「K」を手掛かりにした文学的連想__「K」の登場する小説案内

小説を読んでいると、他の文学作品に対する言及があることがよくあります。

そんな作品しらないよ!って思ったり、この小説なら読んだことがある、なるほどーと思ったりした経験のある方は多いのではないでしょうか。

文学作品はその中で他の文学作品に言及することがあって、いろいろな作品を読めば読むほどそういった連想が深まっていくのが面白いところのひとつです。今回は試しに「K」という登場人物を手掛かりに小説を読んでみます。漱石の『こころ』に登場するあの「K」です。

夏目漱石『こころ』

夏目漱石の『こころ』と言えば、国語の教科書で読んだことのある方も多いでしょう。語り手「私」が夏の鎌倉で出会った「先生」の秘密の過去が、先生の遺書として書かれた膨大な分量の手紙の中で語られます。

僕は高校生のとき現代文の授業でこの小説を読んだのですが、主に扱われていたのはこの手紙の内容部分、小説全体に占める位置で言うと上・中・下の、下の部分でした。

手紙の内容は三角関係の物語。「先生」と友人の「K」、そして二人が共に恋い焦がれてしまった「お嬢さん」が登場します。

「お嬢さん」を是が非でも手に入れたかった「先生」は、「K」の真面目な性格を逆手にとって彼の恋をあきらめさせようとします。「K」の「精神的に向上心のないものがばかだ」という台詞を、「先生」は恋愛にうつつを抜かしている場合ではないと「K」をいさめる言葉として利用しますが、この台詞が記憶に残っている方も多いでしょう。

最終的に「先生」は「K」をうまく出し抜いて「お嬢さん」を手に入れますが、真相を知った「K」は友情への信頼を裏切られ絶望し自殺してしまうという後味の悪い顛末。

さて、『こころ』に登場するKは僧侶の息子であり、その道のために修練を怠らない謹厳実直な男でした。「先生」との友情をまっすぐに信じ、まっすぐすぎたために裏切りに耐えられず折れてしまった男。

しかし正直言って失恋のために自殺するなんて現代の僕たちからみたら大げさすぎるし、それはもちろん当時の恋愛、というか結婚観なんかが問題になってきそうですが、少なくとも「K」はつい感情移入してしまうというようなキャラクターではないように思えます。

漱石の作品全体に言えそうですが、恋愛に関して、言ってしまえば童貞っぽくて、無駄に真面目で理屈っぽくみえる。

もちろん、明治の時代を考えればそうした恋愛観ないし結婚観は当然で、そこからはみ出るかはみ出ないかのところにいる人々の苦悩を漱石は描いたのだと言えるということは言っておきます(『それから』なんかまさにそうですね)。

少々話がそれましたが、こんな『こころ』の「K」以外にも東西の文学作品では「K」と名付けられた様々なキャラクターたちが描かれてきました。彼らがすべて「K」と名付けられたのは何か意味があるのか、ただの偶然なのか。

そんなことを考えながら「K」を手掛かりにいろんな小説を読んでみるのも面白いのではないかという提案です。

梶井基次郎「Kの昇天」

梶井基次郎の「Kの昇天__或いはKの溺死」はこれもまた国語の教科書に掲載されることのある作品です。あるいは同じ梶井の「檸檬」という短編を読んだことがあるという方も多いでしょう。

梶井は20篇あまりの作品を残していますが、そのすべてが新潮文庫一冊に収まりそのまま全集になってしまうほど短い作品が多くあります。「Kの昇天」にしても「檸檬」にしても10分かそこらで読めてしまう小品ですね。

「Kの昇天」は溺死してしまったという少年(?)「K」にまつわる逸話を手紙で回想するという書簡体の小説。手紙の書き手はとある療養所で夜寝つけず辺りを散歩しているときに、海岸で「K」を発見し話しかけます。聞くと彼は月夜に照らされた自分の影を見ていたのだという。「K」は月の夜になると影とシューベルトの歌曲『ドッペルゲンゲル』に憑かれるのだと話す。

幻想的で謎に満ちた静かな夜を美しい筆致で描き、そのなかに知的さがきらりと閃く作品です。ここに登場する「K」は教養があって月や影に惹かれる詩的さも持ち合わせており、いわば文学青年のようなキャラクターにみえます。月にしても影にしても、あるいは『ドッペルゲンゲル』にしても文学的な薫りのあるモチーフですね。

『ドッペルゲンゲル』ないし「ドッペルゲンガー」はドイツ語で、まったく同じもうひとりの自分といったことを表します。不思議な風景の中に自分にそっくりな影を見つけたり、他人の中に自分を映す鏡を見出したりとドッペルゲンガー譚を扱った文学作品は枚挙に暇がありません。

『ドッペルゲンゲル』が意味ありげに登場するわけですが、果たしてどのような意味なのでしょう。『ドッペルゲンゲル』を吹きながら出会った「K」は「私」の分身なのでしょうか。「K」は自身の影の中にもしかしたら自分自身の真実を見ていたとでもいうのでしょうか。

また、「K」はそれをイニシャルに持つ梶井の分身だったりして。こうして連想に連想が連なっていって、ひとつの具体的な結論に到達しない曖昧さも文学作品の醍醐味であります。

フランツ・カフカ『審判』(『訴訟』)、『城』

梶井と同じくKをイニシャルに持つ作家としてカフカを挙げておきます。彼も自分のイニシャルを彼の主人公に与えた小説をいくつか書いています(必ずしも作者のイニシャルが「K」と名付けた由来であるとは言い切れませんが)。

カフカは二十世紀初頭に主に活動したチェコ出身のドイツ語作家。ちょっと不思議でユーモラスで、しかし暗く不気味な作風で、人に容赦なく降りかかる理不尽な運命、不条理を描いた作家であると簡単に言えばそうなるでしょうか。二十世紀の文学者でもっとも重要な人物のひとりであると目されています。ある朝突然虫に変身していた男を描いた『変身』が特に有名でしょうか。

『審判』(『訴訟』として翻訳されてもいます)はカフカの代表的な長編。主人公「K」が(これまた)ある朝突然、彼が逮捕されているということを告げられ、しかしなんのために逮捕されているかは明らかにならず、わけのわからない状況の中それなりになんとかしようともがき続けるという、なんとも不毛な小説です。

弁護士に相談してもいまいち納得のいく助言を得られず、他にも様々な人に相談しますがどうもうまく状況を好転させられない。一方で、逮捕されているとはいっても裁判の判決が出ていない以上特に不都合があるわけでもなく、仕事にだって行ける。なんだか曇ったガラス越しに水槽の中をのぞいているようなもやもやした小説です。

鮮やかな展開があるわけでもないのにやたら長々と続くので読み進めるのが苦しい方もいらっしゃるかとは思いますが。ふとした一文が妙に魅力的であったりもします。ちなみに『訴訟』のタイトルで訳された光文社古典新訳文庫のものが読みやすくておすすめです。

『城』もこれまた長い小説です。しかも未完。僕には『審判』以上に読み続けるのがしんどい小説に思えます。

主人公「K」は「城」というところに呼ばれた測量士であるらしいが、どこに行けばいいのかよくわからない。様々な人に話を聞きながら「城」に入ろうと頑張るけれど、城に入るには許可が必要だと言われたり、許可を取ろうとしても突っぱねられたりとどうもすんなりいかない。道中いつの間にか助手であると主張する者たちがくっついてきたり、愛人ができたりもしてやたらと人間関係も面倒くさくなっていく。読むこと自体不毛に思えるほど不毛な小説です。

二つの小説の共通項は「K」に課せられた詳細不明の謎の運命と、それになんとか対処しようとする「K」の姿、しかしなんだかもやもやとはぐらかされて歯切れよい解決とはならない点です。カフカというと暗い陰鬱なイメージがつきまといますが、「K」たちに自身を投影してこれらの小説を書いたのでしょうか。

J.M. クッツェー『マイケル・K』

カフカは二十世紀の小説家の中で最も重要なうちのひとりであるということを書きましたが、現代の小説家はあまねくカフカの影響を受けているという人もいるほどです。そんなカフカの影響を受けた作家としてJ. M. クッツェーを紹介します。

J. M. クッツェーは南アフリカ出身の英語作家、1940年に生を受け今なお現役で作品を発表し続けており、日本ではクッツェーの名を聞いたことのある人はそれほど多くないかと思いますが、二回のブッカ―賞やノーベル文学賞を受賞した現代の世界文学での重要人物のひとりです。

そのほとんどの作品が翻訳されており、いくつかは文庫になっています。

また、クッツェーは小説家であるばかりでなく英文学者、言語学者でもあり、大学で英文学を講じたり文学批評を書いたりしています。『世界文学論集』という彼の文芸論文集にはさきほどのカフカに関する論文が入っています(ちなみにこの論文集、かなり専門的で難解です。クッツェーがアカデミックの人間なのだなということを感じさせます)。

扱っているのは「巣穴」という短編。このカフカの短編小説との関連がよく議論されるのが、これから紹介するクッツェーの小説『マイケル・K』です。

舞台はアパルトヘイト下の南アメリカ。主人公「マイケル・K」は年老いた母親を車椅子にのせて不安定な情勢の中故郷へと運ぶ男。しかし検閲をくぐり抜けながらの旅路の途中で母親は逝去してしまう。どうやら知能に障碍があるらしい彼は今いるここではないどこかにあるはずの自由を求めてさまよい歩く。山の中に「巣穴」(これがカフカとの関連を想起させる)のような住居を構え、廃屋となった小屋からみつけたカボチャの種を土を耕して植える。野宿しているところを発見された彼は、それなりに居心地のよさそうな病院に収容され、そこの医師の一人に興味を持たれる。医師は「K」がまた危険な外に出ようとしているのではないかと考え彼を説得しようとするが、「K」は哲学的ともとれるつかみどころのない返事をするばかりである。果たして「K」は病院の中の平穏を捨て去り自由を求めてまたしても脱走することになる。

この「K」はとにかく何かに囚われることを極端に嫌がり、逆に自由な大地を愛しているようです。落ち着きがないと言ってもいい。特に当てがあるわけでもないのにどこか他のところへ出ていきたがるが、そこに目的はなく欲望や幸福になりたいという気持ちもなさそうです。

そんな「K」を周囲の人間は変わり者扱いしますが(実際そうでしょうが)、ただ最後に出会う「医師」だけが「K」に単なる頭のおかしさに留まらないなにか魅力的なものを見出します。

「医師」が「K」を理解しようと努め執着していく過程を読みながら、僕たちもそれ以前にはわからなかった「K」の魅力を発見していくことになります。

「マイケル・K」という謎を「医師」の視点から解き明かしていく、「医師」の批評により読者も「K」を再発見するというのが面白いところです。

村上春樹『スプートニクの恋人』

カフカ・チルドレンとでもいうべき作家を最後にもうひとり。言わずと知れた村上春樹です。

新刊が発売されるたびにニュースでも取り上げられ書店にハードカバーが山積みになる人気作家ですが、毎年ノーベル賞の時期に注目されることからもわかるように、その作品は数多くの言語に翻訳されており世界文学の文脈でみても注目度の高い作家です。

インテリジェントでクールな文体は読むに心地よく、比喩表現が鮮やかで印象深くあります。

村上春樹とカフカといえば『海辺のカフカ』でしょう。主人公にカフカの名前を与えていますし、不条理でどことなくユーモラスな世界観はカフカ・オマージュであることを感じさせなくもありません。

日本の古典作品やギリシャ悲劇のオイディプス王など様々な文学的背景のみてとれる作品です。

村上春樹は他の作品でもたびたびカフカに触れており、たとえば『ダンス・ダンス・ダンス』ではカフカの『審判』を読みつつ眠り就いた主人公が、翌朝殺人事件について聞きたいと二人の警官の訪問を受ける場面があります。

さきほど紹介した『審判』の冒頭、あなたは逮捕されているのだといって二人の監視人が「K」の前にあらわれるシーンをなぞっているわけです。

さて、村上春樹に登場する「K」は(『海辺のカフカ』だってそうだと言えるかもしれませんが)、『スプートニクの恋人』の主人公です。

『スプートニクの恋人』はそのタイトルから予想されるように恋愛をひとつの軸として語られる物語。主人公は大学を卒業したての小学校教師で、その大学で出会い今は中退して小説家を目指している「すみれ」に恋をしている。一方で「すみれ」のほうはその気はさらさらないらしく、それどころか恋愛自体に興味を持てないようなのだ。

しかし、ひょんなことから「ミュウ」という40歳近くの女性に出会い心惹かれ「恋」をしていくこととなる。

それほどスケールの大きな作品ではないものの、この奇妙な三角関係を軸に村上作品に特徴的に現れる「こちら側とあちら側」のモチーフが絡んでくるという小説で、なかなかに愛すべき佳作です。冒頭のこんな文章が中学校の国語の教材で使われて話題にもなりました。

22歳の春にすみれは生まれて初めて恋に落ちた。広大な平原をまっすぐ突き進む竜巻のような激しい恋だった。それは行く手のかたちあるものを残らずなぎ倒し、片端から空に巻き上げ、理不尽に引きちぎり、完膚なきまでに叩きつぶした。(村上春樹『スプートニクの恋人』)

この後にもオーバーな比喩が続いていくわけですが、キャッチ―で素敵な書き出しだと思いませんか?

この主人公の「K」という呼び名が明かされるのは実にさりげなく一箇所のみです。すなわち、「すみれ」が書いたエッセイのような文章の中で一箇所「K」と呼ばれて登場するだけです。ここで主人公に具体的な名前を与えずイニシャルで読んでいるのは、彼の匿名性を担保したかったからかもしれません。

確かに、「すみれ」の魅力的な奔放さや「ミュウ」の謎めいた過去と比べると、「K」はそれなりに現状に満足しながら日々を生きる小学校教師、キャラクターとしてはそれほど強烈ではないかもしれません。そしてこのことは「K」としてのみ呼ばれるという匿名性と一貫しています。

ただし、漱石の『こころ』を読んでいたり、もしかしたら村上春樹がカフカに影響を受けていてカフカの小説に「K」が登場するのだと知っていたりする僕たちがこの小説に「K」を発見して、ピンとくるものがあるのは間違いないと思います。

少なくとも僕は「K」から『こころ』を連想しましたし、単なるイニシャルに過剰な意味を求めるのは適切ではないかもしれませんが、適切ではないにせよ面白い読み方だと思います。

まとめ

正直言って「K」たちに特別な共通項があるわけでもありませんし、彼らを並べて比較したところで、なにか意味のあるイニシャルであるにせよ作者の気まぐれ以上の意味はないかもしれません。

ただ、作者の意図を超えて他の文学作品と結びついていくのが文学作品というものです。文学は読めば読むほど他の作品に対して連想があふれてくるというのが面白いのだというお話でした。

『海辺のカフカ』のカフカ君は僕たちが最初に出会った「K」の作者たる夏目漱石を愛読しているようですし。

また、こちらは未読ですが、最近では又吉直樹『花火』と芥川賞同時受賞を果たし、メディアへの露出も多い羽田圭介が『成功者K』を2017年3月に発表しています。

『成功者K』の作品紹介には以下のように書かれています。

芥川賞を受賞したKは、いきなりTVに出まくり寄ってくるファンや友人女性と次々性交する。
突如人生が変わってしまったKの運命は?

まさしく羽田圭介(Hada “K”eisuke)を彷彿とさせるような主人公K。ここで紹介した「K」の登場する文学作品と比べてみても面白いかもしれません。

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ABOUTこの記事を書いた人

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福岡県出身。東京大学在学中。英文学と現代世界文学を中心に学びつつ、都内でときどきクラシックギターを演奏している。