当事者が読み解く発達障害文学――「風変わりな女の子」はどう描かれてきたか――

ずっと自分は周りと「違う」と思ってきた。

「発達障害の傾向があります」それでも、その決定的な診断を受けた時、奈落に突き落とされたような気持ちになった。「あなたはADHD/ASD1です」

発達障害という言葉は近年メディアなどでも注目され、話題となっている。読者の皆さんも、そんなニュースを目にすることがあるだろうし、中にはもしや自分も「そう」なのではと疑っている人も少なくないのではないだろうか。

特に筆者のような女性の発達障害は発見されづらいとされている。その背景には、発達障害の診断基準が男性中心に作られているというのがあるようだ。一方で、彼女たちが持つ発達障害の特性は一般的な「女性らしさ」と相容れない。そのなかで、多くの発達障害の女性たちは一般的な「発達障害」像のなかにも「女性」像のなかにも自分の姿を見つけることができず、ただの「風変わりな女の子」として、生きづらさを感じてきた。

それでも、いくつかの文学作品は「風変わりな女の子」を描いてきた。それらは少しでも彼女たちの生きづらさを軽減することができたのだろうか。あるいは逆に彼女たちをエンパワーするためにはどんな文学が必要なのだろうか。

今回の記事では、マイノリティ文学の一種として「発達障害文学」というジャンルを提唱し、そのなかで特に「風変わりな女の子」像がどのように描かれてきたか考えてみたい。

モンゴメリ『赤毛のアン』の功罪

モンゴメリ『赤毛のアン』シリーズは、戦後日本において特に広く受容されてきた発達障害小説だ。

独身のマシューとマリラ兄妹が孤児院から男の子を養子として迎え入れようとするところからこの物語ははじまる。ところが、実際にやってきたのはアン・シャーリーという赤毛の女の子だった。それでも、夢見がちでおしゃべりなアンに心惹かれたふたりは彼女を引き取ることに決めた。その後、アンはなにかと騒動を起こすものの、周囲に愛されながら育ち、のちにライバルのギルバートと恋に落ちて結婚する。

アンは実に発達障害的だ。近所の並木道を《歓びの白い路》と呼んだり、池を《輝く湖水》と名付けたりする空想癖に加え、髪の色をからかったギルバードの頭に石盤を打ち下ろす衝動性や、お茶会でラズベリー水と間違えてスグリ酒を出す不注意など、複数の発達障害(特にADHD)の特性が指摘できる。

驚くべき点は、それにも関わらず、なんとアンはその発達障害の特性からむしろ周囲に愛されており、非常に魅力的に描かれているということだ。このように、肯定的な「風変わりな女の子」像を描いたことはこの作品の大きな功績といえるだろう。これまで、『赤毛のアン』は多くの発達障害女性たちが自分を受容することに貢献してきたのではないかと推測される。筆者自身も幼少期にこの作品に触れて深く共感し、アンに憧れた経験がある。

しかし、いまではアンに対して複雑な感情を持たないではいられない。なぜなら、実際にはリアルな「風変わりな女の子」の多くはけっして世間一般に受け入れられるものではなかったからだ。アンが受け入れられたのは、発達障害の特性を持ちながらも、ちゃんと「女の子らしさ」を持っていたからだった。空想はあくまでも甘美でロマンティックであり、不注意や衝動性もかわいらしさの範囲内でなければならない。

また、アンの物語は女性だからこその束縛を大きく受けたものだといえる。この「風変わりな女の子」のロールモデルは、最初に養子にもらう段階から男の子の代わりでしかないことも印象的だが、何よりも結局はロマンティック・ラブの末に結婚して子どもを持つというラストこそ、女性に対する束縛を理想化するものでしかない。

このように、『赤毛のアン』は、「風変わりな女の子」を肯定的に描くことでその生きづらさを軽減した一方で、同時に彼女達に女性性の呪縛を与えてしまう結果になってしまったのではないだろうか。

今村夏子『こちらあみ子』の衝撃

『こちらあみ子』は、発達障害を持つ少女の実存を切実に、しかし同時に少しコミカルにも描き出した小説だ。

「風変わりな女の子」であるあみ子は一見ほのぼのとした子ども時代を送っていたが、あみ子自身の風変わりな行動をきっかけに家族が崩壊していく。学校でもいじめられ、ほとんど不登校になったり、生活もまともにできなくなったりして、最後には家族から隔離されてしまう。

あみ子はとても強い発達障害特性を持つ主人公だ。金魚の墓の隣に流産した弟の墓を作ったりするし、片想いをしている相手にコーティングのチョコレートを舐めとったクッキーを悪意なくあげてしまう。こういった行動からは、まさしくASDの特徴である独特な想像力を感じる。あみ子の想像力は、ロマンティックの範疇を超えているどころか、不気味なほど文脈を逸している。けっしてそれは肯定的な「風変わりな女の子」像ではない。

それでも、この作品には不思議と心励まされるものがある。それは、この作品があみ子のまさに実存を描いているからだ。

それにはまず、書き手のあみ子への距離感が絶妙だということがある。たとえば三人称でありながら情報の出し方を非常に小出しにしたストーリーテリングは、読者に視野の限定されたあみ子の世界観を実感させる仕掛けになっている。その一方で、ときには客観的な描写(「あみ子しかしゃべっていなかった」など)を挟み、あみ子の異常性を表現している。このように読者はある程度あみ子に寄り添いつつ、それでも一体化しすぎない微妙な距離感を持つことができる。このことは、ひいてはあみ子に対して生温かい同情を持つのではなく、あみ子の実存そのものを感じるということにつながるのである。

さらに、あみ子が「女の子らしさ」というものに囚われない存在だということも重要だ。たとえば、あみ子は前歯を3本なくしているが、そのことを全く気にしないどころかむしろその感触を気に入ってそのままにしてしまったのである。あみ子が「女の子らしさ」に捉われない背景には、あみ子に自意識がないということがあるだろう。自分はなぜいじめられるのか、なぜ周囲になじめないのか、という疑問符はあみ子の頭のなかにはない。あみ子には自意識がない代わりに、実存だけがあるのである。

それにしても、冒頭とラストの土の匂い立つような描写は、最後にはあみ子が居場所を見つけたということなのだろうか。あみ子はいくつになったのか分からないが、今では小学生のさきちゃんという友達ができている。さきちゃんも成長するし、いつまでも友達でいてくれるとは限らないだろう。それでも、この僅かであっても希望のあるラストに涙しないではいられない。

村田沙耶香『コンビニ人間』の未来

『コンビニ人間』は発達障害の女性、古倉恵子という主人公を描くだけでなく、その視点からこの社会のおかしさを逆照射している小説だ。

「私」はコンビニバイト歴=18年、交際相手なし歴=年齢の36歳で、小さい頃から社会とうまく噛み合わず、コンビニでバイトをしているときだけ正常な世界の歯車になれると感じてきた。そんなとき、婚活目的の男性・白羽がコンビニにバイトとして入店してくる。いわゆるインセルである白羽はトラブルを起こしてすぐにクビになるが、「私」は白羽と書類上結婚することを提案し、家に住ませ、就職活動をすることになる。しかし、最後には「私」は自分は本質的にコンビニ店員なのだと気づき、コンビニに戻っていく。

この主人公はたしかに発達障害といえるだろう。子どもの頃に公園で死んでいた小鳥を見て「お父さん、焼き鳥好きだから、今日、これを焼いて食べよう」というシーンは独特な想像力を示していて印象的だし、コンビニエンスストアの音を好むというエピソードも聴覚過敏や強固なこだわりを感じさせる。これも、美化も差別もしないリアルな発達障害女性像だ。

この作品のすごい所は、発達障害を描くだけに留まらず、その視点を借りて現代社会の奇妙さを鋭く指摘しているところだ。なかでもとりわけ「就職や結婚をしないと一人前として認められない」という規範が、とても批判的に描かれている。この規範は、「生産性」の規範と言い換えても良いだろう。発達障害だけではなく、他の障害者や女性、LGBTQをも差別するこの「生産性」の規範は現代社会を強く規定している。

発達障害は嘘をつくのが苦手だと言われている。その代わり、「本当のこと」を言うのは得意なのだ。だから、「私」はみなが共有している生産性の規範がおかしいと気が付くことができた。

このことは「女の子らしさ」からの解放も意味している。特に女性には恋愛や結婚が最も大事なものとされているが、この主人公は最終的にそんなものは気にしないでいいと気が付くことができた。

そうして、「私」が帰っていく先がコンビニなのも面白い。生産性の規範を放棄した「私」もまた資本主義の末端に自分の居場所を見つけ出した。それは、どこまでも両義的なハッピーエンドなのである。

おわりに

ここまで発達障害文学における「風変わりな女の子」像の描かれ方について見てきた。

『赤毛のアン』のようにただ肯定的に描くだけでは「女の子らしさ」の呪縛に囚われてしまうが、『こちらあみ子』のようにその呪縛を突き抜けた存在として描く物語はとても励まされるし、また『コンビニ人間』のように社会批判にまで踏み込んだ作品は発達障害女性が社会を逆照射できる存在として立ち上がっていくのを感じることができる。

このように、「風変わりな女の子」を描いた作品はマイノリティとしての発達障害女性をエンパワーするだけでなく、社会を変える力も秘めている。これからの発達障害文学の発展を注視していきたい。

この記事で取り上げた作品


1現在のかかりつけ医の診断はADHD/社会コミュニケーション症(ASDと症状は似ているが、特有のこだわりが少ないといわれる)

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