愛着の記憶をたどる、たびに出る。 / 江國香織『とるにたらないものもの』

自分が大切にしていること。それは、他の人にしてみたら、とるにたらないものだったりする。いや、本人でさえ、そう思っているかもしれない。とるにたらないもの、なんだけれど、心のなかにずっとある、滑らかな情緒として、そこに流れている。愛着。

赤く塗られたおばあちゃんの指先とか、化粧品の油分によってうすよごれた鏡台とか、トイレの隅に置いてある格闘技の漫画とか。行き止まりのフェンスとか、通学路の植え込みとか、いつもバラの香りがする友達のうちの玄関とか。……そういうものたちが、わたしを構成する要素になっている。

そういう、いっけんとるにたらないもの、そして、本当にとるにたらないようなものものが、わたしにとってすごく大切で、わたしが愛を表現したいときに、必要になるものだと信じている。

江國香織さんのことばをよんでいると、不思議と心が落ち着いてくる。雨の降る窓際で、あたたかいハーブティーを飲んでいるような気分になる(私はハーブティーが飲めないけれど)。というより、わたしはきっと言葉を飲んでいる。それはわたしの体にぐんぐん吸収されていく。人生で初めて化粧水をつかったとき、何も知らなかった肌が保湿成分に触れて、すごく喜んでいるのを感じた。

言葉を飲む感覚は、それに似ている。

『とるにたらないものもの』は、愛着の記憶であると思う。特に好きなもの、というわけでもないけれど、ただ、子どもの頃にみたもの、幼い心に触れて、ずっと自分の中にのこっているものを、60こあつめてきたエッセイ集だ。それは思い出の羅列である。

友だちの宝箱(ガラクタ箱とも言えるかもしれない)の中身を見せてもらっているような心地がする。すごく親しみやすくて、愛おしいけれど、一線を引かれている(やっぱり友だちは他人なんだな)と感じることもある。

すごく、たのしい。これを楽しめるひとは、きっと愛することを知っている。そして愛されることも。ちいさな愛が日常にあって、そのひとつひとつに心惹かれる、それをずっと胸の奥にしまっておける人だと思うから。

好きなフレーズがある。でもありすぎてここには書ききれない。わたしは本を読むとき、記録として付箋をぺたぺたとページに張り付ける癖がある。もうこれがないと本なんて読めないな、と思う。

付箋の色分けにはちゃんと意味があって、でもそれを教えるのはわたしの気に入ったひとだけで、それはこの世に一人しかいない。わたしとそのひとはいつも、同じ規則性のあるカラフルな本を持ち歩いている。それはすごく素敵なことだと思う。

たとえば、「カクテルの名前」の中の、「カクテルの何が好きかというと、名前が好きなの。」というフレーズ。これは、ずるい。だって、こんな口調で喋りかけられたら、まるで親しい友人から話しかけられているような気持ちになってしまう。わたしはあなたの「好き」がすきですよ、と、声をかけたくなる。「言葉にまどわされなくなったら小説家なんておしまいだ、」と言うのなら、わたしは小説家気取りをして、一生ことばに惑わされていたいと思う。

「お風呂」はこの話ぜんたいに流れている雰囲気が好きだ。後半にかけて気持ちが高揚してくる感じと、最後のオチがたまらない。わたしはお風呂が嫌いだけれど、たまには好きになってみても良いかな、という気持ちにさせられる。
「旅行鞄」の、「一つずつ明かになっていく。遠い場所で、誰を思い出し、誰の夢をみて眠るのかも。」というところは、わたしに異国の空を想わせる。あの時、わたしは一体、誰を思い出していたのか……わからない。だからもう一度、旅行鞄をもって、旅に出なければ。

押し葉と押し花をつくる習慣のあるお母さん、生乳を「なまちち」と読むお父さん、「もう、まめごしか入らない」と言う信心深い妹に、恋した男から送られたしぼり器でオレンジエードを作ってくれるおばあちゃん、「野ウサギのように」を歌って聞かせてあげると「眠れなくなった」とつぶやく夫、ハンブルクの駅を自慢気に語る異国のえらい人、ウォッカ・マティーニを教えてくれた年上の女性に、いつも首にスカーフを巻いている(知らない)おばさん……。

綺麗だ、と、思う。見える、きこえる、味わう、香る、触れる、感じるものすべて(かどうかは分からないけれど)を吸収する彼女の心と、それを表に出すときに紡がれる彼女のことば。

こんな風に世界をあるいたら、……こんなふうに存在すれば、いいのだろうなと思う。もっと優しくなってもいいんだろうな。愛するということを、怖がらずにしてもいいんだろうな。小さい頃の記憶を手繰り寄せて、わたしは「愛(着)」を再確認した。愛していいし、愛されても良い。少しだけゆるされたような気がする。

きっと思い出すだろう。肌に染み込んでとれなくなった、あの愛着の瞬間を。

わたしももう一度、宝箱を開けてみようという気持ちになった。

本をひらけば、愛する人が持たせてくれた、とるにたらないもの(長旅でよれてしまったキャラクターのステッカー)が、こぼれ落ちた。このガラクタももう、とっくにわたしの愛に、染まっている。

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