高橋文樹『途中下車』 両親の死を受け止める冷たい心

高橋文樹『途中下車』を読みました。

普段は「高橋さん」と呼ぶのだけれど(面と向かって呼んだことはない)、本記事では一貫して「高橋」と呼ばせていただきたく存じます。ということを、冒頭で断っておきます。

著者の経歴をざっと紹介しておきましょう。1979年千葉県に生まれ、東京大学文学部仏文科卒。2001年に、今回紹介する『途中下車』で第一回幻冬舎NET学生文学大賞を受賞してデビュー。その後、2007年には『アウレリャーのがやってくる』で第39回新潮新人賞を受賞しています。ただし、同作は単行本としては出版されていません。

なぜ、僕は彼の存在を知ることになったのか。それは、オンライン文芸誌「破滅派」の存在が大きいと思います。この辺りの説明は割愛しますが、オンラインを飛び出して文学フリマなどでも冊子の販売を行っているので、気になるという方はサイトを見てみるといいかと思います。ネットで小説を公開するプラットフォームは「小説家になろう」や「E★エブリスタ」と様々ありますが、「破滅派」はそれらのサイトとは一線を画していると感じます。

破滅派|オンライン文芸誌

「死」へのまなざし

小説は事実の記述です。その事実はフィクションであることが多いにしても、そこに記述して誰かに読まれた以上は、この世のどこかであったこととして読み手に記憶されます。だからこそ、僕たちは物語のことを「たかがフィクション」と切り捨てることができないのです。

そのフィクションであるところの事実を羅列する小説を、無理やり起承転結の構造で解釈するとして、その「起」「転」「結」で人が死ぬというのはよくあることです。もしも「承」で人が死ぬとするのならば、それはアクション小説なのだと思います。僕は今ここで、阿部和重×阿部和重『キャプテンサンダーボルト』を例として挙げることができます。

さて、本作品では「起」の部分で「死」が取り扱われます。物語の全ては、両親の死によって始まると言っていいでしょう。同じように両親の死が発端となって始まる小説としては、『途中下車』から4年後に発表された本谷有希子『腑抜けども、悲しみの愛を見せろ』を思い起こします。よく考えれば交通事故で死ぬというところまで同じなのですが、まあ突然死ぬといえば交通事故くらいのものかなと思うので、別に拘泥するところではありません。

両親の早すぎる死という、自分の人生に起きればとんでもない事件を、読み手はそれほど重大なこととして受け取ることができません。そこに、主人公たちの過去や感情の記述が豊富にあれば、それに共振することも可能なのでしょうが、『途中下車』ではそのようなことが描かれることはありません。ただ静かに、両親の死という事実だけが記述され、そこからどうやら立ち直りかけているらしいということだけが描かれています。もしもこれが映像作品であれば、悲しげな音楽で僕らを物語世界に没入させようとするのかもしれませんが、テキストに音はなく、ただ僕は、両親が死んだ主人公の現状を把握することになります。

ただ僕は、おそらくこの小説の主人公も、両親の死というものを、意図的かそうでないかにかかわらず、冷たい心で受け入れようとしているのではないかと想像してしまいます。それは、まだ両親が死んだ実感がないとか、冷たい心でないと生きていけないとか、そういう理由があるのかもしれません。ただ、そんな生活をしている中で、はっと両親の死に気づくシーンがある。その描写は、まだ両親を亡くしていない僕にも、その苦しみのリアリティを一瞬だけでも提供してくれます。

 そしてまた、影は習慣にも差す。ぼくは学校の授業を寝過ごした時、起こしてくれなかった母さんの事を条件反射的に恨んだ。しかし、一階に届くほどの大声で怒りをぶつけたところで、応える人は誰もいない。行き場のない怒りとは、悲しみに変質する以外無いのだ。

『途中下車』より

妹との恋

両親の死の後に流れる時間、というのがこの小説の重大なファクターとなる中で、それを引き継ぎぐように出現する「妹との恋」もこの小説の主題として十分に機能していると言ってもよいでしょう。

妹への恋。もうそういうビデオか二次創作でしか出会わなくなってしまったように僕の中では陳腐な現象なのですが、しかしそこに妹の理名によく似た麗奈という恋人の存在を挿入することで、少し趣の変わったものになっています。無批判な妹への愛情を描くのではなく、代替として麗奈を愛せなかったという事実が、その切実さをよく表しています。その恋が、両親の死という癒しがたいし傷に端を欲していることは間違いないでしょう。

正直なところを言えば、切実さは伝わってくるものの、その恋の必然性というようなもの、あるいはこのフィクションが事実としての強さを持つに至る理由を僕は見つけることができませんでした。それは、先に指摘したように、この物語が徹頭徹尾、主人公の冷たい心を通して書かれているからかもしれません。ただ、その底から匂い立つような激情のようなものがない。妹への恋を肯定するにたる、強い個人的な倫理がない。そう思いました。

とはいえ、ここにどのような美しさを見出すのかというのは、それぞれの読み手に委ねられていることです。

まとめ

個人的には、象徴としてのバレーボールが喪失されてしまったシーンと、その直後の主人公の無関心がこの小説の最もよく書けているところではないかと考えています。上から目線ですみません……。

そういえば、記事の中で一度も「高橋」を使うことがありませんでした。さらなる破滅派の発展と、高橋さんのご活躍を祈念しております。

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