太宰治とキリスト教

イントロダクション‐太宰治とキリスト教

太宰治の作品を読むとき、そこにはかならずと言っていいほど、聖書あるいはキリスト教の影響が見られます。聖書・キリスト教に関連する作品をおおまかに区分するならば、主に3つに分けられるでしょう。一つは『律子と貞子』『駈込み訴へ』のように聖書の物語そのものに題材を取る作品、また一つは『正義と微笑』『斜陽』のように聖書の言葉がそのまま引用される作品、もう一つは『姥捨』『人間失格』のように聖書の言葉が直接引用されることはないものの、聖書・キリスト教への言及が見られる作品の3通りです。もちろん、これらの形式が複合された作品も少なくありません。ここに挙げた3つの傾向のうち、いずれかが含まれる小説は51作品。ひとつのまとまりある小説として発表された作品のみに限定すると、太宰治は140作品を発表していますから、作品総数の3分の1に聖書あるいはキリスト教に関連する記述が確認できることになります(詳細は拙資料「太宰治 全作品聖書引用一覧」をご覧ください)。これだけの作品が聖書・キリスト教との関連を持つ作品であるのならば、この視点は決して看過できるものではありません。

太宰治研究史においては、研究テーマの一つとして太宰治作品と聖書・キリスト教の関連が論じられてきました。一方で、学部生のほとんどは聖書・キリスト教に関する予備知識がない状態から、この研究テーマに足を踏み入れることになるでしょう。私自身、太宰治が聖書・キリスト教に対して強い関心を持ち、さらに作品に反映させていることを知って以降は、手探りで様々な論文に当たりました。ここでは、この研究テーマに初めて接する学部生が少しでもスムーズに目当ての研究に辿り着けるよう、聖書・キリスト教という観点から太宰治作品を論じた先行研究を紹介します。もちろん、比較的手に入りやすい・確認しやすいものを参照していきますので、レポートに際する資料集めなどの一助となれば幸いです。

太宰治とキリスト教の出会い

太宰治が聖書を読み始めた時期については、太宰治自身の書簡や、太宰治と直接の関わりがあった亀井勝一郎、小山清、野原一夫、菊田義孝など太宰治と直接の関わりがあった人々による証言から「東京武蔵野病院」への入院前後であるとされています。

「入院中は、バイブルだけ読んでゐた」

1936年11月26日付 鰭崎潤宛書簡

太宰が聖書を読むようになったのは、彼が東京に出てきてから、そして非合法運動から退いてからのことだと思う

小山清「太宰治と聖書」(『太宰治全集 第四巻』筑摩書房・1958年)

これらの同時代的な資料を補強するものとして、『HUMAN LOST』をはじめとする作品の記述が挙げられてきました。

マタイ伝二十八章、読み終へるのに、三年かかつた。」

(『HUMAN LOST』「二十六日」)

「東京都板橋区Ⅿ脳病院」に入院した「私」の手記の形で展開する本作の記述を足がかりとして、佐古純一郎氏、寺園司氏らも同様に、太宰治は「東京に出てきて」、「非合法運動から退」いた後に聖書を読み始めたと捉えています。太宰治と聖書・キリスト教をめぐる研究は、作者自身の聖書受容、信仰の問題を始発点としてはじまります。

太宰治の人生/キリスト教

太宰治と聖書・キリスト教については、二つの見方が存在していました。

一種の謎めいた要素であって、重要なものではない

ドナルド・キーン「解説」(『日本の文学65 太宰治』中央公論社・1964年)

太宰治の文学の理解がそれ(論者註=「聖書と太宰文学との関連」)なしには不可能

佐古純一郎『太宰治におけるデカダンスの倫理』「第一章 出発点」(原題文藝社・1955年)

この時期の太宰治と聖書・キリスト教に関する研究は、作中の聖書引用について懐疑的な視点がありました。一方で、聖書引用が作品と有機的に結び付いていることをいち早く指摘し、太宰治その人の人生と照らし合わせた論が展開されたといえるでしょう。

以下に、代表的な論文・書籍をいくつか列挙します。

  • 佐古純一郎『太宰治におけるデカダンスの倫理』現代文藝社・1955年
  • 寺園司「太宰治と聖書」『日本文学研究資料叢書』(日本文学研究資料刊行会・1970年(初出は『国語と国文学』第41巻12号・東京大学国語国文学会・1964年)
  • 菊田義孝『太宰治と罪の問題』審美社・1964年
  • 佐古純一郎編『太宰治と聖書』教文館・1983年

1950年代、60年代にかけては、太宰治と直接の関わりがあった人々を中心に、太宰治がいかにして聖書を読むようになったか、あるいは作者自身の信仰の問題に焦点を当てた論が主として展開された時期です。また、この時期の研究によって、既に作中の聖書の引用のうち、「マタイによる福音書」が相当の数を占めていることが明らかにされています。

着目するべきは、この時点ですでに「太宰治の文学の理解がそれなしには不可能」であると捉える見方が、さらに二つの分岐を迎えていることでしょう。

太宰治の作品/キリスト教

太宰治の信仰に対する興味・関心を主とする論とは別に、作品と聖書の関わりを検討する論を展開したのは佐藤泰正氏です。氏は、「太宰治と聖書―マタイの一句をめぐって」(『国文学 解釈と教材の研究』第十二巻十四号・学燈社・1967年)の中で、太宰治が生涯を通してどのようにキリスト教・聖書と接したかを踏まえながら作中に深く根差す聖書の影響を指摘します。

渡部芳紀氏による「太宰治論――中期を中心に」(『早稲田文学〈第七次〉』第3巻11号・早稲田文学編集室・1971年)では、これまでの太宰治その人への関心を基盤とする論を挙げつつ、太宰治と聖書の関わりに「波」(「七 聖書への接近」)があることが論じられました。

また、1980年代になると、田中良彦氏はより具体的に時期ごとの発表作品における聖書の引用を検討し、太宰治の文学に対してイエス・キリストの像がどのように現れ、かつどのような影響を及ぼしているかを論じています。

(太宰は)キリストに自己の文学的立場を重ね合わせることにより、自己の文学を既成のそれに対する意味を持たせたのである。

田中良彦「太宰治のキリスト像⑴」

太宰に「生きる力を与へてくれた」「キリストの慰め」とは、神はどんな人間でも、ありのままで、存在の価値を認めているということであり、(中略)「満願」「姥捨」で言及される、存在を許容し、包括する神と一致しよう。

田中良彦「中期の要因に関する一考察」

田中良彦氏の『太宰治と「聖書知識」』(朝文社・1994年)では、太宰治のキリスト受容と、作品に反映されるイエス・キリストの像を踏まえ、『聖書』の文言が作品に有機的に作用することが明らかにされたと言えるでしょう。また、塚本虎二主催の『聖書知識』、山岸外史『人間キリスト記』による影響についても論じられた『太宰治と「聖書知識」』は、太宰治とキリスト教・聖書の関連を論じるにあたって必読の書です。

太宰治とキリスト教/作品論の展開

これまで展開されてきた太宰治と聖書・キリスト教に関する研究を概括するものとして参照しておきたいのは、千葉正昭氏による「昭和十六、十七年の太宰治と聖書」(『日本近代文学』第37集・日本近代文学会・1987年)です。氏は、これまでの「倫理的位相」に陥りがちであった太宰治と聖書・キリスト教という研究テーマに対して疑問を提示するとともに、『風の便り』(初出『文学界』1941年12月)から『誰』(『知性』第四十四巻第十二号)へ至る道筋を検討しつつ、次のように論じます。

文学の方法論的解決策を得た太宰は、確かな素材としての聖書・「聖書知識」の世界を巧みに引用しながら近代人の自意識上の問題に絡ませることに成功していく。

つまり、千葉正昭氏の論においては、聖書やキリスト教に対する関心とその作品への反映が、太宰治その人の宗教・倫理・信仰と切り離して検討可能であることを指摘したと言えるでしょう。

これ以降は、個別の作品と聖書・キリスト教の関わりを論じるものが多くなっていきます。以下に一例を列挙します。

  • 佐藤泰正氏「太宰治と聖書――一九三八年~三九年を中心に」(山内祥史編『太宰治研究5』和泉書院・1998年)
  • 遠藤祏氏「太宰治と聖書――一九四〇年・四一年を中心に――」(山内祥史編『太宰治研究7』和泉書院・2000年)
  • 千葉正昭氏「太宰治と聖書――戦時下昭和十九・二〇年の接点」(山内祥史編『太宰治研究12』和泉書院・2004年)
  • 遠藤祐『太宰治の物語』(翰林書房・2003年)

作品の3分の1以上が聖書・キリスト教に対する言及あるいは引用を含む太宰治作品においては、その作品を聖書・キリスト教との関連から論じる論がかならず一本はありそうです。太宰治研究においては古典の領域に入る奥野健男氏が定義した「前期」「中期」「後期」の三期区分に沿うような形で、キリスト教への関心や太宰治作品に反映されるイエス・キリストの像も推移していきます。これらを検討し、作品の新たな読みの可能性を考察するという点で、太宰治と聖書・キリスト教の研究は非常に興味深い分野であると言えるでしょう。

最後に‐太宰治とキリスト教、その出発に

この記事で紹介した論文は、おおよそ太宰治とキリスト教・聖書の関係を概観するもの、あるいはある時期の作品において聖書が作中にいかにして反映されているかを論じたものだけを挙げています。個別の作品について紹介しようとすれば、もっと膨大な資料に目を通し、キリスト教との関連の中で論じているものを探し出さなければなりません。そこで、キリスト教・聖書の知識が全くない状態から太宰治とキリスト教を研究している私が、まず最初に当たる文献をいくつか紹介します。

  • 三好行雄編『太宰治必携』學燈社・1981年
  • 東郷克美編『別冊国文学47 太宰治辞典』學燈社・1994年
  • 神谷忠孝・安藤宏編『太宰治全作品研究事典』勉誠社 ・1995年
  • 山内祥史編『太宰治研究1~25』和泉書院・1994~2017年

ここに挙げたものはいずれも古い文献ですが、まずこれらを確認し、「この作品は、聖書・キリスト教との関連から論じられたことがないか?」という点を確認します。また、当該の作品に関する文献が見つからなかった場合には、いちばん新しい論文から順にCiNii掲載論文をあたります。片っ端から見ていくと、かならずと言っていいほど、「○○とキリスト教」「○○における○○福音書の…」という論文に当たるでしょう。一つ当たれば、そこから先は芋づる式にたくさんの資料と出会うことができます。同じ作品を研究した、同じ大学の先輩の論文を紀要などで読んでみるのも良いかもしれません。太宰治とキリスト教の関連――とても膨大なテーマではありますが、その研究はとてもやりがいのあるものです。この記事を参考に、ぜひ研究を進めてみてください。

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1995年生まれ。修士(文学)。山か海が見えるところで暮らしたい。好きな色は緑色。大学院を卒業後、よりいっそう太宰治のことを考えている。