ヴァージニア・ウルフの傑作『波』を新訳で楽しむ

今節、ヴァージニア・ウルフ『波』の新訳(森山恵訳)が45年ぶりに刊行された。『波』は、1931年に発表された、ウルフの7作目の長編小説である。

ウルフの小説といえば『ダロウェイ夫人』『灯台へ』がまず挙げられ、『波』は知名度という点ではやや劣る。ところが、実のところ『波』は、両者に負けず劣らずの傑作で、高く評価されている作品なのである。ウルフ自身も、この作品には相当の自負があったようだ。

しかしながら、これまで邦訳は古いものしかなく、さらに絶版になっていたので、アクセスしづらい状態が長らく続いていた。さらに『波』は芸術性が高く、ウルフの小説の中でもとりわけ難解といわれており、読むハードルが高い作品でもある。そもそも「小説」と呼べるのかすら定かではない。

そんなわけで、新訳が刊行されたこの機会に、これからはじめて『波』を読んでみようという方をアシストするような記事を書きたいと思ったのである。

この記事では、まず小説の構成を確認し、『波』はどのような作品かを概観しながら、難解といわれる所以を述べる。次に、この小説は何を主題としているのか、なぜ普通の小説と異なる描き方をせねばならなかったのか、私なりの考えを述べさせていただく。

新訳(森山恵訳)についていえば、大変素晴らしい出来栄えである。訳者の森山恵さんは詩人でもあるからか、美しく洗練されていて、リズミカルな訳文に仕上がっている。旧訳よりも、一般に読みやすい。また、書籍の装丁も美しく、作品の静謐なイメージが見事に再現されている。

『波』は詩のような文体で書かれている作品なので、訳者ごとに印象は大きく異なる。そのため、訳文を比較することができるように、旧訳も適宜引用しておいた。旧訳には、代表的な川本静子訳を選んだ。ぜひ読み比べて、感触の違いを味わっていただきたい。

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『波』はどのような小説か

『波』は、散文詩のスタイルで描かれた自然の描写と、登場人物たちのモノローグ(独白)とが、交互に、計9回くりかえされる構成となっている。

自然の描写は、「間奏曲=インタールード」とも呼ばれ、以下のような文章である。

太陽はまだ昇っていなかった。海が、布のなかの(ひだ)のようにかすかに皺立つほか、空と見分けるものとてない。空がほの白むにつれ、海と空を分かつ暗い一線があらわれ、灰色の布は、ひとつ、またひとつ、あとからあとから走るいくつもの太い筋によって縞目をつけられ、水面(みなも)のしたのその筋は、果てしなく、たがいの後を追い、追いかけあった。

ヴァージニア・ウルフ (森山恵訳) (2021) 『波〔新訳版〕』早川書房 p.5

この箇所は、旧訳では次のようになっている。

陽はまだ昇らなかった。縮緬皺を寄せたかのようなさざ波が海面にひろがるほかは、海と空の区別はつかなかった。空が白むにつれ、海と空を劃す一線がしだいに色濃くなると、灰色の海には幾筋もの大波が湧き起こり、次から次へ、追いかけ追いかけ、耐えることなくうねり寄せた。

ヴァージニア・ウルフ (川本静子訳) (1976) 『ヴァージニア・ウルフ著作集 5 波』みすず書房 p.3

引用したのは、本書の冒頭、つまり最初のインタールードである。ここでは夜明けの情景が描かれており、これから日没に至るまでの過程が、9回にわたって段階を踏みながら描写されていく。1つのインタールードの長さは、2,3ページ程度である。

インタールードで描写されるのは、海や波の様子だけではない。光の具合、草木や花々、小鳥たち、室内の状況などの、太陽の運行に応じて移りゆく様子が、克明に描かれる。

この自然描写はうっとりするほど美しく、なかんずく最初のインタールードが私は好きである。とりわけ引用した箇所などは、まことに秀逸というほかなく、思わず暗唱したくなるほど。

次に、『波』の大部分を占めるモノローグについて見ていこう。語り手は、バーナード、ネヴィル、ルイ、スーザン、ジニー、ロウダの男女3人ずつの計6人である。最初のインタールードの後は、次のように展開される。

「見える、(リング)が」とバーナードが言った、「ぼくの頭のうえ、光の輪のなかでふるえ、吊りさがる輪が見えるよ」
「見える」とスーザンが言った、「むらさき色の筋と溶けあうまで広がる、あわい黄色の帯が見える」
「聞こえる」とロウダが言った、「ツツピーツツピー、ピチピチ、っていうさえずりが、高く、低く」
「見える、球が」とネヴィルが言った、「大きな山腹を背に、しずくになってしたたる球が見えるよ」
「見える、真紅のタッセルが」とジニーが言った、「金色の糸とより合わさった、タッセルが見えるわ」
「聞こえる」とルイが言った。「何かが足を踏み鳴らしている。巨大なけものの足が鎖につながれているんだ。ずしん、ずしん、ずしん、って足を踏み鳴らしている」

ヴァージニア・ウルフ (森山恵訳) (2021) 『波〔新訳版〕』早川書房 p.7

旧訳も引用しておこう。

「輪が見えるぞ」、バーナードは言う、「空中にぶら下がっているのが。光の輪が揺れ動きながら、宙に浮いているぞ。」
「うす黄色の平らな板が見えるわ」、スーザンは言う、「のびひろがって、紫色の筋と交わっているのよ。」
「ほら、音がするわ」、ロウダは言う、「ぴよぴよ、ちいちい。あちらこちらで。」
「球が見えるよ」、ネヴィルは言う、「どこかの丘の大きな横っ腹めがけて、滴り落ちていくぞ。」
「真っ赤なふさが見えるわ。」、ジニイは言う、「金色の糸でより合わされているのよ。」
「足を踏み鳴らす音がするぞ」、ルイスは言う。「大きな獣が足を繋がれているんだ。ずしん、ずしんと踏み鳴らすよ。」

ヴァージニア・ウルフ (川本静子訳) (1976) 『ヴァージニア・ウルフ著作集 5 波』みすず書房 pp.4-5

引用したのは一番最初の箇所なので、まだ1人1人のセリフはごく短いのだが、実はこれは『波』の全体の中ではかなり珍しい。基本的には、ページが進むほど長広舌になってゆき、まるでハムレットのごとく、1人が何ページにもわたって喋り通すようになるからだ。

インタールードと同様に、モノローグも9つの部分に分かたれるのだが、これも回を重ねるごとに、幼年期・少年/少女期・青年期・中年期・老年期と、人生の諸段階が進行してゆく。

これはもちろん、インタールードとモノローグとは、互いに呼応していることを意味している。つまり人生は、自然の1日の移り変わりに重ねられており、日の出とともに生まれ、日没とともに死ぬのである。ちなみに、2つのパートが共鳴するこの音楽的な構成は、ウルフがベートーヴェンの弦楽四重奏曲を聴いていたときに思いついたものらしい。

ところで、新訳ではモノローグとインタールードのあいだに空白のページが1枚挿入されているので、旧訳よりも物理的に間隔が空いている。そのおかげで、次のモノローグへの切り替わりがよりいっそう明確になっているといえよう。

子供時代に同じ経験を共有した6人は、やがて別々の人生を歩むことになる。もはや同じ場所にはいないのだから、必然的に1人1人のセリフが長くなってくるわけである。ただし、作中では6人が再び一堂に会するシーンが2箇所あって、それはこの小説の山場にもなっている。

6人の個性は、最初はおぼろげで、あまり判然としない(とはいえ、よく読んでみると、ふとしたセリフに、やがて姿を見せる各々の特性の萌芽を認めることができる)。しかし、次第に自意識が芽生え、否が応でも個性の違いが際立ってくる。しかし実は、ウルフは完全に独立した6つの自我を描こうとしているわけではない。このことはまた後ほど触れよう。

なぜ『波』は難解なのか

『波』の構成は、ざっと以上のようなものである。本書が普通の小説ではないことは、すでにお分りいただけたであろう。

まず、ストーリーと呼べるものがほとんどない。先にも述べたように、本書の大部分は登場人物たちのモノローグから成っている。それは要するに、とりとめのない主観的な思考の流れの記述であり、いわゆる「意識の流れ」と呼ばれる手法である。このような書き方は、ストーリーを展開するのには一般に向いていないのである。

よほどの文学通でもないかぎり、小説と聞いて思い浮かべるのは、普通は物語性があるものだろう。売れ筋の小説には大抵ストーリーがあり、当然読者はそれを期待して読む。「良い小説=ストーリーが面白い小説」と考える人も少なくないのではないか。しかしこの小説には、それがない。不慣れな読者が面食らってしまうのも、仕方がない。

また、「意識の流れ」の当然の帰結として、我々には、登場人物たちに関する客観的事実は与えられない。彼の容貌はどんなだとか、いまの心境はこんな感じだとか、どんな場所にいるのかだとか、そのような事柄について、客観的に説明してくれる語り手はいない。「神の視点」などというものは存在しないのである。我々が知り得るのは、登場人物のいま、ここにおける意識であり、そこから窺える断片でしかない。

さらに言えば、インタールードだけでなく、登場人物のモノローグも、ほとんど詩のような文体で書かれているため、極めて密度が高く、抽象的で、暗示に富んでいる。芸術的な美しさがあるが、その反面、1度読んだだけでは分からないような難解な箇所も多々ある。逆にいえば、2回、3回と再読する楽しみがあるということでもあるのだが。

そんなわけで『波』は、それはそれは読みにくい。それでは、一体なぜウルフはこのように書いたのか。わざと難解にしたのだろうか。韜晦趣味なのだろうか。無論、そうではない。

この問いに対して、つまりなぜこのような奇異な描き方をせねばならなかったのかという問いに対して、これから引用する1節は、ウルフ自身の回答にもなっているのではないかと私には思える。

我々がいくら白いベストを身につけ、社交儀礼を守り、約束の時間通りに到着するとしても、奥底にはいつも決まって激しい流れがあって、破れた夢、子守歌、街の喧噪、言い掛けた言葉やため息が──楡の木々、柳の木々、掃除する庭師たち、書きものをする女たちが──ディナーテーブルへとレディに腕を貸しているときであっても、盛り上がってはまた沈みしているのです。テーブルクロスのうえのフォークをまっすぐ揃えているときも、何千もの顔が眉をひそめる。一見そこには、スプーンで掬い上げられる何ものもない。事件と呼べる何事もない。けれどその実、この流れもまた生きていて、深いのです。

ヴァージニア・ウルフ (森山恵訳) (2021) 『波〔新訳版〕』早川書房 p.293

つまり、我々の身だしなみや立ち振る舞い、レストランの様子、相手の容貌など、そのような外的な事実をいくら積み重ねたところで、人生の総体を捉えることはできないということだ。我々は、何らかの活動の最中にあっても、内面の奥底にある意識のとりとめのない流れの中に生きているのだから、そこにおいてこそ真の人生が見出せるのである。

これはまた、なぜウルフは詩的な文体を用いたのかという問いへの答えにもなるのではないか。我々の意識に浮かび上がるのは、明確で論理的な、散文的なヴィジョンばかりではない。そこでは、おぼろげでいまだ不明瞭な印象、無意識のイメージなどが幅を利かせているはずである。そして、そのような曖昧模糊としたイメージを捉えるには、通常の散文ではなく、詩という純粋な形式こそがふさわしい。おそらくウルフはこのように考えたのではなかろうか。

『波』の主題

哲学的、根源的なテーマを追求した作品であることも、『波』が難解な理由の1つだろう。よって、ここからは『波』の主題に関する考察に入りたい。

私の考えを押し付けるつもりは毛頭ないが、ウルフは『波』において何を描こうとしたのか、作家の問題意識をつかむことができれば、難解な本書も、ぐっと読みやすくなるだろう。

単刀直入に述べると、ウルフはこの小説で「人生」を捉えようとしたのである。そして行き着いたのは、人生とは波のようなものであるという答えだ。このイメージは序盤でもすでに示唆されており、たとえば次のロウダの1節などがそうである。

人生はトラの跳躍のように突然に、断続的なショックとともに、暗い波頭をもたげて海から現われる。わたしたちが結びつけられているのはこれ。縛りつけられているのはこれ。野生の馬に身体が縛られるように。

ヴァージニア・ウルフ (森山恵訳) (2021) 『波〔新訳版〕』早川書房 p.72

そもそも『波』というタイトルなのだから、人生が波に重ねられていることは、薄々勘付いていた方も少なくないかもしれない。だが、もう少し考えてみたい。人生は波であるとは、どのようなことが含意されているのだろうか。

波は、湧き起こり、高く膨れ上がったかと思うと、岸に当たって砕け散る。ひとつの波は、束の間のものに過ぎず、それは人間という存在の儚さを象徴している。

しかし、ひとつひとつの波は、広い視点で見れば、大海原の一部でもある。つまり人間とは、切り離された別個の存在ではなく、ひとつの大きな集合体なのだ。そして、波が砕けると、あとからまた別の波が押し寄せる。そのような反復運動は、人生の永続性を象徴しているといえる。

ウルフは別個の存在として6人を描いたわけではないと先に述べたが、それはこのような意味においてである。ウルフは、人間という存在や人生を、このような神秘的なヴィジョンによって捉えたのだ。老年になったバーナードは、次のように回想する。

おれはひとりの人間ではない、多くの人間だ。自分が何者なのかすらまるでわからない──おれはジニーであり、スーザン、ネヴィル、ロウダ、あるいはルイでもある。そうでないとしたら、どうやって自分の人生を彼らから切り離せばいいのだ。

ヴァージニア・ウルフ (森山恵訳) (2021) 『波〔新訳版〕』早川書房 p.317

実はこのヴィジョンの萌芽は、幼少期の段階においても、おぼろげながら掴んでいたものである。

ぼくらのなかに、冷たく隔たりのある人物の存在があるのが、本能的に嫌なのだ。ぼくは分断など信じないぞ。ぼくらは個別の存在ではないのだ。

ヴァージニア・ウルフ (森山恵訳) (2021) 『波〔新訳版〕』早川書房 p.75

また、老年のバーナードの次の1節は、『波』という作品の成立根拠をも明らかにするものではないかと私には思われる。

ですから私の人生の物語を、このテーブルで両の手のひらに形づくり、完全なものとしてあなたの前に置くとなれば、遠くへ、深くへと去ったものを、この人生あの人生に埋め込まれ、いまやその一部と化したものを、呼び起こさねばならない。

ヴァージニア・ウルフ (森山恵訳) (2021) 『波〔新訳版〕』早川書房 p.332

1つの人生を描くためには、6つの人生を描く必要があるのだと、「わたし」を見出すためには、「わたし」以外のものに目を向けねばならないのだと、通常の伝記ようなスタイルで人生を描いてはいけないのだと、ウルフはそのように考えたのではなかろうか。この意味において『波』は、6人の人生を描いた小説というより、1人の人生の総体を捉えた小説であるといえるかもしれない。

とはいえ、このような悟りの境地は、長くは続かない。人間は全体でありながら、個でもある。ところが、宇宙と一体化するような心理状態は、個の消失にほかならず、一種の死であるからだ。

人は生きているかぎり、やはり独自のアイデンティティを持つ個であり続けるのだが、それは無力で儚い存在でしかない。そのとき世界は「敵」として、我々の前に立ちはだかる。

ベンチに座って列車を待ちながら、我々がいかに屈するか、いかに愚かなる自然に屈服するかを、私は思いめぐらせていました。(中略)けれどこのとき、幼年時代の直感に成熟が貢献したのです──倦怠と死すべき運命、我々の宿命の避けがたさの感覚、死、限界を知ること。かつて思っていたよりも、人生がいかに残酷であるか。ついで子供のころ、すでに敵の存在が明らかになっていたことを思い出しました。ぼくは立ち向かうぞ、と駆り立てられたのでした。

ヴァージニア・ウルフ (森山恵訳) (2021) 『波〔新訳版〕』早川書房 p.308

誰しも成長するにつれて、外界を自分の思い通りにできないという挫折を経験し、人生のままならなさを噛みしめる。自分の力ではどうにもならない、強大な何かの存在を意識する。私はなんのために生まれてきたのだろうか。人生に永続性はあるのだろうか。聞こえてくるのは、虚しい答えばかりだ。やがて「敵」は、死という姿で我々の前に現れる。

多くの人たちは、いずれ遅かれ早かれ順応し、こんなことは顧みなくなる。このような問題意識をいつまでも持ち続けるのは難しい。デカルトの「我思う、故に我在り」の「我」ではないけれども、相当に強い自我がなければ、戦い続けるのは大変だ。

しかし、そうでない人たちもいる。あるいは普段は習慣の日々に埋没していても、ふと以前の疑問が頭をもたげることもある。結局のところ、我々は生きているかぎり、「敵」から逃れることはできないのだ。『波』という作品全体を貫いているのは、この人生に対する闘争というモチーフではないかと私は考えている。

私は跳ねあがりました。「戦え、戦え!」と私は言いました。そうくり返しました。それは悪戦と苦闘。永遠に続く闘争。砕け散ってはつなぎ合わさる──勝利するにせよ敗北するにせよ、日々の奮闘であり、身を賭す探求なのです。

ヴァージニア・ウルフ (森山恵訳) (2021) 『波〔新訳版〕』早川書房 p.309

『波』は、ただ詩的で美しい作品というわけではない。人間とはどのような存在か、人生とは何かという捉えどころのない根源的な問いを、ウルフが極限まで追求した作品なのである。

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