西尾維新と堀江敏幸に学ぶ作家の資質

良い作品は「強い欲求」から生まれる?

「自分の強い欲求から生まれた商品企画って、初めこそ驚かれるんですが、うちの場合はヒット商品になっています」と語るのは、先鋭的な家電を発明し続けているバルミューダ株式会社の生みの親、寺尾玄氏である。

人に合わせていたら「本当のクリエイション」は生まれない──バルミューダ・寺尾玄が語る創造力の源

梭子魚を意味するBarracuda(バラクーダ)を下敷きにした造語を冠した社名を聞いて、ひところ話題になったトースターを思い浮かべる方は多いだろうし、実際それだけの品質をともなっている。窯をイメージしたらしい重量感のある立方体、どこか愛嬌を感じさせる丸みを帯びた角、そして、高級感を醸しながらも抑制のきいた黒色が特徴的なプロダクトデザイン。そのうえ、機能面においてもそこらのトースターとは一線を画しており、水分を利用することで表面を香ばしく、緻密な温度調整により内部を芳醇に焼き上げるのだから隙がない。綿密な市場調査などではなく、自身の内なる声に基づいたそんな製品が話題に広く受け入れられるのだから、ものづくりは奥深いと思う。

とかく自分の欲望を見失いがちなエンジニアである私は「強い欲求」という先達の言葉に襟を正した一方で、一体どういうわけか、エンジニアとはまるで無縁の、小説を書きたいと願いながらもついぞ筆を手に取らなかったひとたちの顔を脳裏に思い浮かべた。

小説を書く資格とは何か

大学時代を文芸サークルで過ごし、卒業して四年が経ついまも文芸同人誌を発刊しているので、読書家と出会う機会は少なくない。出会うきっかけは同人誌の即売会や知人の紹介などピンキリである。色々な縁で見知ったそんな本読みたちに執筆経験を尋ねると、だいたいは「すでに書いている」か、もしくは「読むのは好きだが作品をものしたいとは思わない」と返答するのだが、「書きたいが自分にはその資格はない」と諦念混じりに応えるひとも稀にいる。筆を執ることに調理師免許のような資格は言うまでもなく必要ないのだが、聞けばどうやら、書きたいことはあるが表現の仕方が解らなかったり、ひとによればそもそも何を書きたいのかすら解らなかったりするようだ。

つまり、寺尾氏の言う「強い欲求」こそが物書きの資質であると見做し、その欲求に裏打ちされた自身の存在を言葉に転写しなければならないと思いなしているのだ。たしかに、文学にかぎらず芸術は自己表現だとよく言われているし、私もその通りだと思う。その一方で文章内における自己の不確かさを主張する作家もいるわけで、たとえば小説家であり芥川賞の選考委員も務める堀江敏幸は、エッセイも数に入れれば何百ほどの作品をものしているにも関わらず、一見自分を素直に出せそうな手紙ですら「「ほんとうのこと」を書きえたためしがない」と言うのである。

「ほんとうのこと」は伝わらない?

思いもよらないその告白が記されていたのは、西尾維新と様々なクリエイターたちの対談集『本題』である。小説家の西尾維新が対談相手に創作上の質問を手紙にしたため、それを中心に議論するという一風変わった対談集で、堀江敏幸のほかにも、小林賢太郎、荒川弘、羽海野チカ、辻村深月という錚々たる顔ぶれが参加している。文筆家である堀江氏に対して尋ねたのは、作中人物の「生活」の表現方法だった。

先生の著作を読ませていただいて感じたのは、
個々の生活を描くことによって
家族や隣近所、町といったコミュニティを
描いていらっしゃるということでした。
私は人物を描くとき、
どうしても個性を描く方向へ
偏ってしまう傾向にあるので、かように
群生を描く姿勢を学ばせていただければと思い、
貴意お伺い申し上げます。

生活の書き方についての議論から対談がはじまるのかと思いきや、意外や意外、話題は手紙をしたためることの難しさから入っていく。対談の導入にて西尾氏は、対談相手に手紙を書くことに時間がかかること、手紙において「ほんとうのこと」を書くことの難しさを堀江氏に打ち明けるのだが、宛先によって使う言葉を選ぶ手紙では「ほんとうのこと」を伝えるのは不可能に近いと熱を込めて語るのである。

 手紙は、特定の相手に向けて書くものですから、受け取ってくれる人の顔がわかっている。だから、その相手の地位や年齢や親しみの度合いに応じて、自分の立ち位置を微調整しながら書くのがふつうだと思うんです。
 そういう自分に気づいた瞬間、固定された「私」なんていないんだと気づかされる。他人との関係性のなかでしか「私」も、「私」の言葉も存在しない。

手紙とは異なり明確な宛先のない小説においても「伝わらなさ」は一緒だと堀江氏は言い、西尾氏もまた、作者の意図を答える問題において他ならぬ作者本人も判然としないという例を出して同意している。

ふたりの態度から読み取る作家の資質

自明視されている「私」の存在そのものを疑うのみならず、「ほんとうのこと」はそもそも伝わり得ないのではないかという議論には、これは私個人の読みであるが、物書きには前提を問い直す態度が必要であると暗示されているのではないかと考えさせられる。じっさい、その解釈の正当性はどうであれ、西尾氏の手紙に記された質問をめぐる議論においても俎上に載せられた言葉を精査する態度は一貫している。

そもそも「生活」とはなにかという堀江氏の問題提起をきっかけに語義をたがいに問い直すなかで、淡々とした時間を過ごすひとの心の動きであると定義される。もしそのような意味で「生活」を捉えるのであれば、西尾氏の長編小説『少女不十分』を例にとり、手紙につづられた課題はすでに達成されているのではないかと堀江氏は説明するのだ。

この作品は〈物語〉シリーズを俯瞰しながら、架空の小説家が語り手になって架空の物語を一人称で語る形式をとっていますね。登場人物はたしかに少ない。手紙に書いてくださった「群棲」のあらわれではありません。語り手の視点や言葉の湿り気など、西尾さんのこれまでの作品とは若干色合いのちがう部分がある。でも、それこそ、今おっしゃたような特殊な状況……日常生活というものが消えてしまった後の、空っぽになった心の動きを「ちゃんと」描いている。

日常を描くことで暗に非日常を描き、そのまた逆に非日常を描くことで日常を描くという、陰陽のような関係性として生活を捉えなおせば表現の幅がぐんと広がる。登場人物の移動手段や噂の広がる速度で町の規模感を示せるし、なにげない台詞でも発言者の生育環境や日常を表現できるのだ。異国の詩人をめぐり、国籍も職業も異なる人々がつながる様子を描いた『その姿の消し方』で、詩そのものから作者の生き様を想像する場面を何度も描いた堀江氏ならではの見解だし、事実、写真のように生活空間を切り取れるわけではない以上、何をどのように描くかという課題は言葉の表現につきまとう。

詩や小説の種類の別なく、公に発表された作品は様々な批評に晒されるのが宿命である。ときには「生活が描けていない」だの「人間が描けていない」だのと重要そうに見えながらも意味が判然としない批判もなされ、その曖昧さゆえに対処方法が見つからないことも少なくない。そのような状況に陥ったときはふたりのような姿勢で向き合えば解決の糸口が見つかるかもしれないし、「強い欲求」を持ち「ほんとうのこと」を自覚することと同じくらい、それは作家にとって大切なのかもしれない。

今回は小説家の堀江氏との対談を紹介したが、他ジャンルのクリエイターたちとの議論も作品作りのヒントに富んでおり、刺激的である。たとえば、劇作家の小林賢太郎との対談では言葉遊びについて、漫画家の羽海野チカとは他人との共同作業という制作環境や、才能を持ってしまった登場人物の描き方について、それぞれ独自の思想に基づいた持論を交わしている。そういう意味では、本稿では作品制作に尻込みをしている方に向けて本書を紹介したものの、日頃から実作に精を出している経験豊富なクリエイターにも学ぶところが多少なりともありそうな対談集である。

ABOUTこの記事をかいた人

秋津 燈太郎

フリーのWebエンジニアとして生計を立てながら、アプリの個人開発、琉球文学の研究、小説やエッセイの執筆などを行なっています。最近はIoT(モノ)に興味あり。