『グレート・ギャツビー』の次は何を読む? フィッツジェラルドおすすめ作品5選

1920年代の「失われた世代」の作家の一人であり、アメリカ文学を代表する小説家、F・スコット・フィッツジェラルド(1896-1940年)。死後の再評価運動によってその文学的名声は確固たるものとなり、いまではヘミングウェイ(彼もまた「失われた世代」の一人であり、フィッツジェラルドの友人であり、当時の文化的アイコンだった)をも凌ぐ作家として受け入れられている。日本でもここ数十年のあいだ、村上春樹らの翻訳によって知名度は上昇してきている。

フィッツジェラルドの名を知らなくても、翻案作品ならばご存知の方も多いかもしれない。レオナルド・ディカプリオ主演の『華麗なるギャツビー』(2013年、バズ・ラーマン監督)。ブラッド・ピット主演の『ベンジャミン・バトン 数奇な人生』(2008年、デヴィッド・フィンチャー監督)。これらはいずれも、フィッツジェラルドの小説を原作とした映画である。

この記事では、フィッツジェラルドの小説をまだ読んだことのない方(あるいは代表作しか読んだことのない方)に向けて、おすすめ作品を5つ紹介していく。何を読むか迷った際、ぜひ参考にしていただきたい。

『グレート・ギャツビー』

まず最初に取り上げるのは、言わずと知れたフィッツジェラルドの代表作『グレート・ギャツビー』。長編第3作目にして、彼の作品群の頂点に位置する最高傑作である。文学史上に燦然と輝く名作で、英語で書かれた作品でランキングをつければ、上位に入るのはほぼ間違いないだろう。私も、まず何か1冊読むなら何がいいかと尋ねられたら、やはり迷うことなく『グレート・ギャツビー』を挙げる。

というのは、その文学的価値の高さはもちろんのこと、このあとに紹介する『夜はやさし』などに比べて作品に華があり、ストーリーにも緩急があって純粋に小説として面白いからだ。きらびやかで豪奢なパーティーの描写もあれば、都会的でロマンチックな恋愛の描写もある。すべての情景が鮮やかだ。『グレート・ギャツビー』の間口は広く、多くの読者に向けて開かれている。長編と言っても新書で300ページくらいのボリュームなので、そういう意味でもとっつきやすい。

そしてなにより、『グレート・ギャツビー』は作品としての完成度が恐ろしいほどに高い。密度が圧倒的に濃く、無駄なシーンなどひとつとしてない。一文一文が洗練され、それが全体として美しい類まれなるリズムを形成している。とりわけ有名なのは冒頭と結末の文章だが、そのあいだに挟まれたどこをとってみても、まったくため息が出るほど美しい。要するに全部だ。キャラクターも、主要人物から端役に至るまで、実に生き生きとしている。まさに天才の所業であり、完璧などありえないと頭ではわかっていても、それでも完璧な小説としか言いようがない。もし自分がレイ・ブラッドベリの小説『華氏451度』に登場するブック・ピープルのように、何か本を1冊丸ごと暗記する立場に身を置くことになれば、私は『グレート・ギャツビー』を選ぶかもしれない。

おすすめの訳は、なんといっても村上春樹訳。翻訳家としても高く評価され、フィッツジェラルドの愛読者でもある村上春樹が満を持して取り組んだ渾身の訳業である。さすがに『グレート・ギャツビー』を「これまでの人生で巡り会ったもっとも重要な本」として挙げているだけあって、その出来栄えは素晴らしいの一言。もし『グレート・ギャツビー』という作品が誕生したことをひとつの奇跡と呼べるなら、それが約1世紀後に村上春樹の名訳を纏ってふたたび世に送り出されたことは、もうひとつの奇跡であると言っても言い過ぎではあるまい。

『夜はやさし』

さて『グレート・ギャツビー』を読んでそれに魅了されたあなたは、次にフィッツジェラルドの残したいくつもの素晴らしい短編小説に手を伸ばすこともできる。幸いなことに現在では、少なくない数の短編小説を村上春樹の優れた翻訳で読むことができる(その多くは『グレート・ギャツビー』と同様に、中央公論新社から「村上春樹翻訳ライブラリー」として新書で刊行されている)。しかしもしあなたが長編小説を読む心づもりになっていて(フィッツジェラルドが作家としてもっともエネルギーを注いだのは長編小説だった)、そして作家の人生や思想がいっそう色濃く反映された、より濃密でディープな作品をお望みならば、私は『夜はやさし』を薦めたい。

『夜はやさし』は、前作『グレート・ギャツビー』を超えることを目指し、フィッツジェラルドが9年もの歳月を費やして完成させた、4作目の長編小説である。彼の死後再評価され、今なお古典として読まれ続けている、フィッツジェラルドを語る上で避けては通れない作品だ。そして分量も、単行本で450ページ程度と、フィッツジェラルドの小説の中では最大のボリュームになっている。

とはいえ『グレート・ギャツビー』が気に入って本書を手にとった読者は、それを読んでひどく落胆することになるかもしれない。あるいは失望しないまでも、『グレート・ギャツビー』とのあまりの落差にきっと驚くことになるだろう(少なくとも私はそうだった)。というのも、『夜はやさし』は『グレート・ギャツビー』に比べて、完成度という点においては著しく劣っているのである。全体的に散漫な印象で、あまりに無駄が多い(冗長な部分を削れば、たぶん半分くらいのページになるのではないか)。構成面において、いくつも欠点や瑕疵がある。ストーリーも地味だ。それになにより、『グレート・ギャツビー』に見られた才気あふれる鮮やかな筆致が、そこにはほとんど見受けられない。読者は訝しむことになるだろう。あの有無を言わせぬほど流麗な、まったく隙のない天衣無縫な文体は、いったいどこにいってしまったんだ? と。

しかしそれでもなお、『夜はやさし』には人の心を打つ何かがある。この小説は、才能にめぐまれた医者であり、美貌の妻を持った主人公ディック・ダイヴァーが、落ちぶれ衰え、破滅してゆく過程を、これでもかというほどじっくり描いた作品であるが、その筆のタッチは繊細で、痛切で、そして優しい。そこには華やかさはないし、スリリングな展開もない。起伏がなく単調ではあるのだが、しかし胸にじわじわと沁みてくる。たしかに『夜はやさし』には多くの欠陥があるし、刺さる読者層は『グレート・ギャツビー』よりもぐっと狭まるはずだ。しかし不思議なことに、この作品にはそのいくぶん限られた読者層(つまりフィッツジェラルドのファン)を惹きつけてやまない魅力が備わっている。

翻訳は、現在入手しやすいものとしては2種類ある。作品社から単行本で出ている森慎一郎訳(新訳)と、角川文庫から上下巻で出ている谷口陸男訳(旧訳)である。谷口訳が刊行されたのは1960年とかなり古いので、普通ならば新しい森訳を、となるところだが、どちらにするべきか迷われる方も少なからずいるのではないかと思う。というのも、新訳は4000円代後半、旧訳は上下巻セットで約1500円と、価格に大きな差があるからだ。そこで両者の違いについてもここで簡単に触れておきたい。結論から言えば、かなり値は張るが、新訳の森慎一郎訳をおすすめする。以下、その理由について述べていく。

まず当然のことながら、新訳のほうが旧訳に比べて、表現や言い回しが現代的で読みやすい。旧訳にはさすがに古めかしく感じられる箇所があるし、女性キャラクターの男性キャラクターに対するセリフがやけに丁寧で、悪い意味で時代性を感じてしまう。さらに新訳の森慎一郎訳は、質の高い、親切な翻訳でもある。フィッツジェラルドの書く文章の、お洒落で都会的な雰囲気もよく伝わってくる。

それから、新訳と旧訳とでは、定本としているテキストが異なる。新訳が「オリジナル版」を底本としているのに対し、旧訳は「改訂版」を底本としている。ここでふたつのバージョンについて細かな相違を指摘する余地はないが、大まかに言って、改訂版はオリジナル版の第1部と第2部の前半を入れ替えたものである。オリジナル版では、物語は風光明媚なフレンチ・リヴィエラからはじまり、うら若い映画女優ローズマリーの視点から、どことなくミステリアスな雰囲気を漂わせる主人公ディック・ダイヴァーとその妻ニコルがしばらく描かれ、それからその謎を解き明かすべく第2部の前半でダイヴァー夫妻の過去編へと巻き戻る。それが改訂版では、いきなりダイヴァー夫妻の過去編から物語がはじまるのである(つまり物語は年代順に進行する)。個人的には、冒頭が華やかで、謎めいた印象を持つオリジナル版が好きである。改訂版は淡々としており、いくぶん退屈であるように思える。しかしもちろん、フィッツジェラルドがいったん『夜はやさし』(オリジナル版)を刊行したあとでわざわざ改訂を試みたのは、オリジナル版には欠点があると考えていたからにほかならない。実際、その通りである。そして改訂版には、改訂版ならではのメリットがある。だから最終的には個人的な好みの話になるのだろう。ここでこれ以上この問題について掘り下げることはできないが、もしご興味をお持ちの方は、村上春樹のエッセイ「『夜はやさし』の二つのヴァージョン」(『ザ・スコット・フィッツジェラルド・ブック』収録)をお読みいただきたい。『夜はやさし』のオリジナル版と改訂版についての、私の知るかぎりもっとも詳しい文章である。

そして最後に、新訳である森慎一郎訳のほうには、『夜はやさし』本編以外にも付録がある。村上春樹による解説と、書簡集である。書簡はいずれも『夜はやさし』に関わるもので、これを読むことで創作過程を知ることができる。書簡の相手は、名編集者パーキンズ、美貌の妻ゼルダ、そしてヘミングウェイなど。

『最後の大君(ラスト・タイクーン)』

『グレート・ギャツビー』を読んだ。それから『夜はやさし』も読んだ。どちらも気に入り、フィッツジェラルドのファンになった。そこでもうひとつ長編小説を手にとってみたいが、何を読むか? そこで提案したいのが、フィッツジェラルドの遺作『ラスト・タイクーン(最後の大君)』だ。

最初に断っておかなければならないが、フィッツジェラルドはこの作品の執筆途中で息を引きとった(享年44歳。死因は過度の飲酒による心臓発作だった)。つまり『ラスト・タイクーン』は書きかけの、未完の作品である。書き上げられたのは半分ちょっとで、その原稿もまだ完全には推敲がなされていない。

そんなわけで『ラスト・タイクーン』はこれからフィッツジェラルドの作品をはじめて読むという方にはおすすめできないが、しかしファンにとってはこの上なく重要な作品である。
というのも作家が『グレート・ギャツビー』を書き上げ、それから『夜はやさし』を経て、さらにそこから何を目指そうとしたのか、遺されたテキストから垣間見ることができるからだ。

決定稿でないと言っても、小説として読み進めるのが困難なレベルではない。たしかに冗長で推敲が不十分に思える箇所はあるものの、それ以上に魅力的な場面が数多く存在する(たとえば第1章のフライトシーンは壮大な物語の幕開けにふさわしい出だしであるし、主人公スターのロマンチックな恋愛の場面は繊細で美しい)。書かれなかった残りのストーリーについても、われわれは作家の残したノートなどからそのあらましを知ることができる。それでも謎として残された部分に関しては、フィッツジェラルドならどのように書いたかと、われわれとしては残された遺稿を頼りに想像を働かせるしかないが、それはそれで面白い作業である。

私ははじめて『ラスト・タイクーン』を読んだとき、「ああ、まだこんな文章が書けたんだ」と感服させられた。前述のとおり『夜はやさし』は優れた文学作品ではあるものの、しかしそこには『グレート・ギャツビー』には確かにあった、瑞々しくも洗練された筆使いは見られない。しかしこの作品には、それがいくらか戻ってきているように見えるのだ。

実際、『ラスト・タイクーン』はいくつかの点において『グレート・ギャツビー』によく似ている(たとえば『グレート・ギャツビー』において、ニックという一人称の語り手を用意し、その視点から主人公ギャツビーを描いたように、作家はこの作品においても、女子大生セシリアという語り手の視点から主人公スターを描いている。そしてそのスターの人物像も、ギャツビーと少なくない部分で似通っている)。しかしもちろんこの小説が『グレート・ギャツビー』の単なる焼き直しではないことは、これまでの作品にはなかった新規軸が打ち出されていることからも明らかだ。完成していればどれだけの傑作になっただろうと思わずにはいられない。未完に終わったのが本当に悔やまれる。

『ラスト・タイクーン』の翻訳は複数あるが、その中でも新しいものは、上岡信雄訳(邦題『ラスト・タイクーン』)と、村上春樹訳(邦題『最後の大君』)のふたつである。どこが違うかというと、上岡訳は「ケンブリッジ版」を底本としているのに対し、村上訳は「ウィルソン版」を底本としている。ざっくり言ってしまえば(本当にざっくりとであるので、詳しくは新訳2冊の解説やあとがきを読んでいただきたい)、ケンブリッジ版は学術的に正確ではあるものの小説としての完成度が低く、ウィルソン版はいささか不正確なところはあるが小説としての体裁は整えられている。ウィルソン版の抱えている問題がどの程度のものなのかは、資料に関する知識を持たない私にはわからない。しかし村上春樹曰く「それほど間違ったことはしていない」とのことである。そのため、どちらの版も一長一短ではあるが、それでも小説として読みやすいウィルソン版を定本にしている、村上訳をおすすめしたい。もちろん村上春樹の翻訳で読めること自体も、大きな魅力である。

当然のことながらこれは、これから『ラスト・タイクーン』をはじめて読もうという一般読者に向けてという観点での話である。上岡信雄訳のほうも非常に価値のある1冊であることは言うまでもない。なにしろケンブリッジ版を底本とした唯一の邦訳であるし、村上訳より価格は少々高いが、ハリウッドを舞台にした短編4つが収録され(そのうち3作は初邦訳)、書簡集もついている。

『冬の夢』

フィッツジェラルドは多くの優れた短編小説を書き残した。そしてそれ以上に多くの優れているとは言いがたい短編小説を金のために書き散らした。とはいえ翻訳されている短編小説は、編訳者によって取捨選択がなされた結果採用されたものなので、基本的に質の高さはある一定のレベルを保証されている。だからどれを読んでも、おそらく後悔することはないだろう。

そんな良質な短編の中でも、とりわけ強く推したいのが初期の名作『冬の夢』だ。若き日の瑞々しい感性で描かれたこの作品は、隅の隅まで完成されており、まったく見事というほかない。フィッツジェラルドの残した短編小説のうちでも、最良のもののひとつであることは間違いないだろう。

『冬の夢』というタイトルが如実に表しているとおり、主人公デクスターはある冬に夢(それは一人の女性と一体化した夢である)を抱く。以来、彼はその夢を長年にわたって変わらず持ちつづけ、ときにその夢はすぐ手の届くところまで近づくように見えるが……。と、こう書けば『グレート・ギャツビー』をすでにお読みになった読者ならばすぐにピンとくるだろう。そう、この短編の主人公デクスター・グリーンには、長編の主人公ジェイ・ギャツビーと明らかに重なるところがある。事実、この『冬の夢』は『グレート・ギャツビー』の執筆の少し前に書かれた作品であり、両者の主題の関連性はこれまでに度々指摘されてきたことである。そのため『グレート・ギャツビー』が気に入った読者にはこの短編小説もきっと同じように楽しんでいただけるだろうし、あるいはフィッツジェラルドの長編小説を読む前にまずは試しに短編小説を読んでみたいという方にもおすすめできるのである。

有名な作品なので翻訳はいくつもあるが、おすすめはやはり村上春樹訳(『冬の夢 (村上春樹翻訳ライブラリー)』に表題作として収録されている)。この小説で個人的にもっとも好きな場面は、なんといっても結末の部分なのだが、その最後の数段落も実に見事に訳しきっている。原文の韻を踏んだリズミカルな英文ももちろん素晴らしく、思わず暗唱したくなるが、この村上訳にもまた独特の魅力があり、何度も読み返してはその度にうっとりさせられる。

『ベンジャミン・バトン 数奇な人生』

最後はいささか風変わりな作品を紹介してこの記事を終わりたい。『ベンジャミン・バトン 数奇な人生』は、これまで取り上げてきた作品とはずいぶん趣を異にする短編小説である。というのもこれは、老人の姿で生まれ、歳を取るごとに次第に若返っていく男の物語だからだ。

フィッツジェラルドが生活のために、大衆向けの雑誌に数多くの娯楽作品を書いたことはよく知られている。それらのうちの多くは決して出来の良いものとは言えず、これまでに翻訳されることもなかった。この『ベンジャミン・バトン 数奇な人生』も、長らく日の目を見ることのなかった作品のひとつである。しかし2008年にこの短編小説を原作とする同名映画が公開されたことをきっかけに再評価がなされ、初邦訳されるに至ったという経緯がある。

正直なところ、これまで紹介してきた作品と比べると、その文学的価値は明らかに一段か二段落ちる。それに率直に言って、決してつまらない作品ではないものの、映画のほうがずっと内容的に豊かで面白い(と私は思う)。しかしここで敢えてこの作品を取り上げたのは、フィッツジェラルドの作風の豊かさ、大衆作家としての側面も知ってもらいたいと考えたからである。

『グレート・ギャツビー』をはじめとするフィッツジェラルドの名作に触れてきた読者にとっては、この作品は驚き以外の何ものでもないだろう。なぜならこれまで紹介してきた作品はあくまでリアリズムを志向したものであったのに対し、この『ベンジャミン・バトン 数奇な人生』は、年を経るごとに若返っていくという荒唐無稽な設定といい、あまりにSFやファンタジーの要素の強い作品であるからだ。それに作家が本気で書いた小説と比べると、描写はかなりあっさりしている。とはいえ物語の底にはフィッツジェラルドらしい主題が流れているし、美しい情景描写もないではない。とにかく読んで損はないだろう。

映画はかなりの長尺だが、原作であるこの短編小説はすぐに読み終えられるはずだ。私が読んだ都甲幸治訳はいまは絶版になっているが、角川文庫から出ている永山篤一訳で読むことができる。

まとめ

これまで書いてきたことを一言でまとめると、まず『グレート・ギャツビー』を読んでいただき、それから『夜はやさし』に進むなり、短編小説に進むなり、というのが標準的な登攀ルートではないかと思う。もちろんどのような順番で作品を読むかは読者それぞれが勝手に決めることであって、この通りにする必要はまったくないし、私としても押し付けるつもりは毛頭ない。しかし何を読むか迷った際には、参考にしていただけると幸いである。この記事ではどちらかといえば長編小説を中心に扱ったが、先にも述べたように、フィッツジェラルドは多くの優れた短編小説、そしてエッセイを残している。また機会があれば、それらもぜひ紹介したいものである。

この記事を書く前に、数年ぶりに『グレート・ギャツビー』を読み返してみたのだが、「こんなに素晴らしい作品だったんだ」とあらためて実感させられた。もちろん優れた(そして個人的に好みの)作品であることがわかっていたからこそ再読したわけだが、それでも期待を上回る読書体験になった。それに読み返す以前は、とりわけ終盤の感傷的な場面のほうが強く印象に残っていたのだが、「序盤や中盤には、こんなに笑える箇所があったんだ」とフィッツジェラルドのユーモアのセンスを見直してしまうことにもなった次第だ。今回5つの作品を紹介したが、どうも『グレート・ギャツビー』を贔屓にしているというか、どの作品も多かれ少なかれそれに関連させるかたちで取りあげてきたのには、そういう個人的な事情も少なからず影響している(と思われる)。どうかご容赦願いたい。きっとこの先も何度も『グレート・ギャツビー』を読み返すことになるだろう。このような作品にひとつでも出会えることは、読書家にとって望外の喜びである。

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