舞城王太郎についての誰かの語り——あるいは舞城王太郎のおすすめ小説3選

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 本当に好きなものについて語るというのは嬉しくもあるけど怖くもある。別に反論とか批判とかが怖いというのではなくて、自分がその対象をきちんと捉えているかとか、自分の考えがその対象を歪めていないかとか、そういう不安が常にあるから怖いのだ。私は舞城王太郎という作家が好きだけど、舞城王太郎という作家を自分と切り離して考えるのが難しい。この作家の小説を読んでいると、まるで登場人物の声が私の声みたいに聞こえる。でも私は、というか誰も、この作家のリアルなことは知らない。デビューからずっと覆面だし経歴も最小限しか公表してなくて、実は性別もはっきりしてないんだよね。わかるのはただ私はこの人の書く小説が好きというだけなのだ。

 そのことについて私は考えてみる。この人の書く小説の、何が私は好きなんだろう?そもそも、物語を好きになるってどういうことなんだろう?
 でもやっぱりそれを客観的に考えることは難しくて、私は私の声でそれを語るしかない。それは人に紹介するとかあるいは批評するための方法としては間違っているかもしれないけれど、意義としては間違ってはいないはずだ。とりあえずは代表的な3作を取り上げて、私の考えを語ってみようと思う。

『煙か土か食い物』 (講談社文庫)

 スタートダッシュはいいに越したことはない。コンマ数秒の差はやがて圧倒的な差となり、それを追い越すのはそうそうたやすいものではない。そういう意味で舞城王太郎はデビュー作『煙か土か食い物』で素晴らしいスタートを切った。最初の一作で舞城は物語作家としての力量、狂騒的でシンクロ率の高い文体、ガツンと重くてハードな家族愛を読者に叩き込んだ。

 物語はアメリカ・サンディエゴから始まる。奈津川四郎はこの街の総合病院に勤めるスーパー外科医。次から次へチャッチャッチャッと手術をこなし、忙しい日々を送っている。そんな四郎に急報。なんと、母親が何者かに頭を殴打され重体だというのだ。すぐさま福井の実家へと飛んだ四郎は、母親が連続暴力事件に巻き込まれたのだと知る。ヘイヘイヘイ、復讐は俺にまかせろマザファッカー!事件を追ううちに彼は祖父の代から続く謎、父親と次男との愛憎、長男や三男、そして自分と家族との断ち切り難い絆と向き合うことになる。血と暴力と愛のサーガ。舞城王太郎はここから始まって、その原点にはそれからもずっと展開される彼のテーマが詰め込まれている。でも肝心なのは、このデビュー作がミステリー、つまりエンターテイメント作品であるということだ。

 ミステリーというのはクラシカルな様式美、名探偵だの見立てだのトリックだのの世界でそういうものはちゃんと守らないとダメだ。しかしそれがオリジナリティを殺すかというとそうではない。俺が思うにオリジナリティというのはどんなものにでもちゃんと宿るのだ。魂のこもったリアルな小説は形式を選ばない。どんなに使い古された設定でもどんなにありきたりな物語にでも作家の魂さえこもっていれば、リアリティというものはきちんと宿る。作りものではない物語はばっちり読者の心に響くのだ。それが人間の持つ想像力、本物の芸術、やがて偉大な歴史になる作品ってわけ。

 舞城王太郎はミステリーというクラシックに自分の魂、自分のオリジナリティをぶち込んだ作家だと言えるだろう。もちろんそれは読者に衝撃を与えた。この作品はミステリーだけどたぶん読者の心に残るのはそういうロジックとかパズル的なことではなくて、圧倒的な愛と暴力の説得力だ。特に作中で「移動式地獄」と名づけられる、四兄弟の次男・二郎の存在感は破格だ。二郎は悪魔のような暴力で全てをぶち壊し引っ掻き回し徹底的に打ちのめす。けれどそんな二郎が求めているのは家族の愛、ただ家族に愛されたいというシンプルな願いがあるだけなのだ。それがどうして上手くいかないのか、むしろどうしてあらゆるものを台無しにするのか。愛というものは複雑で矛盾していてそして時に許しがたい。舞城王太郎が描くのはそういうアンビバレンツな愛、密着していると同時に永遠に交われない他者という存在、そして繰り返される暴力の連鎖だ。それが舞城王太郎という作家の魂なのではないかと俺は思う。

 でもまぁここでごちゃごちゃ言うより、この作品の魅力は実際に読んでもらうのが一番伝わるだろう。ハイテンポなスピード感のある文章は「こんなの初めてだ」という強烈な刺激を読む者に与えるし、軽快で生き生きしたキャラクターはめちゃくちゃかっこいい。とにかくこの小説は面白いのだ。ザッツライト。この物語をエンターテイメントとして仕上げてメフィスト賞に応募しデビューした舞城王太郎は完璧に正しい。というわけで舞城王太郎を読んでみたいという人はまずはこの作品から読んでみるのをオススメするよ。

『好き好き大好き超愛してる。』 (講談社文庫)

 たぶん舞城王太郎という作家には小説の素質があって、でも人は素質だけじゃずっと物事を続けることはできない。なんだってそうだ。適性と素質は違うし作品の出来と評価が異なることもある。そういうのは当たり前すぎて言葉にすると陳腐になってしまう。でも、どんなに下らないことでも言葉にしなくちゃいけない時もある。僕がこんなことを言っても何も変わらないかもしれないけれど、本当のことだから言わなければならない。僕は舞城王太郎という作家が好きなのだ。

 この小説はよくわからない構造をしていて、断片的な物語が連なってひとつの本になっている。物語同士にはほとんど関連と呼べるような繋がりはなく、ただ共通するのは女の子が死にそうなこと、あるいはもう死んでいること、男の子はその女の子のことが好きで、2人はとても愛し合っているということだ。でもそこにわかりやすい文脈はない。なるほどねと膝を打つようなオチもなければ最後に静かに迫るようなカタルシスもない。世界はとても複雑で混沌としていてそれは特定の誰か一人のためにあるわけではない。そのことに意味を持たせたかったらそれはもちろん可能だろう。しかしこの小説はそれを拒む。というか僕は拒んでいるのだと思う。わかりやすい文脈を拒むのはけっこうしんどくて面倒なことだけど、それが功を奏すこともある。でもこれだってただの結果論だ。

 舞城王太郎はこの作品を含めいくつかの作品で芥川賞の候補になっている。けれど受賞はしなかった。当時芥川賞の選考委員だった石原慎太郎がこの小説について「うんざり」と言ったのはファンの間でなくてもけっこう有名な話だ。実は僕もこのエピソードが割と好きでにやりとしてしまうんだけど、それはこのエピソードがいかにも舞城王太郎「らしい」と思うからだ。つまりこのエピソード自体がすごく物語的で、端的に舞城王太郎という作家のキャラクターを体現しているのだ。でもそれはとても稀な例だということを僕は言いたい。だいたいの物事はこんなに端的にそのキャラクターだとか意味合いだとかを物語りはしない。膨大なわけのわからなさ、なんでもなさ、あきれるほどの平凡さでしか日常は過ぎていかない。それは大切な人が死ぬその日でさえもそうで、その凡庸さから僕たちは逃れられない。

 人は祈りという行為にはなんの期待もしない、という文章がこの本に出てくる。祈りが届かなくても誰も悔しがらない、ということが書いてある。本当だろうか?でもこの物語自体がすごくそんな感じなのだ。愛とか恋とかは結局十分ってことはなくて、それはお祈りに十分ってことがないのにとても似ている。そして物語においてもそれは同じなのだ。物語に十分ってことはない。これでよし、ということはない。日常はただただ続いていく。でもやっぱり特別な日というものも存在することを僕たちは知っている。誰かにとってはそういう日が一つの物語として存在していて、それが物語られることでどこかで奇跡を起こすかもしれない。言葉にするとあまりに陳腐だからちょっとうんざりしてしまうけれど、それでもやはり言っておきたい。物語でならそういうこともありえるし、可能なのだ、と。

 物語という形式に違和感を覚える人なら、この作品から舞城王太郎を読むのもアリだと思う。物語は語られることそのものだけではなくて、語られないこと、語られることと同時に存在する語られない何かのためにも存在しているのだ。

『淵の王』 (新潮文庫)

 舞城王太郎って、どこでもオープンに好きだと言える作家ではないと思う。や、あたしはもちろん好きだけど、時と場所を選ぶべき作品というのはあって、舞城王太郎はそういうタイプの作家であるということだ。文体はアクが強いしエログロもあるし良くも悪くも個性的すぎる。

 そんな舞城王太郎だけど、もしおすすめを聞かれたらあたしが一番挙げたい本はこれだ。でもこれもすごくおかしな作品。3つの物語が収録されているんだけど、その3つの全てが二人称の形式で語られるのが特徴だ。二人称っていうのは、主人公でない人が主人公のことを語る形式で、この本の語り手はそれぞれ「あなた」「君」「あんた」と主人公のことを呼ぶ。じゃあ、この語っている人は誰なの?って読者は思うだろう。でも、それはわからない。わかるのはただ、彼らが「あなた」をずっと見つめていて、ずっと一緒にいて、「あなた」について語るということ。主人公たちはそれぞれ不思議で恐ろしい出来事に遭遇する。それは超常的な現象とも言えて、個々のエピソードは怪談っぽくもあるし怖い話がそういう理屈じゃ説明できないものを引き寄せるのもわかる。けど主人公たちがそんな恐ろしいものと戦う間でも、「彼ら」はそこで寄り添っているだけ。それらは悲しいほどに曖昧で無力な存在なのだ。でもね、彼らがただそこにいて物語ること自体が、たぶん救済になってるの。

 あたしは舞城王太郎をすごく孤独な作家だと思ってて、彼はいつも何かと戦ってるんだけど、基本的に誰かと協力するってことはないのね。彼の作品から、彼がすごく他者とのコミュニケーションを求めてることがわかる。でも上手くいかなくて、時にそれは暴力的なものとして表出したりもして。彼はずっとそんな現実と戦い続けてるんだけど、それはやっぱり1人の戦いなんだよね。舞城王太郎は誰かを拒絶してるわけじゃないんだけど、でも敵があまりに巨大すぎて常に視界をさえぎるから、彼はそれを無視できないんだ。

 だからそんな舞城王太郎がこの作品で「あなた」を語る「私」という手法を選んだことは、あたしにとってすごく大きなことだった。今までずっと一人称でしか書かなかった人が、「私たち」っていう視点を手に入れたんだ……。それがあまりに無力な、実際には存在すらしてるのかしてないのかわからないくらいの曖昧な他者だとしても、これはものすごく大きな変化だと思う。世界に向き合うというその向き合い方みたいなものが変わったのだと思う。あたしが言う「救済」っていうのはそういう意味。

 こんなこと言うと、あんた舞城王太郎の何様?って思われるかもしれない。いやあたしは何でもないんだよ、こんなこと言うのも本当に恥ずかしいし逃げ出したいくらいだけど、でも好きという気持ちは伝えられるタイミングで伝えとかなきゃいけないんだ。あたしは舞城王太郎じゃないし、ていうか赤の他人でしかないんだけど、だからこそ彼のことが好きだと言えるのだから。誰かが何を考えてるのかなんて、言わなきゃわからない。それが他人と生きていくってことでしょ?

 誰かと生きていくってすごく大変だけど、そういうものを一つ一つ確認して探って位置を正していくって話があたしはとても好き。人はどんどん変わっていく。そのたびにあたしも変わりたいし、変わっていく誰かも受け入れていきたい。舞城王太郎作品との付き合いもその時その時ごとに変わると思う。あたしが彼に干渉することは当然ないけれど、それでいい。あたしはずっと見ている。そしてたぶん、舞城王太郎もあたしたち読者のことをどこかで見てるんじゃないかな。本当に見えはしないんだけど、でも、それでいいじゃん。

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 物語について語るとき、人は自分のことについて語っているというのはよく聞く話だ。私たちは不確かなものについて語るとき、個々にフォーカスしていかざるを得ない。ものすごく大きな出来事、つまり祭典とか逆に災害とかでは、一人一人の文脈がとても大きな意味を持つ。数値化された客観的なデータよりも、たった一人の体験談が圧倒的な説得力を帯びる。

 でもそれは時に危険なことだ。私は私の文脈で好きなもののことを、世界のことを語るけれど、それは本当に正しいことだろうか?それは時に圧倒的すぎないだろうか?私が世界を飲み込んではいないだろうか?

 舞城王太郎についていろいろと語って来たけれど、私はやっぱり自信がない。彼には客観的な姿というものがない。単行本や文庫本にも一切解説がついていないし、対談やインタビューと言った声さえ発表されていない。彼は本当に存在するのだろうか?私が彼を作り出してはいないだろうか?そんなことはバカバカしいとはわかっているけれど、やっぱりそういう考えがなきにしもあらずだ。

 私は私以外の人が舞城王太郎について語る声も聞きたいと思う。彼の作品の魅力について話す声が聞きたいと思う。いや、それは本当は声でなくてもいいのだ。ただ、私は彼の作品を読む人がもっと増えたらいいと思う。彼の作品を面白いな、好きだなと思う人が増えて、これから次々に舞城王太郎の作品を読む人がいるとしたら、それだけで私は嬉しいなと思う。それは舞城王太郎という作家についての物語になるんだと思う。うん。そうだ。たぶん私は、舞城王太郎という作家のいろんな人の物語を聞きたいんだ。

 だから正確には、この記事も舞城王太郎の作品紹介ではなくて、舞城王太郎についての小説なのかもしれない。それなら、この記事が全然記事らしくない理由もわかる。いつの間にか、私は物語を書いていたのだ。

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