外へ出られないから読書がしたい! ――『ペスト』のほかに読んでおきたい作品――

新型コロナウィルスが猛威を振るうなか、仏ノーベル賞作家アルベール・カミュの小説『ペスト』(1947)が再評価されている。『ペスト』は、疫病の蔓延でパニックに陥ったアルジェリアを舞台に、医師リウーの奮闘を描いた作品。いまこれを読み返せば、未曾有の事態に戸惑うオランの人々や、怠慢な政府の役人に訴えを退けられてしまう医師の姿に、目の前のコロナ騒動と近似した結節点を見出すことができる。

このように、何らかの出来事をきっかけに埃をかぶっていた古典が再発掘され、読み返されることがある。リーマン・ショック以降ワーキング・プアの問題が取り沙汰されると小林多喜二『蟹工船』が忽ちベストセラーになったことは記憶に新しい。もちろん、こうしたブームの火付けには出版社も一役買っており、そこには商業的な背景もあるのだが、だからといって名作を退蔵したままにしておくのはもったいない。この窮屈な日常をやり過ごすためにも『ペスト』のほかに読んでおきたい作品を紹介してみたいとおもう。

結核とハンセン病が描かれた転向小説 島木健作『癩』(1934)

created by Rinker

独房で肺結核を患い、ハンセン病者を収容する牢獄に転房させられた思想犯、太田。そこは監獄の中にある感染病棟という、いわば「二重の隔離施設」だった。看守と健康な囚人たちから蔑まれる日々を送りながら、これまで奉じてきた日本共産党への信念はしだいに揺らいでいく。そうした心理状態がパニック障害の発作にあらわれ、太田を襲うのだった。太田は、ハンセン病に見舞われたかつての同士「岡田良造」と獄中の再会を果たすが、病気で姿が変わろうとも己の信念を貫く彼の態度に憧れを感じる。獄中の闘病生活において岡田が生のエネルギーを発露し続けるのに対し、太田の病態は悪化の一途を辿り、最後は担架で運ばれてしまう。薄れゆく意識の中で太田が最後に見たものは、自分を見送る岡田の顔であった。

島木健作のデビュー作となった『癩』は、当時の文脈では獄中における転向文学として読まれていた。転向文学は、共産党員を弾圧する「三・一五事件」が起こった1928年から増えはじめ、官憲の拷問で小林多喜二が虐殺された1933年より隆盛を極めていったが、『癩』もその延長線に数えられる。しかし、アクチュアルな視点から『癩』を読み返せば、まぎれもなく結核とハンセン病を扱った作品といえる。ハンセン病は、伝染の可能性が著しく低い病にもかかわらず、無知な政府の隔離政策により謂れなき差別を生んだ歴史があり、感染者は「一度ここへ来たからにゃ、焼かれて灰にならねえ限り出られやしねえ」という作中の言葉通りの人生を送った。結核の描かれ方についも、同時代の――例えば、堀辰雄らに代表される「結核文学」が美化された悲恋であったのに対し、『癩』では圧巻のリアリズムが貫かれるなど一線を画している。『癩』は鬱屈した太田の心境や、泰然とした岡田の姿を通して、私たちに「目の前の死や病気とどう向き合うべきか」を考えさせてくれる名作だ。

ペスト以上の風刺をたたえる芥川賞作家の出世作 開高健『パニック』(1957)

秋をむかえた日本ではおよそ百年ぶりに笹が一斉開花し、見事な実を結んだ。同時にその実を食いあらす害獣が大量発生した。この春より増え始めたネズミである。県庁の山林課に勤める俊介は、この事態を冷めた目で俯瞰していた。というのも、笹の結実に伴う鼠害は1年前より予測できたからである。俊介はかつて企画書を課長に提出したが、聞き入れられることはなかった。ネズミの大群が街に押し寄せると、日本中がパニックに陥った。俊介は出世のために様々な対策を講じるものの、どれも失策に終わってしまう。国民や野党から批判を受けた政府と役所は、責任のなすりつけ合いに腐心するばかりだった。ネズミの集団入水という自滅によって騒動は収束し、都庁への栄転が決まった俊介はまた元の日常に戻っていく。

開高健の出世作となった『パニック』は純文学というより、源氏鶏太らのサラリーマン小説にちかい。組織に揉まれて生きる人間の性や、集団原理に伴う不合理が、読みやすい文体で皮肉たっぷりに綴られるからである。対策委員会の中心人物に抜擢された俊介は国費を投じた数々のプロジェクトを推進していく。そのひとつにイタチを野に放つことでネズミ駆除を試みるという計画がある。しかし、イタチを回収して売り飛ばそうとする狡猾な者が現われ、利用されてしまうのだ。事態は「対策のための対策」を要するといった混沌にもつれ込んでいく。こうしたエピソードには、コロナ禍におけるマスクやトイレットペーパーの「転売」を想起せずにはいられない。人々のあいだに伝染病の噂が蔓延するなど「心理的なパニック」へ移行していく過程にも絶妙なリアリティーがあり、氾濫するネズミのイメージに「大衆のエネルギー」を重ねて読み解くことも可能である。歯止めのきかなくなった鼠害に山林課が打った最終手段は、鼠害収束を告げるデマで「情報操作」を試みるという暴挙であった。アベノマスクが山林課の対策のようにまったくの無意味にならないことを祈りつつ、コロナ休暇やテレワークの合間に是非とも読んでおきたい作品である。

健康押しつけ社会の恐怖を描いたSFの金字塔 伊藤計劃『ハーモニー』(2008)

2019年、世界各地で戦争が勃発し、未知のウイルスが拡散する「メイルストローム」が発生。従来の政府は崩壊し、生命主義を掲げる「生府」が成立する。生府の基盤となったのは「メディケア」と呼ばれる高度な医療技術。人々は体内にナノマシン「WatchMe」を埋め込まれ、医療サーバーを介して病気とは無縁で過ごせるかわりに、生府に監視されて生きていく。これにあらがう3人の女子高生「トァン」「ミァハ」「キアン」は集団自殺を試みるが失敗。凄腕のハッカーだったミァハだけが死に、主人公であるトァンと、親友のキアンは生き残る。13年後、メディケアをハッキングした大規模な同時多発テロが発生。キアンを含む6,582人が一斉に自殺させられる。WHOの監察官となったトァンは、このテロの背後に死んだはずのミァハの気配を感じ、調査を進めていく。やはりミァハは生きていた。チェチェンで再会を果たした両者は、命の尊厳をめぐって対立する。

伊藤計劃最期の作品となった『ハーモニー』はいわゆる王道のディストピア。ザミャーチンの『われら』(英訳1924)、ハクスリーの『すばらしい新世界』(1932)、オーウェルの『一九八四年』(1949)の系譜に数えられる「技術の進歩が社会から人間性を抹殺してしまう」というテーマを扱った作品である。そこには高度な医療技術社会という、現在を生きる私たちが容易に想像できそうな未来が描かれている。事実、私たちは意識が無くなろうがチューブに繋がれて延命することが一般的であり、命の選択権を握っているのは機械である。一方で、健康という価値観を信奉し、嫌煙運動に従事し、オーガニックな食品を選択し、体重が増えることに怯え、体に悪いものを排除して生きている。作中の年代は2019年。その1年後を生きる私たちの体に、まだナノマシンは入っていない。しかし、コロナウィルスによる過剰ともいえる社会全体の健康志向の昂ぶりと自粛警察を見ていると、この小説に近しい未来がそう遠くないうちにやってくるだろうと気付かされる。癌と戦いながら創作を続けた作家の魂がこもった力作に思いを馳せてみたい。

窮屈な日常にこそ読書を

島木健作『癩』には死や病気とどう向き合うべきかが描かれ、開高健『パニック』には自然の脅威に対峙したとき人々がどのような行動を取るかが描かれ、伊藤計劃『ハーモニー』にはその先にどのような未来が拓かれていくのかが描かれていた。これらはコロナウィルスとはまったく無関係な文脈から生まれた作品である。しかし、どの作品も切り口が広く、多様な読み替えを可能としている。いま、これらの作品を読み返せば『ペスト』同様にまったく違った印象を受けることだろう。

コロナウィルスの影響により、様々な行動に制約がつきまとうが、幸い読書にいたっては推奨されている。岩波書店や角川書店が電子書籍の無償公開に踏み切ったのを皮切りに、数々の出版社が電子書籍や索引データベースを解放している。また、ここに取り上げた開高健『パニック』は電子書籍で、島木健作『癩』は青空文庫で読むことができる。青空文庫は著作権の消滅した文学作品を扱った電子図書館であり、良質な古典文学の宝庫である。コロナは誰もが大いに読書を楽しめる機会でもあるのだ。

記事を共有する

ABOUTこの記事を書いた人

アバター画像

2015年、文学修士号取得。 クライアントの意向に沿って商業や美容に関する文書を作成するゴーストライター。生計を立てるためにビジネス文書を作成しながら、生きていくために好きな文学のことを書きたい。