『君の名は。』と『とりかへばや物語』

kimino

どうも、「思ってたより動くメロンパン」の真実無目むゆです。

今回は、大ヒット公開中の映画『君の名は。』について。新海誠監督が、制作にあたって影響を受けたとお話しされていた古典文学『とりかへばや物語』とのつながりを見ていきたいと思います!

しかしみなさん、ご注意ください。

本記事は『君の名は。』をほんの三回程度しか見に行っていない筆者が、一時の熱情に駆られて、「この映画、面白すぎるだろ!!」と興奮しながら書き殴ったものです。

話半分でお聞きなさりますよう、何卒よろしくお願い申し上げます。

また、『君の名は。』についてのネタバレを含みます(気になる方は少ないでしょうが、『とりかへばや物語』も)ので、その点もお気を付けください。

 

『とりかへばや物語』ってどんな話?

さっきから当たり前のように話しているけれど、「いったい『とりかへばや物語』ってどんな話?」「どういったところが『君の名は。』と関連しているの?」 という疑問を持たれている方も多いかと思います。

そこでまずは、新海誠監督へのインタビュー記事の中から、『君の名は。』と『とりかへばや物語』の関連について話している部分を引用します。

じゃあどういう道具立てができるかと探した時に、夢で出会うというヒントにさせてもらった小野小町の「夢と知りせば――」という和歌があったり、男の子と女の子を取り替えて育てるという平安時代の「とりかへばや物語」をヒントに、じゃあ夢で入れ替わらせようかとか、だんだん組み立てていったんです。


(Filmers.2016.8.19「「僕たちは可能性の直前にいる」それを全力で語れるような作品にしたいと思ったんです 『君の名は。』新海誠監督インタビュー」)

『君の名は。』における男女入れ替えの発想の根幹に、この『とりかへばや物語』があったということがわかります。また、映画『君の名は。』公式サイトでも、企画書の名前が『夢と知りせば(仮)-男女とりかえばや物語』であったと書かれています。

つまり、『君の名は。』で一つの大きな要素となっている男女入れ替えのアイディアを、新海監督は『とりかへばや物語』から得ており、そこに両者の関連があるのです。

それでは、ここで簡単に『とりかへばや物語』のあらすじを見ていきましょう。『君の名は。』については、おそらく多くの方がおおまかな話は御存知ではないかと思うので、ここでは割愛させていただきます。

また、ここに記す『とりかへばや物語』のあらすじは、『君の名は。』に関連してそうなところを中心に抜き出した簡略版です。あらすじを細かく書いていたら、それだけで記事一つ分以上の分量になりそうなので……。

いつのころだったか、時の左大臣のもとには二人のよく似たきょうだいがいた。男の子は恥ずかしがり屋で雛遊び・貝合わせを好み、まるで女の子のよう。一方、女の子はいたずらで外で遊ぶことを好み、まるで男の子のよう。父・左大臣はいつも、「とりかへばや(とりかえたい)」と悩んでいた。

きょうだいはそのまま成長し、若君は女性として内侍という職で、姫君は男性として中納言という位で宮中に出仕するのだった。さて、中納言(女)の同僚であるプレイボーイ・宮の宰相は、美人と名高い内侍(男)を我が物にしたいと考え、内侍の部屋に忍び込むが抵抗を受け断念する。内侍を慕い続けるうちに、宮の宰相はきょうだいである中納言にも心惹かれていく。夏の暑い日、中納言が薄着でくつろいでいると、宮の宰相が訪れる。宮の宰相は薄い服から見え隠れする中納言の魅力に、思わず中納言を手籠めにしてしまう。その際、中納言が女性であると気づき驚くのだった。宮の宰相の子を懐妊してしまった中納言はもう京にはいられないと途方に暮れ、宮の宰相の地元である宇治に隠れる。

宇治で女の姿に戻った中納言であったが、宮の宰相は他の女性のもとに通うことが多く不安が多い。一方、京では内侍が中納言を探すために男の姿に戻り出立する。内侍は宇治川のほとりで美しい女性の姿を見る。どこか中納言の姿に似ている。向こうもこちらを見返して騒いでいる。実はそれこそ中納言であるが、姿が変わっているため互いにきょうだいだと気づかない。宇治を出て向かった吉野で内侍は、宇治から逃げ出してきていた中納言と再会を果たす。吉野の地で二人は元の性別に入れ替わり、中納言は内侍として、内侍は中納言として京に戻る。

その後、なんやかんやあって、内侍(女)は皇后に、中納言(男)は左大臣兼関白の地位まで上り詰め、きょうだいの家は繫栄するのであった。

最後が雑になりましたが、以上が大まかな、本当に大まかなあらすじになります。

この後『君の名は。』との共通点を見ていくにあたって、後半部分がとっっっても重要になってくるので、ぜひ五回は読み返してください。

男女のすれ違い、出会いと入れ替わり

それでは、本題。

二つの作品が「男女の入れ替え」というモチーフを共有しているということはすでに述べましたが、具体的に共通している部分はないものでしょうか。

既に、多くの考察があらゆる視点からなされている『君の名は。』。本記事と似たような切り口から『君のは。』と『とりかへばや物語』を論じているブログがあったので紹介いたします。

  映画「君の名は。your name.」感想 入れ替わる場所/出会う場所|YOUTOPIAを目指して。

記事を書くにあたって参考にさせていただきました。本当にありがとうございました。

この方がおっしゃっられていることで十分に語り尽くされている部分もあるのですが、筆者の語りたい欲がもうどうしようもないレベルに達していたため、補足ということで偉そうに語らせていただきます。

上記の記事にもありますが、二作品の関わりを考えるにあたって、男女の「すれ違い」と「入れ替わりの解消」という場面はキーポイントになります。

それでは具体的に考えていきましょう。

①中納言と内侍/三葉と瀧のすれ違い

『とりかへばや物語』におけるすれ違いの場面は、宇治における二人の偶然の邂逅です。
平安貴族お得意の垣間見をしていた内侍は、女性の姿に戻った中納言をそれとは知らずに見て、「ああ、なんて美しい女性だ。それに中納言にどこか似ている。彼女が女性の姿だったら、このような人であるに違いない」と思います。同時に、中納言も「かつての男装していた自分によく似ている。それに、かつて見た内侍の面影があるような気がする」と思います。
……なんでや!なんで気づかんのや!
自分はこの場面を読みながら、そうやって地団太を踏みましたが、二人は互いの姿が変わっていたために決定的には気づかないままです。(物語の面白さを追求した部分もあるでしょうが)

この歯がゆいすれ違いを、敢えて『君の名は。』に投影するのであれば、2013年彗星が落ちる前日に、三葉が単身東京に向かい、電車でまだ受験生の滝に出会った場面ではないかと思います。三葉はともかくとして、瀧はこの時点でまだ入れ替わりを経験しておらず、当然三葉のことも知りません。ゆえに三葉のことを突然話しかけてきた不思議な見知らぬ女として扱うのです。しかし、別れ際、「このおかしな女の子は、もしかしたら、俺が知るべき人なのかもしれない」(小説版p192参照)という、説明のつかない衝動に動かされ、三葉に名前を尋ねるのです。そして、本映画のキーアイテムである組紐を貰います。

気づくはずの邂逅に気づかない『とりかへばや物語』。
気づかないはずの邂逅に気づく『君の名は。』。
そのベクトルは逆向きであるとしても、二人の絡み合う運命を読者/観客に提示し、期待と落胆のないまぜになった感情を与える演出として、物語の中枢を担っていると言っても過言ではないでしょう。

②中納言と内侍/三葉と瀧の入れ替わりの解消

吉野の地での感動の再会が、『とりかへばや物語』における入れ替わりの解消であり、宮水神社の御神体がある社での時空を超えた出会いが、『君の名は。』における入れ替わりの解消であることは、もはや議論の余地のないことでしょう。

『とりかへばや物語』において吉野の地は、「世づかぬ(世離れした)」土地であって「世の常(世間の常識)」は通じない場所として描かれています。これは、『君の名は。』において、御神体の社が「幽世」であってこの世のことわりを外れた、境界としての場であることに通じるものがあります。

奇跡じみた男女二人の出会い、そして本来の性に再び戻っていくという場面を演出するにあたって、両作品とも常識の通用しない異界を舞台として用意しています。そして、その場所にいること自体が再び入れ替わることの理由となり、物語の山場をより印象深いものとしています。

以上が『とりかへばや物語』と『君の名は。』の目に見えて関連していると考えている部分です。

両作品は共通して、二人の男女が同じ場所に同時に登場することがほとんどない作品です。数少ない邂逅の場面を、新海監督が『とりかへばや物語』に着想を得て構成していたらいいなぁ、そうだったら面白いなぁと思いながら、劇場で三葉と瀧を見ていました。

一目惚れの理屈、平安文学からの回答

『君の名は。』のラストシーンで、5年の月日を経て就職活動中の瀧が、東京で三葉と出会います。そして、互いに「君の、名前は」と尋ね合って終わるわけです。

 

うわあああああ!!

 


ここにきてタイトル回収か、神かよ!!!

 

面白すぎるだろ!!!!

 

と、まあ興奮すること請け合いな感動的なラストなのですが、これ、後々になって三葉と瀧は二人の馴れ初めを聞かれた時になんて答えるんでしょうね。

おそらく、「一目惚れ」としか答えようがないと思うんです。

入れ替わり中や糸守町を彗星激突から救った時の記憶は二人の中から消えてしまっているわけなので、実質的にはこの最後の場面が二人の初対面となります。

恋のきっかけとしてどうしようもなく単純明快で、これ以上掘り下げようのない「一目惚れ」という概念に対して、『とりかへばや物語』を含む平安文学はある一つの回答を用意しています。

それが、「前世」です。

彼らは前世からの因縁によって生涯の伴侶と出会い、前世からの因縁によってたった一度の性行為で相手を懐妊させます。

このまこと使い勝手の良い前世という考え方ははっきりと『君の名は。』にも受け継がれています。というよりもむしろ、『君の名は。』においてはその前世譚がメインとなっているわけです。

僕ら観客は、「こういう理屈で一目惚れは生まれるんじゃあ!」という、本来誰も知るはずのない恋愛劇の裏側をこっそりと覗かせて貰っているのです。

そして、この一目惚れの理屈が最も優れている点は、一目惚れの原因となる前世は自分には決して分からないということです。

すなわち、我々は自分のあらゆる直感的な選択に対して、その理由となる前世を想像しうる自由を持つということです。あるいは、日常生活における言いようのない物足りなさに前世という理由付けをすることができるのです。

例えば、街頭ですれ違い一目惚れをした女性について、「この女性と僕はきっと前世で、協力して彗星から町一つを救ったに違いない。だから、心惹かれるのは当然だ」と考えることができるわけですね。くぅ、何たるロマンチシズム。

多少、気持ち悪いとの謗りを免れ得ないような気もしますが、この圧倒的なロマンチシズムの奔流の前には誰もが裸足で逃げ出すでしょう。

仮にあなたの隣に大切な人がいて、その人と僕はどこか知らない、忘れてしまった前世でも隣に並んでいたのかもしれない。あるいは、この世界のどこかに自分と一緒に世界を救った誰かがいて、その人との運命的な出会いが刻一刻と近づいているかもしれない。

そんな想像をする余地を、この『君の名は。』という映画は与えてくれているのではないでしょうか。