「日本の純文学はもう終わり」そういわれていた時代があったことをご存知でしょうか。それは昭和の終わり、批評の対象にマンガやアニメが入ってきた頃のことです。
批評家の柄谷行人氏は論文『近代文学の終り』で「日本の純文学小説は歴史的使命を終えた。これからは娯楽として読まれるエンタメ小説しか必要とされない」と述べました。1
これに対し本書の著者の一人である重里氏は、文化の一角を占める文学が衰退するはずはないと当時思っていた、と文学に対する愛情と信頼をもって序盤で語ります。そして事実、純文学は現在も衰退していません。
本書は文芸評論家の重里徹也氏と日本文学研究者の助川幸逸郎氏が、衰退するといわれていた純文学が平成期にどう変化を遂げてきたかを語る対談集です。「平成期の村上春樹」「多様に深化する『私小説』」「『土地の力』を感じて」など10のテーマに沿って平成の文学が多様な視点で語られる本書は、体系的にまとめた通史とはまた違う趣があります。
平成の文学という広い世界に、並行する10の線が引かれることで、平成の文学とはなんだったのか、また平成とはどのような時代だったのかが浮かび上がり、最後には1本の線が見えてくることでしょう。この記事ではその線のうちのいくつかを紹介します。
平成の文学とは何だったのか
「平成」という単語を聞いたとき、みなさんは何を思い浮かべますか? バブル崩壊、阪神・淡路大震災、同時多発テロ、リーマンショック……。重苦しい出来事がまず思い浮かぶという方も多いのではないでしょうか。ゆえに平成期は人生を意味づけるものは何なのか、というような問いが個人でも社会でも繰り返されてきました。その問いは文学が語るべき問題と重なる部分が多く、「(平成の)日本文学は豊穣の時代だったのではないか」と両氏は語ります。
両氏は平成前期と後期の境目に、東日本大震災が発生した2011年を挙げます。
平成前期に生みだされた物語の特徴の一つに「システムでは解決できない矛盾に孤高の天才が立ち向かう」というパターンがあります。これはバブル期に平均的な日本人が「自分ひとりの力でやれる」と感じる範囲が飛躍的に増大したためだと重里氏は述べます。
その範囲が東日本大震災にともなう津波や原発事故によりぐっと狭くなり、平成後期からは「個人」よりも「連帯」を意識した物語が人々の共感を呼びました。
このことは第4章「恋愛から同志愛へ」で詳しく語られていきます。
平成後期の文学――恋愛から同志愛へ
第4章「恋愛から同志愛へ」では、平成後期の読者が惹かれた作家として小川洋子氏の名前が挙げられています。重里氏は『博士の愛した数式』を挙げ、「私」と「博士」のつながりを「同志的連帯みたいなもの」と位置付けます。助川氏も「私」と「博士」のかかわりが「江夏のいたころのタイガース」と重ね合わせられていくところにこの作品の魅力があると語ります。それを受けた重里氏は以下のように述べます。
球団を応援するというのは、水で薄めた宗教のようなものではないでしょうか。この日々の生活とは違う世界で、その球団はペナントレースを戦っている。その球団を愛し、応援し、勝敗に一喜一憂することで、日常を超えた感情を味わい、励まされたり、地上の憂さを忘れたりできる。その球団が勝ったところで、金銭的な損得はない。ひたすら無償の愛を注ぐ。そして、同じ球団を愛する人たちを同志のように思う。これは、かなり宗教に近い感情だと思います。
ここでいう「球団」は「推し」に言い換えることができるのではないでしょうか。
「女オタクの現在――推しとわたし」と題した特集が組まれた『ユリイカ』2020年9月号は重版がかかり、「推す」という感情そのものを深く掘り下げた宇佐見りん氏の『推し、燃ゆ』が発行されるなど、令和がはじまった今「宗教に近い感情」は読者にとってより身近な問題になっているといえます。
こうした複数の人間で幻想を共有する「共同幻想」を扱った物語が平成後期にかけて大衆に受け入れられていった過程、そして金原ひとみ氏や綿矢りさ氏などの平成の作家が「共同幻想」「対幻想」に対してどのような態度をとってきたかが第4章では俯瞰的に語られており、さながら社会時評のような趣があります。
この章をサブテキストにして時代背景を捉えながら作品を読むと、より深い理解へとつながるでしょう。
越境作家の登場
平成後期的な作品として、重里氏は映画『君の名は。』を挙げて語ります。このように本書では文学だけでなくアニメやマンガ、ゲームなどのポップカルチャーも取りあげられます。第7章「越境する作家たち」ではゲームからの影響を交え、平成の純文学が他ジャンルの影響を受けて発展したことが語られます。
助川氏は、日本のゲームの特徴は「プレイヤーがいかに物語に介入するか」だと述べます。例えば、ゲームのキャラを実在する人物のように扱い、デートをしたり、誕生祝いをしたりしてSNSに投稿する。このような特徴は「物語を操作する側と物語の内部の境目がなくなる」という点においてポストモダン小説と同じだと指摘します。
そうしたポストモダン小説の書き手の一人として、舞城王太郎氏が挙げられます。舞城氏は純文学分野で活躍する作家の一人ですが、デビュー作はミステリー小説であり、脚本家としての顔も持っています。舞城氏は別ジャンルから純文学分野へ進出した越境作家だといえます。
こうした越境作家の先駆けが筒井康隆氏です。筒井氏が谷崎潤一郎賞や川端康成文学賞を受賞し、三島由紀夫賞の選考委員に就いたことで、舞城氏らが純文学分野で認められやすくなったと重里氏は語ります。実際、筒井氏は第16回三島由紀夫賞の選評で「(舞城氏の著作である)『阿修羅ガール』を推す」と述べ、同作品が受賞作に選ばれています。2
このように第7章では越境作家の系譜を辿りながら、ミステリーやSFなど他ジャンルからの影響に対して純文学がオープンになっていった過程が丁寧に語られます。
この章で作家同士のつながりや影響を俯瞰すると、より作品を楽しむことができるのではないかと思います。
平成の文芸批評
前項で文学賞が話題にのぼりましたが、本書で語られるテーマは文芸批評にも及びます。第8章「批評はどこへいくのか」で両氏は、平成期に文芸批評は萎み、代わりに書店員や文学賞が存在感を増したと指摘します。
80年代、雑誌はメーカーとタイアップして広告収入を集め経営を安定させるシステムを確立したため、対象について率直に語った記事が載りにくくなり、その「公正さ」や「信頼度」が揺らぎました。純文学雑誌も例に漏れないと助川氏は述べます。
結果、平成期には本当に自分の売りたい本を推奨する書店員に読者からの支持が集まりました。紀伊国屋書店梅田本店が凪良ゆう氏の『神様のビオトープ』を推薦し発売から2年を経て重版が決定、その年に発表された同氏の『流浪の月』が本屋大賞を受賞したことは記憶に新しいでしょう。書店員や書店の存在は令和になった現在も大きいといえます。
同じく文学賞も選考過程がすべて公表される点において公正さが確保されており、本の水先案内として機能していると両氏は述べます。
この章の最後、重里氏は「魅力的な評論とは」の題で語るのですが、この語りには今後の文芸評論・小説に求められているものが込められています。ぜひ手に取って読んでみてください。
最後に
文学は普遍的なものを描こうとして、おのずから時代を表現する。時代を表現しようとして普遍に達する。そんなメカニズムがある。
そう語られているように、本書を通して感じたのは「文学は時代の同伴者である」ということでした。
文学に限らず様々なジャンル・カテゴリの作品を蓄積した両氏の縦横無尽な語りからは、おのずと平成という時代の世相が浮かび上がってきます。そしてその世相を作家がいかに作品に落とし込んでいるか、私たちは知ることになります。
本書は文化論・社会論を交えて「平成の文学とはなんだったのか」という問いに見事に答えているといえるでしょう。
加えて本書から伝わってくるのは両氏の文学に対する愛情です。作品や、文学を取り巻く実情に対する称賛はもちろん、厳しい意見も、文学に対する愛情あってこそという態度がこの対談からは滲み出ています。そういった意味で、純文学初心者でも玄人でも楽しめる本だといえます。
代表的な作家・作品の立ち位置を俯瞰できる本書はブックガイドとしても最適です。無限に広がり続けている文学の世界に一つの道筋を立ててくれるでしょう。
1 柄谷行人『近代文学の終り』2005年,インスクリプト
2 新潮社. 「第16回 三島由紀夫賞」.https://www.shinchosha.co.jp/prizes/mishimasho/16/, (参照2020-09-30).