百年地獄の夢の中/読書案内夏目漱石『夢十夜』より

こんな夢を見た。

文豪・夏目漱石が、自身の見た夢を十編の小説にした作品、夢十夜。
エキセントリックな夢の世界と絶妙な不条理を、美しく、時に悍ましく描いている名作文学だ。
この作品について綴る前に、夢とは一体どういうものなのかを、改めて考えてみたい。

まず、私たちが生きて営みをする上で、睡眠という行為は欠かせない。
食欲、性欲、睡眠欲。これらの生理的欲求は人間の三大欲求と呼ばれ、人を人たらしめている部分に根ざした本能的な欲求の形だ。
人間は脳という器官の複雑さから、睡眠をとるとしばしば高次的な夢を見る。そもそも夢とは、脳が過去に見聞きした情報をジャンルごとに整理している状態をいう。だからこそ奇想天外な物語になったり、起きている時に強烈な印象を与えられたものが夢に登場したりもする。

夢、という現象についての研究はいまだ進行中であり、正確な定義やパターン化の出来ない、人間という生き物が持つ摩訶不思議のひとつともいえる。

無論、文豪として名を馳せた夏目漱石も人間であるから夢を見る。そして彼は筆を執り、見た夢を事細かに、十の掌編に記した。盲目の子どもを背負いながら暗い森へと歩く夢、運慶が仁王を彫る姿を見物する、明治時代の装いをした群衆の夢。なるほど夢らしくどれもが奇天烈で、整合性がない。それでもこれらの夢は、読み手に何かを訴えかけてくる。化けの皮をかぶった真鍮のように、その皮を剥がすと何か真理に辿り着くような――そんな様相をした夢ばかりだ。

なかでも冒頭に記された第一夜に、私は注目した。
男が床に臥せった女の死に目を見届ける話なのだが、どうも雰囲気が違う。
他の掌編に比べて、光景がずば抜けて美しいのである。

「死んだら、埋めて下さい。大きな真珠貝で穴を掘って。(中略)
そうして墓の傍に待っていて下さい。又逢いに来ますから。」

そう言った女に主人公の男は、いつ逢いに来るかね、と返す。

「百年待っていてください。」

女は男に、百年、という時を告げて、静かに死んでいく。
男は女の亡骸を真珠貝で彫った穴の中に埋め、苔の上に坐って待つ。
太陽が昇り、また沈む。東から西へ、幾度となく回転していき、やがて夜が来る。
丸い石に苔が生え始めて、男は女に騙されたのではないかと訝り始める。そして――、

そしてある日とうとう、香しい百合が一輪、男の前に匂い立つように咲くのだ。
花に接吻し、男は囁く。百年はもう来ていたんだな、と。

わずか四頁ほどしかない掌編でありながら、ここまで美の極致を描いた話もそう無いはずだ。これがただの作り話であったら、ここまで美しさは際立たないだろう。
夏目漱石が見た夢だからこそ、この物語は静謐で不気味で、それでいて耐え難くなるほどの美しさを呈しているのである。

『夢十夜』の第一夜に描かれた限定性。それは「時間」と「永遠」だろう。
このふたつは結んで考えることも、切り離して考えることも出来る。
時間は永遠を流れている、けれど、永遠の中に時間の砂粒はひとところに留まることが出来ない。常に流れ続け、同じ場所にはいられない。同質でもあり、異質でもある。

人は百年の時が来るのを同じ場所で待つことは出来ない。
しかしこの男は、苔むした石の上に坐りながら、あっという間に百年の時を過ごすことが出来た。
なぜか? それは彼が夢の中にいたからだ。
夏目漱石の夢の中で生きていたから、百年をゆうに飛び越えることが出来たのだ。

夢の中の時間は前後不覚で、現実には不可能でも、その一瞬に留まることができる。また、途方もない時間を一気に飛び越えることも可能となる。
夢がもたらす不条理さは、時に不可能を可能にする。夢の中でなら自由に時の流れを生き、立ち止まり、飛び越えることが出来る。肉体という実体は無意味になり、概念としてそこに漂う思念体となる。

だとしたら、人は夢の中でなら「永遠の存在」になれるのではないか?
夢を見続けている限り、制約や枷の無い、思念体としての「永遠」を手に入れることが可能なのではないか。
この場合の夢の中での永遠、というのは、死という生命状態とは別として考えたい。死とはひとつの肉体と生命が終わるということであり、事実である。生命活動が持続している場合に見る夢、脳が機能している状態で見る夢においての、「人間が見せる夢の中の永遠」を考えたい。
つまりはコールドスリープのような状態で見る夢のことである。

その世界では不条理にまみれ、悠久と安穏は裸足で逃げ出し、残るは狂ったように跳ねたり踊ったり静止し続けるモノと人しかいない。時に幻覚のように美しい光景を見たり、人類の永い歴史を浮遊しながら見届けたりもするだろう。

さぁ、これを読んでいる方々へ問いたい。
諸君はこんな永遠を手に入れたいだろうか? と。

夢の中の永遠を手に入れた人は、幸せなのだろうか。
永遠とは、幸せか?

たとえ現実に嘆息しようとも、時間飛行が出来なくとも、今この目の前の、何でもない世界を望む人のほうが多いだろうと思う。
永遠とは苦しいものなのだ。ふつうに生きることよりも、もっと。

主人公の男は、女を埋めた場所から百合が出で、それを見た瞬間に救われたことだろう。
ああ、この永遠とも思える世界から解放されるのだ、と。
百年はとうに来ていた。そう自覚した男は、静かに夢を去る。

男を苦しみから解放した百合の花――百年に逢う花。
永遠をさ迷っていた男が、最後に見た終わり。
どこかに必ず終わりがあるから、人は夢を見ることが出来る。

覚めない夢など、ただの地獄でしかないのかもしれない。

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1992年生まれ。日本大学芸術学部文芸学科を卒業後、フリーライターとして活動のかたわら創作小説を執筆。昨年度、文学フリマにて中編小説『愛をくれ』を発表。自身の生きづらさを創作に昇華することを目標とする。