Genkoは、小説を書く人のためのQ&Aサイトです

文体のオリジナリティについて

+3 支持
ねんねん Mouse (230 ポイント) 2017 4/29 質問 執筆
自分の文体にオリジナリティを感じなくなってしまいました。

以前、私は小説の同人サークルのようなものに入っており、そこでいくつか小説を発表しておりました。
その頃は気にならなかったのですが。最近生活環境が変わり、その同人サークルを辞め、主にネットで創作をするようになってから、自分の文体にオリジナリティが無いのではないかということが気になるようになってきました。

この悩みを持ったきっかけというのが、交流サイトで似た趣味を持った人が、あるテーマに沿って小説を書くという企画に参加した時のことでした。
完成したそれぞれの作品を読み比べてみたところ、どことなく文体が横並びのように感じたのです。

以前所属していたサークルでは、ネットと比べると参加人数も限られる上に、参加者の作風や好みの作風も違っていたので、比較的文体もバラけやすい環境だったからそれぞれが目立っていただけかもしれないという疑念が沸いてくるのです。

皆さんは、文体のオリジナリティは気にしますか?
また、もし文体にオリジナリティがないと感じた時、どう打破しますか?

回答 2

+1 支持
あとーす Crow (2,950 ポイント) 2017 4/29 回答
自分の書く小説について、文体のオリジナリティはかなり気にします。ただし、読む側に回って見ると、文体のオリジナリティが必ずしも重要なではないと思うことがあります。内容偏重の作家と文体偏重の作家(あるいは作品)という区別が私の中に少なからず存在します。

文体にオリジナリティがありすぎてレトリックが過剰なになると、内容がストレートに伝わることが難しくなるように思います。しかし、装飾を施すことでしか表現できない言葉の手触りがあることもまた事実でしょう。

特徴的な文体で物語を綴りたいのか、匿名性の高いツルツルの文体で書きたいかは、それぞれのスタイルに拠るところが大きいのではないかと考えています。

さて、オリジナルの文体を獲得するにはどうしたらいいのかということについてですが、まずは読むことからはじめる必要あるように思います。オリジナル、というのは相対的なものです。たくさんのスタイルがあるからこそ、それに似ていたり、違っていたりという判定を下すことができます。ですから、他の人の文章を読んで、そこにオリジナルに何かを見つけたら、自分の文体の中にに改変して組み込んでみるのがよいかと思います。また、その文体を意識しながら、その文体になることを「避ける」というのも一つの方法です。「避ける」ためにも、対象となる文章を知る必要があります。

それを踏まえた上でで、小説を書いていって適宜修正を加えていくことができればよいのではないかと思います。
ねんねん Mouse (230 ポイント) 2017 5/1 コメント
ありがとうございます。
まずは、人のスタイルを観察してみようと思います。
そして自分の書きたいスタイルに合わせて、それらを生かしてみようと思います。
0 支持
和菓子 Owl (5,500 ポイント) 2017 5/1 回答
和菓子 2017 5/1 編集
 文体styleにもいろいろありますが、なにをどう書くか、という話にまとまると思います。駅前の風景描写で「ラーメン屋が二店とファストフード店があった」とするか、「ラーメン屋、ラーメン屋、ファストフード店、俺にはそれがジャンクな行列に見えた」とするか、「ラーメン屋とファストフード店の比率はぱっと見2:1だったが、どこの駅前もこんなものだろう」とするか、「駅前という架空の存在者があるとすれば、そいつは常に既にラーメン屋を二児、ファストフード店を一児、じぶんの胎内に育てていると断言できる」とするか、「わたしの歩く先にはまずラーメン屋があり、看板には乱雑なフォントで得体のしれない中国語が書かれている――そもそも中国語という言語はないのだが、いまはそんなことどうでもよいでしょう。その無骨な店構えのチャイナなグルメを通り過ぎると、これまたお出ましラーメン屋が見えてくるのでありました。ここでわたしは戸惑うのです。いま来た道をまた歩いているのではないか……いやはやそんなことはありませんね。だってこちらのラーメン屋は、家系です。家系だ、イエーイなんてダジャレは慎みながら、新メニューを見て見ないふりするわたしです。そして最後に待ち構えていたモンスターはファストフード店、度を越した不健康を体現するなんて現代的です」みたいにすることもできます。
 これは「どう書くか」に寄った感覚ですが、次に「なにを書くか」に移るとすれば、駅前の舗装された道が気になるかもしれないし、すれちがったひとの細やかな観察(『あなたはアフガニスタンに行ってきましたね?』)、通行人をパニックに陥れる妄想、桜の舞い散る描写、まあなんでもありです。
 オリジナリティを探すとき、だれだれだったらこれをどう書くだろう、この場でなにを書くだろうと輪郭を作ってゆくとやりやすいです。谷川俊太郎だったら「らーめんやとヤリてえなあ。でもとんこつはかんべんしてほしいもんだよ。だってとんこつだったらひどいにおいがするんだ。でもそんなこといったらとんこつにしつれいだから、オレはとんこつとヤろうとおもう」という生々しさとゆるふわのあいだを行くでしょうし、新海誠だったら「ぼくは、この駅前に広がる一本道の、ずっとずっと先にあるだろう輝かしい未来に、なんとなく、踏み込むことのないであろうひとつのあたたかい絶望の影を感じてしまった。それはもう何年も前からぼくのことを待ち続けていたような、とてもするどく、とても慣れ切った、善と悪のあいだにあるような目をしていた」みたいになるでしょうか。
 あるいはジャンル感で輪郭を作るのもよいかもしれません。ハードボイルド風に「赤木は駅前の町を見回す。女や男、着飾った風に同じ道を往く光景が退屈だった。風が吹き、自然物もゴミも同時に舞う。赤木は汚いなと思いながら、口に入った砂利を唾と共に吐き出した。ATAX社のボスがここに潜んでいる――。人探しなんて柄ではないが、任務となればやるしかなかった」というのも文体でしょうし、ライトノベル風の一人称で「先にも触れたがこの駅前で俺――菊池答礼(きくちとうれい)の姉である恭子(きようこ)が失踪したらしい。俺がまだ幼い頃の話だ。なぜいまさらになって俺が姉を探しているかと言えば、改めて言うまでもないだろうが、姉に聞き出さねばならない事情が生じたからである。駅前はビルの風が強く、俺を凍えさせる。周りを見ればラーメン屋の一軒や二軒がある。俺はポケットに手をいれ、手持ちの小銭をノールックで勘定した」みたいな感じですかね。
 文体というのは、形のことです。特に輪郭のことです。図画工作のときを思い出してください。陶芸でも木工でもいいのですが、あの時間に私たちが作っていた「形と輪郭」を抽象的に考えると、文章の文体というのがなんとなくわかってきます。わかりにくいので「文体=茶碗」と言い換えても構いません。「俺の茶碗にオリジナリティがないんだよね」という話です。いろんなひとの作った茶碗を見て、じぶんの作る茶碗の形が決まります。文体というのは、決めることです。村上春樹だったらなにをどう書く? ジャック・ロンドンだったらなにをどう書く? スピルバーグだったらなにをどう表現してみせる? お母さんだったら? おじいちゃんだったら? みんなの茶碗スタイルを想定しながら、フリースタイルに立ち戻って、そこから改めてじぶんのスタイルを決めることができれば、悩みはおのずと解消されるのではないかと存じます。私はオリジナリティをまったくと言っていいほど気にしません(それ以外に気にすべきことが多すぎて手が回らないというのもありますが)。

※文体ものまねの精度がひくくて申し訳ないです…。
ねんねん Mouse (230 ポイント) 2017 5/1 コメント
ありがとうございます。
初心に戻り、他の人の作品と比べてみようと思います。
...