ジョン・コナリー『キャクストン私設図書館』は、本や物語をテーマにした4編を収録した短編集である。いずれも読書家ないし愛書家の心をくすぐる作品だ。
表題作である『キャクストン私設図書館』は、さまざまな物語の登場人物たちが実体化して現れる、摩訶不思議な図書館をめぐる物語。この作品については、後ほど詳しく解説する。
次の『虚ろな王(『失われたものたちの本』の世界から)』は、打って変わって暗い雰囲気の立ち込めるダーク・ファンタジー。お伽話のような語り口であるものの、結末は恐ろしい。わずか数ページの作品だが、魅力的な物語だ。コナリーの『失われたものたちの本』のスピンオフという位置付けだが、この作品単体でも問題なく楽しめる。
『裂かれた地図書──五つの断片』は、中編と呼べるボリュームの怪奇小説だ。『裂かれた地図書』と呼ばれる奇書をめぐって、さまざまな時代と人物が描かれる。「五つの断片」とあるように、5つのパートから構成されており、この作品自体が、さながら1つの短編集の相貌を呈している。
最後の『ホームズの活躍:キャクストン私設図書館での出来事』は、タイトルの通り、『キャクストン私設図書館』の舞台と設定を引き継いだスピンオフ作品。シャーロック・ホームズ、およびその作者であるコナン・ドイルに焦点を当てている。
それでは、表題作『キャクストン私設図書館』の世界へと歩を進めよう。
アンナ・カレーニナを追いかけて
およそ我々の人生は、通常、外部から認識することが可能な指標によってのみ評価される。仕事にはやりがいを見出せず、孤独で、恋人もいない。そんな場合、退屈な人生を送っていると見なされるのが常である。しかし、そのような評価は妥当なものだろうか。
否、そうではあるまい。我々には、もうひとつの充実した人生、知られざる内的な人生、ある意味で本物の人生が存在し得るからだ。書物の世界を愛してやまない人々は、そのことを知っている。
さて、この作品の主人公であるバージャー氏も──少なくとも端から見れば──いかにも退屈そうな人生を送っている。ある小さな役所で与えられているのは、毎年代わり映えのしない単調な仕事である。一度は職場の若い娘と恋仲になったものの、彼の煮え切らない態度が原因で、結局は愛想を尽かされてしまう。
しかし、そんな彼にはもうひとつの生活があった。余った給料をほとんど本に費やし、充実した読書生活を送っていたのだ。この点において、彼は決して退屈などしていなかった。とはいえ、語り手は、皮肉とユーモアのある口調で、次のようにも指摘している。
彼はだんだんとただの置物のようになり、本を読むたびに、そこに自分のものの見方を重ねるようになっていった。バージャー氏は素晴らしい恋人でもなければ、悲劇の主人公でもない。それよりも他人の人生を観察する、小説の語り手のようであった。語り手とは、本の登場人物たちがひょいと持ち去っていくその時まで物語の展開をコートのように吊るした、金具のようなものである。心の底から本を愛する貪欲な読者であるあまり、バージャー氏は自分が観察している人生が当の自分のものなのだということもすっかり忘れてしまっていた。
ジョン・コナリー (田内志文訳) (2021) 『キャクストン私設図書館』東京創元社 p.9
ある時、バージャー氏に転機が訪れる。老母が死んだのだ。1968年秋、彼が36歳のときである。彼の母は、遺産を残してくれていて、それは莫大な財産とは言わないまでも、衣食住に不自由しない程度の額ではあった。こうして経済的自由を手に入れた彼は、早期に仕事をリタイアし、イギリスのグロッサムという町に移り住む。
しばらくは長年憧れていた作家になるべく努力を続けていたものの、自分の才能に疑念を抱くようになった頃、バージャー氏は、ある運命的な事件に遭遇する。線路沿いを散歩していると、アンナ・カレーニナが列車に飛び込み、自殺を図ったのだ。そう、あのトルストイの名作『アンナ・カレーニナ』の主人公である。彼女は、作中で定められた自らの悲劇的な結末を、何度も繰り返そうとしていた。
バージャー氏は彼女の後を追い、赤レンガ造りの建物の前に行き着く。その建物のドアの上には、〈キャクストン私設図書館&書物保管庫〉と彫られていた──。
キャクストン私設図書館へようこそ
紆余曲折の末、バージャー氏は、この摩訶不思議な図書館の秘密を知ることになる。彼を案内してくれたのは、ひとりの老紳士、この図書館の司書を務めているギデオン氏であった。
ギデオン氏によると、この図書館には、実体化した物語の登場人物たちが住んでいるのだという。ちなみに、登場人物たちが現れるのは作家の死後である。作家の存命中は、物語はまだ変化する可能性があるからだ。
実体化するためには、作品の知名度が重要であり、登場人物の名が知れ渡っている必要があるらしい。それゆえ現れるのは、いわゆる古典と呼ばれる物語の登場人物だ。ほんの一例を挙げると、アンナ・カレーニナ、オリヴァー・ツイスト、ハムレット、シャーロック・ホームズ、ドン・キホーテ、ドラキュラなどである。
キャクストン私設図書館の歴史は、15世紀にまで遡る。この図書館は、創設者であるウィリアム・キャクストンが、とある事件を目にしたのをきっかけに設立された。ある朝、彼の自宅の庭で、ジェフリー・チョーサーの『カンタベリー物語』の登場人物たちが言い争いをしていたのだ。
ここがただの図書館ではないのは、希少な初版本や手稿本が大量に保管されていることからも一目瞭然だ。この初版本が図書館に届くまでの経緯は謎につつまれていて、作家の死後、登場人物の登場とほぼ時を同じくして、どこからか送られてくるらしい。実は、この初版本と登場人物たちとの間には深い結びつきがあるのだが、それについてはまた後で触れることにしよう。
「なるほど。さまざまな物語の登場人物たちが一堂に会するのだな。てんやわんやの大騒ぎといったところか」
以上のような説明では、この作品に対して、そんな期待を与えてしまうのも無理はない。とはいえ、読者諸君よ、残念ながらそれは大きな誤解である。なぜなら、作家の主眼は、有名な登場人物たちを描くこと自体にはないからである。
アンナ・カレーニナを除けば、登場人物たちの描写はごくわずかで、精彩を欠いている。そもそも、ほとんどの登場人物は、自分の部屋に閉じこもって寝たきりという設定なのだ。図書館とはいうものの、老人ホームといったほうが、その実態をまだしも正確に表しているかもしれない。
バージャー氏とギデオン氏の会話も──読者にこの図書館の設定を教えるための会話ではあるのだが──質問と受け答えが長々と続き、それまでの魅力的な語り口は影を潜め、私にはいささか退屈であるように感じられた。
しかし、面白いのはここからだ。翌日も図書館を訪れたバージャー氏は、ギデオン氏から、こんな奇妙な話を聞くことになる。
この図書館には、ルイス・キャロルの『不思議の国のアリス』と、ハーマン・メルヴィルの『白鯨』の手稿本が所蔵されているのだが、以前、誤って『白鯨』のインクが『不思議の国のアリス』の原稿にうつってしまった。すると、この世に存在するすべての『不思議の国のアリス』で、お茶会に鯨が登場することになったというのだ。とはいえ、ギデオン氏がインクを拭き取ったことによって、物語は元の形を取り戻したので、この事件のことは誰も記憶にないという。ただひとり彼を除いて。
つまるところ──これまた荒唐無稽な話だが──この図書館が所蔵している本を書き換えると、この世界に存在している他の本すべてに同じ変化が起きてしまうのである。物語の展開、そして登場人物の運命は、変えることができるのだ。
登場人物たちの運命
このときバージャー氏の脳裏にあったのは、アンナ・カレーニナの運命であった。先述した通り、彼女は、列車に飛び込み自殺するという、自らの悲劇的な運命を繰り返していた。彼女について、ギデオン氏は次のように語っていた。
アンナの名は小説のタイトルになっているが、その人生があまりに悲劇的で、運命は顔をそむけたくなるほど哀れなものだから、読者の心に焼き付くのみならず、彼女自身の中にも深くまざまざと刻み込まれてしまったのだよ。それが文章というものさ。本というものさ。本には力があるのだよ。
ジョン・コナリー (田内志文訳) (2021) 『キャクストン私設図書館』東京創元社 p.58
密かにアンナ・カレーニナを愛していたバージャー氏は、ある計画を企てる。『アンナ・カレーニナ』の初版本を書き換えることで、その結末を改変し、彼女を悲劇的な運命から救おうとするのだ。やがてギデオン氏が外出し、その機会が到来する。そして──。この先の展開を知りたい方は、ぜひ本書を手に取っていただきたい。
言うまでもなく、本の結末を勝手に書き換えるのは、文学への冒涜であり、とんでもない暴挙である。とはいえ、ここで指摘しておきたいのは、作家は、物語の結末の改変を、必ずしも否定してはいないように──少なくとも私には──見えることである。
作家の態度は、文学作品の結末を、決して神聖不可侵なものとして崇めることに終始しているわけではない。私としては、結末の是非をめぐるこの議論には、個々の文学作品に対する作家自身の見解が反映されているように感じられて、とても興味深く読むことができた。
先にも述べたとおり、登場人物たちが実体化するのは、その名が広く知れ渡ることによってである。そうなるのはもちろん、その作品が優れているからだ。そして、優れた文学作品には、悲劇的な結末を迎えるものも少なくない。だからこそ、人々の心に強く訴えかけるのである。
この点において、F・スコット・フィッツジェラルドの『グレート・ギャツビー』の結末に対する、バージャー氏の──そしておそらく作家自身の──考察にも少し触れておきたい。私としても、この見解には十分頷ける。
結局は、悲劇の晩にデイジーが車を運転する結末が出版されたわけだが、フィッツジェラルドが逆に〈キャクストン私設図書館〉が所蔵している原稿のほうを出版していたら、いったい何が起こっていただろうか。そのせいで、ギャツビーの運命も変わっていたのだろうか? いや、おそらくは変わるまい、とバージャー氏は胸の中で言った。プールには同じように血の染みたマットが浮かんでいただろう。ただし、ギャツビーの最期はさほど悲劇的にではなく、高潔さも欠いて描かれていたに違いない。
ジョン・コナリー (田内志文訳) (2021) 『キャクストン私設図書館』東京創元社 p.63
このように、登場人物たちの中には、悲劇的な結末を迎えたからこそ、人々の記憶に強く残っている者たちがいる。そうであるならば、結末を改変して、登場人物をその運命から救うことは、登場人物の価値を貶め、その存在を抹消することにつながる可能性もあるだろう。そう考えると、そもそも実体化した登場人物という存在自体が、一種のジレンマを、否応なく招来するのではなかろうか。
登場人物を愛する読者の存在
文学作品、あるいはもっと広く「知」とは、決して不変なものではない。それらに時代をも超える永続性が宿るのは、ひとえに作品を次の世代へと引き継ぐ人々がいるおかげである。その役割の一部を図書館が担っていることは、言うまでもない。
しかし、作品の継承とは、単に物質としての書物を保存することだけではない。キャクストン私設図書館の司書の仕事には、蔵書の保護だけではなく、登場人物の面倒を見ることも含まれている。このことは何を意味するのだろうか。
作品が生き長らえるには、それを享受する人間、すなわち読者の存在がなくてはならないというのが私の考えだ。物語の登場人物たちを愛してやまない、そんな読者の存在が欠かせないのだ。