物語を消費せよーー「動物の時代」の文学論(前編)

文学はオワコンか?

「文学はオワコンか?」

昨今の文芸界隈を見ていると、このような疑念を抱くようになりました。

「オワコン」とは「終わったコンテンツ」の略称で、ブームが過ぎ去った時代遅れの商品やサービスなどを指します。

オワコンというのは過激な言い方かもしれませんが、「文学は衰退している」といった論調は以前から生じていました。その中でも特に危機感を募らせていたのは柄谷行人氏でしょう。

柄谷氏は著作『近代文学の終り』(2005年、厚徳社)において、「文学がかつてもった役割」が現代において機能しなくなったとして「近代文学の終焉」を宣告しています。「近代文学の終焉」とは要するに、社会に影響を及ぼすほどの文芸作品は誕生しなくなり、これからの時代は個々人が楽しむための娯楽作品が量産されて、人々はそうした娯楽作品しか求めなくなる、ということを指しています。

柄谷氏の宣告から16年経った現在。柄谷氏の言ったような状況には陥っていないと、異議を唱える方々がいらっしゃいます。

「蓼食う本の虫」でも紹介していた、重里徹也・助川高逸郎両氏の『平成の文学とはなんだったのか』(2019年、はるかぜ書房)では、助川氏が「近代文学の終焉」は杞憂だったと語っています。

「平成の文学を俯瞰する/重里徹也・助川幸逸郎『平成の文学とはなんだったのか』」りん/蓼食う本の虫

「純文学小説は書かれつづけ、それを必要とする読者も絶えなかった」と助川氏は仰っていましたが、この発言には注意しなければいけません。純文学小説が書かれていて、それを求める読者が存在すると言っても、その数はどれだけのものなのでしょうか。私がここで述べたいのは、文化が “生きながらえること” と “隆盛していること” は別物だということです。

そもそも、柄谷氏は文学がこの世から消滅するとは一言も語っていません。「文学がかつてもった役割」が無くなるのだと語ったのです。この認識のズレは注意しなければなりません。

ここで、芥川・直木賞について触れましょう。近年、芸人の又吉直樹氏やジャニーズの加藤シゲアキ氏など他の業界で活躍なさっている方や、現役女子大生の宇佐見りん氏が受賞または候補にノミネートされるなどして、メディアでの注目度は高いように思われます。

しかし、彼らの作品が注目されることは、「文学がかつてもった役割」が生き続けていることの証明にはなり得ないでしょう。

『近代文学の終り』において柄谷氏は、かつての文学には「知識人と大衆、あるいは、さまざまな社会的階層」が小説を読んで「共感」を得ることで、身分の異なる人々が「想像の共同体」を築く力があったと語っています。

それを象徴していたのが第二次大戦後に勃興した「政治と文学論争」になります。文学作品を通して社会へ問題提起を促すことができて、その思想に賛同する人々が一致団結できること。それこそが文学が持つ力だというのです。

しかし、今となっては小説よりも映画やマンガを作る方が「大衆にとって近づきやすい」と柄谷氏は述べています。活字文化よりも視聴覚メディアの方が人々に受け入れられやすいため、もはや文学は“共同体の基盤”とは捉えられず、たくさんある娯楽のうちの一つとしてしか認知されなくなっているというのです。

又吉氏や加藤氏らの作品は売れ行きの点から見れば、十分多くの人に読まれていると言えます。『オルタネート』は今年2021年の3月時点で15万部を売り上げており1、『推し、燃ゆ』は今年5月時点で50万部越え、『火花』に至っては受賞後1年の間に250万部超えという結果を残しました2

芥川・直木賞の受賞作品には重厚なテーマを扱った作品が多く、それゆえに読者の思考を深めてくれるものも多いです。

しかし、それは小説の専売特許ではありません。映画や漫画、アニメにゲームなどの様々なコンテンツにおいても、人々に大きな示唆を与えてくれる作品は数多く存在します。

近年の作品で言えば、2019年に公開された映画『ジョーカー』が挙げられます。今作では、悪のカリスマであるバットマンの天敵ジョーカーを等身大の人間として描いています。

悪とは圧倒的な存在がもたらすのではなく、なんの変哲もない日常の中から生まれ出るモノ。この映画を通して、悪の普遍性について考えさせられるのです。

様々な分野から物語作品が創られている中でも、新しい小説は続々と誕生しています。芥川・直木賞の作品も毎年注目を集めていることから見れば、「純文学小説は書かれつづけ、それを必要とする読者も絶えなかった」という助川氏の見解も間違ってはいないでしょう。ただし、小説が読者に与える影響力が徐々に希薄化していることを見落としてはなりません。

であれば、このまま文学が衰退していくのを見届けることしか、私たちにはできないのでしょうか。

否、ここで悲観的になる必要はない、と私は強く訴えます。「想像の共同体」を築けるような文芸作品は生まれなくとも、それ以外の分野では十分に可能性はあります。だからこそ、文芸は別の可能性を模索すべきなのです。

この「別の可能性」を模索するためのヒントを与えてくれるのは、大塚英志氏の「物語消費」から東浩紀氏の「データベース消費」「ゲーム的リアリズム」へと続く一連の議論になります。

本稿では、大塚・東両氏の著作を通して、現代の文芸界隈に新しい可能性を示していこうと思います。本稿を読んでくださった皆さんに、少しでも実りのある示唆を呈することができれば幸いです。

ハイカルチャーとサブカルチャーの逆転現象

本題に入る前に、まずは文芸界隈が現在直面している状況を整理し、皆さんと問題意識を共有しましょう。そのために、「蓼食う本の虫」に掲載されている日谷秋三氏の記事を参照していきます。

「「文芸誌連載小説のスマホ無料公開」から考える純文学の「流通」について」【前編】」日谷秋三/蓼食う本の虫

ちなみに、先ほどから「文芸界隈」と述べていますが、意味合いとしては一般文芸に属する小説に携わる、作家や出版社に評論家などのコミュニティを指しています。時代小説や推理小説は対象に含めますが、ライトノベルやライト文芸は別枠と見なしています。

ついでに、本稿では「文学」を「言語芸術における理念」と定めて、小説をはじめとする言語芸術の作品そのものは「文芸」と称することにします。乱暴な定義づけではありますが、「文学」という言葉があまりにも不明確であるため、私なりに配慮した次第です。

さて、これから参照する日谷氏の記事は2017年時点のものですが、そこで指摘された問題は現在まで地続きになっていることが窺えます。この記事で取り上げられていたのは、2017年当時に上田岳弘氏の新作『キュー』が、文芸雑誌『新潮』と同時連載でYahoo! JAPANのスマートフォン版でも無料公開されたという話でした。

当時のYahoo!ニュースなどでは、「ネットで純文学小説の連載を無料で公開するのが「新たな挑戦」で「珍しい試み」として扱われて」いまして、それに対して「今頃なの?」と日谷氏は疑問を投げかけています。

ライトノベルや漫画などのエンタメ系のコンテンツでは、10年ほど前からネットを活用したマーケティングを行っていたにも関わらず、純文学は未だに無料のweb連載を行った程度で「新しい」と内々で持て囃す始末。ここで、日谷氏は純文学がエンタメのコンテンツから置いて行かれていることを指摘しています。

続けて日谷氏は、こうなってしまった原因として、文芸界隈の人たちが純文学を高尚なものと見なして、それ以外のエンタメ作品を見下しているような姿勢にあると述べます。

この見解については私も同意します。今でこそ、「推し」というオタク文化をテーマに扱った宇佐見氏の『推し、燃ゆ』が芥川賞に選ばれるなどして、少しは寛容になってきているのだとは思いますが、それでもエンタメ作品に対する偏見が根深く残っている印象は一向に拭えません。

その代表格が先述した柄谷行人氏で、アニメや漫画などの娯楽作品が流行する時代の中では新しい文学は誕生し得ない、という旨の文章を『近代文学の終り』の中で度々書いています。

柄谷氏の他にもエンタメ作品に批判的な姿勢を見せる研究者がいらっしゃいます。その一人が文芸評論家の関井光男氏です。関井氏は柄谷氏にインタビューを行っていて、その内容が『近代文学の終り』の「イロニーなき終焉」という章に収録されています。

そのインタビューの中で、関井氏は「目先のことに追われて自分のことを省みることができない」状態から抜け出せないでいるのが現在の日本社会であり、それを象徴しているのが「内容のないサブカルチャー」だと指摘しました。「最近の日本のアニメやマンガが世界に行き渡って、日本にはそれしかないような感じになっている。しかも知性のかけらも感じられなくなっている」として、関井氏は痛烈に批判しています。

しかし、そうした批判がなされてから10年以上経過した今、日本のサブカルチャーはますます世界各国で認知されています。その一方で、文学の衰退は依然として改善されていません。

では、今の状況下で文芸界隈には何が必要なのか? その答えを教えてくれたのは、大塚英志氏と東浩紀氏でした。端的に言えば、“文芸もサブカルチャーを見習おう” ということです。

消費物と化した物語

大塚英志氏の『物語消費論』は1989年に新曜社から出版されて、その後に文庫化、2012年にはリメイク作品として『物語消費論改』が出版されました。大塚氏がこの著作で語った内容は、後にご紹介する東氏の『動物化するポストモダン』の原点と言えます。

題名にもある「物語消費」というのは、ひとことで言えば、創作上の物語がインスタント食品や使い捨ての商品と同じ感覚で消費されてしまう現象を指します。

コミックにしろ玩具にしろ、それ自体が消費されるのではなく、これらの商品をその部分として持つ〈大きな物語〉あるいは秩序が商品の背後に存在することで、個別の商品は初めて価値を持ち初めて消費されるのである。(大塚、2001年、角川文庫版11頁)

ここに今日の消費社会が迎えつつある新たな局面が見てとれる。消費されているのは、一つ一つの〈ドラマ〉や〈モノ〉ではなく、その背後に隠されていたはずのシステムそのものなのである。しかしシステム(=大きな物語)そのものを売るわけにはいかないので、その一つの断面である一話分のドラマや一つの断片としての〈モノ〉を見せかけに消費してもらう。このような事態をぼくは「物語消費」と名付けたい。(同書14頁)

大塚氏は「ビックリマンチョコ」を例に挙げて説明します。「ビックリマンチョコ」というのは1977年にお菓子メーカーのロッテから発売されたチョコ菓子で、オマケとしてキャラクターがプリントされたシールが付いてきます。その裏にはキャラクターの能力や、壮大なストーリーを想像させる断片的な文章が記載されていて、子供たちの心を大いに惹きつけました。

この時、子供たちはチョコそのものを目的として購入するのではありません。オマケのシールに書かれた物語の断片を集めて、一つの壮大な物語を知るために購入するのです。これこそが「物語消費」の在り方であり、この仕組みを利用した「物語マーケティング」という商法を大塚氏は提唱しています。

大塚氏の言う「物語マーケティング」は2021年においても依然として行われていて、むしろ大塚氏が「物語消費論」を提唱した1990年代よりも盛んに行われています。

中でも、スマホゲームの台頭は「物語消費」の進化系とも呼べるのではないかと思います。スマホゲームはとどのつまり情報の集合体でしかなく、アプリそのものは実体を持っていません。しかしながら、実体を持たないスマホゲームに対して多額のお金を注ぎ込むユーザーが続出しています。「ゲーム依存」と揶揄されることもありますが、このユーザーたちの消費活動こそが現代における「物語消費」の在り方なのです。

スマホゲームに課金をする動機は、高レアのキャラクターを獲得したい、ゲームを有利に進める課金アイテムを使いたい、と様々に挙げられます。その中でも、物語を読むためという動機がユーザーの中では重要なのだと思われます。

最近のスマホゲームでは、ストーリーを重視したものが多く制作されています。その代表格と呼べる作品が『Fate/Grand Order』(以下、「FGO」と表記)です。「FGO」はメインストーリーに加えて、「サーヴァント」と呼ばれるキャラクターの一人一人にも個別のストーリーがあります。それらを合わせると500万字を超えるテキスト量になるとのこと3で、この数字がどれだけストーリーに注力しているのかを表しています。

また、「FGO」には「マテリアル」と呼ばれる項目があり、そこでは各キャラクターごとのプロフィールが設定されています。ステータスの説明だけでなく、キャラクターの生い立ちや信念なども書かれているため、ユーザーはキャラクターに愛着を持てる構造になっているのです。

加えて、「マテリアル」には今後のストーリーを予想させる伏線も散りばめられていて、それらの情報を頼りに考察を行うユーザーが、ネットの掲示板やSNSで活発な議論を交わすほどです。こうした動きは、大塚氏が語った「物語マーケティング」の仕組みと非常に類似しています。

スマートフォンの小さな画面に映し出されるキャラクターたちの掛け合いに、魅力的なストーリー。そして、壮大な作品世界を想像させてくれる断片の数々。そういった数々の物語をもっと知りたいと思うが故に、ユーザーは課金を行うのです。このことから、現代の「物語消費」というシステムには、もはや実体のある商品すら必要のないことが窺えます。

ただ、大塚氏は「物語マーケティング」の有用性を語る一方で、「物語消費」による弊害も指摘しています。

それというのも、「物語消費」を成立させるためには、物語の創り手は完成された物語をそのまま提供せずに物語の断片を消費者に発信して、消費者自身の手によって断片化された物語を収集して「大きな物語」を構築することが求められます。

この時に問題となるのは、消費者の側で物語を組み立てるため、創り手が関与しない形で新しい物語を消費者の手で創ることが可能になるということです。加えて、消費者が創る物語は単なる複製ではなく、既存の作品を土台にした別種の物語であるため、本物と偽物の区別が曖昧になってしまうと大塚氏は指摘します。

この問題は、二次創作の是非を問う問題に繋がっていきます。最近のアニメや漫画などのコンテンツでは、二次創作に関するガイドラインを公式が制定することが増えていますが、依然として二次創作の扱いについて線引きが難しいところも多々あるのです。

2005年ごろに起きた「ドラえもん最終回問題」は大塚氏の指摘する問題を象徴していると言えます。「ドラえもん最終回問題」は、とある男性が藤子・F・不二雄氏の代表作『ドラえもん』の最終回を独自に描いて同人誌として発行したことが発端となります。この同人誌を本物の最終回だと錯覚する読者が続出したために、藤子・F・不二雄氏の著作権を持つ小学館が著作権侵害で提訴したのです。

二次創作は例え趣味の範囲内で行う場合であっても、原作者の著作権を侵害してしまう恐れがあります。「物語消費」が盛んになればなるほど、こうした問題が起きる可能性も高くなってしまうのです。

以上のことから、「物語消費」ならびに「物語マーケティング」は消費社会がもたらす新しい創作の在り方であると同時に、本物と偽物の区別がなされないまま無秩序に発信されてしまう危険も孕んでいることがお分かりいただけたのではないのでしょうか。

大塚氏が提示した「物語が消費される」という事象と、二次創作がもたらす危険について、東浩紀氏は議論を引き継ぐ形で一冊の本を書き上げました。それこそが次にご紹介する『動物化するポストモダン』になります。

現代を生きる「動物」たち

東浩紀氏の『動物化するポストモダン』は、2001年に講談社現代新書から出版されました。この本はサブカルチャー研究の必読書と言われるほどで、刊行から20年経った今でも多くの人に参照され続けています。

東氏は、大塚氏の提唱した「物語消費」はアニメや漫画などのオタク文化において特に盛んであるとして、オタクと呼ばれる人たちの消費行動に着目します。そして、オタク文化がインターネットと結びついた結果、「物語消費」はますます加速度的に発展したというのです。

インターネットの普及に伴って、二次創作もより手軽に発信できるようになり、それとともに本物と偽物の作品が無差別に届けられるようになってしまいました。その結果が「ドラえもん最終回問題」になるわけですが、東氏は「原作(オリジナル)と関連商品(コピー)の区別」は「不適切になりつつある」と述べています。二次創作の作品は「複製」とは異なると大塚氏は述べていますが、ここではあえて東氏の言葉に則って「オリジナル」「コピー」と呼ぶことにします。

東氏によれば、オタク文化の中では「オリジナル」も「コピー」も同等の価値を持って消費者の元に届けられると言います。このことから、アニメや漫画などで語られる物語は「オリジナル」でも「コピー」でもない、中間の存在「シミュラークル」と化したというのです。この「シミュラークル」とは、フランスの哲学者ボードリヤールの言葉を引用したもので、東氏はそれに独自の解釈を加えています。

東氏の言う「シミュラークル」は、作者の頭の中から生み出されるのではなく、あらゆる物語の要素を内包した目に見えない「データベース」を参照して生み出されると言います。それは原作者にしろ二次創作者にしろ、物語を創作する人は皆この「データベース」を参照することになります。

大塚氏は「大きな物語」の断片として様々な物語が創られると述べていましたが、東氏の言う「データベース」は「大きな物語」とは異なります。「データベース」には個別の世界観は存在せず、それよりもっと小さい要素が集まっています。

ファンタジー系の物語であれば、世界を支配しようとする魔王とその配下がいて、それらを退治するために勇者が旅に出て、道中では魔法使いやら戦士やら様々な能力を持った仲間と出会って、一方では勇者と王国の姫の恋愛模様も描かれて……といった具合に、無数の要素に分解することができます。

それに加えて、東氏が着目したのは「キャラクター」です。オタク文化においては作中のキャラクターを重視する傾向があるとして、オタク文化の中では物語の完成度よりもいかに魅力的なキャラクターが登場するかが重要だとされて、これを突き詰めたのが「萌え要素」なのだ、と東氏は述べています。これまでに過剰な設定や要素が詰め込まれたキャラクターが多く誕生したのは、この原理に則ったからだと言えます。

こうしたキャラクターの設定や要素もまた「データベース」から参照されます。「シミュラークル」としての物語に、「データベース」から生成されたキャラクター。それはつまるところ記号の集合体と呼べるでしょう。

このことから、オタク文化においては「物語消費」よりもさらに細分化された、「データベース」を消費する「データベース消費」が顕在化しているのだと東氏は指摘します。

東氏曰く、かつての物語は、それらを読むことで他者や社会と結びつけて、自らの「生きる意味」を問うていくことができました。政治も宗教も信じることのできない中、かつては虚構に傾倒することで生の実感を得ていた時代もあったと言います。

しかし、今の物語は読み手の即物的な欲求を満たすだけの代物と化しているのです。今の若い世代は現実にも虚構にも傾倒することはなく、ネットやクチコミなどを通して提供される物語をスナック感覚で楽しむようになりました。「データベース」から創られたモノに対して何の疑いも持たずに消費し続ける彼らはさながら「データベース的動物」であり、そんな彼らが生きる時代は「動物の時代」と呼ぶにふさわしいと、東氏は結論づけました。

以上が『動物化するポストモダン』の概要になります。ここで押さえておきたい点は、物語やキャラクターなどの虚構を形成する要素が「記号的」になっていることです。これらの「記号」をどのように活かすかが今後の創作全般に関わる課題となるだろう、というのが東氏の指摘になります。

ここまでご紹介した2冊はいわゆるオタク文化に特化した内容で、一見すると文学とは関係がないように思われるかもしれません。しかし、東氏は次にご紹介する『ゲーム的リアリズムの誕生』の中で一連の議論を文学と結びつけました。ここからが本題なのです。

テンプレな物語を多面的に読む

『動物化するポストモダン』の続編である『ゲーム的リアリズムの誕生 動物化するポストモダン2』は、2007年に講談社現代新書から出版されました。前作の『動物化するポストモダン』が基礎編とするならば、『ゲーム的リアリズムの誕生』は応用編になります。

昨今、市場を拡大しているライトノベルやエンタメ系の小説が流行する前、明治〜昭和にかけて流行していたコンテンツは小説でした。この時代の小説といえば、ありのままの現実、ありのままの人間を描こうとする自然主義文学になります。ここから私小説というジャンルが生まれるのですが、時代が進むにつれて自然主義文学は、柄谷行人氏の言葉を借りれば「近代文学の終焉」を迎えました。

自然主義の時代が終わり、「動物の時代」に突入した今の時代では、ありのままの現実を描く代わりに、非現実的な虚構でもって現実を捉えようとする「人工環境のリアリズム」がオタク文化の中で芽生えていると、東氏は述べます。ここでいう「人工環境」とは、アニメや漫画などのサブカルチャーを指し、果てはサブカルチャーの作品を生成する源となる「データベース」を指しています。

「データベース」を参照して生成されるキャラクターは、自動的に原作者と消費者との間で「共有財化」されます。具体例を挙げると、エヴァンゲリオンシリーズの綾波レイというキャラクターは、庵野秀明監督や制作会社カラーが創ったエヴァンゲリオンの作品でしか使用することはできません。しかし、綾波レイのようなキャラクターであれば、他の著作物にも登場させることができるのです。その際、綾波レイを無口キャラ、クーデレ(クールにデレる、の意)キャラ、などといった属性に分解して、それらを元に別の設定を織り交ぜることによって新たなキャラクターが誕生する……といった方法が取られます。

もはや、キャラクターは特定の作品を飛び出して、「データベース」を経由して無限に物語を紡ぎ続けるのです。そのたびに、原作との関係性や無数に生まれ得る物語同士の関係性といった物語の外部を意識し得る「メタ物語性」も生じることとなります。この「メタ物語性」という概念が、アニメや漫画などのオタク系のコンテンツにおける文学と深く関わってくるのです。

「メタ物語性」が本質に深く関わっているコンテンツとして、東氏はゲームを挙げています。大塚英志氏の主張を参考にして、東氏は「ゲームとは本質的に、物語を「リセット可能なものとして」描くメディア」だと述べます。ゲームはプレイヤーの選択によって物語は様々な形に変化するため、ゲームの中の物語はあくまで「ありえたかもしれない可能性」の一つとして提示されます。それゆえ、「複数の物語を生み出すメタ物語的なシステム」として機能するのです。

プレイヤーの選択によって物語が変化するゲームとして分かりやすい例がノベルゲームです。ノベルゲームは、パソコンやゲーム機などのデバイスを用いた小説と称されます。仕組みとしては、プレイヤーは時折現れる選択肢を選ぶことで、様々に分岐する物語を読むことができます。選択肢によってはハッピーエンドを迎える話もあれば、バッドエンドを迎える話もあり、プレイヤーはどれでも好きな話を選ぶことができます。1回目はバッドエンドを読んで、2回目は選択肢を変えてハッピーエンドを読むといった楽しみ方が可能になるのです。こうした「リセット可能な」物語という性質はノベルゲームに限らず、RPGでも音ゲーでもシューティングゲームでも多かれ少なかれ持っているのです。

物語をリセットする際には、必ずそれを見届けるプレイヤーの視点が欠かせません。物語の外部に存在するプレイヤーが常に物語の決定権を握っているため、ここに物語/プレイヤーというメタ構造が発生します。

プレイヤーの数だけ物語が次々に生まれてくる。こうした「メタ物語性」を受けて、東氏は「ゲーム的リアリズム」という可能性を見出しました。虚構を通して現実を描こうとする「人工環境のリアリズム」から派生して、「リセット可能な」虚構の物語を通して現実を描くという現代の文学観がここに誕生したというのが東氏の主張になります。

ただ、「ゲーム的リアリズム」という概念を発見したはいいものの、ゲームや漫画などのオタク系のコンテンツから文学を見出すためには各作品を額面通りに読むだけでは不可能だと、東氏は指摘しています。

「素直に物語を楽しみ、その内容を分析する」という自然主義的な読み方、本書で言うところの「自然主義的読解」では、オタク系のコンテンツは「類型化された物語を類型化されたキャラクターを用いて」語られる作品としてしか読むことができないというのです。この「類型化された物語・キャラクター」というのは最近流行っている「異世界転生モノ」を想像していただくと分かりやすいのではないのでしょうか。

そこで東氏は、「物語を単独で読むのではなく、」「物語内部の虚構と物語外部の現実が連続的に繋がるなか、その全体への介入が物語とメタ物語の組み合わせで表現された、複合的なテキスト」として読む「環境分析的読解」という手法を編み出します。この「環境分析的読解」を用いることで「新しい読みの可能性」を見出すことができるというのです。具体的な例については『ゲーム的リアリズムの誕生』を読んでいただければと思います。

「環境分析的読解」とは要するに、メタ思考で作品を読もうという考え方です。作者のインタビュー記事や専門家の解説を読むのもある意味で「環境分析的読解」と言えるのでしょうが、東氏が示しているのはそれ以上に広い視点になります。その作品が登場した時代に創られた別の作品であったり、その時代に流行した文化であったり、ひいてはその時代の社会情勢であったり、と現実に起きている様々な事象と関連づけて作品を読むことで、作者自身も予想していなかったような「新しい読み」が可能となります。

以上のように、東氏はオタク文化から文学を見出す方法を提示しました。そして、この「新しい読み」こそが文芸にも応用できる重要な考えなのだと思うのです。

物語の売り方と読み方を見直す

ここまで、大塚氏から東氏へと続く一連の議論を追ってきた末に見えてきたのは、記号と化した物語をどうやって提供するのか、そして、受け取った物語を読み手はどのように読み解くのか、という課題でした。この課題にいち早く適応したのがサブカルチャーであり、オタク文化だったのです。

これまでにも、文芸とサブカルチャーの共存は幾度となく行われようとしてきました。1990年代に芽生えたJ文学や、2000年代を指す「ゼロ年代」に講談社から刊行された『ファウスト』などは顕著な例でしょう。J文学の先駆者とされる村上春樹氏の作品は世界各国で読まれていて、『ファウスト』出身の舞城王太郎氏や佐藤友哉氏は三島由紀夫賞を受賞しました。これは紛れもなく、彼らの文芸作品から「新しい読みの可能性」が示されたことに他なりません。

しかし、文学を高尚な文化だと信じて疑わず、サブカルチャーを下に見ていた一部の教養主義・権威主義者がいたために、せっかくの文学復活のチャンスを逃してしまい、今の衰退に繋がっているのです。

だからこそ、ここがターニングポイントなのではないのでしょうか。ハイカルチャー/サブカルチャーという二項対立を取り払って、再び文芸とサブカルチャーの共存を図ることが必要なのではないか、というのが私の考えです。

後半では、具体的にどのようにして共存を図るのかについて私なりに考察してみたいと思います。次回も読んでいただけると筆者冥利に尽きます。


1.参照:「オリコン週間“本”3/1〜3/7、吉川英治文学新人賞受賞のNEWS・加藤シゲアキ『オルタネート』が9位に急浮上」Musicman
2.参照:「芥川賞・直木賞受賞作品一覧 単行本売れ行き部数一覧」芥川賞・直木賞のすべて
3.参照:「Fate/GOの世界」Fate/Grand Order公式サイト

記事を共有する