本作は一言でいえば「デスゲームもの」だ。作者の金子玲介は『死んだ山田と教室』で第65回メフィスト賞を受賞。『死んだ石井の大群』が2作目となる。
物語は【唯】と【伏見】の2つのパートが並行する形で進んでいく。【唯】パートでは、いつも死にたいと願っている中学生の唯が一人称視点となり、「石井」という名字を持つ333人の人物が参加するデスゲームに参加することになる。最初のゲームは「デッド・ドッジ・ボール」。四方から飛んでくるドッジボールの球を避けられなければ、首にはめられた首輪が即座に爆発し、首が飛ぶ。
【伏見】パートは、元小説家の探偵である伏見の視点で話が進んでいく。伏見の元に舞い込んだ依頼は、千秋楽当日に失踪した中年舞台俳優、石井有一を探してほしいというもの。依頼を受けた伏見は、助手である地下芸人の蜂須賀と共に石井有一探しを始める。
同じ小説の中で展開される2つの物語がどこかで交差するというのは想像に難くないだろう。そして、中年舞台俳優が、デスゲームに集められた人々の姓である「石井」を有するのは偶然ではない。
『死んだ石井の大群』は、デスゲームものであると同時にミステリである。2つの物語はどのように交わるのか、なぜ石井たちはデスゲームに参加することを強いられているのか。その秘密を探ることが本作を読み進めることのひとつの楽しみとなる。
この記事の目次
物語を支える2つのコード
『死んだ石井の大群』は、2つのコードに支えられている。
ひとつは先にも触れた「デスゲーム」というコード。デスゲームには一種のお約束、あるあるみたいなものが存在している。しかし、それは私たちが普段からデスゲームを体験しているからではない。数々の先行作品によて、「デスゲームとはこういうもの」という観念ができあがっているからだ。
だから、最初のゲームで何人もの石井さんの首が飛んでも、僕たちは別に驚かない。人が死んでいるから驚いたり悲しんだりした方が良いのかもしれないが、でも、デスゲームというのはそういうものである。1人が死ぬのに悲しんでいては物語は延々に進まない。これはフィクションだということを念頭に置いて、淡々と読み進めることが読者に求められる。そしてまた、一人称視点の主人公は最後まで死なないだろうという安心感もある。
もうひとつのコードは「バディ探偵もの」だ。僕たちは一般的な探偵がどのような仕事をしているのかはほとんど知らないが、フィクション上の探偵がどのような動きをするのかは何となく知っている。それは、たとえばホームズとワトソンの関係を想起すれば十分だろう。最近の作品で言えば、僕は『まほろ駅前多田便利軒』を思い出す。ドラマの『相棒』シリーズを思い出す人もいるだろう。
つまりこの物語は、デスゲームものであり、バディ探偵ものでもある。そしてミステリでもある。まったく未知のジャンルの作品なのではなく、さまざまな既存のコードに支えられ、この作品を読み進めることになる。しかしそれは、手垢が付いていてつまらないということを意味するのではなく、むしろそれらのコードは著者によって上手く乗りこなされていて、僕たちは物語に引き込まれ、ぐんぐんと作品を読み進めていくことができる。これは、デビュー前にもさまざまなジャンルに挑戦していた著者の力量がよく表れている箇所であると思う。
テキストを読む快楽
僕は金子玲介の書く文章が好きだ。だから、実は物語内容はどうでも良いと思っている部分がある。もちろん小説を読むにあたって、作品全体を通してのテーマだったり、構成の妙だったり、そういうのを楽しむ余地は十分にあるが、こと金子玲介作品については、ただただテキストを追っていくのが楽しい。
この心地よさには、いくつかの理由がある。まず金子玲介は、地の文と会話文のを交ぜて書くのが抜群にうまい。
目を開けると、唯を見つめる女の子がいる。慌てて腕を隠す。
「大丈夫?」おそらく同年代の、かわいい女の子が、中腰で唯を覗き込んでいる。
「いや、」目をあわせ、逸らす。「大丈夫」目が大きくて、丸い。
「ごめんね、急に話しかけちゃって」女の子はぺたんと座り、唯と向き合う。花がひらくみたいに笑って「同い年くらいの子探してて」『死んだ石井の大群』p.10
この箇所が最高に気持ちいい。小説の叙述方法にもさまざまなものがあるが、この場面では、唯の視覚情報や聴覚情報、唯の動き、唯の心情などが、まるでその場にいるように、あるいは自分が唯に成り代わってしまったかと錯覚してしまうように、時間の流れにぴったりと沿って描かれている。
『死んだ石井の大群』には、こうした気持ち良い叙述が随所に散りばめられている。そうしたお気に入りのシーンを探すことが、本作を読むことのひとつの楽しみとなる。
また、本作において好きな人物を一人挙げるとするならば、僕は蜂須賀がお気に入りだ。蜂須賀は、探偵・伏見の助手であり、28歳でフリーのピン芸人。作中でも明言されているように「クズ」なので、実世界にいたら関わり合いになりたくないかもしれないが、フィクションの世界の住人として外側から見る分には非常に面白い人物だ。芸人の文法で繰り出されるユーモアも読んでいて気持ち良い。
僕が蜂須賀を好んでいるのは、芸人のYouTube動画をここ数年ずっと見続けていることに由来するのかもしれない。タイムマシーン3号Official YouTube Channelの動画は欠かさず見ているし、最近はオダウエダ総合案内所、ママタルト本物チャンネル、東京ホテイソン オフィシャルチャンネルなどを寝る前にひたすら見ている。これらのYouTubeチャンネルは、企画らしい企画がないのが特徴だ。企画もあるにはあるのだが、それは動画を撮るための建前みたいなものであって、とにかく芸人がだらだらと喋っていて、時たまおもしろパンチラインが飛び出すのを見るのが快感になる。
『死んだ石井の大群』の蜂須賀と伏見の会話にも、そういった芸人YouTubeチャンネルのような雰囲気が漂っている。たぶん、だから読んでいるだけで楽しいのだ。
おわりに
本作を読み、本作の感想を書いてあらためて、僕は金子玲介の書く文章が好きなのだと感じる。文章は平易にかかれているが、その裏には緻密な計算がある。読み返すたびに惚れ惚れとする。しかい変な気負いを文章から感じることなく、僕たちはただひたすらに金子玲介のテキストを楽しむことができる。
金子玲介は、『死んだ』三部作として『死んだ木村を上演』も刊行している。こちらは実はまだ読めていない。紙の本で購入していて、数ページ読んでもみたのだが、あまりに文章が好みすぎて苦しくなり、続きを読めずにいる。できれば元気のある時に読み進めたくて、まだ楽しみを取っている。興味のある方は、ぜひ僕より先に読んでいただきたい。