吉村萬壱『真空土練機』/ふたつの想像力をつなぐもの

どんなに「たのしい」とおもっていても、小説を書くことには大きなコストがともなうもので、書いている最中は基本的に「しんどい」。ぼく自身もほそぼそと実作をやるけれど、書いている途中に嫌になったりしがちで、完成することなんて年に数回あるくらいだ。

しかし、それだけ完成に労力が必要な小説なのだから、そもそも「おもんない小説」なんて存在しうるのだろうか、とふとおもうことがある。だれもがみんな「おもしろい」とおもうことを小説として書きはじめるのであって、最初からつまんねぇものをわざわざ書いたりしないのではないか。だれだったか、作家か詩人かその両方か忘れたけれど「小説はまだ書かれていない状態がいちばんおもしろい。書くことによって空想の世界が現実化してしまい、理想からどんどんズレて幻滅してしまう」なんてことをいっていた気がするのだけれど、だからこそ「最後まで書きあげる」という結果は尊い。そう考えると「小説の才能とは、小説を終わらせることができる能力だ」なんていうセットでついてくることばにも頷かざるをえない。だからこそ「小説を書き続ける」ことができるひとは端的にいって、えらい。

すばる2018年3月号に吉村萬壱の新作短篇『真空土練機』が掲載された。

今回は、この小説や吉村萬壱の過去作品をざっと見通しながら、かれの作家としてのオリジナリティや「系譜」というものについて考えてみたい。

ふたつの想像力を持つ『吉村萬壱』

吉村萬壱は一貫して人間に対して無機質なまなざしを向けてきた。『クチユクチュバーン(初出 文學界2001年11月号)』『バースト・ゾーン 爆烈地帯(2005年5月、早川書房、書き下ろし)』など重厚感を保ちながら「意味」という重力から軽やかに抜け出す虚無的な世界観を描きだす独特の想像力を武器としながらも、しかしその想像力の源泉は強力な虚構性にのみあるわけではない。

吉村萬壱の想像力はこうした世の果ての風景の創出だけではない。「生活の垢」とも呼べる小規模ありながら我々にとって決して完全に拭い去ることなど不可能な嫌悪感も想像力の源泉としていて、キャリア初期に見られた破滅的想像力は次第に控えられるようになり、『大穴(ダイアナ)(初出 文學界2013年3月号)』の発表を機に吉村の作風はこの「生活の垢」の色が濃くなっていく。そしてそれは無批判に肯定された偽善によるディストピアを描いた『ボラード病(初出 文學界2014年1月号)』で完成され、『臣女(2014年、徳間書店、書き下ろし)』により初期にみられた破滅的想像力との見事な融合に成功する。そして昨年に発表した長篇『回遊人(2017年、徳間書店、書き下ろし)』では、いまでは「ありがち」と言わざるを得ない「タイムリープもの」を扱ったが、かれはその定型化された枠組みに頼ることなく、あくまで「生活の垢」への執着を積み重ねることにより、「人間」ではない「作家としての生」とその執着をひきずり出して見せた。

『真空土練機』は習作っぽい?

今回すばる2018年3月号に掲載した短篇『真空土練機』もまた「生活の垢」から生じる嫌悪感から生じる世界模様を描き出している。どんな小説かといえば「尻のでかい腰痛持ちの女が脱糞する」といった吉村萬壱おきまりのエピソード(まったくもう……)がいちおう軸としてあるが、ねちっこい筆致で書かれたこの短い小説は幾度となく脱線を繰り返す。が、そもそも腰痛に苦しむ西川奈美子のエピソードじたい全体で占める割合は半分あるかないか程度ではあり、「脱線」とはいえない。奈美子の生活を中心として同僚の社内恋愛や成田空港に降り立つ飛行機のなかにいるパキスタン人が描写され、さらに同僚のエピソードから上司の過去やら美術家の卵の青年のエピソードが次々と連鎖的に描かれるという手法が採用されており、「物語」でなく「空間」に比重が置かれた作品になっている。

もちろんこうした小説に新規性はなく、特に近年日本で発表された小説とならべて見ても「ありがち」という印象が拭えないし、そもそも「で?」感がヤバい。

短篇とはいえ、視点を広く構えたわりに描かれた空間はやっぱり小規模だし、小規模なら小規模でいいのだけれどエピソードがどれも手グセで書いたようなものばかりで、序盤と最後に出てきたパキスタン人の子どもも「とってつけた」だけに読めてしまう。別に「小説には新規性が大事だ!」なんて言い切るつもりはないけれども、本作は短篇の割にギミックが多く、どれも消化不良に終わっているがゆえに中途半端な作品だ。その中途半端さが「習作」くささを出している。

観察と想像力

しかし吉村萬壱の作品系譜をあらためて見てみると、こうした空間認識を実作に盛り込むことは必要なことだと思える。吉村萬壱の作品を読むとどうしても「人間の醜悪さ」が主題に見えてしまいがちではあるが、そもそもかれが描いているのは「人間の内面」などではない。人類が幸福であろうが不幸であろうが吉村萬壱にはどうでもいい問題で、あくまで多数この世界に存在する生物のなかで「人類」をたまたま観察対象にしただけだろう。

たとえばの話なのだけれど、だれでも一度は蟻の群れを見つけるとその一匹に白い絵の具をつけて一日中観察するなんてことを幼少期にやったことがあるとおもうのだけれど、これまでの吉村作品はいわばそんな感じの小説だ。特定の人間に名前というマーキングを施し感情移入を排除してその行動をじっと観察する。『クチュクチュバーン』のような世界全体を覆う作品であっても、あくまでそれは個体観察から始まり、結果的に人類全体という「群」を観察せざるを得なくなったという構成を取っていて、あくまで「個」に基づいた小説であることには変わりない。

『真空土練機』に関しても、やはり「個」の観察が小説のエンジンとして機能しているが、こちらは「個から個への観察対象の移動」という運動が強調されているという点において、過去作との差別化ができるようにおもえる。この運動は吉村萬壱の大きな特徴である「破滅的想像力」と「生活の垢」というふたつの想像力の融合を、「わたしとあなた」という個人的な関係により成立する破滅を描いた『臣女』以上の規模で行うための重要な技術となるだろう。人類規模に及ぶ破滅は「群」の観察により観測可能な事象であり、「生活の垢」は「個」の営みによって排出されるものだからだ。

「系譜を読む」ということ

以上が、すばる2018年3月号に掲載された『真空土練機』を読んで、ぼくが考えたことだ。正直な話、この小説だけ読んだところで「おもしろい」と感じるのは個人的にむずかしいのだけれど、技術的野心や今後の作品の大きな飛躍を予感させるという点での興味深さがあった。

『真空土練機』に限らず、文芸誌に掲載される作品にはこうした「実験」要素を含むものも少なくない。小説はなにも「全身全霊をかけた大傑作」だけではないとおもうし、「それだけがおもしろい」というものでもないだろう。

そういう「実験」をたのしむためには、実際問題としてそれなりの読書経験が必要だとおもう。……なんて書けば「読書家アピール乙」なんていわれそうで嫌なのだけれど、「読書のたのしみは読書経験の蓄積によって何倍も増幅される」ということを、ぼくはひとまず事実として信じたい。

ここで書いたような「考察」がどれだけ正しいかなんてだれにも(おそらくは作者自身にも)わからないだろうけれど、「表現の系譜」をたどってはじめて感じたり考えたりできるようになることもある。そうした読書はクリエイティブなもので、読書はたぶん「書かれている情報を摂取する」という消費行為でなく、「これまで考えもしなかったことを考える」という創出にこそおもしろさがある。これはぼくの持論だ。

ひとりの作家の作品を追ったり、時代を俯瞰してさまざまな作家を比較的に読むなど、小説の読みかたは多様にある。だからこそ、「自分自身の読書」を模索してみるのもいいんじゃないか。

ともあれ、吉村萬壱。すぐ糞尿ネタに走りがちですが、唯一無二の世界観を持った魅力的な作家なので、機会があればぜひ読んでみてください。

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文筆家。第1回阿波しらさぎ文学賞を受賞。文学ムック「たべるのがおそいvol.6(書肆侃侃房)」に短編小説『誘い笑い』、「エンドロール(PAPER PAPER)」に『天の川の彼岸まで』を寄稿。著書に『コロニアルタイム (惑星と口笛ブックス)』がある。
Twitter:@BOhtaki
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