文字の精霊が溢れるこの世界でー中島敦『文字禍』を読むー

僕たちは、文字の精霊にこき使われる下僕だ!

本の帯に書かれたその一文を本屋で見かけた時、私は思わず足を止めていました。「僕たち」とは一体誰のことなんだろう? 「文字の精霊」とは何なんだろう? それに「こき使われる」とはどういったことを示唆しているのか?

いくつもの疑問が頭に浮かび上がってきて、気がつけば私はその本を手に取っていました。

そうして、私は中島敦の『文字禍』と出会ったのです。

冒頭の一文は、角川文庫版の『文字禍・牛人』の帯に寄せられたコメントになります。そのコメントに目を惹かれて読むことを決めましたが、それまで中島敦の作品はあまり読んだことがありませんでした。

中島敦といえば、学校の教科書にも載っていた『山月記』がよく知られているのではないでしょうか。

『文字禍』は、『山月記』と共に『古譚』という連作短編集として刊行された作品の一つです。

『文字禍』が初めて世に発表されたのが1942年(昭和17年)です。それから70年以上経った2020年に角川文庫から再び刊行されました。

何故、この『文字禍』という作品が今になって復刊されたのか。それはひとえに、現代にも「文字の精霊」が息づいているからではないでしょうか。

現代に息づく 「文字の精霊」

物語の舞台は紀元前7世紀頃のアッシリア帝国。作中において、当時のアッシリア帝国では精霊はこの世に存在するものとして認知されていたと語られます。

そんな中、当時の支配者であったアシュル・バニ・アパル大王の命に従って、老博士ナブ・アヘ・エリバは「文字の精霊」について研究を始める……というのが物語の導入になります。

アッシリア帝国についてはあまり馴染みがなかったもので、この時点まで読み進めた私は少々面食らいました。しかし、よくよく読み進めると、現代の日本を生きる私にも共感できる部分が多くありました。

「文字の精霊」について研究を進めるナブ博士は、やがて奇妙な現象に相見えます。

一つの文字を長く見詰めている中に、いつしかその文字が解体して、意味の無い一つ一つの線の交錯としか見えなくなって来る。単なる線の集りが、なぜ、そういう音とそういう意味とをつことが出来るのか、どうしても解らなくなって来る。

この現象は、今の言葉で言えば “ゲシュタルト崩壊” にあたるでしょう。同じ文字をずっと見つめ続けていると、「あれ、この字ってこんな形だったっけ?」と思うことは私達にも理解できる感覚だと思います。

ただ、驚くべきことに、このゲシュタルト崩壊という概念が発見されたのは1947年であるのに対して、中島敦が『文字禍』を発表したのは1942年です。この現象自体は昔から認知されていたのかもしれませんが、ゲシュタルト崩壊という名前が付けられる前から小説の題材に用いていたところに、中島敦の洞察力がかなり鋭かったことが窺えます。

さて、ナブ博士がこの現象を体験してからというもの、博士は文字以外の物を見ても同様の現象が起きるようになります。家を見ても、人の体を見ても、なぜそれらがそのような形になっているのかが分からないと言い、「人間生活の凡ての根底が疑わしいものに見える」ようになってしまうのです。

ナブ博士は、自身に起きた現象を文字の精霊がもたらす「病」と評します。しかし、私にはこれが病の一言で済ませられる現象だとは思えませんでした。さながら “物質世界すべてに対するゲシュタルト崩壊” とも呼べるこの現象は、私達の生きる世界の在り方を指し示しているように感じるのです。

昨今では、若者を中心に活字離れが進んでいるという話をよく聞きます。しかし、それは紙媒体に書かれた文字を読む機会が減ったということで、依然として私達は文字に触れています。

今の私達にとって、最も文字に触れる機会の多いものといえば、やはりインターネットでしょう。もはやスマートフォンが日常生活の一部と化している今では、これまで以上に多くの情報を得ることができるようになりました。

GoogleやYahooなどの検索エンジンを使って、気になる情報を調べたり、ネットニュースやSNSを通して、世の中の出来事について知ることができます。

そういった多くの情報を得る際に、大体が文字を読むことになります。Instagramなどは写真や動画をメインに投稿されていますが、それらの投稿には「タグ」と呼ばれるものが付けられています。それを考えれば、インターネットの中にもたくさんの文字が潜んでいることが分かります。

活字離れが叫ばれる今の時代ですが、紙に書かれた活字以外にも文字が潜んでいて、私達は絶えずそれらの文字に囲まれながら生活しているのです。

「物質世界すべてに対するゲシュタルト崩壊」とはつまるところ、この世界が文字に侵食されていることの表れなのかもしれません。

「文字の精霊にこき使われる下僕」

『文字禍』に話を戻しましょう。「文字の精霊」が人々にもたらす病の強大さを痛感したナブ博士の元に、若い歴史家のイシュディ・ナブが訪ねてきます。そこで彼は、博士に「歴史とは何ぞや?」と問いかけます。

その問いに対して、博士は「歴史とは、昔在った事柄で、且つ粘土板に誌されたものである」と答えます。そして、「書かれなかった事は、無かった事」と続けて言います。

文字の精共が、一度ある事柄を捉えて、これを己の姿で現すとなると、その事柄はもはや、不滅の生命を得るのじゃ。反対に、文字の精の力ある手に触れなかったものは、いかなるものも、その存在を失わねばならぬ。(中略)この文字の精霊の力ほど恐ろしいものは無い。君やわしらが、文字を使って書きものをしとるなどと思ったら大間違い。わしらこそ彼等文字の精霊にこき使われる下僕じゃ。

ここにきて、本の帯に書かれた一文が登場します。「文字の精霊にこき使われる」というのは、私達人間が道具として文字を書いているのではなく、文字の精霊に操られるようにして人間が文字を書いている状態を指していたのです。

文字に記されていない物事は、存在していないことと同義なのだ、とナブ博士は主張しているのですが、皆さんはどう感じられるのでしょうか。

私個人としては、ナブ博士の主張は一理あると思っています。例えば、歴史の観点から考えると、私達が1,000年、2,000年前の人々の暮らしや文化を知ることができるのは、当時の人達が何らかの資料を遺してくれたからです。その中でも文字で書かれた文献は、歴史を紐解く上で欠かせない資料となります。

ただ、それは逆の視点からみると、文献に残らなかった当時の歴史は、今の私達には知り得ないものになります。知り得ないことは私達には認識できませんから、それは無いものと見做されてしまうのです。

日常生活に置き換えてみましょう。私達は普段、道端に生えている雑草のことを意識しません。そのため、雑草が生えていてもそれは無いものと見做します。
しかし、それが名前を知っている花であればどうでしょうか。タンポポなど馴染みのある花が視界にあれば、私達はその存在をたちまち認識します。見た目が色鮮やかだから目につきやすいというのも関係しているのでしょうが、やはり知っているものだからこそ認識しやすくなるのではないでしょうか。

このことから、「文字に記されていない物事は、存在していないことと同義なのだ」というナブ博士の主張が理にかなっていることが窺い知れます。

ですが、こうした言葉の性質は、非常に危険な力を秘めているように感じます。ここで、ナブ博士の別の主張を引用してみましょう。

文字の無かった昔、ピル・ナピシュチムの洪水以前には、歓びも智慧もみんな直接に人間の中にはいって来た。今は、文字の薄被(ヴェイル)をかぶった歓びの影と智慧の影としか、我々は知らない。(中略)近頃人々は物憶えが悪くなった。これも文字の精の悪戯である。人々は、もはや、書きとめておかなければ、何一つ憶えることが出来ない。着物を着るようになって、人間の皮膚が弱く醜くなった。乗物が発明されて、人間の脚が弱く醜くなった。文字が普及して、人々の頭は、もはや、働かなくなったのである。

これは、紀元前7世紀頃のアッシリアの状況を語ったものですが、現代においても当てはまる部分があるように感じます。

今の時代では、インターネットがあるおかげで、世界中のあらゆる情報が閲覧できるようになりました。パソコンやスマートフォンを使って、いつでも、どこでも、簡単に情報が得られるようになったことは非常に便利です。

ただ、その利便性に甘えて、ネットで見聞きした情報だけで満足してしまうことが増えてきているのではないでしょうか。

昔だったら、文献を調べるために図書館や本屋へ赴いたり、実際にその場所へ行って情報を収集したりしていたことでしょう。

それに比べて、今ではスマートフォンがあれば家の中で情報収集が完結してしまいます。本棚を逐一調べる必要がなく、現地に赴かなくても国内外の様々な土地の情報を知ることができるのです。

しかし、それは本当に「知った」ことになるのでしょうか。自分の目で見たものではなく、直接人に聞いた話でもない、ただ端末の画面上に映し出された文字を読んだことが、果たして知識を得たことになるのでしょうか。

このことが、「文字の薄被(ヴェイル)をかぶった歓びの影と智慧の影としか、我々は知らない」という一文に繋がってくるように感じます。

また、SNSを通じて、自分の思考や感情を簡単に文章化できるようになりました。

その他にも、多種多様なクチコミサイトが登場していて、それまで多くの人に知られることのなかったお店や商品の情報が事細かく周知されるようになっています。

自分の気持ちや考えを他の人に知ってもらいたい。隠れた名店や名商品を他の人にも利用してもらいたい。そういった理由からネット上に様々な情報が書き込まれます。

ですが、それは必ずしも書かなければならないものでしょうか。中には、特に書く必要はないけれどもついクセで書いてしまった文章もあるのではないでしょうか。

ネットに書き込むという行為は、ナブ博士の語っていた「書きとめておかなければ、何一つ憶えることが出来ない」「文字が普及して、人々の頭は、もはや、働かなくなった」状態と言えると思います。

その情報が必要かどうかに関係なく、ただ書きたいという気持ちでネット上に上げられた情報がどんどん増えていったことで、文字が洪水のように溢れ返っています。溢れ返った文字に宿る「文字の精霊」は、知らず知らずのうちに私達の生活に影響を与えていることでしょう。

「文字の精霊の悪戯」によって心を蝕まれてしまったアッシリアの現状に危機感を覚えたナブ博士は、「今にして文字への盲目的崇拝を改めずんば、後に臍(ほぞ)を噬(か)むとも及ばぬであろう」とアシュル大王に提言します。この主張は、アッシリアの治世から2,000年以上経過した現代においても通用すると考えられます。

「文字の精霊」が溢れるこの世界で

文字が誕生したのは紀元前4,000年ごろと言われています。今からおよそ5,000年以上も前に誕生したものが、ずっと使われ続けていることに感動を覚えます。

それだけ私達と言葉(≒文字)は切っても切り離せない関係にあることを知った上で、常々私が思っているのは、これからの世の中は “文字が氾濫する時代” を迎えるのではないかということです。

街中を歩けば、標識や広告など至る所に文字が潜んでいることが分かります。そこへ、インターネットが普及したことによって文字の増大化に拍車がかかったのです。SNSなどでどんどん情報が発信されて、無限に近い規模で文字の羅列が増えています。

さらに、AR・VRなどのバーチャル技術を用いれば、空間上に文字を映すことだってできます。その例として、今年、大日本印刷が空中にキーボードを投影させる非接触型のディスプレイを開発したというニュースがありました。こうした技術が発展していけば、今まで以上にこの世界が文字で満たされるのではないでしょうか。これこそが、「文字が氾濫する」状態なのです。

インターネットを通じて、膨大な量の情報が私達の元へ提供されるようになり、私達は絶えず情報に囲まれた生活を送るようになりました。それは、無数の文字に囲まれていると言い換えられます。

その中には私達の生活に役立つものもあれば、私達に害を与えるものもあります。フェイクニュースや誹謗中傷など、ネットに書かれた文字が私達の生活に多大な影響を与えてしまうことも現実に起きています。

そんな時代だからこそ、文字が持つ強大な力について知っておく必要があるのではないでしょうか。

こうした背景を中島敦が想定していたのかは分かりませんが、彼が『文字禍』に綴った物語は、「文字の精霊」が溢れるこの世界でどのように生きていけばいいのかを考えるきっかけになります。ぜひとも『文字禍』を読んで、文字について考えてみていただきたいです。

記事を共有する