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物語を消費せよーー「動物の時代」の文学論(後編)

前編はこちらから→物語を消費せよーー「動物の時代」の文学論(前編)


前回の記事では、日本の文芸界隈が直面している危機について考えて、それを打開するための示唆を与えてくれる大塚英志・東浩紀両氏の著作の紹介をいたしました。引用や要約が多くなってしまいましたが、後半では私自身の見解を述べていきます。引き続きお付き合いいただけると幸いです。

「動物の時代」に適応する作家たち

前回の記事の最後に、文芸とサブカルチャーの共存を図ることが必要だと述べました。かつてはJ文学や、講談社の『ファウスト』などといった形で共存がなされていましたが、現在はどうなっているのでしょうか。

残念ながら『ファウスト』については、2011年9月に第8号が刊行されてから、事実上の休刊となってしまいました。しかし、『ファウスト』に作品を寄稿していた作家の方々は今でも活躍し続けています。その中でも、現代のエンタメ界隈において、第一線で活躍しているのが奈須きのこ氏と西尾維新氏になります。

奈須・西尾両氏の作品はどちらもライトノベルに近い作風です。奈須氏の「Fateシリーズ」、西尾氏の「〈物語〉シリーズ」といえば、数あるオタクコンテンツの中でも大いに注目されている作品でしょう。

そんな彼らが関わっていた『ファウスト』は、まさに文芸とサブカルチャーの共存を明確に意識して刊行されていました。

`八〇年代伝奇ムーブメントの影響を受けて成立した`九〇年代以降のまんが・アニメ・ゲームといったヴィジュアル表現の影響を受けて再成立した新しい伝奇小説、“新伝綺”
(『ファウスト vol.3』2004年、講談社)

上記のコンセプトを掲げて刊行された『ファウスト』。「八〇年代伝奇」を文芸、「九〇年代以降のまんが・アニメ・ゲームといったヴィジュアル表現」をサブカルチャーとして位置付けると、『ファウスト』が大塚英志・東浩紀両氏の議論に応えようとしていたことが窺えます。

そのコンセプトを奈須・西尾両氏が意識していたかは分かりませんが、彼らの作品ないし創作スタイルは見事に「物語消費」に適応しているのです。

文芸界隈がサブカルチャーから見習う例として、まずは奈須・西尾両氏がどのようにして「物語消費」に適応しているのかを分析していきましょう。

奈須きのこと「物語マーケティング」

奈須きのこ氏は、『月姫』や「Fateシリーズ」を制作したゲームブランド、TYPE-MOONのシナリオライターを務めています。最近ではスマホゲーム『Fate/Grand Order』のシナリオ監修も行っています。その一方で、『空の境界』『DDD』などの小説も執筆しており、小説家としても活躍しています。

TYPE-MOONの作品群の大きな特徴は、奈須氏が考案した一つの大きな世界観を舞台にしている点です。この大きな世界観から切り分けるように個別の作品を創っていて、これらはゲームだけでなく、小説や漫画、アニメなどのメディアミックスとして度々展開されています。

この構造は大塚英志氏が提唱した「物語マーケティング」を忠実に再現しています。奈須氏がこれを意識しているかは定かではありませんが、少なくとも「物語マーケティング」が現在でも有効であることは分かります。

加えて、「Fateシリーズ」においては奈須氏以外の作家にも協力を仰いでいます。ニトロプラスの虚淵玄氏など同業のシナリオライターや、『デュラララ‼︎』の成田良悟氏などの小説家に、Fateの世界観を共有してもらい、公式の二次創作という形で新しい物語を生み出しています。

このことから、奈須氏は物語の一作者に留まらず、「Fateシリーズ」という「大きな物語」を管理するゲームマスターの役割を担っていることが窺えます。奈須氏は学生時代にテーブルトークRPGのゲームマスターをよく務めていたそうなので、その時の経験が今に活かされているのかもしれません。

また、「Fateシリーズ」は東浩紀氏の言う「データベース」を有効活用しています。世界の偉人や諸々の神話に登場する英雄を、ゼロ年代以降のオタクコンテンツと融合させることで独自のキャラクター像や設定を生成しています。言い換えれば、偉人や英雄に「萌え要素」を付与しているのです。

例えば、「Fateシリーズ」の第1作『Fate Stay/night』に登場するヒロインのセイバーは、『アーサー王物語』のアーサー王をモチーフとしています。セイバーは本家のアーサー王と同様に、騎士道精神を持った誇り高い王様として描かれていますが、その一方で食いしん坊キャラとしての側面も見せています。このギャップに多くのユーザーは親しみを覚えるのです。

こうしたキャラクターの数は派生作品が増えていくにつれて、今では100人、200人を優に超えています。公式に設定されたキャラクターの他に、ファンが独自に考案したオリジナルのキャラクターも続々と生み出されていて、「Fateシリーズ」の世界は日々拡大し続けています。そして、キャラクターの数だけ多種多様な物語も創作されるのです。

以上のことから、「大きな物語」とキャラクターの「データベース」を活用した「Fateシリーズ」というシステムを考案した奈須氏は、「物語消費」の一つの到達点を示してくれたと言えるでしょう。

西尾維新と「キャラクター消費」

次に、西尾維新氏について分析します。彼は「戯言シリーズ」や「〈物語〉シリーズ」といったシリーズ物の作品を多く手掛けていて、さらには少年ジャンプで連載された『めだかボックス』の原作も担当していました。

西尾氏の創作スタイルは奈須氏とは対照的で、たった一人で何百人ものキャラクターを生み出しています。いわば、西尾氏は「キャラクター消費」に特化した小説家なのです。

『西尾維新対談集 本題』(2014年、講談社文庫)のなかで、西尾氏は「キャラクターの邪魔をしないこと」こそが作者としてやるべき仕事だと語っています。キャラクターは個性という「制約」のあるものとして成立しているため、作者自身もルールを変えることはできず、「キャラクターに従うしかない」と考えているというのです。

また、西尾氏は「キャラクターが勝手に動く」ことを度々体験してきたとも語っています。西尾氏の作品には会話劇の場面が多く、キャラクターたちは自由奔放に楽しい会話を繰り広げます。あまりにも過熱して、「〈物語〉シリーズ」の『偽物語(下)』では冒頭から70ページ以上も日常の会話が繰り広げられました。

一見すると「雑談や脱線が多い」ような西尾氏の作品ですが、その背景には自身のキャラクターを尊重する心が込められているのです。

それから、西尾氏の作品に登場するキャラクターは、誰も彼もが個性的な名前を持っています。西尾氏はキャラクターの名前も作品の一部として欠かせない要素と捉えているそうで、キャラクターの「名付け」には並々ならぬこだわりを持っているのです。

例えば、「〈物語〉シリーズ」の戦場ヶ原ひたぎのように地名から名前を付けることもあれば、『刀語』の左右田衛門左衛門のように形が似た漢字を重ねる名付け方、「X井」「X田」のXに様々な漢字を当てはめる「代入名」といった具合に、様々な考案方法を編み出しています1

こうして名前を付けられたキャラクターたちは、時として荒唐無稽で現実味に欠けるような設定を与えられます。世界中から敵視されるほどに強い「人類最強の請負人」哀川潤、1京2858兆0519億6763万3865個のスキルを持つ安心院なじみなど、どう贔屓目に見ても人間とは思えないキャラクターもいますが、設定上は人間とされていることで、不思議なことに読者は彼女らを人間として受け入れるのです。これもまた、「人工環境のリアリズム」のなせるワザなのかもしれません。

以上のことから、西尾氏がいかにキャラクターを「記号的」に生成しているかが窺い知れます。しかし、それは決して否定的な意味合いではなく、物語を駆動させるためのギミックとして有効活用しているのです。キャラクターを「記号的」に用いるという技術をどれだけ熟知しているかが、物語を創作する上で必要なことなのだと言えます。

前向きな「物語消費」に取り組もう

ここまで奈須きのこ・西尾維新両氏の創作について分析しました。その結果、大塚・東両氏の議論が今でも有効であることが見えてきました。

これを踏まえて、私が提唱するのは「前向きな消費」です。「物語消費」「キャラクター消費」「データベース消費」といった消費活動を否定的に捉えず、むしろ創作の武器として活かしてみてはどうでしょうか。

この「前向きな消費」について、最近の文芸界隈で興味深い取り組みが行われています。以下、「物語消費」「キャラクター消費」「データベース消費」という三つの観点から現在の文芸界隈について分析していきます。

小説は紙の本だけにあらず

まず、「物語消費」から見ていきましょう。ここで注目するのは、フリマアプリのメルカリが2020年に行った「モノガタリ」という企画2です。

この企画では「モノ×物語」をテーマに、又吉直樹氏や伊坂幸太郎氏、筒井康隆氏など10名の名だたる作家陣が短い小説を書いています。この小説は公式のWebサイトで公開されるだけでなく、文章を載せた画像をTwitterに投稿するなど、様々な形式で小説が読めるように取り組んでいました。

中でも驚いたのは、コンビニのレジ袋に文章を印字したものを配布したという取り組みです。消費社会の象徴とも呼べるレジ袋に小説を載せることは言うなれば、文芸が「物語消費」に適応した形なのです。

メルカリの企画から窺えるのは、物語を語るのに紙の本はもう必要がないということです。Web上に小説を投稿するのであれば、小説家になろうやカクヨムをはじめとして多くの小説投稿サイトがあり、pixivやnoteなど小説以外のコンテンツも扱うプラットフォームでも小説を投稿することが増えています。

また、ショートショートであれば、レジ袋のような紙媒体ではない物にも印刷可能だということをメルカリは証明しました。前回の記事で、上田岳弘氏の著作をWeb上に無料公開したという話に触れましたが、今となっては単なるWeb公開では何の斬新さも感じられないことがここで決定的になりました。

いや、しかし待て。どれだけWeb上で小説を公開する手段が増えたとしても、それではビジネスが成立しないのではないか。個人の趣味で楽しむならまだしも、企業がWeb公開に乗り出すにはそれ相応の利益が見込めなければ実現しないだろう。このような反論もあるかもしれません。

確かに、先述した方法は宣伝のために行うものばかりで、そのほとんどが無料で小説を提供しています。小説という媒体でビジネスを行うにはやはり紙の本が必要で、そのためには本として制作できるだけの文量が必要だという見方もあるでしょう。

しかし、小説によるビジネスはWeb上でも実現可能なのです。例えば、Amazonが運営する電子書籍サイトKindleでは、個人で制作した物を販売することができます。紙の本として出版するのに比べて、初期費用はかかりませんし、印刷所や取次といった業者を仲介する必要もありません。ある程度の技術さえあれば、いたって簡単に小説を出版することができるのです。

また、小説投稿サイトは無料で公開するのが原則ですが、noteでは個別の記事にお金を支払うことができます。また、様々な記事をまとめた「マガジン」を定期購読してもらうこともできます。そのため、10万字を超えるようなまとまった文章を載せる必要がありません。

このように、個人でもビジネスを成立させられる手段はいくつも存在します。そこに出版社が関わるとすれば、Kindleやnoteといったいわゆる電子上の自費出版をサポートすることではないかと思うのです。

そう考えていたところ、2019年に文藝春秋がnoteと資本提携を行なったというニュース3を知りました。日谷氏が「今頃なの?」と疑問を呈した2017年から2年が経って、発展の兆しが見えたようです。

大塚英志氏は『物語消費論』(1982年、新曜社)の中で、物語マーケティングの一環として電車の中吊り広告に小説を載せていた実際の事例を紹介していました。それが今では、日常の至る所に物語を紡ぐことが可能となったのです。

小説=紙の本、小説=長編という固定観念はとっくに覆されているのです。本屋へ行って紙の本を買う、という流通形態以外の流れもすでに出来上がっているという事実を踏まえて、文芸界隈はWebとの共存に一歩前進しています。

ましてや、今の時勢は不要不急の外出は控えろと言われて、閉店する書店の数も増えているような状況です。この逆境が文芸界隈にとって良い変革を起こしてくれることを期待します。

キャラクターが物語を紡ぐ

次に、「キャラクター消費」について見ていきます。昨今ではライトノベルやライト文芸など、キャラクターを前面に押し出す作風のキャラクター小説が増えていますが、ここで注目したいのは漫画やアニメのノベライズ作品です。特に、集英社のノベライズ作品は目覚ましい成果を挙げています。

集英社のJUMP j BOOKSというノーベルでは、「週刊少年ジャンプ」などの雑誌で連載されている漫画を小説にした作品を多く手掛けています。漫画原作の小説は売れるのか? と疑問に思う方もいるかもしれませんが、ここ最近の話だと、『鬼滅の刃』のノべライズ版2冊が累計発行部数が2020年時点で100万部を超えています4。このことから、並のキャラクター小説よりも需要が高いことがお分かりいただけるでしょう。

j BOOKSの編集長を務めていた浅田貴典氏いわく、読者が漫画のノベライズ版に求めるモノは「あいだを埋めること」「オフショット」「夢の状況を設定する」という三つになります。

「あいだを埋めること」というのは、漫画本編で起きた事件と別の事件との間に起きた出来事を小説で書くことです。ストーリーの進行を妨げてしまいそうな話や、本編では没になったプロットを小説にすることで、「あの時、このキャラクターはこういうことをしてたんだ!」という発見を読者に提供することができます。

次に、「オフショット」というのは、本編のストーリーには関係のない、キャラクターたちの日常風景を小説で書くことです。本編で描くには面白みに欠けるような日常の話でも、小説であれば成立するという考えは、心情描写を行うのに適した小説の強みを最大限に活かしたものだと言えます。

最後に、「夢の状況を設定する」というのは、本編の世界観を覆しそうな設定で小説を書くことです。例えば、時代劇風でSFの世界観を有する『銀魂』では、『3年Z組銀八先生』という学園モノのノベライズ版を刊行しています。あまりにも本編の世界観からかけ離れていますが、読者には抵抗なく受け入れられているようで、シリーズは8作刊行されていて、累計発行部数は300万部を超えています5

この事例を見て、東浩紀氏が『ゲーム的リアリズムの誕生』(2007年、講談社現代新書)で述べていた、キャラクターの「メタ物語性」が連想されます。このキャラクターはこういう設定でこんな性格をしている、といった情報を作者と読者の間で共有しているため、たとえ原作者ではない作家が書いた作品であったとしても、読者は原作と地続きの物語として受け入れるのです。この構図を上手く取り入れたからこそ、j BOOKSはこれだけの成功を収められたのだと言えます。

ここでもう一つ、興味深い事例を挙げましょう。これまで、アマチュアの二次創作は暗黙の了解としてコミケなどで行われていました。それが最近になって、小説家になろうやカクヨムといった小説投稿サイトが次々と二次創作を公認する動きが起こり出したのです。各出版社と連携を図って、既存の作品を二次創作する許可を取っているという徹底ぶりで、中にはゲーム作品も二次創作できるようになっています。

出版社公認の二次創作が可能になるのであれば、『物語消費論』の解説時に紹介した「ドラえもん最終回問題」のようなトラブルを未然に防ぐことができるのではないか、と希望が持てます。

j BOOKSはいわば公式の二次創作であり、それによって多くの読者を獲得してきました。加えて、アマチュアの分野でも二次創作が公式に認められるようになることで、ますます二次創作が盛んに行われるようになると予想されます。その背景には、キャラクターの存在があり、ひいてはキャラクターを生成するための「データベース」があるのです。ここに新しい文芸の可能性が秘められていると感じます。

キャラクターとは不思議な存在で、日本発祥のキャラクターが海外でも広く受け入れられたり、物語を飛び出して復興支援のシンボルとして用いられたりします。

こうしたキャラクターの力こそが、これからの文芸を考える上で重要となるのではないかと思います。例えば、既存の作品を二次創作することも取り入れつつ、自らも二次創作されやすいキャラクターや物語を考案するというのはどうでしょうか。いささか短絡的かもしれませんが、可能性の一つとして検討する価値はあると思います。

作家という名の「データベース」

最後に、「データベース消費」の観点から文芸界隈を見ていきます。ここで取り上げるのは、星新一のAIプロジェクト「気まぐれ人工知能プロジェクト作家ですのよ」になります。

「作家ですのよ」は、ショートショートの名手、星新一氏の作品をAIに分析させて、AIに新しいショートショートを書いてもらうという研究です。この研究の過程で書かれた作品は、2015年の第3回星新一賞で一次審査を通過しました。

「作家ですのよ」の代表者であるはこだて未来大学の松原仁教授によると、星新一氏のショートショートは「起承転結や“オチ”があり、プロットが分かりやす」く、星氏が自ら創作の方法を公開していることなどから、AIの学習サンプルにうってつけだというのです6。まさに、星氏の作品群はAI分析の「データベース」として活用されたのです。

これは言うなれば、文芸ならではの「データベース消費」なのではないのでしょうか。東浩紀氏が提唱した「データベース」は、主にキャラクターを生成するための機能に注目していました。しかし、「データベース」とはキャラクターに留まらず、ストーリーの構造や世界観の設定、さらには各媒体の表現方法など、物語を創作するためのあらゆる要素を蓄積しています。

それを踏まえると、「作家ですのよ」は東氏の「データベース」という理論を順当になぞらえていると言えます。星新一という「データベース」からAIの分析によって作品のパーツを抽出し、新しい物語を生成する。今の時代では、作家も「データベース」として組み込まれるのです。先人の作品を文字通りデータベース化したこの手法は、「データベース消費」の極地と言えるでしょう。

「作家ですのよ」と似た研究は他の分野でも行われています。例えば「TEZUKA2020」というプロジェクトでは、手塚治虫氏の漫画作品をAIに学習させて、手塚氏の作風を忠実に再現した『ぱいどん』という漫画が雑誌「モーニング」に連載されました7。小説以外の分野でもAIが活躍できると考えると、今後AIが創作の担い手として活躍するのではないか、という期待が膨らみます。

しかし、現状はAIだけの力で作品を創るまでには至っておらず、アイデアは人が考案し、そのデータを元にAIが文章を起こし、それを人が手直ししています。「TEZUKA2020」では、プロットとキャラクターデザインをAIが考案し、ネームやペン入れなどの作業は人の手で行われています。

その上、作家なら誰でもいいというわけではありません。AIが十分な分析を行うためには、星新一氏や手塚治虫氏のように多数の作品を創っていることが条件となります。加えて、プロットが明確に示せなければ、サンプリングには適さないのです。

まだまだ課題の多いAI創作ではありますが、これが実現できれば、文芸、ひいては創作全体の在り方が大きく変わるでしょう。それはAIが人に代わって創作を行うという意味ではなく、人がAIの力を借りて、より効率的に創作が行えるようになるということです。そうなれば、いつしかAIとの合作で書かれたAI小説というジャンルが生まれる未来もあり得るのではないのでしょうか。

行く末は「一億人総クリエイター化」?

ここまで、文芸界隈の「前向きな消費」について見てきました。これらの事例から分かることは、誰でも創作が行える環境が整いつつあるということです。

「動物の時代」を迎えてからの創作界隈では、創作者と消費者の境界が曖昧になってきています。二次創作という形で消費者も創作を行うようになり、それが新たな物語として受容されます。このように誰もが創作者になれる状況は、しかしながらこれまで肯定されてきませんでした。

そもそも、昔の日本では創作の敷居が低くなることは文化の質を下げることに繋がるという論調がありました。その代表的な例が、今から90年ほど前に芥川龍之介と谷崎潤一郎が論争を繰り広げたという「芥川vs.谷崎論争」になります。

芥川龍之介は、雑誌『改造』の連載記事「文芸的な、余りに文芸的な」の中で、「量的向上は大抵質的低下である」(『改造』昭和2年5月号)として芸術が大量生産を求められている状況に異を唱えていました。谷崎潤一郎も、『改造』にて連載していた「饒舌録」の中で、日本の文化を海外にアピールするために「文化と云うものを商品扱い」(『改造』昭和2年8月号)している当時の状況に疑問を呈していました。

この論争から一世紀近く経った今、創作界隈はどうなっているのでしょうか。柄谷行人氏は「近代文学の終焉」を宣言し、東浩紀氏の言葉を借りれば「最初から類型化と平板化を受け入れている」物語が多く生み出されています。「類型化と平板化」とは、どれもこれもが似通った話で、奥行きのない作品が濫造されているということです。今を生きる皆さんには、思い当たる節が各々あるのではないのでしょうか。

そこへきて、二次創作が流行することは、創作の「質的低下」に拍車をかけてしまうのではないか。そう考えてしまうのは自然な流れだと思います。

しかし、私はあえて言います。それがどうした、と。

確かに、作品を濫造すればするほど、中にはつまらない、出来が悪いと思える作品も増えてくるでしょう。しかし、生産する作品の数を減らせば面白い作品ばかりになるのでしょうか。仮にそうだったとしても、世の中に広める作品を減らせば、その分プロになれる人の数も減ってしまって、創作のハードルが高くなってしまうことで次世代の創作者が生まれにくくなるのではないのでしょうか。

これを文芸の話に絞って考えると、この問題は「文学とは何か」という話に繋がってきます。

文学の精神を宿した作品とは、一部の選ばれた人間にのみ紡がれるもので、後世にまで語り継がれるほどの魅力に満ちたもので、量よりも質を重視して創作されるものである。それゆえ、素人まがいの物書きには立ち入ることは許されない。ましてや、漫画やアニメといったサブカルチャー(下位文化)を参照するような創作では、「人間とは何か、世界とは何か」を描くことは不可能だ。

このようなことを、柄谷氏や文芸評論家の関井光男氏のように伝統的な文学を重んじる方々は考えていたのかもしれません。ただ、そうした理想に取り憑かれた結果、文芸界隈は袋小路に入ってしまいました。

そもそも、サブカルチャーと呼ばれる漫画やアニメなどのコンテンツからも文学を見出せることは、東氏の「環境分析的読解」によって証明されています。サブカルチャーは低俗と考える人たちは、読み方を間違えているために文学性を読み解くことができなかったのです。

私が思うに、文学とは作品そのものに込められているのではなく、作品を通して読者が感じたモノこそが文学ではないのでしょうか。それは文芸、エンターテインメントともに例外はなく、読み方を工夫することで文学はいくらでも発見することは可能なのです。

この読み方について、創作に関わる人たちが各々で意識しておけば、どれだけ作品が濫造されたとしても、どの作品からでも自分なりの文学を見出すことができるのだと私は考えます。

誰でも創作ができる時代に突入して、現代は「物語の類型化と平板化」を通り越して「一億人総クリエイター化」へと近づいていると考えるのは早計でしょうか。しかし、ここ最近のWebコンテンツの発展を見れば、「一億人総クリエイター化」が必ずしも夢物語ではないと思うのです。

「文化の大量生産」がどうだとか、二次創作がどうだとか、と現状の創作界隈を嘆く人たちに対して、私はそのような心配は無用だと主張します。今の時代が創作物をインスタントに消費していると捉えることは一側面を見ているだけに過ぎません。むしろ創作が、一部の天才たちが生み出すモノから、万人が生み出し得る日常のモノと化したと捉えるのが相応しいのではないのでしょうか。

「後世に残らない文化」を後世に残す

前回の記事の最後に、「記号と化した物語をどうやって提供するのか、そして、受け取った物語を読み手はどのように読み解くのか、という課題」について触れました。この課題に対する答えを、今回の記事で私なりに示しました。

それはつまり、「記号と化した物語」は「データベース」を駆使して二次創作やメディアミックスを積極的に活用するということ。そうして大量に生まれ出た物語を、読み手は「環境分析的読解」によって文学を発見するということ。これが私なりの答えになります。

これを無意識のうちに理解して、積極的に活動してきたのが漫画やアニメなどのオタク文化だったのです。その一方で、ネットと上手く共存できなかった文芸は今のように衰退してきているのだと思われます。

この格差を無くすためには、メルカリの「モノガタリ」、漫画やアニメのノベライズ、AI星新一の話で語ったような「消費活動」に取り組み、文芸の門戸を広げていく必要があるのではないのでしょうか。

後世にまで語り継がれるような文芸作品は生まれづらくなっているのは確かでしょう。しかし、「文化は残すモノ」という固定観念を取り払い、あえて「後世に残らない文化」を創ることも選択肢の一つに含めてもいいのでは、と思うのです。

「前向きな消費」を促す「後世に残らない文化」。この概念を名付けて「スナックカルチャー」と呼ぼうと思います。この名前には、スナック菓子を食べるような軽い気持ちで消費できる文化という意味を込めました。

また、ハイカルチャー/サブカルチャーという二項対立に囚われない文化の在り方として提示したいものでもあります。「スナックカルチャー」はあくまで一つの呼び方で、高級志向な芸術作品は「グルメカルチャー」、B級映画のようにコアな作品は「ジャンクカルチャー」などとそれぞれの作品に見合った呼び方を付けても良いのです。

東浩紀氏は『動物化するポストモダン』(2001年、講談社現代新書)を執筆した目的として、「ハイカルチャーだサブカルチャーだ、学問だオタクだ、大人向けだ子供向けだ、芸術だエンターテインメントだといった区別なしに、自由に分析し、自由に批評」することを掲げていました。これに感化されたことが、実は本稿を書いた発端なのでした。

これを読んでくださった皆さんに、これからの文芸について考えていただき、自分なりの文学を発見していただけるようになれば、筆者としてこの上ない幸せです。


1.『西尾維新大辞展公式パンフレット』西尾維新・著/講談社文芸部第三出版部・編 2017年7月第1刷発行
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