読んだことありますか? 4人のノーベル賞受賞作家とおすすめ作品を紹介

みなさんは、

  • パトリック・モディアノ
  • アリス・マンロー
  • スヴェトラーナ・アレクシエーヴィッチ

といった名前を聞いたことがあるでしょうか。

彼らは全員、2010年代のノーベル文学賞を受賞した作家たちです。

毎年ノーベル賞の時期になると、文学を読むことを趣味としている人ならノーベル“文学賞”を気にしてみるものではないでしょうか。

そこで今回は、毎年注目されるものの作家や作品に触れたことがないであろう方のために、ノーベル文学賞受賞作家とその作品をいくつか紹介いたします。

ノーベル賞候補の作家たち

ノーベル文学賞は、芥川賞や直木賞とは違ってひとつの作品に対して与えられるのではなく、その人物の文学的業績全体に対して授与される賞です。

メディアでも一定の注目を集めますし、特に日本では村上春樹が毎年ノーベル賞候補だといって騒がれていますね。実際には候補者は選考の後50年間公開されないので、候補とは言っても受賞しそうだと予想されているというだけなんですけどね。

そういう事情で、近年では三島由紀夫や谷崎潤一郎が実はかつて候補とされていたということが明らかになっています。

さて、こうしてわたしたちはノーベル文学賞に興味を持つわけですが、実際には冒頭にあげたような作家が受賞していて、正直言って名前も聞いたことがないということが多いのではないのでしょうか。

せっかく年に一人最も重要な作家を決めている賞があるのだから読んでみたいのだけれど、どこから手をつければいいのかわからないというのはありそうな話です。

もちろん文学の評価というのは常に変わり続けるので、ノーベル文学賞をとったからといって今でも、または今後も評価されるとは限りません。

受賞していなけれど重要視されているという作家も当然いますし、それに選考基準の正当性や正確さにも疑問の余地が残ります。

まあそれでもやはり、ノーベル文学賞歴代受賞者のリストが重量級に重要な作家や、読んで面白い作家の宝庫であることは間違いないでしょう。

ということで今回は、特におすすめの作家四人とその作品、中でも手に入りやすいと思われるものをご紹介しましょう。

ちなみに、翻訳の作品で読みづらいと思ったら、本の末尾の解説やWikipediaなんかを読んであらすじをあらかじめ頭に入れておくと理解の助けになることもあるかと思います。

ではでは、年代順に紹介していきましょう。

アンドレ・ジッド

アンドレ・ジッド(1869-1951 フランス)
1947年ノーベル文学賞受賞。受賞理由は「人間の問題や状況を、真の大胆不敵な愛と鋭い心理洞察力で表現した、包括的で芸術的に重要な著作に対して」。代表作に『狭き門』(1909)、『田園交響楽』(1919)など。

最初は、フランスの小説家アンドレ・ジッド。

「ジッド」だったり「ジード」、「ジイド」とも表記されます。これから紹介する岩波文庫の『贋金つくり』は、「アンドレ・ジイド」表記です。

一番よく読まれるのは『狭き門』でしょうか。岩波文庫、新潮文庫、それから光文社古典新訳文庫などに入っています。

主人公ジェロームと2つ上のいとこアリサの恋愛を扱ったものです。お互い好き同士ではあるものの、アリサには繊細過ぎるきらいがあって、信仰の説く神の国と地上の幸福との葛藤に苦しみます。

今回メインで紹介する小説ではありませんが、新訳もでていますし、物語の筋もすっきりしていて読みやすいかと思います。

おすすめ作品:『贋金つくり(上・下)』(岩波文庫)川口篤訳

おすすめポイント

  • さまざまな物語の線が交錯する複雑な構成
  • 少年ベルナールと作家エドゥワールの関係
  • エドゥアールとジッドを重ね合せるメタフィクション性

『贋金つくり』は、個人的に新訳が出てほしい作品のひとつ。この岩波文庫が出たのが1962年。例えばハンカチが「ハンケチ」と書かれていたりと、まあこのくらいの音訳の揺らぎレベルならいいですが、日本語そのものや翻訳に使う言葉、翻訳に対する考え方も変わってきているので、新しく翻訳がでてほしいなあと思います。

訳が古いというマイナスポイントから挙げてしまいましたが、それを差し引いても読むに値する作品です。

錯綜する物語構成

まずはタイトルの示すところ。元のタイトルを考えると『贋金つかい』とするほうが正確ですが、この訳では伝統的に親しまれている『贋金つくり』にしたとのこと。実際にあった偽造貨幣事件から着想を得ているようで、作中では贋金つくりの組織が少年たちの間に贋金を流通させて犯罪計画を展開しようとします。

少年たちの間に水面下で進行する腐敗が物語に常に影を落としているのが特徴的です。

ただ、実際読んでみると特別に犯罪に焦点を当てているようには感じないはず。というのもこの小説、話が錯綜していて、少年たちの世界、その親をはじめとした大人たちの世界、不倫をはじめとした恋愛事件、少年たちの文学に対する志、小説家の執筆過程……など、さまざまな物語の線が同時進行する複雑な構成をとっているのです。

したがって、登場人物も多く関係性が複雑なので、人物一覧や関係図をネットで探して参照しながら読み進めることをお勧めします。とりわけ男女関係の図は誰と誰が結婚していて、誰の愛人で、などとごちゃごちゃしていて面白いです。

なかなかひとことで語りつくすことの難しい作品ですが、目立っているキャラクターは冒頭で語りの視点が寄り添っているベルナールと、新作を構想する小説家エドゥアールでしょうか。

少年ベルナール

まずはベルナール。

小説は、少年ベルナールが実は母の不倫の結果の子であり父とは血がつながっていなかったということに気づいて、家出を企てるところからはじまります。ベルナールは父が実の父ではないと知ったことから、遡及的に(義理の)父の自分に対する扱いや愛情に不満を感じ、手紙を残して家出。偶然知り合った作家のエドゥアールの秘書になりたいと申し出て彼に付き従うことになります。

ベルナールの物語と絡んでくるのが、その友人オリヴィエ少年。彼らは文学をともに志す同志です。だからこそベルナールはエドゥアールに付き従い、オリヴィエは新刊が好評な作家のパッサヴァンと交流し、パッサヴァンの考える新しい文芸雑誌の編集長に任命されます。彼らの間で取り交わされる文学談義も読みどころですね。

オリヴィエはベルナールを崇拝し、恋い焦がれているといってさえよく、ベルナールと親しくなったエドゥアールに激しく嫉妬します。このオリヴィエも目が離せない人物です。ベルナールとオリヴィエのベッドシーンも目が離せません。

作家エドゥアール

次に、『贋金つくり』を語るに外せないのが作家のエドゥアール。エドゥアールはかつての恋人ローラをトラブル(不倫の末の妊娠)から救うためにロンドンからパリに戻ってきたところでベルナールと出会います。ベルナールが私生児であることとローラの妊娠の平行関係も気になるところですがひとまず置いといてこのエドゥアール、新作の小説『贋金つくり』を構想しています。

エドゥアールが『贋金つくり』について語るのはその日記の中でのこと。エドゥアールは日記を文学的構想のノートとして利用しており、日々の出来事と絡めて文学はどうあるべきか、新作をどのような小説にするかを書き連ねていく。

(ジッドの)『贋金つくり』には「エドゥアールの日記」というパートがところどころ挿入されていて、結構な分量が割かれています。そこで読者たちはエドゥアールの文学観に直接触れられるわけですが、当然エドゥアールと作者ジッドを重ねて読む読み方が可能になりそうですね。

このメタフィクション性、少し説明しただけでも複雑さが伝わってきそうな筋書き。これこそが『贋金つくり』の特徴でしょう。

それだけ、様々なものが汲み取れそうな作品です。

ウィリアム・フォークナー

ウィリアム・フォークナー(1897-1962 アメリカ合衆国)
1949年ノーベル文学賞受賞。受賞理由は「アメリカの現代小説に対する、強力かつ独創的な貢献に対して」。代表作に『響きと怒り』、『アブサロム・アブサロム!』など。

フォークナーを知っている人ならば、彼の作品にはアメリカの南北戦争後の南部の、人種差別の根強く残る社会のゆがみを複雑な構成で重厚に描いた難解なものというイメージがつきまといます。

そう言うと、これから読む方を身構えさせてしまいそうですが、まあ実際その通りで、間違いなく読むのに体力と集中力を要する作風ですね。

なぜフォークナーが難解かと言えば、それは彼が読者を信頼している、あるいは読者に多くを要求しているということに尽きるのではないかと僕は思います。フォークナーの文章は必要以上に多くを説明しません。これさえ書いておけばわかるだろうというぎりぎりのラインで書かれているわけです。逆に言えば、ひとつひとつの文に丁寧に意味がつめこまれています。

フォークナーが描いているのは人種差別や男女差別、階級問題、それらにまつわる犯罪や暴力、殺人などなど、なかなかに暗い話が多いですね。しかし、独特の引き締まった文体で描かれる人々の生き方が、皮膚の上にびりびりと感じられるような臨場感であらわれるのがフォークナーの魅力。それから、ふとした一文が警句のような鋭い詩的な印象を与えます。

おすすめ作品:「バーベナの匂い」(『フォークナー短編集』(新潮文庫)収録)滝口直太朗訳

おすすめポイント

  • 架空の舞台「ヨクナパトーファ・サーガ」
  • 父親殺しに対する周りの期待と主人公のギャップ
  • 復讐を焚きつける継母ドルシーラ

フォークナーは長編が有名ですが、今回は短編を。

「バーベナの匂い」の語り手は、大学生の青年ベイアード・サートリス。父のジョン・サートリス大佐がその政敵との諍いで殺されてしまい、周囲の人間からは殺された人間の息子としてその政敵に報復すること、つまり相手に銃弾を撃ち込むことを期待されています。

果たして、ベイアードはどういった判断をするのか……といったのがメインのプロットですね。

「ヨクナパトーファ・サーガ」

さて、作品背景を少し説明しておきます。時代は19世紀末南北戦争の10数年後のアメリカ南部。特にヨクナパトーファ郡ジェファソンという町が舞台になっていることは言及しておくべきでしょう。というのも、このヨクナパトーファという土地はフォークナーが設定した架空の舞台で、フォークナーはこれをつかって短編長編問わず多くの作品を残しており、一連の作品は「ヨクナパトーファ・サーガ」と呼ばれています。

したがって、この小説に登場する「サートリス家」は他の作品にもしばしば登場することになります。同一人物が再登場するというわけですね。一般的にはフランスの小説家バルザック由来のやり口だと言われているようです。同じ家系で同じ名前の人物がいたりしてかなりややこしいのですが……。

話を「バーベナの匂い」に戻すと、父のジョン・サートリスは土地の有力者、英雄とも言われるような人物です。ただ、ジェファソンという町は南北戦争の傷跡やら黒人差別の根強さやら、なかなか暗く物騒な町で、英雄とは言うものの(英雄だからこそ?)、父ジョンもかなり物騒なことをやってきているようです。

息子のベイアードは、時代と土地が求める美徳として父を殺された相手への復讐を期待されますが、当人は殺しとかそういうことはもうさんざん父がやってきたので、嫌気がさしている模様。

復讐を焚きつける継母ドルシーラ

ベイアードを復讐へと焚き付けようとするのが、彼の継母にあたるドルーシラです。これがこの小説のかぐわしいところで、どうやらベイアードとドルーシラはなんらか男女の関係にあるようなのです。

ドルーシラは「戦争最後の年を呼吸し、そのなかに生きているような」女性と作品の中で説明されます。この短編のタイトルにある「バーベナ」とは、彼女が髪に差している花の名です。男のような格好をしたがりベイアードに復讐を焚き付けるような激しい性質のドルーシラは、当然花を愛でるような人物ではないのですが、彼女によると「バーベナこそは、千軍万馬のうちにあってもその匂いを失わない唯一の植物であり、したがって、髪にさす値打ちのある唯一のもの」とのこと。

(ベイアード)「彼らだって人間だよ。ちゃんと生きていたんだ」
(ドルーシラ)「彼らは北部人よ。ここにはなんの用もない他国者(よそもの)だわ。略奪者だったのよ」(p.237)

上に引用したのは、父ジョンが政治がらみで行った殺しについて二人が歩きながら話し合う場面です。冷静で知的なベイアードと、戦争の影を背負った血の匂いのするようなドルーシラ。二人の性格の違いがよく出ているように思います。ドルーシラの台詞は、彼女の激しさ故、刺激的で面白いものが多いです。

私はそれを見つめたのだった。―女のようでなく、男の子のようにすらっとした彼女の肉体。
「夢なんて、近づくと、あんまり安全なもんじゃないわね、ベイアード」(p.237)

「あなたはなんて美しいんでしょう。あなたはそれを自分で気づいているの?とても美しくって、若くって、人を殺すことを許され、復讐することを許され、悪魔を天国からつき落とした天の火を、そのむき出しの手のなかに入れて。
(p.262)

二つ目の引用は父ジョンの死後、ベイアードとキスをしてその手に復讐のピストルを握らせるドルーシラの台詞。「悪魔を天国からつき落とした天の火」とはそのピストルが噴く火のことでしょうか。坂口安吾の『夜長姫と耳男』で、私を殺して美しいものを作ってと言う夜長姫の暴力への陶酔を連想したりもします。

ドルーシラにとって、やはり復讐が美しいもののようです。ただし、フォークナーが復讐を肯定的に描いているかというと、そこは簡単にはわかりません。ベイアードが最終的にどうしたかというのは、ぜひ読んで確認してみてください。

J.M. クッツェー(1940- 南アフリカ共和国)
2003年ノーベル文学賞受賞。受賞理由は「アウトサイダーが巻き込まれていくさまを、無数の手法を用いながら意表をついた物語によって描いたこと」。代表作に『夷狄を待ちながら』(1980)、『恥辱』(1999)など。

J. M. クッツェーは南アメリカ出身の英語作家。大学で教鞭をとる文学研究者でもあります。

デビューしてから国際的に認められるようになったはじめのころは,
南アメリカ出身であるというところが評価のポイントになっていたようです。つまり、南アメリカと旧宗主国との関わりや人種差別と向き合った、あるいは向き合うべき作家であると。

実際、クッツェーの作品はそうした倫理的課題に真っ向から取り組むような要素を多く含んでいますが、本人はヨーロッパ文学の伝統に対するアウトサイダーとしての南アフリカ人ということのみを個性とみなされることを喜んでいなかったようです。

では、彼の小説の個性は何かと言えば、価値観を共有しない他者と語り手、もしくは読者との出会いということがあげられるでしょう。とにかく、実際の作品を見てみましょう。

おすすめ作品:『イエスの幼子時代』(早川書房)鴻巣友季子訳

おすすめポイント

  • 出自不明の男と出自不明の少年
  • 不思議な母親探し
  • 異常が日常になる不気味さ

『イエスの幼子(おさなご)時代』は2013年に刊行され、つい最近の2016年に翻訳の出た小説です。

また、同じく2016年に『The Schooldays of Jesus(イエスの学校時代)』という続編が発表されています。こちらはまだ翻訳は出ていません。

出自不明の主人公シモン

物語は、初老の男がノビージャと呼ばれる土地に到着するところからはじまります。しかし、彼はどういう経緯でここにやってきたのか何をしにきたのか、読んでいてもよくわからない。どうやらすべてを捨ててここに来たということらしいですが、なかなか腑に落ちる答えは出てきません。小説全体が、雲の中にいて周りは見渡せず、ごく目の前のことしかわからないような曖昧さに包まれています。

その曖昧さが曖昧なまま受け入れられているのというのが何とも言えず不気味なところです。男の謎の経歴も特につっこまれることはなく、この地の公用語らしいスペイン語を習得し(外から来た人々にスペイン語を教育する機関があるようです)、シモンという名を与えられ、港で積み荷を降ろす職を手に入れます。

少年の母親探し

また、シモンはこの町に来る途中で偶然出会ったという5歳くらいの少年を連れています。ダビードという名を与えられた彼も例によって出自などは不明で、特に母親がいないということが問題になってきます。シモンは、ダビードの父親代わりに保護者の役割を果たしながら、彼の母親を探し出そうとします。これが物語の軸になってきます。

ダビードの母親探しのおかしなところは、母親を探す手掛かりは無く、どのような人物かもわからないというのにもかかわらず、シモンは母親になるべき人を目にすれば必ずわかるはずだと信じているというところです。

結局、シモンはイネスという女性を見つけ、彼女がダビードの母親だと直感することになります。イネスは子供を持った覚えなどなく、しかしシモンは「一度この子を抱きしめてみればこの子の母親であることがわかるはずだ」と主張するのですからめちゃくちゃです。しかも、イネスは次第にダビードがわが子であることを認めるようになり、ともに暮らしはじめます。

この奇妙な状況は、もちろん社会生活を営む上で周りとの軋轢をもたらします。しかし、微妙にそのずれが当たり前のこととして受け入れられているような、看過されているような、そんな印象を受けます。

シモンはこの小説で変人として登場するわけではありません。というか、周りから変人だと思われている様子はない。基本的には勤勉で善良な男で、職場の同僚とも良好な関係を作っています。読者は、理屈は通らないけれどもなぜか平和で善意に満ちた世界を見せられて、中途半端な秩序がかえって不気味に感じられます。

異常事が異常事として書かれない不気味さ

ポイントは、微妙なずれがいかにも異常なことであるという風ではなく、当たり前のことのようにあっさり書かれているところ。カフカの朝起きたら虫になるあの小説を読んだことがある方も多いと思いますが、この小説と共通する部分があるように思います。
カフカの『変身』のひとつおかしなところは、朝起きたら虫になっていたという異常な事態をそれほど異常なこととしては扱っていないところです。主人公は虫になっている自分を発見して夢じゃないかと疑うことはするものの、まずはじめにしたことはといえば、通勤の準備。さらにこの小説の最後は主人公が虫のまま衰弱して死んで、遺された家族は郊外へ出かけてこれからの明るい未来を語り合うというものです。

異常事を異常事として書かないことがかえって読者に感じさせる不気味さ。その中に微妙にあるユーモアと言えなくもないような感覚。こんなものが『イエスの幼子時代』にはあって、全然さわやかではない読後感になると思います。なかなかうまく魅力を伝えられませんが、端的に言うとかなり面白い小説です。おすすめ。

マリオ・バルガス=リョサ(1936- ペルー)
2010年ノーベル文学賞受賞。受賞理由は「権力構造の地図と、個人の抵抗と反抗、そしてその敗北を鮮烈なイメージで描いたこと」。代表作に『都会と犬ども』(1963)、『世界終末戦争』(1981)など。

最後に、ラテンアメリカからバルガス=リョサの作品を紹介します。

ラテンアメリカ文学は20世紀中ごろから特に盛り上がりを見せ、世界的に注目を集めているアツいジャンル。従来の西洋文学の伝統を受け継ぎつつも一線を画した独特の魅力があり、「マジックリアリスム」と呼ばれる日常と非日常を融合させた世界を構築する手法が好んで使われることもラテンアメリカ文学の特色です。

圧倒的な教養を土壌にしつつ、夢の中のような幻想的な短編を書くホルヘ・ルイス・ボルヘスや、20世紀小説を代表する傑作であるといっても差し支えないであろう『百年の孤独』の著者ガブリエル・ガルシア=マルケス(1982年ノーベル文学賞受賞)など、語るべきことはたくさんありますが、今回は、最近文庫化された『楽園への道』をおすすめします。

おすすめ作品:『楽園への道』(河出文庫)田村さと子訳

おすすめポイント

  • 画家ゴーギャンの伝記的小説
  • ゴーギャンの祖母のストーリーと交互に語られる
  • 血の繋がった二人の異なった価値観

『楽園への道』は22章からなる小説で、二つの物語が交互に書かれるという体裁をとっています。その二つの物語はどういうものかというと、偶数章にはフランスの画家ポール・ゴーギャンの話が書かれます。歴史上の人物を扱った小説というわけです。

ゴーギャンは19世紀の画家。もともとサラリーマンだったのですが、次第に画家の道を目指すようになり、あるときにはゴッホとの共同生活を試みたこともあります。ゴーギャンは画家としてなにか触発されるところがあったのか、フランス領ポリネシアのタヒチに二度、滞在しています。この小説では、一度目の滞在のところから書かれています。

自由奔放な画家として描かれるゴーギャン

この小説の中でゴーギャンは、本国に妻子がいるにもかかわらず多くの現地女性と関係を持ち、文明化されていない島での暮らしに魅かれる奔放でエキセントリックな画家として描かれています。なお、やはり小説ですので、史実と異なる部分や物語として肉付けした部分が多々あるだろうということは急いで付け加えておきます。

ゴーギャンパートでは、こういう出来事がきっかけでこうした絵を描いて、それが満足のいく出来だった、とかいうエピソードが語られたりするのですが、ここで出てくる絵画は実際に残っている作品で、美術が好きな方ならなかなか楽しめるのではないでしょうか。ゴッホをはじめとして、美術商アンブロワーズ・ヴォラールなど、この時代の印象派・ポスト印象派周りの人物が登場するのも楽しいです。

ところで、『月と六ペンス』という小説をご存知でしょうか。イギリスの作家サマセット・モームの小説です。キャッチーなタイトルなので、内容は知らないけど聞き覚えがあるということはあるかもしれません。こちらもゴーギャンを扱った小説で、タイトルの『月と六ペンス』は画家として芸術的成功を収めたいというゴーギャンの夢と、サラリーマンとしての安定した生活をそれぞれ意味していると言われています。読みやすい小説なので、ついでですが、ぜひ。

奇数章はゴーギャンの祖母パート

偶数章で登場するゴーギャンに対して、奇数章で登場するもう一人の主人公はゴーギャンの祖母フローラ・トリスタン。主に女性の権利解放のため筆を執り、各地をまわる聡明で勇敢な活動家です。

で二つのストーリーラインはどのように絡んでくるのか。結論から言うと二人は最後まで直接の関わりを持つことはありません。トリスタンの物語は1844年から、ゴーギャンの物語は1892年からそれぞれはじまっています。時系列が全く異なっていて、ゴーギャンの祖母であるトリスタンといえどおばあさんとして出てくるのはなくて、孫どころか子供もいない若いトリスタンが語られるわけです。

この小説の面白いところは、二人の直接の関わりは書かれないけれども、読者にはそれぞれのエピソードが微妙に絡みあってみえるというところだと思います。

たとえば、あるときゴーギャンが情熱的な活動家であった祖母のことを回想します。続くトリスタンのパートを読んでいくと、ゴーギャンの回想がトリスタンの運命の予言のように聞こえてきます。実際の時系列と小説の語り順=読者が経験する時系列がうまい具合に干渉して効果をあげていると言えるでしょう。

浮かび上がる二人の価値観

二人の物語を交互に読んでいくと、二人の似ているところ・違うところが浮かび上がってみえてきます。トリスタンにしてもゴーギャンにしても、自身の夢に対して非常に誠実で、目指すものは違えど同じ種類の情熱がうかがえます。

しかし、トリスタンは不幸な結婚などの経験を通して性交渉や結婚を男性が女性を支配する制度であるとして嫌悪しており、一方でゴーギャンは、タヒチで現地の多数の女性と関係し子供を産ませるなどかなり奔放な人物です。

フローラの目指した世界と、その後のより洗練されたかもしれない時代において、ゴーギャンがタヒチに求めた文明化以前の原始的なエネルギーに溢れる世界と……。思想的な絡み合いのようなものも面白く読めます。

最後になりますが、『楽園への道』はその語り口も特徴的で、若かりし日の自分に優しく語り掛け、励まし、慰め、憐れむような語りがしばしば登場します。例えば次のような調子です。

少なくともおまえは確信を持っていたね、コケ(タヒチでのゴーギャンの呼び名)。おまえの絵は近代的で文明的なヨーロッパ人の絵ではないと。(中略)芸術とは世界に開かれたものであり、諸文化と交錯し、異なる空気、異なる風景、異なる価値観、異なる民族、異なる信仰、異なる生活様式や道徳を取り込む必要がある。(中略)おまえはそれを成し遂げたのだ。世界と出会うために国を出て、ヨーロッパが知らないもの、あるいは否定したものを探し、学び、陶酔しながら。おまえにとっては高くついたかもしれないが、おまえは後悔していないよね、コケ。(pp.540-541)

この語りのおかげか、小説全体が穏やかな温かい空気に包まれているような気がします。

そこで起こる事件は必ずしも生易しいものではあるませんが、フローラ・トリスタンとポール・ゴーギャンという二人の情熱家への優しいまなざしがこの作品の印象を決定づけているように思います。

むすび

長らくお付き合いいただきありがとうございました。ノーベル文学賞受賞者リストに名を残した作家たちの個性を少しでも伝えられたでしょうか。

今回は、少々気が早いですが古典と言ってもいいかもしれない作家二人と、今もなお現役で作品を発表している現代世界文学の作家二人をご紹介しました。

翻訳であることもあって読むのがしんどいものもあるかもしれませんが、その先に面白いものがきっと待っているはずなので、この機会に手を出してみて作家たちを感じていただけると嬉しく思います。

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ABOUTこの記事を書いた人

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福岡県出身。東京大学在学中。英文学と現代世界文学を中心に学びつつ、都内でときどきクラシックギターを演奏している。