美男子という生きものー退廃の匂いを添えて/読書案内 小川洋子『完璧な病室』

匂い立つような退廃、というものを感じたことはあるだろうか。

朽ちたもの、節の細いもの、人の手が行き届かないもの、脆く触れられないもの。
この世界には沢山の〝退廃〟が存在する。見る者に生命の終わり頃に漂う独特の匂いを想像させ、革命時代の悲劇や飢えた人間から覗く鋭い犬歯のぎらつき、繭のような命の形、この世界が始まる前からずっと途切れることなく続いてきた〝儚さ〟というものを、人々に想起させる。

こと私がそういったものを生命に感じるのは、「美少年あるいは美青年」という生きものを見た時だ。
彼らは非常に限定的な時を生き、その時間でしか生きられない姿かたちをしている。ニアイコール、または同列に存在するものとして「美少女、美女」という存在がある。が、私の思う限りだと、両者が発生させる〝儚さ〟というのは微妙に違っていて、退廃、という言葉がより似合うのはどちらか?と自分の感性に問うと、やはりどうしても美男子の方にそういったものを望み、彼らの背中に翳りを見てしまいたくなる。

彼らは限られた肉体で翳りを背負うのがとても上手だ。
私の敬愛する作家の一人である小川洋子氏の作品には、そういった男たちがしばしば登場する。まるで彼女の手に首を絞められる装置を起動させるボタンが委ねられているかのような、彼女の文章でしか生きられないような存在として。

小川洋子作品の中で最もメディアにより注目を浴びたのは、『博士の愛した数式』だろう。
本作は第一回本屋大賞を受賞し、映画化もされた。記憶を失くしてしまう博士と親子の交流を描き、暖かな陽向を彷彿とさせる優しい物語を編んだ小川氏は、芥川賞受賞作『妊娠カレンダー』を始めとした執筆作品において、むしろ人間の持つ薄暗い闇、完璧な暗澹ではなく、薄墨が溶け込んだようなまさに〝翳り〟を描いた作品が多いように見受けられる。
私は『薬指の標本』を読んで、たちまち彼女の描き出す絶妙な翳りの世界と、そこに住まう、そこでしか息が出来ないような特別な人物たちの心の動きに夢中になった。明らかにこの世界とは違うのに、どこか現実味を帯びていて、ふと道を外れて入り込んだ路地にひっそりと存在する別世界。先述した「美少年あるいは美青年」たちは、そんな彼女の世界の中に生きている。

薄い、という言葉が良く似合う男たち。
薄い唇、薄い首すじ、薄い瞳の色。
彼らはしばしば誰かや何かに執着し、どこか遠くに視線を投げる。
真綿の向こうにかすんで見えるかのような覚束ない姿で、かろうじて存在している。
彼らの容姿から想像できるものを挙げるなら、例えば森の中にぽつりと建つ洋館、翅がもげて地面でばたつく揚羽蝶、瞳に宝石を埋め込まれたDOLL(関節人形)。

『完璧な病室』に収録された四短編は、そんな男たちの物語、ということもできる。
病に伏せ病室で暮らす弟、老婆の介護をする恋人の男、同級生の葬式で出会ったK君、両親が設立した児童養護施設で暮らす〝わたし〟が心を寄せる、プールでの飛び込みが得意な純。
ページを捲る音さえも物語に吸い込まれてしまいそうな静謐な時の流れの中で、彼らはゆっくりと肺から息を取り込み、そして吐く。しかしにわかに生きているとは信じがたい。常に静の空気を漂わせていて、口ぶりも激しさを伴わない。

「僕は、セックスだって知らないまま、死ぬんだ。」

表題作『完璧な病室』の弟は言う。本能的で野生的な人間としての営みを、自分は知らないままに死んでいくのだと。
彼らは生でありながら同時に死でもあるのだ。生というヴェールを被った、死という塊。生のヴェールを――柔らかい真綿を一枚ずつ剥がしていった時、内側に見る死はどんな色をしているのだろうか。
すべてを無に帰す暗黒。そう思うのは私たちがまだ生きていて、死に畏れがあるからだ。本当の死というのは救済で、きっとひどく優しい薄闇の色をしていて、褪せた生成りのレースのようで、この本の表紙のようなのだろう。

美しいものを大切に抱えている彼らの顔は美しく、睫毛は細く、肌は陶器のごとく滑らかで、髪は触れた手から逃れるように細い。そう信じてやまない。
彼らはどんなものより繊細なのだ。

なぜなら、死を抱えているから。
枯れた花を挿す花瓶は華美なものか?真新しい極彩色のものか?否だ。
壊れてしまいそうに脆い容れ物が似合ってしまう。
――彼らの居る物語のページを捲る時には、くれぐれも壊さないように注意してもらいたい。

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ABOUTこの記事を書いた人

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1992年生まれ。日本大学芸術学部文芸学科を卒業後、フリーライターとして活動のかたわら創作小説を執筆。昨年度、文学フリマにて中編小説『愛をくれ』を発表。自身の生きづらさを創作に昇華することを目標とする。