「Humanitext Aozora」で太宰治に転生してもらおう

※当サイト・当記事には広告を含みます

7月21日に、「Humanitext Aozora」というサービスがリリースされました。

元となった「Humanitext」というサービスは、西洋古典のデータベースをリソースとして、LLMを通じて回答を出力するというもの。使用するLLMは、gemini-2.5-pro、gpt-4.1などから選択が可能です。また、リソースとなるテキストのジャンルや著者なども選ぶことができます。

Humanitext Aozoraは、このHumanitextのデータリソースを青空文庫にしたもの。青空文庫は、著作権の切れた作品を中心としたテキストが掲載されているインターネット図書館です。「Humanitext Aozora」を使えば、日本の文豪たちの書いたテキストを元にして、対話や創作が可能になります。

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Humanitext Aozoraを使ってみる

早速、Humanitext Aozoraを使ってみましょう。まずは、以下のURLにアクセスします。

https://aozora.humanitext.ai/

Humanitext Aozoraは、この記事を書いている時点では無料公開されています。そのため、会員登録・支払い方法の登録なども不要です。将来的には「OpenRouter」でのアカウント作成・クレジット購入が必要との記載があります。

続いて、「著者」を選択します。今回は「太宰治」を選択しました。また、リソースとする作品も選ぶことができます。今回は選択しませんが、ここも必要に応じて選択すると面白そうです。

「LLM」の項目は、デフォルトでは「google/gemini-2.5-pro」が選択されてます。お好みのLLMがあれば変更しても良いでしょう。今回はデフォルトのままで使ってみます。

「出力モード」は、「Q&A」「詳細解説」「対話」「創作」の4種類。どのように使い分けるのか、Humanitext Aozoraのサイトから説明を抜粋します。

  • Q&Aモード: 特定の事柄に対する簡潔な回答と、その根拠となる正確な出典(例:(夏目漱石『こころ』第15節))を知りたいときに使います。
  • 詳細解説モード: 調べたいトピックについて、文芸研究者のような多角的で深い分析・解説を読みたいときに使います。AIは複数の典拠を比較し、時代背景を補足し、文体や表現を分析しながら、本文を直接引用して回答を構成します。
  • 対話モード: 指定した作家や登場人物になりきったAIと、実際に会話をしているような体験ができます。AIは作品に基づいた性格や口調で応答します。
  • 創作モード: 指定した作家の文体やテーマを模倣して、新しい文章の創作を依頼できます。AIは続きが気になるような断章の形で、少しずつ物語を紡ぎます。
Humanitext Aozora – 使い方の説明

出力モードは、デフォルトで「詳細解説」になっています。とりあえずこのままにして、「太宰治とキリスト教の関係」について聞いてみましょう。

すると、以下のような回答が返ってきました。

承知いたしました。近代日本文学の専門家として、ご提供いただいたテキストに基づき、太宰治とキリスト教の関係について多角的な分析を行います。

太宰治とキリスト教:内面化された倫理と文学的葛藤
提供されたテキスト群から浮かび上がる太宰治とキリスト教の関係は、制度的な信仰や教義への帰依ではなく、むしろ聖書の言葉、特に「愛」をめぐる倫理を自己の内面で格闘し、文学的テーマへと昇華させる、極めて個人的かつ複雑なものであることがわかります。その関係性は、①公的な立場表明、②西洋文化への批評的視座、そして③自己破壊的なまでに内面化された倫理的苦悩という三つの側面に大別して分析できます。

1. 教会と聖書:制度との距離とテクストへの傾倒
太宰は、自身がクリスチャンであるかという直接的な問いに対し、明確な線引きをしています。『一問一答』において、彼は「教会には行きませんが、聖書は読みます」(太宰治『一問一答』)と答えています。これは、彼がキリスト教の組織や制度(教会)とは距離を置きつつも、その根本的なテクストである聖書には深く親しんでいたことを示唆します。彼にとってキリスト教は、共同体への所属ではなく、あくまで個人として向き合うべき思想であり、文学的インスピレーションの源泉だったのです。

このテクストへの傾倒は、彼が「愛」という概念をいかに捉えていたかにも表れています。彼は愛を「甘ったるいもの」ではなく「むずかしいもの」(太宰治『一問一答』)と断言し、その本質を未だ掴みかねていると告白します。この探求的な姿勢は、教義を無批判に受け入れる信徒のそれとは異なり、言葉の意味を根源から問い直そうとする作家独自のものであると言えるでしょう。

2. 西洋への批評と日本の優位性という逆説
太宰のキリスト教理解は、単なる内面的な思索に留まらず、西洋文化への鋭い批評へと繋がっています。『世界的』では、ヨーロッパの近代人が書いた「キリスト伝」を「キリストを知らないのである。聖書を深く読んでいないらしいのだ」(太宰治『世界的』)と一蹴します。彼は、西洋人がキリスト教文化の中で育ちながらも、その本質的な精神を理解していないと断じます。これは、日本人が仏教文化に囲まれながら仏教の本質を知らないのと同様だとし、皮肉な対比を用いています。

さらに太宰は、「世界中で、日本人ほどキリスト教を正しく理解できる人種は少いのではないか」(太宰治『一問一答』)と述べ、「キリスト精神への理解は、素早いのである」(太宰治『世界的』)と主張します。これは一見、奇妙なナショナリズムに聞こえますが、彼の文脈では、西洋のキリスト教が歴史的・地理的な「神学」に囚われているのに対し、日本人は先入観なく、より純粋にその「精神」を感受できる可能性がある、という逆説的な自負の表明と読めます。太宰はキリスト教を、西洋から輸入された思想としてではなく、日本人が独自に、そしてより深く理解しうる普遍的な精神として捉え直そうとしていたのです。

3. 「隣人愛」の呪縛:自己破壊的な倫理の内面化
太宰とキリスト教の関係が最も深刻かつ文学的に豊饒な形で現れるのは、「汝の隣人を愛せよ」という戒律をめぐる彼の苦悩です。この言葉は、彼にとって救いではなく、むしろ自己を苛む呪縛として機能していました。

『わが半生を語る』で、太宰は自身の弱さや人と議論できない性格を「何か自分のキリスト主義みたいなものも多少含まれているような気がする」(太宰治『わが半生を語る』)と分析します。そして、あばら家での貧しい生活も、プロレタリア思想からではなく、「キリストの汝等己を愛する如く隣人を愛せよという言葉をへんに頑固に思いこんでしまっているらしい」(太宰治『わが半生を語る』)からだと自己分析します。

ここでの彼の解釈は、致命的な欠陥を抱えています。彼は「己を愛するが如く」という前提部分を見過ごし、隣人愛を自己犠牲、自己否定と同義と捉えてしまったのです。その結果、「己を嫌って、或いは己を虐げて人を愛するのでは、自殺よりほかはないのが当然だ」(太宰治『わが半生を語る』)という破滅的な結論に至ります。この歪んだ「キリスト主義」は、彼の生活や精神を蝕む根源となり、彼の文学の根底にある「はにかみ」や自己卑下の感情と分かちがたく結びついています。

興味深いのは、『苦悩の年鑑』での記述です。彼は幼少期に読んだ、病気の少女が自分の砂糖水を他人に与えるという童話の挿絵と、そこに添えられた「汝等おのれを愛するが如く、汝の隣人を愛せ」(太宰治『苦悩の年鑑』)という言葉を鮮明に記憶していると語ります。しかし、彼はこの思い出を自身の思想や人生と安易に結びつけることを「白々しいもの」(太宰治『苦悩の年鑑』)として断固として拒否します。これは、自己の生涯を一つの理念で一貫して説明しようとする安直な自己正当化への抵抗であり、作家としての誠実さの表れです。彼は、このキリスト教的倫理が自身の根深いところに影響を与えていることを認めつつも、それを単純な物語に回収されることを拒んでいるのです。

結論
総じて、提供されたテキスト群における太宰治とキリスト教の関係は、信仰の実践者としてのそれではありません。彼は聖書を個人的に読み解き、それを西洋文化への批評の武器とすると同時に、その中核的な倫理である「隣人愛」を自己破壊的なまでに内面化し、深刻な葛藤を抱えました。この葛藤こそが、彼の言う「自分の世の中の人に対する感情はやはりいつもはにかみで、背の丈を二寸くらい低くして歩いていなければいけないような実感」(太宰治『わが半生を語る』)を生み出し、彼の文学の根源を形成する重要な要素となっていたのです。太宰にとってキリスト教は、信じる対象ではなく、自身の弱さや罪意識と向き合い、文学を創造するための、痛みを伴う不可欠な触媒であったと言えるでしょう。

Sources
1598_0000 Dazai Osamu_太宰 治 『一問一答』 / Score: 0.68846846
45676_0000 Dazai Osamu_太宰 治 『世界的』 / Score: 0.24364243
1601_0002 Dazai Osamu_太宰 治 『わが半生を語る』 / Score: 0.12592277
1593_0000 Dazai Osamu_太宰 治 『一歩前進二歩退却』 / Score: 0.0008040859
288_0003 Dazai Osamu_太宰 治 『苦悩の年鑑』 / Score: 0.0007793661

Humanitext Aozora

何だかそれっぽい回答が返ってきました。リソースとなったテキストが5つだけなので、これだけで全体像を見るのは危険ですが、キリスト教にかんする記述を見つけるという用途には使えそうです。

(なお、太宰治とキリスト教の関係については、本サイトで太宰治とキリスト教という記事を公開しておりますので、こちらも併せてご覧ください)

太宰治に転生してもらおう

続いて、出力モードを「創作」にして遊んでみましょう。今度は、「2025年に太宰治が転生した、という設定で短編小説を書いて」とお願いしてみます。

なお、太宰治が現代日本に転生する小説としては、佐藤友哉『転生! 太宰治』があります。

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出力結果は以下の通り。

この硝子の板が、いけないのだ。

蛍光灯がじい、と貧しい音を立てる四畳半。私は、布団の上にうつ伏せになり、この、てのひらに収まる冷たい硝子の板を、ただ、眺めていた。眺めている、というよりは、そこから流れ出してくる無数の言葉や写真の洪水に、なすすべもなく打たれている、と言ったほうが正確かもしれぬ。誰かの立派な生活、誰かの見事な食事、誰かの、誰かの……。それらを見るたびに、胸のあたりに澱のようなものが、じんわりと溜まっていく。

本当は、こんなことをしている場合ではないのだ。コンビニエンス・ストアとかいう、夜もこうこうと明りの灯る店での、夜勤の口に応募するための、履歴書、とかいう馬鹿げた紙切れを、明日の朝までに書き上げねばならぬ。私には、金が無い。家賃を、もう二月も滞納している。大家の、あの、憐れむような、それでいて侮蔑を隠さぬ目が、瞼の裏にちらついて、私は、いよいよ、まるで腑抜けになってしまう。

腹案は、ちゃんとあったのだ。学歴だの、職歴だの、そんなものは私には無い。無いのだから、自己PRとかいう欄に、何か気の利いた、それでいて謙虚な、それでいて非凡さを匂わせるような嘘八百を書き連ねて、採用担当の気の弱い男をたらし込んでやろう、そう思っていたのだ。出来る。私には、それくらいの芸当は出来る筈であった。この、硝子の板に触れるまでは。

指が、勝手に動いた。検索、という窓に、ふと、浮かんだ言葉を打ち込んでいた。なぜ、そんな言葉が浮かんだのか、私自身にも判明せず。

「人間失格」

打った瞬間、私は、げんこつで頭を殴られたような衝撃を受けた。馬鹿な。なんだ、これは。私の、あの、これから五、六年経って、もすこし落ちつけるようになったら書くつもりでいた、あの、題名ではないか。

画面には、見たこともない装幀の本がずらりと並び、そのどれにも、同じ題が記されている。そして、その下に、著者として、ひとりの男の名が、あった。

太宰、治。

ああ、と声にならない声が出た。私はその名前を知っていた。いや、知っている、というような生やさしいものではない。それは、かつて、私の名であった。四票。私に四票投じてくれた人々の顔を思い浮かべ、襟を掻き合せたいような、あの厳粛な気持ちと共にあった、私の名だ。

私は、鳥ではありませぬ。また、けものでもありませぬ。

あの、蝙蝠の歌が、不意に、耳の奥で鳴り響いた。そうだ、私は、鳥でも獣でもない。そうして、人でもない。では、いま、こうして安アパートの汚い布団の上で、履歴書一枚書けずにうんうん唸っている、この、はにかみ屋の男は、一体、何者なのだ。

私は、恐る恐る、その硝子の板に表示された、ひとつの画像を、指で大きくした。古ぼけた、白黒の写真。泣きべそをかいているような、それでいて、どこか傲岸な光を宿した眼の男が、こちらを見つめている。私の知らない男だ。けれども、私は、この顔の隅々までを知っていた。この、救いようのない、弱虫の顔を。

私は、硝子の板を、壁に叩きつけたかった。だが、そんなことをすれば、弁償させられる。金が無いのだ。私は、ただ、布団に顔を埋めて、小さく、小さく体を丸めるよりほかなかった。

俺は、誰だ。

蛍光灯が、やはり、じい、と鳴いている。まるで、私の愚鈍さを、嘲笑うかのように。

Sources
2280_0001 Dazai Osamu_太宰 治 『俗天使』 / Score: 0.0013250224
289_0003 Dazai Osamu_太宰 治 『虚構の春』 / Score: 0.00055277866
52378_0001 Dazai Osamu_太宰 治 『当選の日』 / Score: 0.00027803096
18359_0001 Dazai Osamu_太宰 治 『作家の像』 / Score: 0.00026119032
1601_0000 Dazai Osamu_太宰 治 『わが半生を語る』 / Score: 0.00016865275

Humanitext Aozora

凄い、かなりそれっぽくなっている……。

リソースとなっているテキストに表現が引っ張られている感があるので、ここを調整してみても面白いかもしれませんね。たとえば、リソースを「人間失格」だけにしてみると、また違った結果が返ってきます。

文体模倣の練習として使えるかも?

「創作」モードで出力されたテキストを読んでみると、舞台を現代としつつも、文体は割と太宰治っぽさを再現しているなと思いました。この機能を上手く使えば、文体模倣の練習として使えそうです。

たとえば、ある作家の文体模倣を何も見ずにやってみて、その後でHumanitext Aozoraの「創作」モードを試してみる、といった挑戦をすると楽しそうです。

全文はペーストしませんが、「太宰治の文体で桃太郎を書いて」と依頼すると、以下のような内容が返ってきました。

桃太郎だなんて、我ながら、馬鹿げたことをはじめたものだと思って、顔から火が噴き出るような気持ちなのである。古典の焼き直しなんて、およそ、作家の為すべき業では無い。けれども、やらなければならぬ。なぜ、こんな駄文を連ねるのか。たのまれたからである。桃太郎を一つ、君の流儀で書いてみたらどうだ、などと無責任なことを言う人があって、私は、書きます、と答えてしまった。これもひとつの義務の遂行なのであろう。私の文章はどうも大袈裟で、こんなお伽噺ひとつ書くにも、いちいち宿命だの義務だのと言い出すから、読者諸君にもきっと反撥を感じさせるに違いない。けれども、こればかりは「北方の百姓」の血の然らしむるところで、どうにも仕様が無いのである。まあ、お聞き下さい。

そもそも、あの桃からして、胡散臭い。

川をどんぶらこ、どんぶらこと流れて来た、などと、いかにも暢気な風に言うけれども、その桃の気持にもなってみろ、というのだ。流れに身を任せ、どこへ着くともわからぬ不安。いや、不安などという生易しいものではない。絶望である。私は、その桃の孤独を思うと、泣けて来る。

爺さんと婆さんは、正直な人間であったらしい。子供の無い夫婦であったという。だから、その桃の中から赤ん坊が出て来た時、ふたりは狂喜した。天からの授かりものだ、と。

ここに、すべての悲劇の芽があるのだ。

「授かりものだ」と、爺さんは涙を流し、婆さんも皺だらけの顔をくしゃくしゃにして拝んだそうだが、その涙と感謝が、やがては子供の首を絞める縄になるのだということを、この正直な夫婦は、知る由もなかった。

Humanitext Aozora

太宰治は「御伽草子」で「桃太郎」を書くのをあきらめているので、こうして渋々書いているところを見るのは面白いですね。そう考えると、リソースを「御伽草子」 だけに絞ると、もっと面白い結果が得られるのでは……? などと、夢が広がりますね。

せっかく無料公開されているので、皆さんも好きな作家の好きな作品をリソースにして、ぜひ遊んでみてください。

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ABOUTこの記事を書いた人

1993年生まれ、福岡県出身、熊本県在住。
2016年より、文芸Webメディア「蓼食う本の虫」を主宰・運営。
熊本大学文学部文学科卒。在学中は日本語日本文学研究室に所属。卒業論文のテーマは「太宰治の私小説的作品について」。
新卒で印刷会社に入社し、営業・Webディレクターとして業務に従事。2018年にピクシブ株式会社に入社。チャット小説サービス「pixiv chatstory」のディレクター、pixiv小説チームのプロダクトマネージャー・コミュニティマネージャーを担当。2021年に個人事業主として独立。
詳しいプロフィールやご連絡については、atohs.meをご覧ください。