いかにして地方文学賞を受賞したか?──「賞レース」として考える実作

あまりにも当たり前すぎて今更いうにいえないのだけど、「賞が欲しいから小説を書く」というスタンスのダサさはハンパない。そんなやつ小説やめろよ、っておもう。
賞は運の要素も大きく「ぜったい」がないし、そもそも書き手も読み手も永遠に未熟でしかない「小説」という世界で勝ち負けを競う不毛さは、「文学賞」という沼にハマるほど感じることになるだろう。こうしたものは実作にとって害悪でしかない。
だからもしあなたが純粋に自分が信じた小説を自分の信じたやりかたで徹底したいなら、文学賞の攻略法みたいなものとは徹底して距離をとるべきだ。そういうひとにはこの記事はできれば読んでもらいたくないし、そういうひとにこそぼくはがんばってもらいたい。独自の系譜と理論を構築し、それが宿命たるものを引き寄せるまで待ち続けられる忍耐を持っているひとこそ、「小説」を「表現」として結実させることができるはずだから。もちろんこれは、「そうであって欲しい」というぼくの願望だ。

以下の文章は、どちらかといえば実作を突き詰めたいひと向けではなく、「賞レース」という余興を楽しみたいひと向けの内容だ。その題材として、昨年の夏に「大滝瓶太」名義でいただいた徳島新聞と徳島文学協会が主催する「阿波しらさぎ文学賞」の話をする。

そもそも地方文学賞の印象というのは良いものではなかった。
ぼく自身、地方文学賞で好まれる小説というのは「地域の風土を活かした人情話」という先入観を持っていて、受賞作たる小説にはそのような雰囲気を醸す日本の近代リアリズム作品の潮流に沿ったものが求められるならばぼくには関係のない話だとかんじ、阿波しらさぎ文学賞の立ち上げの話を聞いたときはぶっちゃけ無視していた。というか、「賞」というものにもう疲れてしまっていて、1年前のいまごろは文学賞とは無縁のところで実作を続けたい気持ちが強かった。
しかし夏頃、個人的に仲良くしている作家2人にちょっと叱られた。かれらに「ちゃんと文学賞をとれ」「もうきみに文学賞に送れといってくれるひとはいないとおもうよ」といわれたのをきっかけに、もう一度やってみようとおもった。そこでおもいだしたのが「阿波しらさぎ文学賞」で、ちょうど締め切りの2週間前くらいだった。原稿用紙15枚以内という短さもあって「リハビリ」にはちょうどよく、1日で初稿を書き上げ、数日後に簡単な見直しをしてから友人2人に読んでもらった。友人からの反応はよかった。「カテゴリエラーで弾かれなければ受賞はある」というコメントをもらい、そのままプリントアウトして郵送したのが受賞作となった『青は藍より藍より青』だ。

https://www.topics.or.jp/articles/-/145028

この賞は「徳島の地域や文化、歴史、産業などを作中に登場させる」ことが条件となっている。そのため、この賞に応募するには過去作の使い回しができず、小説を1から考える必要があり、お題に対する回答を作る形になるので「賞レース」という性質が強調されている。そこで今回はこの小説を書くにあたってぼくが「地方文学」をどう捉え、どのような問題点をどう打破するかについて考えたのかを紹介したい。

「地方文学」の定型

地方文学賞に応募するにあたってまず細かく検討せねばならなかったのが、ぼく自身が抱いている「地方文学像への嫌悪」についてだった。この記事では便宜上「文学」を「小説」と同義として使用する。極めて狭義な使用になるが、ご容赦いただきたい。
冒頭でも述べたように、地方文学賞で想定される(だろう)作品には「地域の風土を活かした人情話」という定型があり、その定型は他の賞の受賞作を読んだり、Twitterなどで地方文学賞について言及しているコメントを読んだりすればそれなりに広く共通認識として持たれていることが予想でき、かつ、特定の地域の特徴を作品内に反映させなければならないという条件が課せられることで、応募作の大半は似通ったものになるだろうことも想定できるだろう。この集団的意識が「小説とはこういうもの」というステレオタイプを助長しているように感じられ、これがぼくの抱いていた嫌悪感に一致する。
そこでぼくはこの定型について考えてみた。まず「定型的な地方文学」を以下の2つに分類してみる。

  1. その土地に根付いた認識によって描かれるネイティブの文学
  2. その土地にとって異物であるよそ者の認識によって描かれるストレンジャーの文学

両者の区別は、特定の地域(=地方)をどこから見るかによって決まる。例えば1は「徳島県に住んでいる人間が主人公の徳島県を舞台にした小説」がその例となるように、小説世界を知覚する視点が対象地域の内部に配置される。そのためこうした小説では「小説舞台となる環境が小説内の認知・思考に不可避的な影響を与えている」という構図を強化し、小説が語られた環境の交換不可能性を顕現させることがこの種の小説の典型的な成功になる。

一方で2の例は「徳島に流れ着いた旅人が徳島の風習や文化に違和感を抱く」といったようなものが挙げられるように、対象地域の外部に小説世界を知覚する視点が配置されている。「ネイティブ」に対して「ストレンジャー」は、「小説の舞台となる環境と小説内の認知・思考に明確な乖離が存在している」という性質をもち、環境と認知・思考の差異の伸縮が物語となるのが基本的な構造だ。
もちろん、「徳島に住んでいるからといって、徳島について知っているわけではない」「必ずしも地元が好きだとは限らない」ということもありえる。つまり、視点が対象地域の内か外かだけでなく、語り手が特定地域について抱いている理解・愛着の度合いも作品の性質を決める重要な要素になる。そこでざっくりとこのような分類を行ってみた。

いうまでもないが、このマトリクスはあくまでも大雑把なイメージに過ぎない。しかし、特定地域の風土や文化を前提として実作を行うということは、意識的にも無意識的にも作品はこの空間内に配置されることになるのではないか、と考えた。

なぜ取材をするのか?

特定の地域に関する小説を書くにあたり、その地域についての基本的な情報は知っておかなければならない。これは当たり前すぎていちいちいうべき内容でもなく、それゆえに特にストレンジャーにとって「地方文学小説を書くためには現地取材を行うにこしたことはない」というような発想を生み出しかねないが、おそらくこうした発想は「小説を書く」という行為にはあまり向いていない。
実作において「知っていること」を書くのはディティールや小説舞台のリアリティを力強く担保する強みになることはたしかだ。
しかし、そもそも小説は知っていることを書くというものでもなく、ものによっては「知らないこと」が重要になる場合さえある。中途半端に仕入れた情報は単に想像力をスポイルするだけでなく、情報に引きずられた文章は小説の完成度を著しく低下させる瑕疵として悪目立ちする恐れもあり、「現地にいけばなにかインスピレーションが得られるはず」という淡い期待を持って足を運んだとこで、現地で日常を過ごすネイティブたちに太刀打ちできるものはまず得られないだろう。
もちろん、取材そのものを否定するようなことは本意じゃない。土地・歴史の調査や現地のひとをインタビューするなど、取材方法はさまざまにあるけれども、それらが具体的にどのような効果をもたらすかを知ったうえで取り組まないと時間と金と労力をいたずらに消費する結果にしかならない。
取材の効果として、やはり前述の通り「ディティールを力強く担保する」というメリットが当然ある。これに期待するなら、ある程度書くことを決めて入念に準備をして取材にのぞめばいいとおもう。それ狙いの取材なら「がんばれ!」とおもう。きっとがんばって準備すればいい取材になるだろう。だからがんばれ。
でもそういうことはぼくはしないし、いまのところ興味がないので詳しいことはてんでわからない。
ぼくが関心を持っているのは、取材というよりも「対象を知ってしまう」ということだ。
地方文学に類する小説は主人公ないし語りの認知・思考とその環境の関係性が重要だと前章で述べたが、「知ってしまう」ことでそもそもの書き手自身の対象地域への理解・愛着の度合いが修正されてしまい、また対象地域の風土と認知・思考の結びつきも無意識的に強くなる恐れがある。図に示すと、取材により「知ってしまう」ことで小説に右上方向の力が作用してしまう。

この右上にズレ込む力を制御できなかった結果、「なんとなく取材した小説がブレブレになってしまう現象」が生じるとぼくはおもう。こうしたズレは小説の強度を著しく低下させるものになるので、現地訪問すれば何かいい小説が書けるはず……!という淡い期待は一切捨てるべきだ。もっと「知る」というのがどういうことなのか、取材の前に考えた方がいい。

定型の内と外、どちらで勝負すべきか?

以上のようなことを「阿波しらさぎ文学賞」への応募を決めた段階で考えたが、いざ実作を始めるとなったとき、「このようなマトリクスで説明できるような小説はダメ」という確信を持って取り組んだ。
その理由のひとつは、そもそもこの分析が「誰でもちょっと考えれば出てくる程度のもの」でしかないと思われたからだった。言い換えると、「おなじようなことを考え、この枠組みの中で戦略を組む応募者は一定数いる」だろうし、そうしたひとたちはまず似たような小説を書く。おそらく徳島県外の応募者は「お遍路さんを題材にしたストレンジャー小説」が多そうだとおもった。このあたりの統計は徳島文学協会の方にぜひとってもらいたいし、それなりに利用価値の高いデータになるはずだ。
ともあれ、想定される枠ができたとき、その枠の内側と外側のどちらで勝負するかは一長一短だ。定型的だから悪いというわけでもないし、異端だから良いというわけでもない。それぞれのメリット・デメリットを雑にまとめるとこんなかんじだ。

定型の内側

メリット:
・理解されやすい
・読み手が安心する(読みやすい)
デメリット:
・よっぽど突出していないとまず埋もれる。
・小説の「型」に抑圧されて不自由に陥りやすい

定型の外側

メリット:
・目立つ
・やりたい放題できる
デメリット:
・理解されにくい
・「小説」としてまとめるには自前の技術が必要

ぼくは「外側」を選んだわけだけど、結局のところ「そういう小説しか書けなかったから、ポストモダンSFめいた小説で応募した」というのが本音だ。やっぱりひとまず分析してみた「地方文学賞らいし小説」は好きになれないし、そもそも人間中心で小説を考えるみたいなスタンスが好きじゃない。徳島県民をほっこりよろこばせたい気持ちもないし、そんな保守的な小説の側面を強めてしまうような実作をするのはじぶん自身を裏切ることになってしまう。だから「(じぶんにとっての)いつも通り」で勝負することにした。結果、それがたまたまハマって運よく選んでいただいた。よく予選で落ちなかったなとおもう。

「不自由」に負けない

のちに選考委員の吉村萬壱氏と会ったとき、
「決め手は自由さだった。小説ってこうでしょ?という不自由さに負けた小説が多く、そんななかに遊び心のある小説があると惹かれる」
ということを言っていた。ぼく自身もけっきょくは「15枚でどれだけふざけられるか」というスタイルで書いたのだが、これが吉村氏のいう「自由さ」につながったのかもしれない。

阿波しらさぎ文学賞は第2回の募集がはじまったらしいので、ちょっと文学賞で遊んでみるか……という方はぜひ応募してみてください。最初は遊びでも、賞金の30万円が欲しいでもなんでもよくて、一人でも多くの方が実作を経験することで、「小説を書く」という現象への世間的な関心がより高まればうれしいなと常々おもっています。

https://www.topics.or.jp/articles/-/142869

ちなみに賞金の30万円は現金でもらえる。源泉徴収はされません。ぼくは堅実な人間なので冠婚葬祭用の新札としてストックしています。

ABOUTこの記事をかいた人

大滝 瓶太

文筆家。第1回阿波しらさぎ文学賞を受賞。文学ムック「たべるのがおそいvol.6(書肆侃侃房)」に短編小説『誘い笑い』、「エンドロール(PAPER PAPER)」に『天の川の彼岸まで』を寄稿。著書に『コロニアルタイム (惑星と口笛ブックス)』がある。
Twitter:@BOhtaki
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