いま読みたい氷室冴子 / 氷室冴子『いっぱしの女』

多くの少女たちの心に残る作品を残し、51才という若さでこの世を去った氷室冴子。『なんて素敵にジャパネスク』『クララ白書』などを世に送り出し、コバルト文庫を代表する作家ともいえる彼女は今でも多くの人々に愛されています。そんな氷室氏のエッセイ『いっぱしの女』が2021年7月12日にちくま文庫より新版として発刊されます。

少女小説家として、母親から結婚をせっつかれる娘として、かけがえのない女友達として……様々な体験をもとに巡らせた思考を氷室冴子という一人の人間が「女」という切り口で語る本書。初版は1992年と現在から30年近く前のものであるにもかかわらず、鋭い視点と洗われた言葉で綴られる文章は褪せることなく私たちの生活を明るく照らしてくれます。

氷室冴子と少女小説

私が氷室冴子という作家の名前をはっきりと意識したのは、コバルト文庫を手に取るであろう年代を過ぎた学生時代の頃でした。「氷室氏が参考文献としてあげていた著書の教授がいるからという動機でこの大学に入学した」と友人の一人が言ったことをきっかけに、氷室作品について友人たちのあいだで熱い語りがはじまったのです。少女たちの心を掴み、人ひとりの進路を決定づけるほどの小説家として私は氷室氏を記憶し、いつか手に取りたいと思うようになりました。

それから少し経ち少女文化や少女雑誌について興味を持ち調べているうち、私は再び氷室氏の名前に出会います。

戦前、少女雑誌に掲載されていた日本の少女小説は、戦後の新しい価値観の形成により時代にそぐわなくなっていきます。その一方で少女たちの性や愛を描いた「ジュニア小説」が生まれますが、このジュニア小説も書き手と読者の隔たりや70年代の少女漫画ブームに押され徐々に下火になっていきます。

そんな中、戦前の吉屋信子に代表される作家たちのように“読者の対象が女の子である娯楽小説を、手抜きでなく書く”作家としてジュニア小説誌上に現れたのが氷室氏でした。彼女が現在に至る少女小説の系譜を継いでいるというのです。1

それを知りさらに氷室氏に興味がわいたのですが、そこでも私は彼女の作品を手に取りませんでした。周辺知識を得たことで「吉屋氏のように少女の感情を抒情的に描いた少女小説家」というイメージが定着してしまったため、逆に彼女の作品から遠ざかってしまったのです。

氷室冴子の魅力

そんな私が氷室氏の本を手に取るに至ったのは、Twitterでフォロワーさんが次の一節を引用されていたのが目に留まったからです。

私の中にも、女への距離感を失わせる甘えと、無頓着さがある。距離感のなさはいつ他人を自分の思い込みで断定し、決めつけ、相手を息苦しくさせるかわからない危うさをもっている。

これは『いっぱしの女』に収録されている「一番とおい他人について」の一節です。

この文章の中で氷室氏は、自身が女であるからこそ女を一括りにしてはいないか、そのことで周りの人たちを苦しめてはいないかと研ぎすまされた言葉で自戒します。私はこの文章を読み、女というだけで同じ生き物だと決めつけ個々人の差異に鈍感になってはいないかと自身を顧みずにはいられませんでした。

それと同時に氷室氏の世間に向けた視線の鋭さ、また周囲への誠実な姿勢と言葉遣いの巧みさを感じました。この言葉に対する感度の高さをもって“他人を自分の思い込みで断定し、決めつけ、相手を息苦しくさせる”者をあぶりだし切りつけることもできるけれども、それを選ばずして(本人の意図は別にして)読み手に気づきを促すところに、彼女の周囲に対する優しさや言葉に対する敬意が表れていると感じたのです。

そんな氷室氏の魅力に惹かれ、私は『いっぱしの女』を手に取りました。コバルト文庫の世界を享受する年代をとうに過ぎた現在、ようやく彼女の文章に触れることになったのです。

『いっぱしの女』の魅力

人にはさまざまな〈忘れられないひとこと〉というのがあると思うのだけれど、ここ数年でいえば、私にとってのそれは「あなた、やっぱり処女なんでしょ」というものだった。

これは『いっぱしの女』の冒頭の一節です。とあるインタビュアーの男性が、氷室氏に対して「少女小説は処女でないと書けないんでしょう」という旨のことを述べるシーンからこのエッセイは始まります。

紙面でこのシーンを取り上げるということはつまり、男から女に向けられた侮辱行為に対する抗議ととれるでしょう。そんなセクシュアルハラスメントに対する彼女の姿勢は、現在の女性蔑視に抗議する動きに通じるものがあります。

しかし私にとってこのシーンはセクハラに対する抗議という意味合いだけでなく、私自身が彼女の小説を読まずして「少女の感情を抒情的に描いた少女小説家」というイメージを彼女にあてはめていたことに対する抵抗のようにも捉えられたのです。本文は以下のように続きます。

私は初対面の人や年上の人と話すときは、必ずといっていいほどデスマス体で話すのだけれど、記事になってみると、それがなんというかキャピキャピの女の子語の会話体になっていたりする。

「少女小説家=キャピキャピの女の子語を話す」というイメージに沿って改変されるインタビューの内容。それは「少女の口語一人称によって語られる」という当時の少女小説作品の多くにみられる特徴が作者と結びつけられた結果といえるでしょう。

この冒頭はあくまで軽やかなリズムの文体で綴られていますが、少女小説家というイメージに自身が当てはめてられる違和感、ひいては「少女小説=少女の口語一人称で語られたもの」だと少女小説を一面的に捉えることに対する違和感や抗議の色がたしかに滲んでいます。

この文章はセクシュアルハラスメントに対する抗議であると同時に、個々人に貼られたレッテルやあらゆる決めつけに対する抵抗という普遍的なメッセージを持っています。

決めつけに抗い個人を尊重する氷室氏の姿勢は本書において最初から最後まで貫かれており、そうした決めつけから自由になる力を読み手に与えてくれます。

氷室冴子の女性観

前述のような個人的体験をベースに、氷室氏は自身の女性観を本編で展開していきます。その中には「少女」「女性」を描き続けた彼女の作品の基礎になっているような思考が垣間見えます。例えば本編「とてもすばらしかった旅行について」では以下の一節がでてきます。

大恋愛をひとつすれば、いい思い出になって、たとえ老人ホームで死んでも、幸せなものよ。ほんとよ。負けおしみじゃないの。思い出はのこるのよ。

このフレーズは氷室氏自身でなく、彼女が出会った老人ホームで一人暮らしをしているという老婦人の口から語られます。

「思い出はのこるのよ」という一言を取り上げるところに少女というやがて過ぎ去ってしまう一時代を緻密に描く彼女の感性が表れているように思えます。

また「老人ホームでひとりで死ぬ=幸せではない」という社会的ものさしから自由にさせてくれるのは、たった一つの個人的な思い出なのだというメッセージからは、レッテル貼りを疎み個人に重きを置いた彼女の姿勢がうかがえます。この切実でいて柔らかいフレーズは、そこに至るまでのストーリーも含め現在の私たちの胸に深く響くものになっています。

また本編「レズについて」で彼女はスティーヴン・スピルバーグ監督の映画『カラー・パープル』を取り上げ、以下のように述べます。

女が女に、その社会的成功や美しさだけではなく、その魂において、いきる姿の強さと凛々しさにおいて、心を揺さぶられるほどの感動をもらい、深く愛してゆくということはあるのだ。

氷室氏は「私の中にも、女への距離感を失わせる甘えと、無頓着さがある」と、女性という集団の中にある差異に目を向ける一方で、上記のように女性そのものに対して強い信頼をおいてます。このような彼女の姿勢は個々人の思考や言動を尊重することと、女性という存在に誇りを持ち大切に思うことは矛盾しないのだということを教えてくれます。

このように『いっぱしの女』で取り上げられているのはスピルバーグの映画や新聞のコラムなど、当時の大衆・時事的な事項です。それらを通して浮かび上がる彼女の思考は無垢でありながら鋭く、「現在」を自身の目でしっかりと捉えている様からは少女小説家・氷室冴子でなく、一人の人としての氷室冴子像が立ち上がります。『いっぱしの女』を通して、きっと読み手は彼女に親しみを覚えることでしょう。かくいう私も氷室氏がどんな小説を書いたのか気にならずにはいられませんでした。

氷室冴子の多様な作品世界

私はさっそく昨年末に刊行された『さようならアルルカン/白い少女たち』を手に取りました。

「さようならアルルカン」は氷室氏が作家としてデビューするきっかけとなった作品で、少女ふたりの関係の変遷が描かれています。女子校が舞台であること、少女がとある一人の少女に対して視線を送り続けるストーリー、少女が少女に惹かれ自身の分身だと思う構造や、情感たっぷりの文体など戦前の少女小説的要素を引き継ぎながらも、真ん中には『いっぱしの女』から窺い知れる氷室氏が生活実感で得たであろう無垢さや優しさ、鋭さがどっしりと構え、根を張っていると感じました。

私はもっと彼女の作品を読んでみたいと思い、嵯峨景子氏の『氷室冴子とその時代』を手に取りました。膨大な一次資料を洗い愛をもって氷室氏の一生を丁寧に綴った本書では、彼女が手掛けた多様な作品たちを知ることができます。

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小鳥遊書房

少女小説のジャンルや作家をパロディ化した『少女小説家は死なない!』、性的な欲望を持つ少女たちを描いた『恋する女たち』、少年を主人公に据えた『冬のディーン 夏のナタリー』……。彼女の作品は『なんて素敵にジャパネスク』のような歴史ものや『クララ白書』のような女子校ものだけでなく、様々な広がりを持っています。

私はこれらの作品を知り、まだ読んでいない本がこんなにもあると、自分にはこれだけの楽しみが待っているのだととてもわくわくした気持ちになり、これだけの作品を遺してくださった氷室氏に感謝しました。

私たちに自由になる力を与えてくれる『いっぱしの女』。この作品によって「少女の感情を抒情的に描いた少女小説家」という私が氷室氏に抱いていた一面的なイメージは壊され、彼女が遺した多様な作品たちによって現在も作り変え続けられています。


1菅聡子編『〈少女小説〉ワンダーランド』明治書院,2008年,21p

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