まだ青々しい檸檬が、梶井基次郎の選んだ『檸檬』に嫉妬する話。

「私」が丸善の本棚に置いた檸檬は、辺りを木っ端みじんに粉砕する爆弾に変容した。
では、「わたし」はどうか?
誰かに存在を認知され、然るべき場所に置かれたらちゃんと〝変容〟できるのだろうか?
その時を待ちわびては、日毎に檸檬が酸っぱくなっていく。

―――

気づけば30代がもうすぐそこだ。人間という生き物の心理学上、この頃に差し掛かると誰しもが生きることに明確な焦りを感じるらしい。クオーターライフ・クライシスという心理学用語があり、人生の1/4期に該当する20~30代の男女の多くで見られる現象だという。
その焦りの内訳は具体的に言うと、仕事についてや健康維持への心配、将来の不安といった類のものだ。もちろん個人差はあるにせよ、わたしは今、自分という人間が30年生きていることになるその一歩手前で、ぐずぐずしたりぎくしゃくしたり、とにかく落ち着かない日々を過ごしている。

ある時、この焦りの輪郭を冷静に見つめようとして気づいた。
わたしは〝変容〟していない。生まれた時からずっとこの固有名詞のまま、誰からもその本質を変えられていない、ということに。

梶井基次郎が描いたデカダンス文学の名作『檸檬』。この作品を初読した時と、今になって読み返した時とで、まるで別の本を読んだかのような感覚に陥るほどに物語から受ける印象が変わった。若い頃は兎にも角にも翳の刺さった文学に惹かれがちだったので、主人公「私」が取った不可解な行動にわけもなく痺れてあこがれていただけだったのだが、先日改めて読んでみたところ、全く新しい考えが浮かんだ。

なんでもない、ただの個体である「檸檬」に、仰々しいとも思える役割とその隙間から漏れ出るような鮮やかな美しさを見出された「檸檬」は、とても幸運だったのではないか?

ということだ。

その日私はいつになくその店で買物をした。というのはその店には珍しい檸檬(れもん)が出ていたのだ。檸檬などごくありふれている。がその店というのも見すぼらしくはないまでもただあたりまえの八百屋に過ぎなかったので、それまであまり見かけたことはなかった。

と「私」が言うように、ただの果物の一にしか過ぎないそれが、「私」に選び取られて、うず高く積まれた本の上に孤立させられ、そのまま放置される。「私」はその時、ひとつの夢想をする。その檸檬が爆発物として、知識の泉である書物を粉砕するというものだ。
爆弾という危険きわまりないものに、あろうことか「私」の頭の中で変容させられてしまった檸檬だが、わたしはそれを羨ましいと感じた。ほんのわずかな瞬間ででも感情、身体、心そのすべてを、リミッターが解除された瞬間に爆発させることのできる別の存在へと変身を遂げられたのだから。

わたしもそういう人間になりたいし、辺りを巻き込んでかき乱したいし、世間を騒がす〝時の人〟になってみたい。人を傷つけさせるのではなく、赤く燃える火花が見た人の心に一生残るような、そんな人生をこの手にしてみたい。変容したい、変わりたい、一瞬でもいいから、誰かにそんな役目を与えられたい――。

幻想という限られた世界の中でも、大きなロール(役)を与えられ、有象無象から選択された檸檬に嫉妬に近い感情を抱いた。
酸いも甘いも知っているはずの年齢になった「わたし」が、今なお何者にもなれておらず、誰かに変容してもらえるのを待っている。果物屋で手を伸ばされ、台所のまな板の上でスライスされ水に浮かべるような凡庸な幕引きを迎えるのではなく、「私」のように書店へと連れて行ってくれるのを待ちわびている。

そんなわたしの生き方は泥臭くて滑稽で、こんな美しい小説のようになどなれないのは何となく感づいているし、変容されることを待っているだけでは〝売れ残り〟になってしまうことも分かっている。
ただ、願ってしまうのだ。いつかは、どこかの季節で――誰かの夢に出てきたり、誰かの閉じた世界の中だけでも生きられたら、と。

その限定的な世界が、夢のふちに咲く睡蓮のようにゆっくり花弁を開いて、かぐわしい匂いを発するように。
鬱屈しがちなこの世に向けて、瑞々しい果汁をまき散らす爆弾になってみたい、と願ってしまうのだ。
わたしの檸檬は、まだ青い。

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1992年生まれ。日本大学芸術学部文芸学科を卒業後、フリーライターとして活動のかたわら創作小説を執筆。昨年度、文学フリマにて中編小説『愛をくれ』を発表。自身の生きづらさを創作に昇華することを目標とする。