「生きる」ための言葉とは何か/穂村弘『はじめての短歌』

穂村弘といえば、現代短歌の最前線で活躍する歌人の一人です。その穂村弘による歌論書『はじめての短歌』が面白くないわけがありません。

普段の生活の中で短歌を詠むことはほとんどなく、短歌の鑑賞経験も乏しいのですが、穂村弘の書くエッセイに最近惚れ込んでいるという事情もあり、先日刊行されたこの本を購入しました。

「歌論書」とは書いたものの、本書では短歌を詠むうえで重要な点が優しい言葉で語られています。

「生きのびる」ことと「生きる」こと

本書では繰り返し、短歌では「生きる」ための言葉が必要であると書かれています。ここで言う「生きる」とは、「生きのびる」ことと比較したときに出てくる言葉です。

ここでいう「生きのびる」こととは、簡単に言うと生命体を維持するということです。サバイブするということです。そのために、僕たちはお金を稼がなくちゃならないし、社会的通念にのっとって生活をしなければなりません。

では、「生きる」とはどういうことでしょうか。「生きのびる」ことには、生命を維持するという唯一絶対の目標があります。しかし、「生きる」ことには個々人に目的があり、しかもそれぞれの目的がどこか一定の方角に定まっているわけではありません。生きることは難しい。しかし、その中で「生きる」ことを志向するのが、短歌というものなのでしょう。

「生きる」ための言葉とは一体どういうものなのか。様々な可能性がありますが、『はじめての短歌』の短歌では、概ね「弱いもの」を採用することによって、僕らが「生きる」ための答えが見つかるようだと言っているように僕は感じました。それは、「生きのびる」ための言葉が、どうしても強くなくてはならないことと無関係ではないと思います。

本書の第二講「短歌の中では、日常とものの価値が反転していく」の中で、穂村弘は次のようなことを書いています。

 短歌においては、非常に図式化していえば、社会的に価値のあるもの、正しいもの、値段のつくもの、名前のあるもの、強いもの、大きいもの。これが全部、NGになる。社会的に価値のないもの、換金できないもの、名前のないもの、しょうもないもの、ヘンなもの、弱いもののほうがいい。

(穂村弘『はじめての短歌』 P.46)

これを読んだときに、僕はすぐさま梶井基次郎の「檸檬」を思い出しました。国語の教科書で読んだことがある方も多いでしょう。その「檸檬」の中で、こんな一節があります。

 私はまたあの花火というやつが好きになった。花火そのものは第二段として、あの安っぽい絵具で赤や紫や黄や青や、さまざまの縞模様を持った花火の束、中山寺の星下り、花合戦、枯れすすき。それから鼠花火というのは一つずつ輪になっていて箱に詰めてある。そんなものが変に私の心を唆った。
(中略)
 察しはつくだろうが私にはまるで金がなかった。とは言えそんなものを見て少しでも心の動きかけた時の私自身を慰めるためには贅沢ぜいたくということが必要であった。二銭や三銭のもの――と言って贅沢なもの。美しいもの――と言って無気力な私の触角にむしろ媚こびて来るもの。――そう言ったものが自然私を慰めるのだ。

(梶井基次郎「檸檬」)

梶井基次郎の「檸檬」からは、「生きる」という強い意志が感じてとれます。もちろん、そこには「生きのびる」ための戦略もあるのでしょうが、それ以上にギリギリのところで「生きる」ことを志向しているという風に思われてならないのです。

この「生きる」ことにまつわる言説は、短歌だけではなく、小説をはじめとして文芸全般に応用可能なことです。短歌に比べれば、小説は「生きのびる」ための言葉たちで満たされたものでも「いい小説」と言われることがあると感じています。しかし、「生きる」ための言葉が評価されるベクトルも必ずあって、僕はそちらの方に向かって生きたいと感じているのです。

改悪例

本書が最高なのは、短歌作りの秘訣を話すために「改悪例」という試みを採用しているところです。

普通は、あまりよくない作品を取り上げて、どのようにしたら改良されるかを示します。「添削」という概念ですね。ところが、この「はじめての短歌」では、穂村弘が選んだきた短歌がどうやったら下手くそになるのかということを探っていきます。

一見すると奇をてらったような方法にも思われますが、実際に読んでみると、元の歌のいいところが浮き彫りになってすんなりと穂村氏の言いたいことが理解できる仕組みであることがわかります。

この「改悪例」を示すという試みは、完成した短歌を解体して、その完成までの道程を示す試みなのではないでしょうか。

短歌という一個の完成した作品となる道のりの中で、その前の「短歌らしきもの」は様々な形態をとります。言葉が生み出されるきっかとなった事象がまずあって、それをなんとなく頭の中で捉えることができて、次に散文的にその情景が言葉になっていく。それをさらに短歌にする過程で、きっといくつも「改悪例」が生まれているはずなのです。そして一個の「短歌」が完成するというわけです。

僕らが短歌を鑑賞するとき、普通はこの完成した短歌しか目にすることができないわけです。そうして、その短歌がいいとか悪いとか、別にどうとも思わないとかいうことを決めていく。その中で「いい短歌」があったときに、僕なんかはすごく困ってしまうんです。どうして、この短歌はこんなにもいい短歌なんだろうかと。『はじめての短歌』では、単純に「いい短歌」に対して「悪い短歌」を示してくれることで、なぜいいのかを明確にしてくれる、優れた歌論書であると思います。

まとめ

これから短歌を始めようと思っている人、あるいは短歌なんて興味ないけどもっと上手に小説を書きたいという人、とにかく穂村弘という人物が好きな人たちにおすすめしたい一冊です。

ここでは何か具体的なテクニックが紹介されているわけではないので、書いてあることを自分で内面化して、それをアウトプットして試してみる必要があります。

しかし、文芸活動というものは本来そういうものであると僕は思います。穂村弘のやり方が、正解ではない可能性も当然ある。でも、彼が現代短歌の世界で正解の一端を担っていることは間違いありません。その真髄を、本書で覗いてみてはいかがでしょうか。

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