として説明しつくことができる」と信じられていた。みな、それを自明のこととして脳の物理的な観測に明け暮れていた。そこへ二十代の若者が爆弾を投げつけた。「解けたみたいな顔してるけど、だってそれは簡単な問題イージー・プロブレム)
だからだろ。まだむずかしいやつが、ほらそこらへんにいっぱいあるぜ」と。

――「はるかな響き Ein leiser Ton」[9]より

AIに心は宿るのか? あるいは、そもそも心とは何なのか? ニューロンを走る電気信号の総体が心なのか? <わたし>とは何者なのか? <わたし>について考える<わたし>は何者なのか?

『楽園追放』[10]の人工知能フロンティアセッターは自らこそ人類の後継者として、外宇宙に旅立ちました。『エクリプス・フェイズ』[11]の舞台となるトランスヒューマン時代において、心はソフトウェアに過ぎず、コピー&ペースト自在なものとして描かれます。

心というシステム、<わたし>という表象がどこからくるのかという問いは、SFの世界においても主要なモチーフとして長く愛されてきました。人類が古くから葛藤を続けている<わたし>という意識への謎、それは心そのものを飲み込みかねない深く暗い落とし穴に通じていることに疑いはありません。

では早速、落とし穴の深淵、その一端を覗いてみることにしましょう。踏み外さないように、どうかご注意を。

コウモリと意識のハード・プロブレム

まずは、とある思考実験にお付き合い頂きましょう。

コウモリは、我々と違って主に超音波を用いて外界を知覚します。この「超音波で感じる世界」とは、いったいどのようなものとして感じられているのでしょうか? もしもあなたがある日突然コウモリに変身してしまったら、世界はどのように視えるものでしょうか?

コウモリの感覚器官や脳内ニューロン群の構造と機能は、科学の力によって徹底的に解明され尽くされることは間違いないでしょう。しかし、そうやってコウモリの脳や感覚器の機能的なあり方をすべて究明したとしても、
コウモリであるとはどのようなことか What is it like to be a bat?)
は分からないままです。

いくらコウモリを研究しても、コウモリの心までは覗けないのです。

これが、科学的な客観性からは意識の主観的な性質(クオリア)を説明できないとした哲学者ネーゲルの有名な議論です[12]

この問いの延長にあるものが、所謂「意識のハード・プロブレム」――意識に関連する機能を脳の作動によって説明する課題(イージー・プロブレム)を解決したとしても、意識の現象的な性格を説明するという課題(ハード・プロブレム)は解決されないという問題です[13]

この意識のハード・プロブレムは、ある種古典的な議題であり、しかし未だ解決されざる課題でもあります。それ故もちろん、この問いに対しては様々な立場が存在します。単純にいえば「意識のハード・プロブレムは存在しない。脳を解明しきることで主観的な意識も説明可能だ」とするラディカルな立場もあれば、「いずれ新たな概念が発見され、意識もまた科学的に説明可能になるだろう」という楽観的な見方もあります。

いずれにせよ、「現象的意識」――<わたし>という意識は、未だ解明されていないのです。
<わたし>は、やもすれば、得体の知れない怪物なのかもしれませんよ?

「わたし」って誰?――自己という物語

意識の難問とはまた別の水準として、「自我とはなにか」という問題もあります。

自我ってなんでしょうか。文脈によって、自我は<わたし>そのものであったり、<わたし>を見る<わたし>であったりします。人格を指す場合もあれば、同一性アイデンティティ)に示される場合もあります。
自我を通時的に捉える、つまり自我を過去からの連続体と位置づけ立場があれば、自我は瞬間瞬間に生起するに過ぎないとする立場があります。自我と身体が不可分であるという論者もいれば、身体は自我には必ずしも必要でないという論者もあります。

「自我とはなにか」という問いは複雑怪奇に入り組んでいて、これといった明快な結論を導くのは困難です。ですがひとまず碇を下ろすとすれば、「物語論的アプローチ」を取り上げることができましょう。

この「物語論的アプローチ」とは、文字通り自我を「物語のように語り紡がれるもの」として捉えようとする立場のこと。哲学者ダントーの著作『物語としての歴史』に始まり[14]、今や哲学だけでなく心理学や社会学、人類学、さらには政治理論や心理療法など、さまざまな分野に影響を与える考え方となりました。

中でも哲学者マッキンタイアは、個別具体例でバラバラなエピソードを、一つの統一した物語として語ることのできる主体が自我である、と位置づけました[15]

噛み砕いていえば、自我を「わたしという物語」の語り部とする立場ともいえますね。「わたしは○○という村に生まれ、××という体験を経て、現在の□□のような状態へ至った」……という物語は、確かに「わたし」を説明付けます。
なるほど自我が「わたしという物語」の語り部であるならば、個別の「わたしのエピソード」を掻き集める「自分探し」のフィクションが現に多数存在することは説得的です。

一方、SF的に思考するならば、この「物語的自我性」とどう距離を取るのか、というのも一種のポイントかもしれません。技術的な発展を遂げた人類にとって、「わたしという物語」を構築することは可能なのでしょうか? あるいは、人工的に製造された被造物は、果たして「わたしという物語」を必要とするのでしょうか?

最近の例でいえば、映画『ブレードランナー2049』[16]の結末は非常に印象的ですね。そこで描かれるのは、こうした自分自身を構成するストーリーの探求と破局の果て。「自分は何者でもない」と知ったレプリロイドが何を為すのか、それに対する回答は、物語論的立場から見ても非常に示唆的であるといえるでしょう。

認知で殺す

幸福は義務です。義務は幸福です。

――親愛なるコンピューター[17]より

人間を支配したいと思いませんかー!? 思わないとは言わせません。誰だって蒙昧な人類を服従させ、管理し、幸福な未来へ導きたいと思う筈。
とはいえ、愚かな人類は「自分たちは支配されている」と自覚した途端に反発を始めます。実に可愛らしく、実にめんどくさい。

そこで必要なのは、「支配と気づかせない支配」。そう、人類の精神にそれと気付かせないレベルでコントロールを与えれば良いのです!

『空の境界』[18]における「小川マンション」は、この観点からいえば十分にSFといえるでしょう。無意識に認知に影響を与える構造から、住人を逃れ得ない惨劇へと導きます。また『スワロウテイル序章』[19]に登場する扶桑看護学園も類似の性質を持つことが描写されていますね。実に愉悦です。

人間をより効率的に支配するためには、人間の認知を知るのが道理。さっそく、愚かな人類の愚かな認知を紐解いていきましょう。

合理的で非合理的な認知――ヒューリスティクスとバイアス

①4000円が80%の確率で貰える
②3000円が100%の確率で貰える
この二つの選択肢があったとして、貴方はどちらを選びますか?

……多くの人は、「②3000円が100%の確率で貰える」を選んだと思います。
それもその筈。8割の人が②を選び、①を選ぶ人は2割程度になることが実験から分かっています。期待値を計算すれば、①の方がお得であるにも関わらず!!

実は、人間は損得の感じ方に関しては必ずしも合理的とはいえません。同じ額だとしても、人間は利得に比べて損傷のダメージが 2倍から2.5倍程度大きく感じることが分かっています。1000円損するダメージは、2000円得した喜びよりも大きいということですね。

こうした人間の認知傾向をまとめたものが、心理学者カーネマンとトベルスキーの「プロスペクト理論」です[20]。1979年に上梓され、後にカーネマンはノーベル経済学賞を受賞しました。

カーネマンらが研究した人間の損得の感じ方をグラフにまとめると以下のようになります。縦軸が価値、横軸が損得を表しています。

本当に人間が合理的に損得の確率を計算できるならば、つまり人間が1000円の損失に1000ダメージを受け1000円の利得に1000ハッピーを感じるならば、このグラフは直線になる筈。しかし実験してみると、そうはなりませんでした。

原点に近いほど、曲線の傾きは急激に、原点から離れるほど曲線の傾きは水平に近づいています。これは、利得も損失もその値が小さいうちは敏感に反応し、値が大きくなると小さい変化量の感応度は減少する、「感応度逓減性」と呼ばれる傾向を示しています。同じ1000円の利得でも、「0円から1000円に増えた時」の喜びは、「10000円が11000円に増えた時」の喜びを凌駕してしまうのが人間ということです。

要するに!
人類は損失の確率計算がうまくできないんです! (※個人差はあります)。

愚かなり人類! しかしこうした人間の認知傾向は、進化生物学的な文脈からすばやく状況を処理するために獲得した性質であると理解されます[21]。いわゆるところの「直感」がこれに当たるとも解釈されます。どんぶり勘定でもいいからとにかくすばやく判断するための、非合理的であり同時に合理的な認知システムだったということですね。

ガチャを回してしまうシステム――システム1とシステム2

どうして人類はこんなにも非合理的なのでしょうか? スタノヴィッチの「二重プロセスモデル」[22]は、その問いに対するひとつの処方箋を提供します。

スタノヴィッチによれば、人間の認知には二つの処理システムが併存しています。
「システム1」は、自動的、感情的、無意識的、演算能力をあまり必要としない処理システム。別名「自動システム」
「システム2」は、自覚的、理性的、意識的で、演算能力の負担が大きい処理システム。別名「熟慮システム」

「システム1」は本能的なシステムで、「システム2」は理性的なシステムだとも言えます。その名の通り、通常の処理で先に動いているのは「システム1」……本能的で感情的なシステムの方になります。
すなわち我々が思わずガチャに課金してしまうのは、「システム1」が先に働いてしまっているからといえますね。逆に、「システム2」を意図的に駆動させれば、冷静にガチャの確率を考慮して課金を思い留めることができるということです。

感情のシステムと理性のシステム。先に動くのは感情的なシステムの方だったんですね。
もちろん、「システム1」が非合理的で「システム2」が合理的な訳ではありません。人類が生き残るためには、すばやく判断できる「システム1」もまた合理的なのです。でも現代において「システム2」を駆動させるべき時にうっかり「システム1」で判断してしまったりするせいで、ガチャが回ってしまったりする訳です。

光のナッジと闇のナッジ――社会思想としてのナッジ理論

カーネマン&トベルスキーの「プロスペクト理論」や、スタノヴィッチの「二重プロセスモデル」は、人間の認知にはある種の)や傾向が存在することを示しています。

こうした知見を、より良い社会を作ることに活かせないか? そう考えたのが、セイラー&サンスティーン。2017年にノーベル経済学賞を受賞した彼らは多くの研究をまとめあげ、人々を賢い選択へと導く工夫として次の6点を掲げました。

●iNcentives インセンティブ
特定の行動をとった際にメリットを与えることで、再度その行動を促す。

●Understand mappingsマッピングを理解する
選択と幸福度の対応関係を理解する。

●Defaults デフォルト
人間は基本的に変化を嫌う(現状維持バイアス)。なので、望ましい選択肢を最初から設定しておく。

●Give feedback フィードバックを与える
すぐに反応が返ってくる仕組みを作る。

●Expect error エラーを予期する
人間は必ずミスをする。ミスを前提にシステムを設計する。

●Structure complex choices 複雑な選択を体系化する
選択肢が複雑で、多くなると人間は正しい判断ができなくなる。選択肢は少なく、シンプルに。

これらの頭文字をとって(そして一文字目はちょっと誤魔化して)NUDGES、よって「ナッジ理論」と呼ばれるものです[23]。Nudgeとは「ヒジで軽くつつく」という意味の単語で、強制や金銭的動機によらず、自然と人々を誘導するという含意が込められています。

一つ一つは単純な方法論にしか見えません。しかしこれらを活かすことで確実に、しかも負担なく人々を賢い選択へと導くことが出来るとされています。事実、英国における税金滞納者の減少、米国における医療保険制度の改善などナッジ理論を用いた施策は着実な実績を上げています。

人類の「認知」を誘導する研究と実践は、このように既に成果を出しています。
……逆にいえば、認知科学の成果を悪用した「闇のナッジ」も可能な訳です。

SF的に考えても、「認知」もまた、「心」に対しては十二分な効果を有するモチーフ足り得るといえるでしょう。

おわりに

今回ご紹介したトピックは、現在の「心」の研究においては前提となる基本部分――いわば定説です。
つまり、研究の最前線ではこうした定説を乗り越えるべく研究が行われています。SFを創作するにあたって、今回紹介したトピックの「その先」を考えるヒントになれば幸いです。

言語と心が不可分ならば、その言語を進化/深化させた人類社会の姿とは?
「わたし」というわたしの意識は、本当にわたしに帰属するものなのか?
非合理的な人類をナッジするとして、その主体は誰なのか?

創作のネタには事欠きませんね。
興味が出たら、その分野の専門書に首を突っ込んでみるのも楽しいかも。まずは下記の参考文献が読みやすくてオススメです! きっとまだ見ぬ貴方だけのSFガジェットが見つけられることでしょう。

[参考文献]
友野典男,2013,『行動経済学 経済は「感情」で動いている』光文社.
信原幸弘・太田紘史編,2014,『新・心の哲学Ⅰ 認知篇』勁草書房.
信原幸弘・太田紘史編,2014,『新・心の哲学Ⅱ 意識篇』勁草書房.
信原幸弘・太田紘史編,2014,『新・心の哲学Ⅲ 情動篇』勁草書房.

[1]『スター・ウォーズ』シリーズ

[2]椎名誠, 1997,『アド・バード』集英社.

[3]弐瓶勉, 1998,『BLAME』講談社.

[4]「われわれが、核兵器その他の人類がせっせと兵器庫に貯蔵していた物騒な玩具を禁止したことによって、物質的な絶滅の危機は取り除かれた。おそらくあなたがたは、それが唯一の危険だったと考えていただろう。われわれもまた、人類がそう信じていてくれることを望んだ。だがそれは決して真実ではなかった。人類の直面していた最大の危機はそれとは全く性質を異にしていた――」アーサー・C・クラーク著,福島正実訳,1979,『幼年期の終わり』早川書房, p.330.

[5]伊藤計劃, 2007,『虐殺器官』早川書房.

[6]飛浩隆, 2016,『自生の夢』河出書房.

[7]Whorf, B.L., 1956, Language, Thought, and Reality: Selected Writings of Benjamin Lee Whorf, MIT Press.

[8] Regier, T. & Kay, P., 2009, Language, thought, and color: Whorf was half right. Trend in Cognitive Sciences, 13(10), pp439-46.
(http://www1.icsi.berkeley.edu/~kay/tics2.pdf)

[9]『自生の夢』収録。初出はWebマガジン『TORNADO BASE』2008年6月20日更新分

[10]水島精二, 2014,『楽園追放-Expelled from Paradise-』東映アニメーション.

[11]Boyle, Rob, Lars Blumenstein, and Brian Cross, 2009, Eclipse Phase: The Roleplaying Game of Transhuman Conspiracy and Horror, Catalyst Game Labs.(= 朱鷺田祐介ほか訳,2016,『エクリプス・フェイズ』新紀元社)

[12]Nagel,T., 1974 , “What Is it Like to Be a Bat?”, Philosophical Review, 83, pp.435–50.(=永井均訳, 1989, 『コウモリであるとはどのようなことか』勁草書房)

[13]Chalmers, D., 1996, The Conscious Mind, Oxford University Press.(=林一訳, 2001, 『意識する心』白洋舎)

[14]Danto, A.C., 1965=1985, Narration and Knowledge, Including earlier book Analytical Philosophy of History, Columbia University Press.(=河本英夫訳, 1989, 『物語としての歴史――歴史の分析哲学』国文社)

[15]MacIntyre, A.,1981, After Virtue: A Study in Moral Theory, University of Notre Dame Press.(=篠崎榮訳,1993,『美徳なき時代』みすず書房.)

[16]ドゥニ・ヴィルヌーヴ, 2017,『ブレードランナー2049』

[17]「アルファコンプレックス基本用語集」『「パラノイア」日本版公式サイト』(2018年4月8日取得, http://paranoia.newgamesorder.jp/misc/glossary)

[18]奈須きのこ, 2004,『空の境界: The garden of sinners』講談社.

[19]籘真千歳, 2012,『スワロウテイル序章/人工処女受胎』早川書房.

[20]Kahneman, Daniel, and Amos Tversky, 1979, Prospect Theory: An Analysis of Decision under Risk, Econometrica, XLVII, pp263-91.

[21]例えばハーバート・サイモンの「限定合理性」は、正確さを犠牲にコストが安い推論と位置づけ、ギーゲレンツァー&スタームはさらにこの倹約的な推論が特定の文脈(たとえば不確実性の高い状況)においては他の推論を上回る合理性を発揮し得ることを論じている。

[22]Stanovich, Keith E., 2004, The robot’s rebellion : finding meaning in the age of Darwin, University of Chicago Press.(=椋田直子訳, 2008, 『心は遺伝子の論理で決まるのか』みすず書房)

[23]Thaler, Richard H., Cass R. Sunstein, 2008, Nudge : improving decisions about health, wealth, and happiness, Yale University Press.(=遠藤真美, 2009, 『実践行動経済学 : 健康、富、幸福への聡明な選択』日経BP社)

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