舞城王太郎「Would You Please Just Stop Making Sense?」 人間存在の価値、言葉の恣意性

『新潮』9月号に掲載されていた舞城王太郎「Would You Please Just Stop Making Sense ?」を読みました。

Twitterでうっかり「感想文書きやすそうだな〜」と書いてしまったのですが、よくよく考えてみると読み解くのが結構難しい作品です。余計なことを書いてしまった……。

この作品から感想を書ける人というのは、作品の抽象的で意味不明瞭な部分から、隠喩や象徴らしきものを取り上げて自分の言葉で説明と増幅を施すことができる人です。残念ながら、僕にはそういう技術が欠落しているような気がします。とは言っても、ここで言い訳をしていてもしょうがないので、思ったままを書いていくことにしましょう。

人間存在の価値

僕がこの作品で最も気になったのは、人間存在の価値に触れている部分です。物語の後半で、過去に蛇の形をして神様が憑いていたませた女の子ジーンが次のように言います。

「でもSF小説じゃなくても、ペシミストじゃなくても、人がこの世にとって善い存在かどうかは判らない……どころか、かなり怪しい存在だって、皆知ってるんじゃない?人間ってこの世のどんな役に立ってるの?」

『新潮』2016年9月号「Would You Please Just Stop Making Sense ?」より

この疑問は、「この世」を「人間」に、「人間」を「個人」にスケールダウンしても、ほとんど同じようなことが言えると思います。人間がこのこの世にとって善い存在かはわからないし、個人が人間にとって善い存在かもわかりません。

人間は、生きていると「どうして生きているんだろう」という疑問にぶちあたることがあると思います。そのとき、それぞれがそれぞれの答えを出すでしょう。でも、僕はペシミストでは決してないつもりですが、一人の人間が生きている意味も、人間が生きている意味も、全くないんじゃないかと思っています。

それは、例えば僕が「両親が悲しまないように」生きているとして、「両親が悲しまない」ことが、「両親が悲しまず元気に生きて人間全体の幸福度」が上がるみたいなさらに大きな意味につながり、それが徐々に連鎖を起こして、最終的な「意味」にたどり着かないからです。別に、僕が生きていなくても、両親が悲しまなくても、人間全体の幸福度が上がらなくても、世界すべてが存在しなくなっても、別に問題はないのです。

ジーンは、上記の質問を投げかける前提として、「私を生んだことがいいことかどうかは判らない」と言っています。一人の人間の価値を想定するとき、彼女のように「人」全体に思いを馳せてしまいがちです。それで問題は解決しないのに。

言葉の恣意性

この作品の中では、言葉の恣意性に関する指摘がいくつかあります。

ヘクターの娘、ジーンは過去に蛇の姿をした神に取り憑かれていたことがあり、ヘクターの危機を伝えるように、次のようなことを言います。

「ヘクターがキャベツ畑で羊の背中に乗って傘をさしてたら隣に町の歯医者さんを見つけるの」

『新潮』2016年9月号「Would You Please Just Stop Making Sense ?」より

ジーンの神託は意味のわからないものでしたが、それでもヘクターは自分の身に危機が迫っていることを感じ取り、逃亡を図ります。

しかし、「キャベツ畑で羊の背中に乗」る状況は、全く別のところにやってきます。主人公であるスポンジ刑事は、逮捕して収容されているはずの図体のでかい女に通路で襲われます。彼女に馬乗りになられて、殴られ、歯を何本も折られて……。

そこで、彼はあることに思い至ります。

 女を見上げ直す。
 女の上に広がる、アパートメントの通路の薄汚れた屋根。
 これが<<傘>>だとしたら?

『新潮』2016年9月号「Would You Please Just Stop Making Sense ?」より

「屋根」が<<傘>>になるのであれば当然、「アパートメントの通路」は<<キャベツ畑>>で、「スポンジ刑事」が<<羊の背中>>となります。

言葉というのは恣意的なもので、たとえば僕らが日本語で「雨(ame)」というとき、そこに必然性はありません。それがある概念を指し示すことができていればいいのです。

そのとき、果たして言葉が先にあるのでしょうか、概念が先にあるのでしょうか。「言葉は生き物」とよく言われます。既存の言葉を踏み台にして概念は拡張され、そして概念にあわせて、新たな言葉が生まれる。鶏が先か、卵が先か。

しかし、ジーンは「ある種の言葉は先にそれがあ」るのだと言います。

「基本的には人がいて言葉を作り出すよね。たまたまの感覚が通じ合った言葉とか、通じ合わせるために探った言葉で、何かを何かと決める。でもある種の言葉は先にそれがあって、それが何かを決める人を必要とするから、言葉自身が探して、その人を見つけるの」

『新潮』2016年9月号「Would You Please Just Stop Making Sense ?」より

ジーンの神託が先にあったとして、それをスポンジ刑事が実体化した。そう考えることも可能です。この神託は、ヘクターに向けられたものでした。その根拠は、ジーンの神託が「ヘクターが」から始まるから。

でも、その根拠も疑わしいものです。その理由は2つあります。

1つは、そもそも「ヘクター」も何か別のことを示唆していることがあるということ。<<ヘクター>>が、この小説の冒頭に登場するジーンの父親たる「ヘクター」を指し示しているとは限らないのです。むしろ、<<ヘクター>>が「ヘクター」であるということを疑わないことの方が難しいでしょう。

もう1つの理由は、そもそも、<<ヘクター>>は「乗る」側の人間であったということ。ヘクターが何かしらの危害を受けるというのであれば、ヘクターは「乗られる」側になければならないはずです。ここでは、<<ヘクター>>は「女」でなければならないはずなのです。

ただし、さらに疑問を進めるのであれば、ここで意味の変換が起こっているのは名詞だけで、どうして<<乗って>>や<<見つける>>がそのままの意味として解釈されているのかという疑問も残ります。

果たして、ジーンの神託は、誰に向けたもので、何を意味したものだったのでしょうか……。

まとめ

舞城王太郎は、十数年のうちに現代文学における重要な作家として研究対象になるのではないかと思っています。もしかすると、卒論などで取り扱っている学生とかいるのではないでしょうか。

舞城王太郎の作品にはファンが多いですが、それだけ謎も多い。謎だらけです。それを作品の独自性と呼ぶのは自由ですが、そこに何かしら権威を持った「批評」が介入することを、僕は歓迎したいと思っています。

知的怠慢なために、僕にはその力がまだありませんが、いつかちゃんと彼の作品に向き合いたいです。その日のために、彼の作品における瑣末な部分を、こうして収集して積み上げていくのです。

記事を共有する

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

CAPTCHA