アニメ『少女歌劇☆レヴュースタァライト』試論ー輪るピングドラムと村上春樹の影響を巡ってー

舞台を原作とするメディアミックス作品「少女☆歌劇 レヴュースタァライト」(以下、レヴュースタァライト)をご存じでしょうか。

2018年夏にはアニメも放送され、それをきっかけに存在を知った人も少なくないと思います。

様々な媒体で展開されるレヴュースタァライトですが、このアニメ版ひとつをとっても非常に完成度が高く、一本の論考としてしてまとめてみようと思い立ちました。

舞台は、未来の演劇界を担う才能を育成する聖翔音楽学園。ここに通う舞台少女たちが、キリンの主催する「放課後のレヴュー」でしのぎを削りつつ、トップスタァを目指していくという物語です。

魅力的なキャラクターたちの織り成す日常と独特の世界観、「放課後のレヴュー」のアツい戦闘がぎゅっと詰め込まれ、放送当時から高い人気で話題でした。

しかし楽しく観られるアニメ作品である一方、意表を突く展開や「放課後のレヴュー」をめぐる謎は終盤にかけて加速し、何度も繰り返し鑑賞しながら考察を深めていくことにも楽しみを見出せる作品になっています。

ここでは、先行するアニメ作品や、更には村上春樹からの影響に注目しながら、アニメ版レヴュースタァライトに秘められた奥深さについて考察していきたいと思います。

幾原邦彦監督からの影響

レヴュースタァライトの放送時、共通点を持つアニメとして色々な作品の名前が挙がりました。その中でも特に目立ったのは、幾原邦彦監督の作品からの影響です。代表作に「少女革命ウテナ」[1]などがあります。

実はレヴュースタァライトの監督を務める古川知宏監督は幾原監督の作品に何度も参加しており、「輪るピングドラム」(以下、ピングドラム)においては脚本及び絵コンテ、「ユリ熊嵐」においては副監督も務めています。

実際にネットで検索をかけてみても、様々な場所で幾原監督の直弟子と評されているのが目にとまります。

筆者自身、レヴュースタァライトを鑑賞しながら色々な作品からの影響を随所に見出していたのですが、特に物語終盤の展開については、2011年放送のアニメ、ピングドラムの内容と強く呼応するものになっていると感じました。

ここでは、レヴュースタァライトの中に散りばめられた幾原作品からの影響の中でも、特にピングドラムとの関連に焦点を合わせ、物語の結末について考察を深めてみます。

まずは簡単に、レヴュースタァライトとピングドラムとの間の共通点を整理していきましょう。

  • 日常世界の出来事と幻想世界の出来事が二重になって展開する物語
  • 物語の中心となる「放課後のレヴュー」も「ピングドラム」も、その正体が謎に包まれたまま物語が進んでいく
  • 「放課後のレヴュー」が行われる幻想的な舞台と、ピングドラムのイリュージョン空間、幻想的地下空間における演出(機械を用いた演出)
  • 画面中央を落下する華恋と、ピングドラムで画面中央を落下する帽子、プリンセス・オブ・ザ・クリスタルの演出
  • 舞台少女の変身バンクと、プリンセス・オブ・ザ・クリスタルの変身バンク
  • エレベーターで地下にある幻想的な空間へと降りていくという構造
  • トリックスターとしてのキリンとプリンセス・オブ・ザ・クリスタル
  • 第5話の劇中劇表現とピングドラムの劇中劇表現
  • 第6話の影絵っぽい演出と、ピングドラムでの影絵の利用(アニメ作品に影絵を取り入れた先駆は恐らくウテナの「ご存じかしら~」だが、本筋での演出としての利用という意味ではピングドラムを連想。色も同じ)、及び「分かり合えた二人の背中合わせ→手を繋ぐ」という描写
  • 第7話、場面転換での記号を用いた表現と、ピングドラムの場面転換表現
  • 「運命」というキーワード
  • 「物語を書き換える」という話の構造
  • 「ひかり/華恋」と「冠葉/晶馬」の「すべてを与え合う」という決意

多数の共通点の中、最後の三つの要素がまさに、レヴュースタァライト結末を読み解くための重要な鍵になります。

しかしこれだけでは少々分かりにくいため、ここでピングドラムに多大な影響を与えたと考えられる村上春樹の短編小説「蜂蜜パイ」を補助線として導入することにしましょう。

レヴュースタァライト・ピングドラム・蜂蜜パイ

ピングドラムの物語の中心には「1995年3月20日に起こった地下鉄のテロ事件」が据えられており、この日付は地下鉄サリン事件[1]と全く同じになっています。

物語の舞台である「荻窪線」は現実世界での丸ノ内線に対応しており、地下鉄サリン事件で被害に遭った路線のひとつです。

事件を起こした「企鵝の会(ピングフォース)」は、地下鉄サリン事件を起こしたオウム真理教を思わせます。

このようにピングドラムは地下鉄サリン事件を題材としたアニメということができますが、作品中には同じく地下鉄サリン事件を題材とした村上春樹の作品が多数登場しています。

小説家である村上春樹には、小説以外に地下鉄サリン事件に関する、二つのノンフィクション作品があります。それが『アンダーグラウンド』及び『約束された場所で』[3]です。

この二作品を通して村上春樹は、地下鉄サリン事件の問題と深くかかわることになります。
そのことが彼にとって大きな転換点にもなっている、重要な仕事であったということができます(後述)。

また、この二冊の本はピングドラムの中で、陽毬がエレベーターで地下へと降りた先にある、幻想的な図書館で本を探すシーンにおいても登場します。

ここで、陽毬は本を返却した後(その中に、春樹の『スプートニクの恋人』[4]をモデルにした本が含まれています)、一冊の本を探します。『かえるくん、東京を救う』[5]です。

『かえるくん、東京を救う』という小説は実在し、村上春樹の短編集『神の子どもたちはみな踊る」に収録された短編です。この短編集は、村上春樹がオウムに関するノンフィクションを執筆した直後、1995年という年を題材として作ったものとなります。

つまり、ノンフィクションの仕事を通して村上春樹の得た実感が、初めて小説として昇華された作品だと言えます。

さて、ここで補助線として導入したいのが「蜂蜜パイ」[6]という作品です。『神の子どもたちはみな踊る』の最後に収録されています。

この短編集の中で最も長く、村上春樹本人が非常に重視している作品でもあり、更にはレヴュースタァライトのストーリーと共通の構造を持っています。

レヴュースタァライトが作品の中に「スタァライト」という戯曲を含んでいるように、物語の中にもう一つの物語が含まれているのです。

物語を書き換える物語

レヴュースタァライトの中に登場する戯曲「スタァライト」は、運命の出会いを果たしたクレールとフローラが、最後には離れ離れになってしまうという悲劇的な結末の物語でした。

しかし物語の結末が書き換えられ、「真実」に辿り着いた二人がハッピーエンドを迎えるのに呼応して、華恋はひかりを取り戻してハッピーエンドが訪れます。

一方、「蜂蜜パイ」の主人公である淳平の作った作中作のあらすじは、以下のようなものです。

  • くまのまさきちは蜂蜜取りの名手で、食べきれないほどの蜂蜜を取っては「言葉を話せる」という特技を活かして街へと売りに行っていた。しかしそのことで他のくまたちから煙たがられ、人間にも馴染めず、孤独だった。
  • 乱暴者のとんきちは鮭取りの名手であったが言葉が話せず、余った鮭を売りには行けない。しかしまさきちの蜂蜜と交換するようになり、次第に二人は親友となった。
  • ある日川から鮭が消え、とんきちは困窮する。まさきちは蜂蜜を分けようとするが、とんきちは拒否する。「僕と君は友だちでいるべきなんだ。どちらかだけが与え、どちらかだけが与えられるというのは、本当の友達のあり方ではない。」とんきちは山を下り、猟師に捕まる。それによって、二人は離れ離れになってしまう。

そう、スタァライトと同様に、このおとぎ話の中では親友となった二人が、最後には離れ離れになってしまうのです。

しかしこの童話の結末は、物語のラストで次のように書き換えられます。

とんきちは、まさきちの集めた蜂蜜をつかって、蜂蜜パイを焼くことを思いついた。少し練習してみたあとで、とんきちにはかりっとしたおいしい蜂蜜パイを創る才能があることがわかった。まさきちはその蜂蜜パイを町に持って行って、人々に売った。(中略)そしてとんきちとまさきちは離ればなれになることなく、山の中で幸福に親友として暮らすことができた。(村上春樹(2000)『神の子どもたちはみな踊る』「蜂蜜パイ」)

このようにして物語を書き換えたとき、淳平は行き詰っていた人生に新たな光を見出し、大切な人たちを家族として守りながら、不安の象徴である「地震男」と戦っていく決意を固めます。

「スタァライト」の結末を書き換えたことがハッピーエンドを導くように、淳平もまた童話を書き換え、未来に向かって開かれていくのです。

では、物語を書き換えるということに一体どのような意味があるのでしょうか?

村上春樹は物語について独特の見解を持っており、それは地下鉄サリン事件に関する仕事を通して確固とした概念として確立されました。

以下、それを「物語」と括弧をつけて表記します。

「物語」は小説や映画などのことではなく、我々が複雑怪奇な世界の中で「自分とは何者か」「どこから来て、何のために生き、どこへ行くのか」ということについて考え、不安定な自らを世界の中に定位するための世界観のようなものを指しています。

いわば世界の解釈であり、世界の見方、世界と繋がる方法そのものが、春樹のいう「物語」なのです。[7]

私たち一人ひとりもまた、自分自身が主人公である「物語」の中を生きています。

それは「人生」という物語です。

だからこそ、私たちは自分の人生を振り返り、もしくは未来を思い描き、ひとつのストーリーのように物語ることが可能なのです。

しかし一方で、「物語」を上手く作れない、ということも起こりえます。

ピングドラムに登場する、「透明な存在」[8]になって消えかけている、世界と上手く繋がることのできない子供たちがそうです。

彼らは誰からも必要とされなかった結果、世界から疎外されてしまい、「子どもブロイラー」と呼ばれる施設で存在を粉々に砕かれ、消えてしまう運命にあります。

しかしそのうち何人かは、誰かに必要とされるという新しい「物語」を与えられ、運命の乗り換えを行うことで世界と正しく繋がり、救われていくのです。

一人ひとりの「物語」で世界と繋がるということは、存在の根本に関わる重要な問題なのです。

レヴュースタァライトの作品中でも、舞台少女たちは一人ひとりがトップスタァになる「物語」の中で生き、時にそれを戦わせます。

そのことによって新しい「物語」に辿り着き、現実世界でも新しい自分へと変わっていくことが、作品中では繰り返し描かれます。(詳しくは後述)

そして作品の中心であるひかりと華恋は、二人でひとつの「物語」を共有しています。

それが幼い頃の約束であり、「スタァライト」という戯曲です。

彼女たちが世界と関わるとき、そこには必ず「スタァライト」という「物語」が介在することになるのです。

普段自作について語ろうとしない村上春樹は、「物語」を書き換えるということについて、「蜂蜜パイ」の作品解説として次のように述べています。

話の最後で淳平は童話の結末をようやく見つけだし、世界とのある種の和解に達し、その結果彼は人間として、また作家として、そこにある責務を進んで引き受けて行こうと静かに決心をする。この部分は『神の子どもたちはみな踊る』という作品集においてはかなり大事な意味を持っている。(中略)
(引用者注:主人公淳平の姿は)バブル経済が破綻し、巨大な地震が街を破壊し、宗教団体が無意味で残忍な大量殺戮を行い、一時は輝かしかった戦後神話が音を立てて次々に崩壊していくように見える中で、どこかにあるはずの新しい価値を求めて静かに立ち上がらなくてはならない、我々自身の姿なのだ。我々は自分たちの物語を語り続けなくてはならないし、そこには我々を温め励ます「モラル」のようなものがなくてはならない」(『村上春樹全作品1990~2000③ 短編集Ⅱ』解題 下線引用者)

「物語」を通して世界と繋がっている私たちは、その「物語」を書き換えることで、混沌を含んだ世界とある種の和解を成立させる(世界の在り方を受け入れる)ことができる、と春樹は考えています。

そしてその「新しい物語」にとって重要なことが何なのか、その答えはまさきちととんきちのお話の中にしっかりと書かれています。

誰かが誰かを助けるだけでなく、お互いに与え合うこと

これこそが我々を温め励ます「モラル」です。

そのようにして身近な他者と手を取り合うという温かい「物語」を持つということが、現代においては非常に重要なことであると春樹は主張しているのです。

それがオウムのようなジャンクな「物語」による悲劇に対抗するための手段である、と。

すべてを分かち合う、ということ

ピングドラムの最終話において、幼少期の冠葉と晶馬が檻の中に閉じ込められていたときの回想が描かれます。

そのとき、冠葉の檻の中にだけ落ちているものがあります。

二人はその林檎を分かち合い、共に生き延び、そして陽毬を含めた血の繋がらない三人で家族になります。

テロ事件を起こしたリーダーの子どもとして育てられた三人は社会から疎まれながら、お互いの存在を差し出し分かち合うことで、家族という「物語」を通して世界と繋がって生きていきます。

しかし物語の終盤、冠葉は陽毬の治療費を捻出するために自分だけが犠牲になろうとし、結果として家族という「物語」が崩れてしまいます。

そのとき、迫りくる破滅的な運命を乗り切るために、晶馬は次のように言います。

「僕たちの愛も、僕たちの罰も、みんな分け合うんだ。これが僕たちの始まり、運命だったんだ」

こうして「運命の果実を、一緒に食べよう」という言葉へと辿り着き、テロの再発という破滅的な運命から乗り換えが行われることで、悲劇は回避されることになります。

レヴュースタァライトと同様に、ピングドラムにおいてはこの「運命」という言葉が頻出します。

例えば苹果は、地下鉄テロ事件で亡くなった姉の桃果が残した「運命日記」の内容を忠実に再現することに強く執着していますし、他の登場人物も、世界から疎外された状況の中から、必要としてくれる他者と手を取り合い、「運命」の乗り換えを行うことで自分の存在を世界に繋ぎ止め、救われるのです。

ですからこの作品の中の「運命」は、村上春樹の考える「物語」の概念と、かなりのところで重なっていると考えられます。

それでは、レヴュースタァライトはどうか。

やはりそこでも、手を取り合い、「運命」を書き換えていくということが重要な役割を果たしています。

最終話、ひかりが孤独に演じている「運命の舞台」へと、華恋は乗り込んでいきます。

そこで二人は、互いに全てを与え合う覚悟を見せます。それが次の場面です。

ひかり「(運命の舞台に華恋が入り込めば)華恋のきらめきまで奪ってしまう」
華恋「奪って良いよ 私の全部
(中略)
華恋「ひかりちゃんを私に、全部ちょうだい」(そしてひかりは、その言葉を受け入れる)

こうして二人は、互いに全てを与え合う関係を結ぶことに成功します。

それまでひかりが一方的に、自分の犠牲を差し出すことで華恋を守ろうとしていた「物語」は終わるのです。

「運命のレヴュー」でお互いを差し出しあった末、二人は手を取り合い、「スタァライト」の結末を書き換えることに成功します。

ひかり「これ、知ってる。初めて二人で舞台を見たときに分かち合った、きらめき」

「スタァライト」という戯曲の結末を書き換えるとき、重要となったのがこの「かつて分かち合ったきらめき」です。

一緒に見たきらめきが、あの日の約束があったからこそ、二人は新しい「物語」へと辿り着くことができる。
かつて分かち合ったひとつの林檎が、「運命の乗り換え」を成功させる鍵となったピングドラムとの共通点が、ここにあります。

レヴュースタァライトという作品は、ひかりと華恋がかつて分かち合ったきらめきを取り戻し、お互いのすべてを与え合うことで、「スタァライト」という戯曲の結末を書き換え、自分たちの悲劇的な運命をも乗り越えていく……。そういう作品だと言うことができるでしょう。

放課後のレヴューとは

先に軽く触れたように、レヴュースタァライトの中で「物語」を書き換えていくのは、ひかりと華恋の二人だけではありません。

他の舞台少女たちもまた、「放課後のレヴュー」を通して「物語」を書き換えていきます。

純那はトップスタァを目指し、孤独の中で戦い、また才能の壁に突き当たって絶望しながらもがいていました。

「負けられない」という彼女の「物語」は、華恋とのレヴューの中で「日々新しくなる自分」という未来へと開かれた「新しい物語」へと昇華され、それによって彼女は、他のメンバーに心を開いて前向きにスタァを目指すことができるようになります。(第2話)

まひるは「自分には何もない」というコンプレックスから華恋に執着し、ひかりの存在によって変わってしまう関係性を惜しんでいます。また、闖入者たるひかりを憎むということに囚われ、嫉妬を燃やします。

しかし華恋とのレヴューの中で「自分自身の可能性を信じ、自らが輝く」という「新しい物語」に辿り着き、トップスタァを目指す気持ちを取り戻し、ひかりとも和解を果たします。(第5話)

香子と双葉は幼い頃に交わした約束である、「トップスタァになって輝く香子を、最も近くで双葉が見る」という物語に囚われ、現実の変わりゆく状況との軋轢の中ですれ違います。

衝突した二人は、レヴューにおいてお互いの気持ちを確かめ合うことを通して、共にトップスタァを目指す「二人の花道」という「新しい物語」へと約束を更新し、現実の関係性を修復することに成功します。(第6話)

大場ななは第99回聖翔祭のスタァライトに理想を見出し、永遠に繰り返すその舞台と日常を自分が守っていくという「物語」に囚われていました。

しかしレヴューを通し、変わっていく未来に対して開かれた可能性を信じるという「新しい物語」を受け入れ、変わり行く世界を受け入れ始めます。(第7話~第9話)

キリンによって行われる「放課後のレヴュー」は、ただのバトルではなく、彼女たちが舞台の上で演じてみせる一人ひとりの「物語」です。

学校からエレベーターや階段で降りた先にあるその舞台は、そのまま彼女たちの内面へと下った先の世界でもあります。

だからこそ、そこでは彼女たちの内面に呼応して舞台装置が駆動し、心象世界を舞台として表出させるのです。

その中でぶつかり合うのは彼女たちの肉体でありつつ、そのまま内面でもあります。

自分の内側にある「物語」を舞台の上で剥き出しにして演じてみせる。そして戦わせ、変容させていくからこそ、彼女たちは根本的に変わっていくことになるのです。

レヴュースタァライトという作品の特異性はまさに、「演じる」ということ自体を物語の中心に据えていることであると言えるでしょう。

私たちひとりひとりが、「自分の人生」という舞台を演じながら世界と繋がっているということを、舞台少女たちの「放課後のレヴュー」は象徴しているのです。

おわりに

広大で複雑な世界に身体ひとつで放り出される我々は、一人ひとりが自らの舞台を生き抜くことで、「物語」を通して世界と接続を保っています。

だからこそ、その物語が変容すれば世界は全く違う姿を見せ始めます。

もしもあるとき、我々が悪しき物語に身を浸したなら、世界はすぐさま歪な姿で我々に襲い掛かるでしょう。

しかし、我々は「物語」を書き換えることができます。乗り換えることができます。

ひかりと華恋がきらめきを分かち合い、スタァライトの結末を書き換え、悲劇的な運命を乗り越えてみせたように。

分かち合い、与え合い、未来へ開かれていく「物語」が、私たちの「生存戦略」になるはずです。

そうして「新しい物語」へと常に手を伸ばしていくということを、更には現実的に「世界を変える」ことができるのだということを、レヴュースタァライトという作品は表現していると言えないでしょうか。

それは村上春樹があの1995年を通して固め、ピングドラムを通して引き継がれた、現代に生きる我々の希望であると、敢えて言い切りたいと思うのです。

[1]少女革命ウテナは1997年に放送された幾原邦彦監督のTVアニメ。日常の学園生活と「決闘」との二重になった物語構成、「胸の薔薇を散らされたら/上掛けを落とされたら」負けというバトルの形式など、レヴュースタァライトとの共通点が多数指摘される。
ウテナ、ピングドラムなどの幾原作品との共通点については、例えば下の記事などで指摘される。
イデオロギーが無い幾原作品:『少女☆歌劇 レヴュースタァライト』│Anime Quester
http://ladyrossa76.hatenablog.com/entry/2018/07/15/084908

[2]1995年3月20日に東京都内で発生した同時多発テロ事件。丸ノ内線、日比谷線の各2編成、千代田線の1編成、合計5編成の車両内で神経ガスであるサリンが散布され、死者13人、負傷者数約6,300人という甚大な被害を出した。
大都市において化学兵器を使用した同時多発テロ事件は史上初であり、国内のみならず世界中に衝撃を与えた。

[3]「図書館」のシーンにおいてこの二冊のノンフィクションも画面に登場しているが、他の村上春樹作品が著者名「村 春樹」と「上」の字を外してパロディ化されている中、『アンダーグラウンド』の一冊だけは「村上春樹」と作者の実名が記されていた。

[4]『スプートニクの恋人』(1999)は村上春樹が地下鉄サリン事件に関する二冊のノンフィクションを執筆した後、最初に執筆した長編小説であり、事件に際して新たにした村上春樹のフィクションに対する姿勢が明確に現れている。
作品中、「フィクション」について主要人物が語るシーンが以下のようなものである。
「世界のたいていの人は、自分の身をフィクションの中に置いている。もちろんぼくだって同じだ。車のトランスミッションを考えればいい。それは現実の荒々しい世界とのあいだに置かれたトランスミッションのようなものなんだよ。外からやってくる力の作用を、歯車を使ってうまく調整し、受け入れやすく変換していく。そうすることによって傷つきやすい生身の身体をまもっている。」

[5]「かえるくん、東京を救う」(1999)は、新潮1999年12月号に掲載された村上春樹の短編小説。
片桐の元へ突然現れた「かえるくん」が、地下で人々の憎しみを溜め込み、巨大地震を起こそうとする「みみずくん」に対抗するため、片桐へと協力を求める。「かえるくん」が片桐に求めたのは、一人で戦う「かえるくん」を背後から応援し、勇気づけるという戦い方だった。

[6]小説家の淳平はかつての想い人、小夜子とその娘、沙羅の元へ定期的に通い、娘の沙羅はよく淳平に懐いてた。沙羅の父親は大学時代、淳平、小夜子と三人で仲の良かった高槻であったが、沙羅の出産と前後して小夜子と険悪になり、既に離婚してしまっている。
阪神淡路大震災が発生した後、沙羅が「地震男」におびえてなかなか寝付かなくなってしまい、淳平は彼女のために「熊のまさきち」の童話を作り、話して聞かせる。

[7]村上春樹が「物語」というものについて端的に述べた文章に、以下のものがある。
「人は、物語なしに長く生きて行くことはできない。物語というものは、あなたがあなたを取り囲み限定する論理的制度(あるいは制度的論理)を超越し、他者と共時体験をおこなうための重要な秘密の鍵であり、安全弁なのだから。」(『アンダーグラウンド』あとがき「目じるしのない悪夢」)

[8]「子どもブロイラー」で存在を粉々に砕かれそうになっていた陽毬は、「この世界は選ばれるか選ばれないか、選ばれないことは死ぬこと」という言葉を口にしている。
 彼女は晶馬によって「選ばれ」、家族となることで救われることになる。

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都内某大学院にて村上春樹とポップカルチャーの関係を中心に日本現代文学、文化を研究。自身で小説も執筆。同人雑誌『懐露』同人