この記事の目次
はじめに
筑摩書房から出版されている「ちくま日本文学」というシリーズをご存じでしょうか。
明治から昭和にかけて活躍した日本の作家たちの作品が、各作家1巻ものの文庫版選集という形で刊行されているものです。
このシリーズ、とにかく各巻のセレクトがとても素晴らしい! 名前は聞いたことがあるけれどこの作家は初めて手に取るなーという人にはもちろん、この作家は結構読んでるけど久しぶりにまた読みたくなったなー、という人にもベストマッチする最高のシリーズです。
各作家のエッセンスがたっぷり詰まったミラクルな編集の数々を、ここではご紹介したいと思います。いやむしろ、読むほどに深まるその素晴らしさを語らせてください。
全40巻、40人の作家の魅力がコンパクトな文庫サイズで楽しめる
文学選集というと、背表紙の揃った単行本がずらりと並んでいる光景を想像して、身構えてしまう方もいるかもしれません。しかし、この選集は手軽でお財布にも優しい文庫サイズ。気が向いた時に鞄に入れて持ち歩き、電車の中でも楽々読めるタイプの選集です。
収録されている作家は、夏目漱石や正岡子規といった主に明治期に活躍した作家から、寺山修司や開高健など、昭和の終わりまで活躍した作家と幅広く取られています。樋口一葉、林芙美子など、女性作家が収録されているのも嬉しいところ。
また、選ばれているのは小説家だけでなく、萩原朔太郎や柳田國男など詩人や民俗学者もいれば、純文学作家ではない江戸川乱歩や夢野久作もおり、とてもバラエティに富んでいます。
名作の「可愛らしさ」を発見する
この選集の選者は安野光雅、池内紀、井上ひさし、鶴見俊輔、森毅の5名(敬称略)。各界の錚々たる知識人の豊かな感性で以て編まれたものです。それは衒(てら)いのない読みやすさで私たちを迎えてくれ、文学の広がりと奥深さを教えてくれます。
ちくま日本文学には5人の著名な作家・文筆家が推薦文を寄せていますが、特に森見登美彦さんのコメントでこの選集の「可愛らしさ」が伝わるのではないかと思います。いわく、「名作たち自身はぜんぜん偉そうにしていない」「どんな名作も「俺を読め」とは無理強いできないから、時代を越えて長い間、ずうっと読者を待っている。(略)私と出逢うためにどれだけ待っていたことか。健気で我慢強い乙女のようだ。髭の立派な文豪の作品でさえ、乙女に見える。その奥ゆかしいところが私は好きです。」
ちくま日本文学が持つ、押しつけがましさのないところ、スペースを取らず学生の本棚にも馴染みそうなところが、よく伝わってくる推薦文だと思います。森見さん以外にも、小川洋子・齋藤 孝・重松 清・三浦しをんの四氏が推薦文を寄せられており、ちくま日本文学の特設ページにて全文が読めます! どうぞご参考にされてみてください。
その作家の作家「らしさ」が存分に味わえるセレクト
森見さんの言う「髭の立派な文豪の作品でさえ、まるで乙女に見える」堅苦しくなさは、取られている作品の自由自在さにも存分に表れていると言えるでしょう。
この選集は作品の長短を問わず、また小説・詩歌・随筆などのジャンルにもとらわれず、その作家のもっともその作家「らしさ」を味わえるものが選ばれているのです。
たとえば、夏目漱石の巻では『坊っちゃん』が丸々収録されているほか、『吾輩は猫である』の抄録(原文の一部分だけを抜粋すること)、連作掌編である『夢十夜』、随筆の『思い出す事など』の抄録、そして講演録である『私の個人主義』が収録されています。
おそらく、通常であれば、『思い出す事など』がアンソロジーに収録されることはほぼないでしょう。これは漱石が伊豆の修善寺にて療養中に大吐血し、生死の境をさ迷った体験を経て、それを思い出しながら現在の感慨を綴った随筆です。タイトルからもわかるように、漱石の記憶や感想が思い出すままに綴られており、作品というよりも回想録といった味わいのもの。しかし、この作品が『夢十夜』と『私の個人主義』の間に置かれることで、意味合いはぐっと変わってきます。
というのは、ちくま日本文学の漱石の巻そのものが、漱石の生涯を見通すような作りになっているためです。『坊っちゃん』→『吾輩は猫である』→『夢十夜』→『思い出す事など』→『私の個人主義』という流れは、そのまま漱石の「江戸っ子として生まれ」→「教師として生きるも見栄ばかり張って格好がつかず」→「幽玄の美しい世界にさまよい」→「本当の臨死体験を経て」→「自分本位、個人主義という考えをようやくしっかりとつかむ」という人生の流れと対応しています。収録作の順番によって、自然と夏目漱石という人がたどって来た道、そして彼の人生を貫くテーマが示されているのです。
最後の『私の個人主義』は漱石が学生のために行った講演で、自分がこれだと思う意見を手に入れ、それに確信を持つまでやり続けることについて語られています。夏目漱石の到達点として、この作品は一番最後に収録されているのでしょう。しかし同時に、読者がまるで聴講している学生の一人となり、漱石その人に語り掛けられながら幕が引かれるようで、余韻の残る素晴らしい味わいです。
形式にとらわれず、しかし全体としてまとまりがあり読みやすい。そんな目の行き届いた構成が、この選集では徹底されています。作品そのものを楽しめることはもちろんですが、一冊一冊が大きな視点で編まれているのが特徴です。
作家その人が創作に抱いてきたもの、人生を通して求めていたもの、そしてその作家の作品が現代でも普遍的な価値を持っているのはなぜか、というような根本的な問いが、作家自身の言葉で語られているシリーズだと言えるでしょう。
多面的な作家の顔
実は漱石は作家としてはかなり遅咲きのため、執筆期間も10年ほどに凝縮されています。それゆえ、作品との対応もわかりやすい方だと言えるかもしれません。
それが例えば、永井荷風のように20代前半でデビューして80歳まで生き、生涯を通して克明な日記を付け続けた作家の場合ならどうでしょう。
耽美派の作家として谷崎潤一郎とともに有名な永井荷風は、20代でアメリカ・フランスに滞在し、その記録を『あめりか物語』『ふらんす物語』で小説風に綴っています。詩情あふれる美文、みずみずしく澄みわたるようでいて儚げな風景描写、大都会を存分に味わいながらどこか漂う退廃的な雰囲気……とその魅力は尽きません。明治時代において欧米で日本大使館や銀行に勤めるエリートでありながら、荷風の心は憂愁に満ちているのです。ちくま日本文学の永井荷風の巻では、そんな若かりし頃の美しくも高貴な荷風の姿がまず提示されます。
それが一転、小説『すみだ川』や『濹東綺譚』になると、江戸時代の面影の残るわびしい市井の風景が描写され、芝居小屋や芸者、俳諧師などといった人びとの生活が描かれるのです。ごみごみとして猥雑な下町の匂い、たくましくも悲しい女たちの優しさ、雨の染みるような東京の変わりゆく街並み——。荷風に初めて触れる人は、その落差に驚くかもしれません。
しかし読み進めるうちに、そのどちらもに共通するのが滅びゆく風景や人びとへの愛着と悲哀だということが伝わって来ることと思います。荷風は社会に囚われず、戦時中も世間を黙殺して自らが信じる美しい世界を書き続けました。その境地にたどり着くきっかけが最後に『花火』という作品で示され、また『断腸亭日乗』という日記の抄録によって締められます。
永井荷風の日記は戦時中も絶えることなく綴られ、日記こそが荷風の最高傑作だという評価もあるようです。しかし、それだけの日記を読み込むのは、一般人にはとても難しいことですよね。それがこのちくま日本文学でなら、作品と併せて日記の変遷を味わうことができます。滅びゆく東京の街並みを描いた荷風の小説も、彼の欧米滞在記を読んだ後で読むと、全くイメージが異なって見えるはずです。
作家には多面的な顔があり、それは人間としては当たり前のことでも、一つ一つの作品からはなかなか窺うことができません。例えば江戸川乱歩は、ミステリー小説の基礎を築いた人として知られています。また、「屋根裏の散歩者」や「人間椅子」など、どこか背徳的でグロテスクな小説は現在でも人気ですよね。
実は乱歩は、海外のミステリー小説を日本に紹介し続け、国内でも後輩の育成にとても熱心な人でした。ペンネームをエドガー・アラン・ポーから取っていることはよく知られていると思いますが、乱歩が先達や後輩の作品を敬意を持って扱い紹介していたことは、現在あまり注目されていないように感じます。
ちくま日本文学では、そんな乱歩の確かな批評家・分析家としての才能が光る随筆も収められており、とてもオススメです。偏向的な趣味や好奇心を冷静に観察する目や、恐怖やトリックといったミステリー作品における重要な要素を解析する手腕など、乱歩が編集者としてもとても優れた人であったことがよくわかることと思います。
また、三島由紀夫の巻も私には忘れがたい一冊でした。三島由紀夫といえば、圧倒的な才能と美的感覚で昭和期の作家であるにも関わらず「文豪」にその名を連ねている人です。ちくま日本文学では、そんな三島の作品が「おや?」と思うほど若い頃のものから多く取られています。
しかし読む進めていくうちに、ほとばしるほどの三島の感性の鋭さ、その繊細過ぎる感性を理性で完璧に制御している筆致に驚かされることでしょう。三島由紀夫は、こんなに若いうちからこんなにも完成された作家だったのだなぁ、という感慨を深くするのです。しかし最後に収録されている『独楽』という作品で、その「若さ」は白い刃をひらめかせて三島自身を刺します。すると不思議なことに、それまでのあまりに完成された三島の作品のそれぞれが、彼が割腹自殺をしたという最期へとすーっと一本の線でつながっているように思われたのです。私はぞっとしました。
『仮面の告白』や『金閣寺』、『春の雪』に始まる『豊饒の海』全4巻など、三島と言えば長編が有名ですが、若き日の短編から三島由紀夫を知るのも、とても素敵な体験になると思います。
初心者でも読みやすい、細かなリーダビリティ
注釈がある本を読んでいる時に、注を読もうとして最後の方と読んでいるページを行ったり来たりするのを面倒だと思ったことはありませんか? こういう細かなことが読む気を萎えさせたり、小さなストレスになっていたりするんですよね。ページの行ったり来たりがわずらわしくて、名作を読みたいと思っていてもつい敬遠してしまう、という方も意外に多いのではないでしょうか。
しかし、ちくま日本文学ではそんな面倒なことをする必要はありません。読んでいるページの最後に注釈がついており、わからない単語は見開きのまますぐに確認できます。とってもストレスフリーです。
また、昔の作品を読んでいる時に意外と障害となるのが、漢字の読み方がわからないことです。いちいち調べるのは手間だし、かといってわからないまま読み進めるのも気持ちが悪い。古い岩波文庫などを読んでいると、見たこともない漢字に振り仮名がなくて戸惑った経験がある方もいると思います。しかし、初心者に優しいちくま日本文学は、難しい漢字にはきちんと振り仮名がついているので安心です。
そして、このシリーズではすべての各巻末に著者の年譜がついています。著者の生涯について知りたい時、あの作品は何歳の時に書かれたのものなんだろうと思った時、これでさっと確認することができるでしょう。
文庫であって文庫でない、美しい装丁
ちくま日本文学はその造本もとても美しく、読み込むうちに、素朴ながらもその美しい佇まいに惚れ惚れすることと思います。
装丁・装画は安野光雅さん。『ふしぎなえ』『天動説の絵本』『旅の絵本』など、子供の頃に絵本でよく見た、という方もいるのではないでしょうか。作家ごとに異なるタッチで描かれた素敵な表紙はもちろん、裏表紙や扉、柔らかな紙質や手触りなども、しっくりと手になじんで愛着が湧くはずです。一冊、また一冊と手を伸ばすうちに、そのデザインの普遍的な美しさがしみじみと染みます。
ところでこの選集、もしかしたら「あれ、昔は表紙が硬くなかったっけ?」と感じる人もいるかもしれません。実はちくま日本文学は、以前「ちくま日本文学全集」として1991〜93年に刊行されたもののリバイバルなのです。その頃は60巻物の選集で、造本も現在とは少し異なっています。昔の装丁もまた違った味わいがあり、比べてみると面白いですよ。現在では収録されていない作家がいるので、読みたい作家が40巻のうちに含まれていなくても、もしかしたら旧版の方で見つかるかもしれません。
初心者に優しく、愛読者に嬉しい選集
……というように、とことん初心者に優しいちくま日本文学の魅力の数々をご紹介してきました。しかし、一冊一冊の真価は、実はその作家を読みなれた人にこそわかるのではないかと思います。
例えば、太宰治の代表作は? と聞かれると、『人間失格』だと答える人が多いでしょう。しかし、太宰治が好きだという人に、太宰で一番好きな作品は? と尋ねると、『人間失格』と答える人は案外少ないのではないでしょうか。
これは決して『人間失格』という作品を貶めているのではなく、一般的な知名度と、その作家が好きな人が答える好きな作品には、何かしらのギャップがあるということが言いたいのです。しかしそのギャップは、その作家を好きになって、何冊か読んだ人でないとわかりません。
読んでみたかった作家の巻を手に取って、あれ、有名なあの作品が収録されていない? と思うこともあるかもしれません。しかし、あなたがその作家を好きになって読み漁り、いろいろ読んでみたあとに再びその巻を手に取ってみると――もしかしたら、「この作家のこの作品を取るか。わかっているなぁ」とにやにやできるかもしれません。また、各巻ごとに解説者が異なるので、作家と解説者の取り合わせの妙がわかると、楽しさは倍増です。
日本文学の入門として読んでみて、忘れたころにふと思い出して再び読んでみる。その時の感じ方の違いで、あなた自身の成長もまた、わかることでしょう。ちくま日本文学は、一冊で二度おいしいシリーズなのです。
おわりに
以上、ちくま日本文学を激推しさせていただきました。大きな書店では、大体ちくま文庫の棚にシリーズで並んでいると思います。図書館では各々の作家の著作として並んでいるところもあれば、全集系の棚にそろえて並べているところもあるなど、図書館によって違うので注意してくださいね。
時勢の流れが激しい昨今、シリーズが再刊されるというのは、それだけでとても珍しいことだと思います。優しくて穏やかな佇まいながら、時代にも色あせず、長くあなたに寄り添ってくれる。日々の生活に、そんな選集があってもいいのではないでしょうか。