『最愛の子ども』で、わたしは疑似女子高生を体験する。

 歴史は語り継がれる。ありきたりな言葉である。そう、歴史は確かに語り継がれるし、私たちはその圧縮された過去の出来事を紙面から学ぶことがある。

 いったい誰が、その出来事を「事実」だと言い切ることができるだろうか。誰が、もう過ぎてしまった事を、言葉でもって忠実に再現することができるのだろうか。

 歴史は、主観的認識の総体によって語られる。それが客観性の役割を果たすのだ。皆が「きっと事実だ」と信じれば、それは歴史になりうる。強引な導きであるかもしれないが、これを否定できる人はまずいないだろう。わたしたちの読んでいる紙の束を、どうやって事実と証明しようか……。

これは、「わたしたち」が紡ぐ物語。

 『最愛の子ども』は、女子高生たちの歴史書、もしくは伝承、神話のようなものである。

 〈パパ〉である舞原日夏、〈ママ〉である今里真汐、そしてその子どもの〈王子様〉である薬井空穂によって構成された、〈わたしたちのファミリー〉を記録する書だ。

 〈わたしたちのファミリー〉に関する出来事は一貫して、「わたしたち」の視点から語られる。そこに客観性が介入することはない。

「わたしたち」が実際に見聞きした情報と、それによって推測されるストーリーを「わたしたち」好みに加工したものを織り交ぜて、物語を紡いでいくのだ。皆が「きっと事実だ」と信じれば、それは歴史になりうる。

 歴史のなりたちには、物的証拠が必要になる。それは女子高生の一人である草森恵文が教室の後ろの黒板に示した、「わたしたち」の名前の下にある「目撃者」という言葉によって補われている。「わたしたち」が、〈わたしたちのファミリー〉の物語の語り手であり、証人であるのだ。

 〈わたしたちのファミリー〉は、彼女らの意図とは全く関係のないところで、「わたしたち」の心を翻弄しながら、甘い世界に誘っていく。

友達、恋人、家族

 友達、恋人、家族の境界は、曖昧な気がする。例えば恋人だけれど友達のように付き合っている人たちもいるだろうし、友達だけれど恋人みたいなことをする人たちもいるだろう。

 恋人はいずれ家族になるかもしれないし、家族のような友達がいるかもしれない。家族と思えない家族だっているし、友達だと、恋人だと思えないそれも、いる。

 友達とか、恋人、家族にきっと正解なんてない。「他人」という対象に、区分を与えているだけだ。そう思うと、楽になる一方で、寂しさを感じてしまう自分がいることに気がつく。わたしは心底面倒くさい人間なのだと思う。

 明らかに差をつけて弟を可愛がる母に嫌気がさす真汐、兄弟仲が決して良いとは言えない家庭で過ごす日夏、一歳半の頃に父親を失くし、看護師として働く伊都子さん(空穂は母親を名前で呼ぶ)と暮らす空穂の三人は、互いの友達であり恋人であり家族であり、そのどれでもないのではないかと思う。

 三人で笑っているところを、「わたしたち」の外側、社会と呼ばれるところから見てみると、〈わたしたちのファミリー〉はただの友達としてその目に映るだろう。彼女たちはきっと、学校の行事で書かされた「女子高生らしさとは何か」という作文に真汐が出した答え——「しつこくかまって楽しんだり腹を立てたり」する対象でしかないのである。彼女たちがファミリーを形成していることなど、世間は知ろうともしない。

 〈パパ〉である日夏と、〈王子様〉である空穂が、いわゆる近親相姦めいた戯れをするのは、友達の域を超えているように思える。そこには家族と恋人の定義が交錯している。ただ、日夏が「日夏と真汐って肉体関係あんの?」という質問に対してはぐらかしたり、空穂に対して愛撫以外の何をもしなかったりするのは、あくまでも友達という場所にとどまっておきたいという意思表示なのだろうか。

 〈わたしたちのファミリー〉も、それを見守る「わたしたち」も、「まだ何ものでもない生き物」である。女子高生という、大人と子どもの狭間の時。互いが友達であり、恋人であり、家族であるかもしれない、曖昧な関係。それが大きくうねったり歪んだりしながらも、時間は確実に未来へ向かって進んでいく。

 友達、恋人、家族の定義に、まだ正解を見つけることはできない。だけれど、その解答を導く手掛かりとして、この作品をずっと、胸にしまっておきたい。

 同級生のひとことによって、暗い気持ちになったり、すごく嬉しくなったり、孤独になったり、腹を立てたりしていた頃の自分に引き戻されていく。埃っぽい、蒸したような教室の匂いが、鼻腔を掠めた。

疑似女子高生体験

 日夏、真汐、空穂の三人は、疑似家族を形成しているわけだが、読者である私達は、「わたしたち」の目を通して、疑似女子高生を体験できると言っていい。胸の前でスカーフは結ばないし、プリーツスカートは履かないけれど(もちろん形から入るのも良い……)、読者は、いつの間にか自分が女子高生になっていることに気付くに違いない。

 女子高生を経験したことがある人も、そうでない人も、放課後の教室でだらだらする時間に、なんとなく愛しさを感じることがあるのではないか。

 実際にそんな経験がなかった私でも、スカートを短く折って上履きをだらしなく潰しながら、目的もなく教室に残って時間を持て余すその光景を、肌で感じることが出来る。

 〈わたしたちのファミリー〉は「わたしたち」の関心の的となるが、それを取り巻くクラスメイトも非常に魅力的で、興味深い一面をこちらに見せてくれる。官能系情報コレクターの木村美織、国語が抜群によくでき数学が全然できない、〈わたしたちのファミリー〉の物語の記録者でもある草森恵文、「わたしたち」のクラスである二年四組随一の絵かきである田中花奈子に、ピアノが上手い二谷郁子。その他にも、他クラスの美少女に思いを捧げる者、R&B歌手に顔が似ている者、ヤシの木陰で昼寝をしたらヤシの実が頭に落ちてきそうな者など、その顔ぶれは多種多様である。

 物語の舞台である、玉藻学園二年四組に入学して、「わたしたち」とともに〈わたしたちのファミリー〉の物語を目撃する。

 これは、小説に感情移入するのとはまた、違う。歴史の教科書を読んだ時、その出来事が起きた場面に自分が立ち会ったことのあるような感覚に陥る、あの瞬間に似ている。追体験……いや、やはり疑似体験であろうか。私達は「わたしたち」の紡いだ言葉によって、〈わたしたちのファミリー〉にもたらされる全ての物事を、再現するのである。

 あなたが胸元のスカーフを結んでいなくとも、プリーツスカートを靡かせることがなくとも、きっと、女子高生を体験するに違いない。

最愛の子ども

 私達は、最も愛されていてもそうでなくても、誰かの子どもであったことに変わりはない。人間はひとりでにぽんっと出現したりはしないし、空から降ってきたりもしない。

 私達はみな、幸せなことに/残念ながら、誰かの子どもであった。

 家族(または親子)という概念は、人類がある限り存続し続けるものだと勝手に予測を立てていた。でも今思い返してみると、人間がセックスをせずとも種の存続を可能にする時代が来たとして(倫理的な問題は置いておく)、パパ、ママ、子どもという概念は、保持され続けるのだろうかという疑問が湧いてくる。

 そんな近未来じみた話をしたかったのではない。いや、これはもはや、未来の話ではないのかもしれない。

 あなたにとって、家族とは何ですか?

 そう問われても、なんと答えて良いか分からない。「大好きな人です」とか、「法によって繋げられたひとたちです」とか、答え方は幾通りでもあるのだろうが、そのどれが私にとっての家族に当てはまるのか、適切なことばを見つけられないでいる。

 家族のもつ影響力は大きかった。私には、未だに親から教えられた決まりを守る習性がある。たとえそれが世間でいう「常識」とは、かけ離れたところにあったとしても。

 空穂の母である伊都子さんは、親という役割を一人で背負いながら、空穂に愛情を注ぐことを惜しまなかった。空穂の家庭事情を聞いた時の「わたしたち」は、雑な愛情だと評したけれど、それでも愛には変わりないのだ。

 伊都子さんは、忙しい時ほど空穂に構わず、自分の機嫌がいい時だけ、娘にちょっかいをかけてくる。空穂はここまで育ててくれた義理で、親のからかいに付き合うが、疲れてしまうことがある。子どもはいつしか世間というものを知り、親を追い越す。私は「世間を知ること」に対して、なぜだかすごく悲しい気持ちになってしまう。

 親が絶対善であった時代がある。どんなことをされても、この目の前にいる人が“最も正しい人”であるのだと、信じて疑わなかった時代。私は今でも信じていたい。世間なんて知らずに、この人が自分の一番の理解者であるのだと、妄信していたい。

 空穂には、もう一人の母がいた。〈わたしたちのファミリー〉の〈ママ〉を担う真汐である。空穂は、〈ママ〉と〈パパ〉である真汐と日夏の、「最愛の子ども」であった。この関係性が、〈パパ〉と〈王子様〉の戯れをきっかけに、どんどん形を変えていく。

 日夏は言う。

「あんたがいてもいなくても何が起こったかなんてわからないよ。どんな夫婦だって友達だって永遠に変わらず一緒にいるって保証はないんだから。」

 永遠にかわらず、一緒にいるという保証はどこにもない。それは今、同じ職場で働いている苦手な同期にも、意気投合して間もなく仲良くなった唯一無二の友人にも、たまに喧嘩もするけれど自分のことを大切にしてくれる恋人にも、言える事である。

 そして、最愛の子どもにも。

 やっぱり、あなたにとって家族とは何ですか? と問われても、すぐに答えを出すことはできない。「最愛のひとです!」なんて、何かがない限りは言えない。それでも、大丈夫だよ。そう言われているような気がする。家族とか、友達とか、難しいことは考えなくていいよ。ただあなたが、そこにいるってことだけ、分かっていたらそれで……。

 〈わたしたちのファミリー〉の歴史が、こんな形でピリオドを打つとは思わなかった。いや、もしかしたら、目撃者である「わたしたち」が、また言葉を紡ぎ出してくれる時が来るかもしれない。それまでは、少しお休みなだけなのかも。

 女子高生の歴史書は、思わぬ形で記し終えられる。私は、側で見ていた目撃者として、涙を飲まずにはいられなかった。

 歴史は語り継がれる。〈ママ〉、〈パパ〉、最愛の子どもである〈王子様〉の物語は、また、わたしたちの手によって、語り継がれてゆく——。

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