はじめに
はじめまして、こんにちは。寝ても覚めても日本近代文学に夢をみる文筆家、西 一六八(にし いろは)と申します。
私が住んでいるところは、山にかこまれた関西の田舎です。夏が近づいてくると、水かがみの田んぼに稲が植えられ、かえるの声がひびきわたります。南の空にさそり座のアンタレスの火をみつけるたび、今年も夏になったのかと気づきます。めまぐるしい日々のなかで、立ち止まって星をみあげるとき、ふと、オダサク――織田作之助と「星の劇場」を思いだします。
織田作之助について
織田作之助は、戦前から戦後にかけて活躍した、大阪生まれの小説家です。大阪の下町に住まう男女を書いた「夫婦善哉」を皮きりにして、市井の人びとの生活や文化を、じつに生き生きと描きました。現在では、太宰治や坂口安吾といっしょに、「無頼派」という文学派閥でくくられることも、少なくないかと思います。――以降、親しみをこめるために、織田のことはオダサクと呼ばせていただきます。
オダサクは、大阪を愛していました。大大阪と呼ばれた都市が焼け野原になっても、大阪を書きつづけました。仕事のつごうで上京していたときもありましたが、オダサクの心があったのは、つねに大阪であったと思っています。
昭和二十二年、結核の悪化により、三十三歳(当時は数え年だったため、三十五歳)という若さにして、オダサクは夭逝します。「ロマンを発見した」と言い遺したその死から、今年で七十六年になりますが、ほとばしるようなオダサクの作品や人生は、私たち――令和の読者の心に息づいています。
「星の劇場」とは
さて、タイトルにもある「星の劇場」は、四〇〇字詰め原稿用紙一枚ほどの、オダサクの短編小説です。以下、全文を掲載いたします。(「星の劇場」は、著作権が消滅した作家の作品を掲載している青空文庫から引用しています。青空文庫では、テキスト形式でダウンロード可能なので、プリントアウトして楽しむこともできます。)
「歩哨に立って大陸の夜空を仰いでいるとゆくりなくも四ッ橋のプラネタリュウムを想いだした……」と戦地の友人から便りがあったので、周章てて四ッ橋畔の電気科学館へ行き六階の劇場ではじめてプラネタリュウムを見た。
感激した。陶酔した。実に良かった、という外よりはない。既にして場内アナウンスの少女の声が、美しく神秘的である。それが終ると、場内にはにわかに黄昏の色が忍び込んで、鮮かな美しさだ。天井に映された太陽が西へ傾き、落ちると、大阪の夜の空が浮び出て来る。降るような星空だ。月が出て動く。星もいつか動く。と見る間に南極の空が浮びあがって、星の世界一周が始まったのだ。
などとこんな説明で、その浪慢的な美しさは表現できぬ。われを忘れて仰いでいると、あろうことか、いびきの音がきこえて来た。団体見学の学生が居眠っているのだった。たぶん今は真夜中だと感ちがいしたのだろう。それほど、プラネタリュウムが映しだす夜のリアリティは真に迫っていたのである。
織田作之助「星の劇場」
電気科学館のプラネタリウム
四ツ橋畔にあった大阪市立電気科学館は、昭和十二年の開館から半世紀以上ものあいだ、大阪近郊の人びとに愛されていました。オダサクもファンの一人だったわけです。平成元年、惜しまれつつも電気科学館は閉館、大阪市立科学館として、中之島の地で再オープンしています。
電気科学館の目玉は、六階にある「天象館」でした。丸形天井のホールには、ドイツのカール・ツァイス社製のⅡ型プラネタリウム投影機がありました。このプラネタリウム投影機は、世界にも二十五台ほどしかない貴重なもので、昭和十二年の時点では、国内初の導入でした。
電気科学館のプラネタリウムは、「星の劇場」以外のオダサクの作品にも登場します。もっとも有名なものは、川島雄三が映画化した「わが町」でしょう。プラネタリウムのシーンのロケ地として、電気科学館が使われたようです。現在、Ⅱ型プラネタリウム投影機は引退し、大阪市立科学館の地下(プラネタリウムの通路)に展示されています。「わが町」の撮影風景の写真も、そのまわりに飾られています。平成十二年、Ⅱ型プラネタリウム投影機は、大阪市の指定文化財となり、令和三年には、歴史的に貴重な天文学関連の遺産として、日本天文遺産に認定されました。
「大阪文学」の「星の劇場」
「星の劇場」は、生前のオダサクの単行本には収録されず、昭和四十五年、『織田作之助全集6』に収録されました。全集を編纂するときには、底本(収録もとになる単行本や雑誌など)のほか、初出(初めて作品が世にでた発表誌紙や年月日)を記載するのがつねですが、「星の劇場」は、初出がはっきりしていません。『織田作之助全集』への収録にあたり、その底本になったのは、昭和四十二年に出版された「大阪文学」(復刊四号)でした。この「大阪文学」は、オダサクが編集していた文学雑誌でしたが、戦争の激化にともなって休刊、オダサクの死後に、織田作之助研究の雑誌として復刊したようです。
「大阪文学」に掲載された「星の劇場」は、兵庫出身の小説家、藤井重夫の寄稿によるものでした。のちに、第五十三回直木賞を受賞する藤井ですが、小説家として活躍する以前は、朝日新聞の大阪本社で学芸部員として働いていました。藤井が学芸部員だったころ――昭和二十年前後、新聞は朝刊のみ、しかも、表裏の二ぺージほどしかありませんでした。紙面に限りがあるなかで、余白に押しこむように生まれた文芸シリーズが、朝日新聞大阪本社による「けし粒小説」でした。四〇〇字詰め原稿用紙一枚ほどの読みきり小説が、朝日新聞大阪版、名古屋版に掲載されました。織田作之助研究の斎藤理央によると、「一九四六年から四七年にかけて、月に一~三回、月曜日の主に第二面に、当時の中堅から若手にあたる人気作家が起用され、二七作品が掲載された。」とのことで、坂口安吾、林芙美子などの小説が掲載されています。もちろん、オダサクの小説もあり、『織田作之助全集』には、「実感」、「薬局」が収録されています。
さて、「星の劇場」にはなしを戻しましょう。「星の劇場」と同時に掲載された、藤井の「織田作と『けし粒小説』」によると、「星の劇場」は、オダサクが朝日新聞に直接届けにきたもので、どういった理由でか、「けし粒小説」に載らなかった、つまり、ボツになった原稿だと明かしています。織田作之助研究の主要文献には、大阪文学についての記載しかありません。そのため、藤井が未発表原稿として公表した「大阪文学」が、実質の初出となっていたのです。
十五年前に掲載された「星の劇場」の原稿
インターネットで古書を漁っていたある日、「大阪文学」ではない雑誌に、「星の劇場」が掲載されているかもしれないという情報をみつけました。「作家」第五十号(昭和二十七年八月)――オダサクの死後、五年経ってから出版された雑誌です。半信半疑で「作家」を確認したところ、本当に「星の劇場」が掲載されていました。「大阪文学」に掲載されるより、十五年も早く世にでていたのです。私にとって大発見でした。しかも、オダサクの原稿がそのまま、二ぺージ抜きで載っていたのです。ページをひらいたとき、目が飛びでるかと思いました。「「星の劇場」の原稿は、消したあとや書きこみがほとんどなく、とてもきれいなものでした。ほそぼそとしたオダサクの文字が、原稿用紙のマス目におどっており、当時の空気感がにおう気すらします。
この「作家」という雑誌は、同人雑誌(同好の士があつまって、執筆、編集し、自費出版する雑誌)のようでした。同人のなかには、「一千一秒物語」の稲垣足穂のほか、あの藤井もいました。藤井による「星の劇場」の解説、「『星の劇場』について」が原稿の前ページに掲載されています。そこには、「星の劇場」が書かれたのは、「昭和二十二年か三年ごろだったように思う」とありましたが、オダサクが亡くなったのは、昭和二十二年の一月なので、藤井の覚えちがいかと思われます。オダサクが大阪におり、けし粒小説を書いていた時期から考えると、昭和二十一年十一月以前に書かれたものと推定できます。
「星の劇場」の原稿は、「作家」の掲載から「大阪文学」までのあいだ、藤井が所持、保管していたようです。原稿が失われ、雑誌や全集が出版されていなければ、「星の劇場」を読むことはかなわなかったでしょうし、最悪、存在すらも知らなかったでしょう。オダサクを愛する人たちが、未来まで届けてくれたのかもしれません。それこそ、プラネタリウムの星のように……
おわりに
大阪の電気科学館からはじまったプラネタリウム――現在、全国四十七都道府県のすべてに「星の劇場」があるそうです。星をみあげるたび、逆説的にプラネタリウムが恋しくなることさえあります。オダサクの「星の劇場」を読んだみなさんも、お近くのプラネタリウムで、ロマンを感じてみてはいかがでしょうか。
引用文献
青空文庫/(最終アクセス日:令和五年五月五日)/星の劇場/https://www.aozora.gr.jp/cards/000040/files/47837_36047.html
織田作之助/昭和四十五年七月/星の劇場/『織田作之助全集6』/講談社
斎藤理生/二〇一八年三月/「けし粒小説」とその時代:敗戦直後の「朝日新聞」大阪版および名古屋版の創作欄/阪大近代文学研究/16
藤井茂夫/昭和二十七年八月/「星の劇場」について/作家/第五十号/作家社
参考文献
大阪市立科学館ホームページ/(最終アクセス日:令和五年五月五日)/https://www.sci-museum.jp/
藤井茂夫/昭和四十二年四月/織田作と「けし粒小説」/織田作之助研究 大阪文学/通巻二十八号 復刊四号/大阪文学の会
日本プラネタリウム協議会(最終アクセス日:令和五年五月十四日)/https://planetarium.jp/
浦西和彦/一九九二年七月/『織田作之助文藝事典』/和泉書院
関根和行/二〇十六年八月/『増補・資料織田作之助』/日本古書通信社