散文の報道に対置されるリズムの芸術/詩についてのいくつかの考察

唐突だが、あなたは詩についてどう思うだろうか。国語の教科書でしか読んだことがない、ただの言葉の羅列にしか思えない、興味も沸かない、という人も世の中には多いのかもしれない。

現代の日本では、わからないことがあれば、すぐにスマホやパソコンなどで 検索し情報を得ることができる。良い時代とも言えるが、詩のような、あえて曖昧に表現 したり、読み手に想像力を働かせるものは、検索しても本当の意味を掴むことは難しい。 解説文を見付けて読んだとしても、しかしそれは自らの頭で考えたものではない。

今はその「頭」というものを、AIなどのコンピュータに任せていくような時代になってきている。 そんな時代だからこそ、詩などという、生身の人間に想像力と感受性を育てさせてくれる ような存在が必要となっていくのではないだろうか。

だが、詩をいきなり読んで、その意味を解明したりすることばかりに気をとられ、詩独自の楽しみ方を味わえないのは実にもったいない。

詩は実は奥がとても深く、意味を伝え るためのものもあれば、紙に並べられた活字そのものが作品になっているものもある(寺山修司という詩人にはそんな面白い詩が多くある)。

また、リズム感を楽しむためのものもある(谷川俊太郎のかっぱの詩なんかそうだろう)。文字の配列や間の取り方にさえも、 作者の意図が読み取れるのである。

まあ意図まで考えなくとも、ただ感じること、それだけでも十分なのが詩の世界なのだ。書き手も自由、読み手も自由、じっくり深く味わうのも良し、流れるように読むのも良しなのである。

詩のリズム

今回、筆者は中でも詩の「リズム感」について感じることや考えていることについて述べようと思う。私事だが筆者自身プライベートで詩をよく書く。その時に意識しているのがリズム感である。リズム感の感じられる詩を書くことで、より読者を惹き付けるものが書けるのではと思っているのである。

日本には、昔からリズム感を大事にした文芸がある。それは、短歌や俳句、川柳などといった和歌である。和歌の成立はハッキリとはしていないが、七世紀よりも前とされている。室町時代に和歌から俳諧が独立し、江戸時代には俳諧を母体に、松尾芭蕉らにより俳諧の発句のみを独立して創作・鑑賞する概念が生まれた。これを明治時代に正岡子規らが詩の一形式として独立させたのが俳句である。

このように、詩節の数やその配列、順序、韻律などに規則的な形式を持っている詩を定型詩という。日本以外にも、中国では律詩や絶句、欧米ではソネットなどが例として挙げられる。

これに対し、形式的な制限を持たない詩のことを自由詩という。 日本の俳句や川柳は十七文字だが、これは世界で最も短い詩のかたちと言われているらしい(自由詩となれば、もっと短いものも存在するが)。

そんな短さの中、自然の情景を移し出したり、日常の何気ない一コマを切り取ってみたりすることで、普段どうとも思っていなかった出来事が、ふいに特別なものに見え、かけがえのないものであることに気づく。そのリズムに収めることで、それが一つの作品となり、物語となり、音楽にさえもな るのだ。

そのような文芸が日本に古くからあることから、今を生きる我々日本人の血にもそのリ ズムが息づいているのではないかと私は思う。最近はサラリーマン川柳やシルバー川柳が流行っているし、テレビのバラエティでも芸能人が俳句の才能を試すコーナーもある。想いや考えを七五調のリズム感に収めることで、普段のあるあるネタが作品という形に昇華され、人々に受け入れられる。雑然としたものが、文字に置き換わり形に収まることで、スッと伝わりやすくなる。

ちなみにサラリーマン川柳やシルバー川柳、秀作が多く非常に面白いので、一度読んでみると楽しいと思う。

日本での自由詩は、そんな定型詩から脱却しようと生み出されたものだと言われているが、私は自由詩にもリズムを取り入れることで、より読み手に言いたいことが伝わるのではと思っている。

詩は自由なものなので、先に述べた寺山にもリズム感や繰り返しを取っ払った詩は あるし、堅苦しく規則を考えてばかりでも良い詩をかけるとは限らない。

だが、音楽にドラムを入れることで曲が一気に息づくように、詩にもリズムがあることで内容に張りが出 てくると私は考えている。しかも自由詩の中では、定型詩では出来なかった独自のリズムを自分で作り出すことが出来る。

それを実践している詩人は山ほどいるが、ここでは金子みすゞを取り上げたい。彼女の詩は、文字をきちんとリズムに乗せて唄い上げるものがほとんどで、読んでいて非常に心地が良く語呂も良い。しかも読んだ後に何かしら考えさせられるものが多く、しんみりし たりほっこりしたりするのである。

特に「大漁」という詩を私は気に入っている。コンパ クトな詩の中にリズム感が息づいており、普段生活している上ではわざわざあまり考えな いような根本的な問題がそこには託されている。

朝焼け小焼けだ
大漁だ
大羽鰮(おおばいわし)の
大漁だ
濱(はま)は祭りの
やうだけど
海のなかでは
何萬(なんまん)の
鰮のとむらひ
するだらう

教科書でこの詩を読んだことがある人もいるのではないだろうか。生きるのには欠かせない「食べる」という行為が、沢山の命の上で成り立っているという、当たり前過ぎて逆に見落としているような事実を、金子みすゞは鋭い感受性をもって、短く静かに唄ってい る。命あるもの全てに、慈愛の目を向ける彼女の感性は、死後 80 年以上経っても尚、人々に問いかけてくるようだ。

また、先から出ている寺山修司という詩人の詩もリズム感を活かしたものが多い。読んでいるとその世界観に引き込まれるというか、独特の寺山節に魅了されてしまうのだ。
彼のリズム感は金子みすゞと似た「語呂合わせ」のものも多いが、「繰り返し」を多用しているのも特徴だ。その繰り返しの効果か、彼の詩を読んだり朗読したりしたものを聴くと、頭のどこかにその詩の印象がやけに残る。

消えるという名のおばあさん
消えるという名の汽車にのり
消えるという名の町へ帰るさよならさよなら
手をふってたら
あっという名の
月が出た
消えるという名の 酒場の棚の片隅で ほこりをかぶって立っていた まっくらまっくら のぞいてみたら あっという名の
鳥がいた

脱線するが、寺山修司は、それまでの詩の常識を覆すような前衛的な詩も多く書いてい る。一例として「ハート型の思い出」という詩がある。この詩はその名の通り、詩がハー ト型に配置されている。また、「しあわせ」の文字を 100 個もずらっと書いた詩や、空想 上の観念的な異性とされる「みずえ」という名前を何個も書いた詩(この名前は彼の他の 詩にも何回か出てくる)、階段というタイトルで本当に文字が階段のように配置されてい る詩、箇条書きのように書いて詩に思えないようなものまで様々ある。

あまり語ってしまうと長くなるのでここで止めるが、彼の詩は現代でも斬新に思えるものが沢山あり面白いので、興味があればお勧めしたい詩人である。

リズムの芸術、散文の報道

ここまでリズム感のある詩について述べてきたつもりであるが、そうでない詩というも のについても考えてみたい。散文というジャンルかもしれない。今取り上げたいのは、吉野弘という詩人だ(彼も色々タイプの詩や文章を書くので、彼を一つのジャンルに限定するのは苦しい面もあるがご了承いただきたい)。中学生の頃、教科書で「虹の足」という 彼の詩を読んだことがあるが、未だに印象に残っているので紹介したい。

雨があがって
雲間から
乾麺みたいに真直な
陽射しがたくさん地上に刺さり
行手に榛名山が見えたころ
山路を登るバスの中で見たのだ、虹の足を。
眼下にひろがる田圃の上に
虹がそっと足を下ろしたのを!
野面にすらりと足を置いて
虹のアーチが軽やかに
すっくと空に立ったのを!
その虹の足の底に
小さな村といくつかの家が すっぽり抱かれて染められていたのだ。
それなのに 家から飛び出して虹の足にさわろうとする人影は見えない。 ―――おーい、君の家が虹の中にあるぞオ 乗客たちは頬を火照らせ
野面に立った虹の足に見とれた。 多分、あれはバスの中の僕らには見えて 村の人々には見えないのだ。
そんなこともあるのだろう
他人には見えて
自分には見えない幸福の中で
格別驚きもせず
幸福に生きていることが――。

彼の詩にはそんな日常を切り取ったものが多い。バスや電車の中、四季についてなど、特別変わったことのない何か気になることについて書いてある彼の詩を読んでい ると、その観察眼には深いものを感じる。そして自分自身の何気ない普段の生活についても、何かしら考えたり発見があるかもしれないと思えてくる。

リズムや繰り返しや語呂合わせなどを利用した詩には、歌や音楽のようなある意味での芸術性、アートを感じるというのが私の持論だ。

反対にリズム感などは関係ない散文では、 アートというよりは報道性のようなものを感じる。どちらが良いとか悪いとかは全く関係ない。しかし読んだ時の印象は、だいぶ変わってくるのではないだろうか。

海外の詩について

最後に、海外の詩について考えてみたいと思う。外国の詩は、リズムというより韻を踏む方が多いとされる。日本語は50音しかなく、一文字につき一音なのでリズム感が取りやすい。しかし外国だと日本語では表されないような発音が多く存在するので、詩を書く といってもなかなかリズムが取りにくく、発音のせいで詩にもならないこともあるらしい。 なので韻を合わせて工夫しているという。

ちなみにどの言語も最低3つの母音を持っているようで、古典アラビア語などは3個しか母音がなく、中国語のある地域の方言では 20個も母音があるという。発音と詩にはかなり深い関係がありそうだが、それはまた別の機会に書くとしよう。

海外の詩人はあまり詳しくないのだが、韻を踏んでいると言えばアリスやマザーグースが代表的ではないだろうか。

アリスは詩ではないが、原作に多く出てくる言葉遊びや駄洒落には定評がある。マザーグース(英米を中心に親しまれている英語の伝承童謡の総称) の知識がなければ理解出来ない部分もあるらしい。日本語のアリスの物語は様々な翻訳で 出版されているが、歴代の翻訳者達はかなり苦戦していたに違いない。

また、これも詩とは別だろうが、エドワード・ゴーリーというアメリカの絵本作家をご 存知だろうか。絵本にも関わらず、その作風は大人向けのものばかりで、不条理で残酷なブラックユーモアに溢れている。実はゴーリーは絵本の中で、韻を踏んだりする言葉遊びを多く取り入れている。

「ギャシュリークラムのちびっ子達」という彼のある意味代表的な絵本がある。最近になって絵本雑誌などで取り上げられることも増えたため、ご存知の方もいるかもしれない。内容を単刀直入に言うと、アルファベット順の名前の子供が出てきて全員死ぬ、というかなり衝撃的なお話であるが、彼はその中でもお得意の韻踏みのパレードを繰り広げている。

A is for Amy who fell down the stairs (A はエイミー かいだんおちた)
B is for BASIL assaulted by bears (B はベイジル くまにやられた)
C is for CLARA who wasted away (C はクララ やつれおとろえ)

日本語版の絵本では、原文と日本語がどちらも記載されているので、ゴーリー独特の韻を踏んだ詩がどのように訳されているかを、読み比べることができる。日本語版の翻訳者は相当苦労したと思うが、リズムに乗った日本語はやはり日本人にとっては心地が良い。 ゴーリーは他の絵本でも練りに練った言葉遊びを取り入れている。日本語では表せられない、英語独特の言葉遊びが楽しめるので、作風を受け入れられるならぜひ読んでほしい作家である。

まとめ

さて、色々と詩にまつわることについて述べてきたが、詩とは一体なんであったのだろうか。ただ、紙の上に印刷されただけの言葉の羅列なのだろうか。

否、そうではない。詩は一瞬の永遠であると私は思う。詩は字数的にはすぐに読めるものが多いが、それが自分の心に同調した場合、どこか心にずっと残ったりするものなのである。

詩を読むことで、作者の意識と自分の意識が、どんなに昔に遠くに書かれたものであろうと、その時だけ時や場所を越えて、繋がったり通じ合うことができるのものなのだ。詩とは作者と読者の心を繋ぐ、糸電話のようなものなのではないだろうか。

最後に。筆者自身書いていく中で、詩や言葉にはまだまだ勉強不足で知識の足りない部分が多かった。この文章を書く中で、改めて詩の面白さ、奥深さに気づくことができたのは、自分にとって大きな収穫であった。

自分が詩に対して考えていることが、読者に少し でも伝わったらこの上ない喜びである。 拙い文章をここまで読んで下さったことに感謝を込めて。

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普段は詩やコラム、絵などをかいたり、 ものづくりをしています。 一番好きな詩人は寺山修司、小説家は江戸川乱歩です。 言葉の力を日々実感する毎日。 まだまだ未熟ですが、 その面白さを伝えていけたらな、と思います。