秋は短い。あっという間だ。
秋という季節を、私は時折哀れむ。哀れんだところで、短命な彼女はすぐに死んでしまう。枯葉に横たわって、ついには見えなくなる。死が絶えず漂っている季節という認識があった。時間でいうとちょうど三ヶ月くらいのその時期に、私の腹は着実に膨らんでいった。死とは真反対の、躍動したものが、小さな入れ物の中に入っていて、私はそれを所持して、外では笑顔を張り付かせ、その入れ物を皆に見せては賞賛の言葉をもらった。
「幸せ者の仲間入りだね、じゅん」
一番最初に声を掛けてきたのは直子だ。私が真っ先に直子を呼んで、膨らんだお腹をわざとぴっちりした服を着て見せつけた。直子は私のお腹を見るなり、きゃーとギャルみたいな声を上げて、ゴムまりのように跳ねては喜びの声を上げ続けた。
「本当におめでとぉ」
「ありがとう」
ちょっと触らせてよ、と言われ、いいよ、と返し、ずいっとお腹を差し出す。
直子の年がら年中乾燥しているサハラ砂漠みたいな手が、表面をざりざりと撫でる。
「元気な赤ちゃん産んでね。何かあったら相談乗るし」
「うん、ありがとう。がんばるよ」
そうして、私は誰かに自分の幸福を誇示するのを繰り返していった。それも、永くは続かなかった。
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娘の食欲は王様みたいに旺盛なのに、それに比べ、私は全然ものを食べなくなった。
小さな王様は、私のおっぱいにすごい強さで吸いついて、自分の身体に栄養を取り入れるのにいっしょうけんめいで、乳首にうっすら歯型がつくくらいだった。生きる、という事を、自分自身で証明しているみたいだった。
そんな時、ふと、娘の肉体が、母乳をたくわえた白くたぽたぽした容器か何かのように見え、その肌の白さに、一瞬、嫌気がさした。むくんだ腕を、指の腹で押してみると、やっぱりそれは透明の柔らかい容器っぽく、ぶよぶよと曖昧な弾力をもたらした。うっ、と私は声をあげ、自分でも正体のよく分からない吐き気にえずいた。
ひととおりえずいてから、尚もお構いなく乳を吸い続ける娘を見下ろすと、先程よりはじゅうぶん人の子に見えた。一体、なんだったのだろう。その時はさして気にかけることもなく、きっと疲れているんだ、と思うことにした。
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このふたつの文章は、私が一昨年に書いた中編小説『愛をくれ』で主人公の女性が妊娠・出産をし、子育てをするまでを描いた部分の抜粋だ。
十月十日。母親がその胎内に子を宿し、出産するまでの時間。
この限定的な時間で、母体である女性のお腹ははちきれんばかりに膨らみ、その内側についている臍の緒から子は栄養をもらう。通常なら妊娠・出産は祝い事として認識され、妊娠が発覚した瞬間から女性は多くの人間からの祝福を授かる。それ自体が望まぬものでない限り、ヴァージンロードとはまた違うが、同じく明るい道のりといってもいい。
しかし私はずっと、この認識に自分の心が同調できないまま生きてきた。
小川洋子『妊娠カレンダー』という作品がある。胎児にとっては毒である農薬を使ったグレープフルーツを、まるで給餌のように妊娠している姉に食べさせる妹、という衝撃的でグロテスクで、奇妙で――それでいてどうにも美しい物語。本作は第104回芥川賞を受賞し、小川洋子という名を印象づけるものとなった。自分自身の今まで抱いていた歪な価値観を初めて肯定してもらえたような気がしてしまい、この本を読んでから私は妊娠・出産という女性にしか成し遂げえない神秘的で尊い行為を、手放しに素晴らしいと祝福できない気持ちが確固たるものになってしまった。
世間から言わせれば、まだ妊娠も出産も経験していない私のような若造が連綿と継がれる命の尊い行為に難色を示すなどおこがましく、本当に子を愛する母親たちに軽くあしらわれるだけで終わってしまうだろう。
しかしどうしてもその、十月十日という限られた時間で変容していく女性の身体を、直視することができない。そしてそこから産まれ落ちた赤ん坊を、只々不思議な目つきで見ることしかできないのだ。
なぜこんなにも産まれたばかりの赤ん坊は、他者・世界に対して無知の限りを尽くせるのか?
なぜこの生き物の指は常に虚空をうごめくのか?その目は一体何を見つめているのか?
大人になったら、無垢な人間のいとけない姿を愛せるようになるのだと思っていた。
しかし、実際はそうではなかった。私はもう、赤ん坊を愛せない部類の大人としての地を固めてしまい、そこは「幸福な道」とは最初から分岐された別の道だった。
だからといって幸福になれないと決まったわけでもなく、子を産む人たちすべてが絶対的に幸福とは限らない。別の選択をしたということで、この思いを無理やり矯正しようとするのもまた、それはそれとして別物の苦しみが伴うのだ。
もはや好き嫌いという分野に、私のこの思いは存在していないように感じる。赤ん坊についての感情、それに伴う結婚・出産の選択。これらは少なくとも私の中で、すべてが独立している。
『妊娠カレンダー』の妹は、一体どうしてグレープフルーツの毒という、致死性ではないものを姉に食べさせ続けたのか。彼女の姉のお腹の中にいた赤ん坊への感情は、その真意は、どんなものだったのだろうか。
すべてが明確ではないからこそ、悍ましさで浮き上がる文学的芸術がそこに顕現されているように思う。
そこにはきっと、愛とか幸福とかいうものをぐちゃぐちゃにして原形をとどめていないものが更に路上にぶちまけられ、そのままにされているグロテスクと、不純物が吸収されたあとに残る美しさが共存している。
そして私のお腹は、一生涯膨らむことはない気がする。十月十日を見ぬまま生きる、それが私の選んだ道。
正しさや間違いなどではなく、ただそれだけの事だ。
