「文芸誌連載小説のスマホ無料公開」から考える純文学の「流通」について【追記】

『「文芸誌連載小説のスマホ無料公開」から考える純文学の「流通」について』の前編・後編を御読み頂きました皆様、まことに有り難うございました。特に前編は結構広く読んで頂けたらしくて感謝の極みでございます。

原稿を編集様に送信した後に、また二つの関連する話題を思いがけず発見してしまった。特にそのうちの一つは本来ならば本論に含まれていなければならなかったはずの重要な話題である。なので編集様にちょっと無理を言いまして、本論の補助としてさらに新しい記事を書かせて頂けることになった。基本的な前提は『「文芸誌連載小説のスマホ無料公開」から考える純文学の「流通」について』前編・後編から引き継いでいるのでそちらを先に御読み頂けると助かります。

僕が問題にしたいのは繰り返すけれど純文学の「語り方」の問題である。文学に関する専門書などではない、それこそ偶然にTwitterに流れてくるようなネット記事における純文学の「語り方」を検討してみることで、世間一般で純文学がどのように語られてしまっているかを考えてみたいのだ。

 

●前回までの記事
「文芸誌連載小説のスマホ無料公開」から考える純文学の「流通」について【前編】

「文芸誌連載小説のスマホ無料公開」から考える純文学の「流通」について【後編】

芥川賞が文学嫌いを増やす?

①「芥川賞が文学嫌いを増やしている」鴻上尚史が抱く複雑な気持ち
https://nikkan-spa.jp/1374196

上記の記事の理屈はこうである。芥川賞受賞作品は「ずいぶん小説を読んでない人」や「1年に1回だけ小説を読む人」が、話題作だからという理由で手に取るような小説である。しかし芥川賞は小説の筋を重視しない、むしろ筋があるものは受賞出来ないとすらされている。小説をあまり読まない人間が芥川賞受賞作品を読んだって面白くない。かえって自分には文学は駄目だと思わせて文学嫌いを増やしかねない。余り小説を読まない人間が本当に読むべきは直木賞なのに、マスコミは芥川賞こそを盛り上げようとする……

この記事の掲載は2017年の8月7日とのことだ。つい最近である。本屋大賞があり、メディアミックスがあり、芸能人小説があり、ライトノベルがあり、出版社や書店の努力によって色んな小説を読む入口が開かれている2017年に、まさか「ずいぶん小説を読んでない人」や「1年に1回だけ小説を読む人」はまず話題作として芥川賞を手に取るはずである、という理屈が罷り通るとは僕も思っていなかった。

芥川賞と純文学の「流通」

さて今回も改めて「方法」「理念」「流通」の考え方を導入してみよう。

(「方法」「理念」「流通」に関しては前編を参照。)

まず芥川賞受賞作品は筋を重視しない、というのはいわずもがな「方法」の問題である。芥川賞受賞作家達は、直木賞受賞作家達とは異なる手法で小説を書いているということである。そしてそんな普通の人間には難しい「方法」で書かれた小説をやたら持ち上げるマスコミへの批判は「流通」の問題である。

ここで重要なポイントが二つある。まず一つ目は既に触れている通り、この記事が前提にしている「流通」が余りにも時代錯誤であること。芥川賞は確かに今でも話題性を持っているが、その影響力を絶対視するには、本屋大賞でもメディアミックスでも芸能人小説でもライトノベルでも異なる入口が沢山存在してしまっている。綿矢りさや又吉直樹のように爆発的に話題になるのは本当に例外なのだ。

一体、恩田陸の『蜂蜜と遠雷』と沼田真佑の『影裏』のうちで、まず後者に優先的に引っ張られるような「ずいぶん小説を読んでない人」や「1年に1回だけ小説を読む人」なんてどれだけいるのか? いやそれ以前に、きっとみんな書店で大々的に紹介されメディアミックスも行われた『君の膵臓をたべたい』のほうに先に手を伸ばすんではないのか。

芥川賞は直木賞よりも優れている?

そして二つ目は、この記事は一見すると芥川賞の権威を批判しているようであるが、しかし実は従来の芥川賞の「方法」や「理念」への直接的な批判はしていないということだ。

確かに≪小説をよく知らない人の間では、「芥川賞」の方が「直木賞」より優れているという、訳の分からない信仰があります≫とは書いている。しかし一方で筆者は、筋を重視しない芥川賞受賞作品を読むというのは「小説を読み慣れた人が楽しむ領域」であるとして、逆に小説に読み慣れていない人間でも読めるものとして直木賞受賞作品を置いてしまってもいる。さらにマスコミは批判しつつも≪芥川賞そのものの罪でも責任でもなく≫とその存在は素直に容認している。

極めつけはこの文章であろう……≪小説でも演劇でも、そして映画でも、読む順序、見る順序があるのです。/生まれて初めてアート系の映画を見た人が理解できなかったといって、生まれて初めてみた絵画がピカソの絵で戸惑ったからといって、誰も責めません。/芸術には歴史があります。その道をたどって、高みに向かうのです。どんな評論家でさえも、最初から高みにいた人はいません≫これまでの文章を踏まえてこの部分を解釈しようとすると、やっぱり芥川賞受賞作品こそ高みに在るものであって、まずは直木賞受賞作品みたいな低いところから始めるべきだ、という筆者の無意識な順序付けが成立していることになる。ここまで来ると、実は筆者は芥川賞そのものを微塵も批判してなどいないのである。

純文学のネット無料公開は文学嫌いを増やす?

結果的にこの記事は、芥川賞受賞作品=純文学の「方法」や「理念」は一切批判することなく、あくまで悪いのはマスコミなどのイメージ戦略、すなわち「流通」の状況なのだという論旨を組み立てている。しかし肝心の「流通」の捉え方が如何にも時代錯誤なので、かえって筆者の暗黙のうちにある芥川賞信仰が透けてしまっているのが面白い。筋を重視しない小説なんて書いてるから本屋大賞やメディアミックスや芸能人小説やライトノベルに負けて誰も純文学なんて読まなくなるんだ、などとは絶対に言わない。

そして改めて例の『なぜ純文学をヤフーに流すのか? 『新潮』編集長が語る文学、新たな挑戦』の記事に戻って頂きたい。

上田岳弘は「方法」の観点からすれば決して「ずいぶん小説を読んでない人」や「1年に1回だけ小説を読む人」が軽く手に取れるような作家ではないように思われるのだが、こちらの記事はそういった「方法」の問題は一切無視して「文学の力」「文学的想像力」なるものがネットを通じて人々に届くことを目指している。しかし上田岳弘のような玄人向けの小説をYahoo! JAPANで無作為にweb無料公開することは、①の記事の理屈で言えば、偶然にそれを開いた普通の人達を幻滅させて文学嫌いを増やすだけの愚行である、ということになってしまうことだろう。おやおや、この二つの記事は見事に方向性が対立してしまっているではないか。一体どっちの理屈が正しいのだろう?

②『なぜ純文学をヤフーに流すのか? 『新潮』編集長が語る文学、新たな挑戦』
https://www.buzzfeed.com/jp/satoruishido/shincho?utm_term=.at75zywyg#.rlwkav2vG

『ルビンの壺が割れた』

二つ目の話題はもっと重要である。何故本論を書いている間にこれに気付かなかったのか、或いは「前編」が公開された時点で何故誰も教えてくれなかったのか、我ながら悔しい限りである。

以下の三本の記事を読んでみてほしい。

③発売前の本、webで無料公開 新潮社が2週間限定で 担当編集者に聞く
https://withnews.jp/amp/article/f0170719003qq000000000000000W00o10101qq000015596A

④発売前の「すごい小説」を全文公開…異例の試みは成功!?
https://www.houdoukyoku.jp/posts/15264

⑤覆面作家・宿野かほるのデビュー作『ルビンの壺が割れた』8月22日発売。驚愕のラストに大反響
http://top.tsite.jp/lifestyle/magazine/i/36638653/index

宿野かほるという覆面作家が出版社に送った『ルビンの壺が割れた』という作品が、単行本化に先立って新潮社の特設ページで7月14日から二週間web無料公開されていた、というニュースである。この企画は⑤の記事でも紹介されている通り結構な反響を得たらしくて、実際行きつけの本屋でも目立つところに大々的に展開されていた。

因みに上田岳弘の作品がweb無料公開されたのは9月7日。その二カ月も前にはこのような企画が進行していたのである。しかも重要なのは、これがどちらも同じ新潮社の企画であるということだ。別々の部署が知らず知らず偶然同じような企画を立てていたわけではあるまい。一体どちらが先に計画されたのかは分からないが、全く同時的に企画が進行していた可能性も充分ある。

純文学あるいは小説の「語り方

さて問題は、繰り返すが「語り方」である。

上田岳弘の『キュー』と宿野かほるの『ルビンの壺が割れた』……この二つの作品がweb無料公開された目的そのものは恐らくほぼ同じである。すなわちネットを通じた認知度の向上である。一方は純文学作家の新連載、もう一方は覆面作家のデビュー作、正攻法ではなかなか手に取って貰いにくいであろうこの二つをネット空間に解き放つことで、読まれる可能性を引き上げるということ。

にも拘らずこの二つを巡る記事を読んでみるとその「語り方」はまるで違っている。上田岳弘の『キュー』を巡る②の記事では、何故か「文学の力」なる概念が突如として現れて、無理矢理にweb無料公開と結びつけられていた。じゃあその「文学の力」って何なんだよ、という僕の疑念は既に述べた通りだ。

しかし宿野かおほる『ルビンの壺が割れた』を巡る③や④の記事では、当然ながらそんな曖昧な概念は全く現れない。あくまでこのweb無料公開はプロモーション活動の一環であり、紙の本が売れなくなるリスクより、ネットで拡散されたり反響を産んだりして認知度を上げることのほうがリターンが大きいはずだ、という極めて真っ当な判断から新潮社も担当編集者もこの企画を試みている。間違っても「創造的な誤配」などという格好良さげな言葉で誤魔化したりもしない。

そして④の記事では、まさに僕が本文でも取り上げた、電子書籍元年のことやSNSでの拡散についても触れられているではないか! 小説のweb無料公開なんてものは、現代的な「流通」の在り方にようやく旧態依然としていた出版社がまともに追い付いてきただけなのだ、という僕と同じような認識が、ここではちゃんと確認されているのである。

新しい流通と語り方の歪み

Web無料公開という同じ試みを実践したこの二つの企画を巡る「語り方」を見てみると、明らかに上田岳弘『キュー』の企画を巡る②の記事の歪さが際立ってくる。ここでは仰々しく「文学の力」だの「創造的な誤配」だの「文学的想像力」だの「価値観」だのという言葉を並べておきながら、しかしそのくせ最終的には、大事なのは量的な結果ではなくて一人一人の読者の心に響くことなのだ、みたいなごく消極的な結論に達してしまう。

ここには先に紹介した記事における「芥川賞が文学嫌いを増やす」という強引な理論とも通じてくる決定的なジレンマ、すなわち純文学も沢山の人に読んでほしいけれど、純文学は高度な「方法」や「理念」を持つ小説であって軽々しく「流通」するべきではない……というとても面倒臭く捻くれたジレンマが浮き彫りになってくる。だから『ルビンの壺が割れた』を巡る③や④の記事のような、現代の環境に合わせて新しいプロモーションやマーケティングに挑戦してみました、皆さん是非ともこの小説を読んで下さい、単行本も一緒に買って下さい、というごく素直な「語り方」をすることが出来ない。かといって現代の状況に合わせた新しい「方法」や「理念」が確立しているわけでもないので「文学の力」なる曖昧な言葉が普通に出てきてしまう。

ほんの小さな一歩とはいえ純文学が新しい「流通」を試みた結果、かえって純文学の「語り方」が如何に歪んでいるかというのが明らかになる、というのは皮肉な話である。

純文学と一般文芸の間の溝

それにしても、web記事にしてもTwitterにしても、何故『キュー』を巡る話題に関して『ルビンの壺が割れた』が全然引き合いに出されないのか……というのは気になるところだ。

10月4日現在、試しにGoogle検索で「キュー ルビンの壺が割れた」と入力してみても、この二つを結びつけているようなものはこれといって見当たらない。Twitter検索で「キュー ルビンの壺」で入力すると、引っ掛かるのは僕自身の呟きが一つである。気付いている人間はいるはずだが、僕の観測範囲では見当たらない。

例えば偶然見つけた下記の⑥の書評では、『キュー』の試みを「画期的」と肯定的に評価したうえで、前例として筒井康隆や阿部和重を挙げてはいる。しかしやっぱり『ルビンの壺が割れた』の試みには触れられていない。≪先に「画期的」と書いておいたが、しかし私は今回の試みのどこがどのように「画期的」なのかを実はまだよくわかっていない。おそらく上田や「キュー」にかかわる人たちにとっても手探り状態なのではないか≫と筆者は述べているけれど、少なくとも新潮社はその二カ月前には『ルビンの壺が割れた』で同じような試みでそれなりの成果を挙げているはずなのだ。

文芸時評を書くような専門家ですらこの二つを結びつけない。純文学とそれ以外との一般文芸との間には、つくづく溝というか壁というか、そういうものがあるような気がする。同じ出版社による同じような試みであっても、この二つは切り離されてしか語られることがない……

⑥文芸時評 上田岳弘「キュー」 今村夏子「木になった亜沙」 佐々木敦
http://www.tokyo-np.co.jp/article/culture/jihyou/CK2017092802000306.html

まとめ

さて『「文芸誌連載小説のスマホ無料公開」から考える純文学の「流通」について』の一連の記事はここで一区切りとさせて頂きます。純文学って何だろう、どういうふうに語ればいいのだろう、ということについて皆様に少しでも考えて頂けたなら幸いです。

実はもう一つ純文学の「語り方」において非常に重要な記事を発見してしまったのですが、そちらはまたいずれ機会を改めて。ではでは。

➆報告2017.10.3/神戸
http://lousismlousism.blog.fc2.com/blog-entry-98.html

宣伝までに当サークルのブログ記事を貼っておきましょう。

今回のような記事を寄稿するに到った根本のモチベーションがあるとしたら、漫画分野がいよいよ懐の広い「流通」経路でもって可能性を広げていくなかで、小説分野の「流通」が出遅れていること、特に純文学に到っては未だに「理念」を振りかざしながらかえってどんどんと自閉していく状況に、そろそろ僕等草の根にあたる人間が自覚するべきではないかという危機感があります。こういう問題意識が少しでも広く共有されればいいな、とは思っております。神戸の旅徒然はおまけです。ではでは。

⑧「書きたい人1000万人」ネット小説は鉱脈 投稿、倍々ゲーム 評価見ながら執筆も
https://mainichi.jp/articles/20170926/dde/012/040/003000c?utm_content=buffer22fe1

次回はこの記事を取り上げる予定です。のんびりお待ちください。

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