「修辞」と「誤用」のあいだ

別に最近始まったことではないのですが、いわゆる日本語の「誤用」というやつが気になっています。突然ですが、まずは僕は気になっている「誤用」ベスト3を紹介しますね。

(ちなみに、「言葉は時代によって移り変わるものだ!」論はもう聞き飽きていますし僕もその意見には同意なので、心の中でこっそりとつぶやいといてください。)

気になる日本語の誤用ベスト3

●第3位「的を得る」
「本当に的を得る」という人がいるのかな? と思ってたのですが、テレビでも割りと見ますし(テロップは「射る」になっている)、Twitterとかブログでもちらほら。

最近は「得るでもよくね?」という方々の発言力が強いような気もしますが、「的」と来たら「射る」の方がしっくりくるなあと僕は思っています。

●第2位 すべからく
発音が似てるからだと思うのですが、「すべて」という意味で使う人が多いし、僕も割と最近までそういう意味で使っていました。

漢文で「すべからく」を習っちゃうので、なんかかっこよくて使いたくなるんですよね。漢文を使うとき、「すべからく」って「べし」を伴うのですが、「すべからく~べし」で「当然~するべきだ」というような訳になります。

ということは、「すべからく」は「すべて」ではなく「当然」という意味で使うのが正しい(正しいんだ!)のです。


●第1位 敷居が高い

これはまだ少し疑っているところがあるんですけど、「敷居が高い」というのは文化庁によると「相手に不義理などをしてしまい、行きにくい」という意味らしいんですね。

つまり「不義理」というのが重要なポイントになっていて、なんかイケてる店は敷居が高いよね、みたいには使えないのです。

他の方の原稿を読んでいるときも結構「敷居が高い」を間違った(間違っているんだ!)使い方で書いている方がいて、苦肉の策としてすべて「ハードルが高い」に書き直していました。いま思えば、別に「敷居が高い」のままでもよかったのかなと思うところもあります。でもまあ、「ハードル」と「敷居」をごっちゃにしているところもあると思いませんか? 僕は思います!

「修辞」と「誤用」のあいだ

まあ、僕の気になっている誤用ランキングとかそんなことはどうでもいいんですよ。

今回のテーマは「『修辞』と『誤用』のあいだ」です。

たとえば第二位の「すべからく」とか、別に使わなくてもいいと思いませんか? たとえば、「人間はすべからく死ぬ」っていう誤用は「人間はみんな死ぬ」っていう表現にすれば正しいしパーフェクトなわけじゃないですか。それなのに、「すべからく」という言葉を使っちゃう。これ、なんでなんでしょう?

同じように、「ハードルが高い」よりも「敷居が高い」を使っちゃう。なんででしょう?

この記事を読んで暇を潰している読者諸賢はすでにお気づきのことと思います。そう、「かっこいい」んですよね。「みんな」って言っちゃうより、「すべからく」って言った方がかっこいいじゃないですか。漢文にも出てくるし。

同じように、「敷居」の方が「ハードル」よりかっこいいんですよね。こんなこというと陸上部の方に怒られそうなんですけど、ちょっと「ハードル」ってかっこ悪くないですか? いや、ハードルがかっこ悪くないとしても、「敷居」と比べてしまえば相対的にかっこ悪いと思います。

文章なんて誰にでも書けると思いますが、そんなこと言ったら絵だって誰にでも描けるんですよね。でも、やっぱりどちらにしてもそこには巧拙が生まれる。絵において、何がうまい下手の分かれ目になるのかなんて僕には分からないですけど、文章においては「論理」と「修辞」にはその秘密が隠されているのだと思います。

そして、小説をはじめとした文芸作品では、特に「修辞」が重視されると考えています。ところで、「修辞」ってなんでしょう? さくっとググって『デジタル大辞泉』を見てみると、

言葉を美しく巧みに用いて効果的に表現すること。また、その技術。レトリック。

と説明されています。

つまり、内容は同じでもどれだけ効果的に伝えられるかというのが「修辞」なんですね。となると、やっぱり「すべからく」はかっこいい。

だからといって、もちろん間違って使っていいというわけではないんですけどね。しかも、上にも書いたように日本語は時代によって変わっていくので、「誤用」だったものが「修辞」に変わっていく可能性だってあるのだと思います。

「修辞」の更新

そして最近思うのですが、文芸を志す人は、この「誤用」と「修辞」の間を狙っていかなければならないのではないでしょうか。

まだ一般的には受け入れられていない表現方法を見つけて、それを「修辞」として利用していく。そんな態度が求められるのではないかと思うのです。

しかし、それが「誤用」と呼ばれてしまえばそれは失敗なのだと僕は思います。いくら斬新な表現だとしても、斬新なだけでは「修辞」と認められないでしょう。間違っているよとか、意味がわからないよ、とか言われて終わりです。それが「修辞」になるためには、何が必要なのでしょう。

きっと、「修辞」には理由がなければならないのだと思います。その言葉を使う、組み合わせる、必然性。

「すべて」を「すべからく」と言い換えるのは、「かっこいいから」という理由があるでしょう。これはこれで立派な理由です。

しかし、そもそも「すべからく」には「すべて」という意味がない。これは大きな欠点で、「かっこいい」という理由だけでは到底これを「修辞」と呼ぶことはできないでしょう。

まとめ

しかし、だからといって「誤用」を恐すぎると、新たな「修辞」を作ることができません。ある程度は間違ってもいいので、新たな言葉の使い方や組み合わせに挑戦していくことが大事なのだと思います。

というわけで、みんなで素敵な「修辞」をたくさん作り出していきましょう。

あとーすでした!

(この記事に「誤用」を発見した場合は、編集部までお知らせください。)

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