遺伝子の謎とバッハの『ゴルトベルク変奏曲』をめぐって紡がれる、2組のラブストーリー / リチャード・パワーズ『黄金虫変奏曲』

遺伝暗号の解読と、バッハの『ゴルトベルク変奏曲』。この2つを軸に展開されるロマンス、そして壮大な知の世界。こんなに読み応えのある小説が他にあるだろうか? 本書『黄金虫変奏曲』を読んでいると、そう思わずにはいられない。世界を総体として捉えたいという意欲に満ちあふれ、ページを繰るあいだ、ワクワクが止まらない。

『黄金虫変奏曲』は、リチャード・パワーズが1991年に発表した長編第3作。パワーズといえば、デビュー作『舞踏会へ向かう三人の農夫』で初めて日本に翻訳紹介された、現代アメリカ文学を代表する作家の1人だ。その超重量級のテーマを扱う作風ゆえに、トマス・ピンチョンが引き合いに出されることもある。

近年では新作が出るたびに翻訳刊行がなされてきたが、しかしこの『黄金虫変奏曲』は、ファンのあいだで待望されていたにもかかわらず、ずっと未邦訳のまま取り残されていた。原書の刊行は1991年。翻訳に取り組みはじめてからも十数年が経過し、ようやく2022年の春、みすず書房から刊行されたという次第だ。訳者は森慎一郎と若島正の2名。どちらも海外文学好きの方ならばご存知であろう、定評のある翻訳家である。なぜ翻訳にこれほど時間がかかったのか、本書を手に取られた方はすぐにお気づきになるはずだ。まず要求される理系知識が圧倒的に多い。そしてボリューム。なんと2段組で850ページを超える、浩瀚な大著になっている。どれだけの労力が注ぎ込まれたのかを想像すると、本当に頭が下がる。

ストーリーと作品の構成

いきなりだが、本書は以下のような書き出しではじまる。まずは作品の雰囲気、そしてパワーズのスピーディでアクロバティックな文体や独特の言い回しを味わっていただくためにも、最初の1段落をまるごと引用しよう。

今日知らせが届いた。三×五インチに押しこめられた四行の短信。何ヶ月も最悪に備えてきたのだから、軽く読み流して、終わりの日付を書き留めればそれでいいはずだ。実験は終わり、レスラー博士は死んだ。彼の分子は解体され、あとに複製は残らない。その手紙を私は破り捨てることができない。何度も読み返さずにはいられない。数日前の、いまでは冷めたニュース。しかも一年前からわかっていたことだ。でもそれを理解するには、私のこの細胞に残された時間ではとても足りない。機械仕掛けのオルゴール、彼の肉体は、五線譜との最後の取り組みを終えた。あの四つの音、四つの風、迷子になるのにうってつけの世の四隅は、標本平均の中に消えてしまった。

(リチャード・パワーズ (森慎一郎・若島正訳) (2022) 『黄金虫変奏曲』 みすず書房 p.7)

凄まじく認知負荷をかける文章。ここまで読者を困惑させる書き出しも、なかなかないと思う。レスラー博士が死んだのはわかる。しかし「実験」とは? レスラー博士と「私」との関係は? そもそも語り手である「私」とは誰? 「私」はいつどこでこれを語っているのか? 手紙の差出人は? 疑問が尽きないが、しかしすぐには解消されず、読者はほとんど何の手掛かりも与えられないまま、数ページにわたってこのような文章に付き合わされることになる。

この冒頭で面食らって投げ出してしまう読者もかなり多いのではないだろうか。「彼の肉体は、五線譜との最後の取り組みを終えた」とか、「迷子になるのにうってつけの世の四隅は、標本平均の中に消えてしまった」のような言い回しも、一見すると意味不明だ。ただでさえ850ページもの大ボリュームを前に尻込みさせられ、それでも気合いを入れて手を伸ばしたというのに、これでは門前払いされたような気分になる(しかも実は、この小説冒頭の直前には「万年暦」と題された厳かな詩が配置されているのだからなおさらだ)。

とはいえ、どうか安心してほしい。ここは初見の読者にはわからなくて当然の箇所で、数ページだけ我慢をすれば、あとはぐっと読みやすくなるからだ。気になる方は、しばらく読み進めてからふたたび戻ってくればいい。初回とは理解度が格段に違ってくるだろう。先ほどの”パワーズ節”とでも言うべき、独特の言い回しは全編を通して続くが、しかしそれも、小説を読み進めて、この作品が何を企てているのかをおおよそつかむことができれば、決して作家の衒学趣味によるものではないことがわかるはずである。なぜならマルセル・プルーストも言ったように、「作家にとって文体とは、画家にとっての色彩と同じで、テクニックの問題ではなく、ヴィジョンの問題」だからだ。とにかくいまは、「なにがなんだかさっぱりだが、とにかくこれから凄い物語がはじまりそうだぞ」という漠然とした予感を抱くことができればそれでいい。

しかしながら、予備知識を得て、少しでもスムーズに作品に入っていきたいという読者もいらっしゃるであろうから、ここでストーリー紹介も兼ねて、基本的な事柄を確認・整理していこう。

まず語り手である「私」は、ジャン・オデイという、公立図書館の司書を務める若い女性だ。物語の中心となるのは、冒頭の時点より数年前の1983~4年の出来事で、舞台はニューヨーク。

ある日、ジャンのリファレンスカウンターに、魅力的な青年フランクリン・トッドがやってくる。彼は職場の同僚の、ある中年男性の経歴について調査してほしいとジャンに依頼する。その男とは、夜毎にバッハの『ゴルトベルク変奏曲』を聴いている、孤独な夜勤のコンピューター技師であった。ジャンはしぶしぶながらもその奇妙な依頼を引き受け、苦戦はするものの、優れた調査の腕前と根気でもって、やがて男の正体にたどりつく。なんとその男は、将来を嘱望され、1950年代の科学界の最大の謎に接近しながらも、なぜか突如歴史から姿を消した生化学者だった。彼こそが冒頭の「レスラー博士」、スチュアート・レスラーだ。ジャンとトッドの2人は、彼の強烈な知性に惹かれ、レスラーという人間に強い興味を持つ。と同時に、ジャンには現在同棲している恋人がいるのだが、次第にトッドに惹かれていく。

そして以上のジャンの物語と並行して語られるのが、1957~8年の若き科学者レスラーの物語だ。舞台はアメリカ中西部のイリノイ。こちらはジャンによる1人称の語りではなく、3人称・現在形で語られる。そこでは遺伝暗号の解読を目指す、レスラーの研究生活が描かれる。そして同僚の既婚女性であるジャネット・コスとの恋。

詰まるところ本書のストーリーをひとことで言い表すなら、2組のラブストーリーということになる。四半世紀の時を隔てた2つの恋路が、互いを変奏しながら、DNAの二重螺旋構造さながらに絡み合う。

そして本書の語りは、1957~8年のレスラーのパート、1983~4年のジャンのパートに加えて、実はもうひとつある。それは1983~4年の出来事を回想している、1985~6年のジャンのパートだ(先に引用した冒頭の箇所はこれに該当する)。すでにレスラーは死に、ジャンは交際していたトッドとも別れている。この3つ目のパートでは主に、図書館司書を辞めたジャンが、レスラーを理解すべく、独学で分子生物学ないし分子遺伝学を学んでいく過程が描かれる。つまり本書の語りは主に3つのパートに分かれ、それぞれが交互に語られていくことになる。少々複雑なので、最初は混乱するかもしれないが、以上のことを頭に入れておけば大丈夫だろう。

作品のテーマ

さて先ほど、『黄金虫変奏曲』の物語の骨子は、2組のラブストーリーだと述べた。たしかに心理描写は優れているし、詩的な情感もたっぷりとある。それらが本書の魅力のひとつであることは間違いない。とはいえもちろん、850ページものボリュームの本書は、そのようなロマンスの要素だけで成り立っているわけではない。それはあくまで骨組みであり、生命科学や音楽はもちろんのこと、情報科学、美術、言語、歴史、文学などなど、あらゆる知識で肉付けされている(そのためストーリーの進行はものすごく遅い)。そして本書が際立ってユニークなのは、その点においてである。

まず、『黄金虫変奏曲』という邦訳タイトルではわかりづらいが、原書のタイトルはThe Gold Bug Variationsであり、これはバッハの『ゴルトベルク変奏曲』(The Goldberg Variations)と、エドガー・アラン・ポウの『黄金虫』(“The Gold-Bug”)のもじりである。

ポウの『黄金虫』は暗号解読の小説だが、これはもちろん、本書の中心テーマである遺伝暗号の解読に対応している。DNAを構成する4種の塩基、アデニン(A)、チミン(T)、グアニン(G)、シトシン(C)。このATGCのたった4文字の組み合わせが、人間を、ひいては恐ろしく豊穣な世界を生み出す。単純なアリアをベースに、そこから30の多種多様な変奏を繰り出すバッハの『ゴルトベルク変奏曲』は、このことのアナロジーとして用いられている(ちなみに、「ARIA」で始まり、30の章をあいだにはさんで、再び「ARIA」で終わる本書の構成は、『ゴルトベルク変奏曲』の構造そのものである)。

そもそもジャンの図書館司書という設定からして、本書には知的なムードが満ち満ちている。膨大な知の海を自由に泳ぎ、参照し、それを市民に役立つかたちで提供する職業。その日常業務の描写は極めて面白い。一見プレイボーイのようなトッドも実はインテリで、無名のフランドル派画家についての博士論文に取り組んでいるという設定だ。そしてレスラーは言わずもがな。たとえば次のような、ジャンにお世辞をふるまうときの、知的洗練を極めたセリフ。

「きみのその肌のきめ、まさしくヴィクトリア朝ポルノ小説の虐待されるヒロインに必須の美しい肌だ。これを私の口から言わねばならないのは少々残念だが、フランクリンの読書にはまだこういった所見を述べられるだけの広がりがないんじゃないかと思うと、黙っていられなくてね」

(リチャード・パワーズ (森慎一郎・若島正訳) (2022) 『黄金虫変奏曲』 みすず書房 p.145)

文理の垣根を超え、多分野にまたがる作家の広範な知識にはただただ圧倒される(ちなみにパワーズは大学では当初、物理学を専攻していたものの、途中で文転して英文学を学んだようである)。この小説を発表したとき、パワーズは34歳。まったく恐ろしい。

さて、ここまでの話を聞いて、本書は自分にはハードルが高いと感じた読者もいるかもしれない。なんだか小難しそうな小説だ、と。しかもボリュームも半端じゃない。

しかしどうか、身構えないでほしい。たしかにこれは読者の知性が試される小説である。率直に言って、私は生命科学の分野に明るくないので、遺伝子の謎をめぐる科学史についての記述では、理解が追いつかない箇所も多々あった。それでも「知」そのものに触れる喜びと言えばいいのだろうか、他の何ごとにも代えがたい、至福の読書経験を得ることができた。すべてを消化できなくても構わない。迫りくる情報の洪水にめまいを覚えながらも、しかしその感覚が心地よい。

ボリュームに関しても、必ずしも最後まで読み通さなくてはいけないと気負う必要はないと思う。物語の筋を追うことを主とする小説ではないから、仮に途中でリタイアしたとしても、読んだ分だけ楽しめる。ぜひ気軽に手に取ってみてほしい。必要なのは、知的好奇心を存分に働かせることだけだ。心躍る読書体験になることを請け合おう。

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