本谷有希子『ぜつぼう』 他人の絶望には気づけない

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本谷有希子『ぜつぼう』を読みました。初出は『群像』2005年11月号。講談社から単行本が出たのは2006年。約10年前の作品になります。

ここから、本谷氏は演劇界で鶴屋南北賞と岸田國士賞を受賞。文壇でも野間文芸新人賞、三島由紀夫賞、そして芥川賞と純文学新人賞を総ナメにしています。

実はまだ芥川賞を受賞した『異類婚姻譚』を読むことができておらず、他の本谷作品についても、『生きてるだけで、愛』と『グ、ア、ム』を読んだのみとなっております。その前提で、本記事を読んでいただけますと幸いです。

 

「田舎」の役割

都会に住む者にとって、田舎は時に逃避行先になることがあります。そして多くの場合、それは「帰郷」によって果たされることになります。例えば、綿矢りさ『しょうがの味は熱い』で、主人公の奈世は絃との同棲を解消し、地元の町へと戻っていきます。そこで仕事も家事もすることなく、ゆっくりと自分を見つめ直すのです。

しかし、『ぜつぼう』では少し事情が違います。主人公は、数年前にブレイクして今は「消えた」芸人。不眠症を抱える彼はある日、鳩を抱える中年男と出会い、突発的に田舎にある中年男の実家に赴くことになります。しかし、空き家であるはずのその家には先客がおり、物語が一気に動き出します。

何故、主人公は田舎に行く必要があったのでしょうか。「帰郷」によって田舎に赴く場合は、そこに自分を受け入れてくれる家族がいます。生活の保証があります。

ところが、本作品においては、田舎に行ったところで誰かが自分を守ってくれるわけではありません。彼は、純粋に田舎に逃げる必要がありました。彼のことを知っているすべての人から逃げるために。消えた芸人だと後ろ指を差されることから逃げるために。

田舎には、都会とは違う時間が流れています。老人ばかりの村では、消えた芸人の顔を思い出す人はいません。ここで、主人公の逃避行はある程度成功を収めたように思われます。

田舎のもう一つの特徴として、強い共同体意識があります。田植え作業を手伝ったり、新しい住人である主人公の歓迎パーティーを行ったり……。このあたりも本作の展開と非常に関連が深いところですので、注目して読んでいきたいですね。

「ぜつぼう」すること

さて、この小説ではタイトルでもある「絶望(ぜつぼう)」が主題となっています。

田舎に来た主人公は、それでも自分自身の絶望を拭いきれずにいます。しかし、その絶望は内面的には継続しているものの、外面的にはボロボロと剥がれ始めているのです。寝起きに呑気にうどんをすすり、鼻歌を歌って。

ところが、主人公は絶望を継続しなければならないという強迫観念にさらされています。あるいは、本当に絶望しているのかもしれません。はて、絶望とは?

絶望している人間は、ずっと絶望を継続させなければならないのでしょうか。一瞬でも絶望を忘れて呑気に過ごせば、それは絶望と認められなくなってしまうのでしょうか。絶望。絶望。絶望。こうして「絶望」を何度も繰り返していると、その意味が段々と不明瞭になってきます。そもそも、「絶望」はこんな字を書くのだっけ? ゲシュタルト崩壊。そして、ひらがなで「ぜつぼう」と書いたとき、その意味はもっと簡単に不明瞭になります。ぜつぼうぜつぼうぜつぼうぜつぼうぜつぼう……。

自身を悩ませ続けた不眠だけが、彼の絶望を証明してくれます。きっと誰しも、内心と外観が違うことがある、ということを経験したことがあるのではないでしょうか。どんなに頭の中でぐるぐると考え事をしていても、「呑気だねえ」なんて言われることが。そのとき、少なくとも僕は、怒りを覚えます。

まとめ

すでにサブカル界隈では知名度の高い本谷有希子ですが、いわゆる「又吉後」の芥川賞でそこそこ注目度も高く、ここからさらに意欲的に新作を発表するのではないかなと思います。

『異類婚姻譚』はこれまでの作品とは何かが違うと聞いているので、そちらも読む機会を楽しみに待ちたいと思います。

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