鉄道と文学 10月14日は鉄道記念日

 10月14日は鉄道記念日。今回は日本文学の鉄道描写をとりあげる。なお、引用文はすべて現代仮名遣いにあらためた。

1.鉄道史と文学史

 1872年10月14日、日本初の鉄道、新橋―横浜間の〈開業式〉が行われた。出発の汽笛が鳴ると、海上に配備された軍艦は祝砲を放ち、晴空には花火が輝いた。黒煙を巻きあげ、巨大な鉄塊が鉄の軌条を駆けぬけていく。人力に頼らずとも蒸気の力で走行するその雄姿は、西洋風に髪を切り落とした明治の観衆を熱狂させた。〈断髪脱刀令〉の一年後に執り行われたこの式典は〈明治維新〉を代表する最大級の国家的行事である。〈散切り頭〉と同じく〈鉄道〉は〈文明開化〉のシンボルだ。明治天皇を乗せた車両は、横浜駅(現在のJR桜木町駅)に到着する。線路は遙か海の果て、かつて〈ペリー〉によってこじ開けられた横須賀浦賀の航路に繋がっていた。汽車は欧米を目指してスタートを切った。このときの機関士はイギリス人。車体はもちろん、動力となる石炭も英国からの輸入品だ。新政府は先進的な舶来の文明を導入することで日本の近代化を図った。むろん、倒幕後も〈攘夷〉という排外的な価値観は根強く残っていた。しかし、官設と民設を繰り返して凄まじいまでのスピードで伸長した鉄道網は、旧来の制度を解体するのに充分な流動性を備えていた。〈士農工商〉という旧いしきたりのレールから〈立身出世〉という上り線に乗り換えることができる。革新的な交通手段は物流を発達させ、沿線の産業を拡大し、生産力と労働の担い手を要求しながら、人々の移動を加速させた。地理的な移動と同時に、社会的な階層移動が可能になった。田舎の若者たちは汽車に乗って村落を発ち、東京をめざす。学問を修めることで立身出世を夢みた。

 このころから、文学史と鉄道史が連結していく。近代文学の作家は〈鉄道〉を恰好の題材として、いちはやく文学に取り込んだ。プラットフォームは出会いと別れのロマンティックな磁場を形成し、車窓の風景は旅情や郷愁を喚起する。漱石の坊っちゃんと清との別れの場面が代表である。「軽便鉄道」の「マッチ箱」のような機関車は、無情にもふたりを引き離す。「ご機嫌よう」と見送る清。その目には涙が一杯たまっていた。車窓から見える清の姿が段々小さくなっていく。伊予鉄道によって「坊っちゃん列車」が復元されるほど人気のある場面だが、その結末も教員から〈鉄道技師〉に職替えして再び清と暮らしていくというものだ。『坊っちゃん』に限らず、冒頭や結末に鉄道描写を配した文学作品は多い。新感覚派の文体は「特別急行列車(横光利一「頭ならびに腹」)」と「国境のトンネル(川端康成『雪国』)」から出発したともいえるし、「ジョバンニとカムパネルラの旅」(宮沢賢治『銀河鉄道の夜』)も鉄道なしには成立しない。これから紹介するのは日本文学に乗せられた新旧さまざまの鉄道に関する描写である。

【参考文献】
・西山正『サヨナラ国鉄 鉄道の社会史』毎日新聞社,1987年5月

2.近代文学に敷かれるレール

二葉亭四迷「平凡」 ——柵が走る、家が走る、平屋が走る——

 文章には、日常会話をつかったリアルな〈話し言葉〉と、平安時代より継承された美麗な修辞を用いる〈書き言葉〉がある。倒幕後は両者のズレが一層深まってしまった。そこで、小説の文体を戯作的な文語調から日常的な口語調に改める〈言文一致運動〉が起こる。〈言文一致体〉で書かれた二葉亭四迷の出世作『浮雲』(1887~1891年)は、今でいうエリート官僚が失業のために上昇志向の強い女にフラれてしまうという悲恋の物語である。出世コースを脱線したらどうなるかを日常語で追求し、階級社会の通弊を浮き彫りにする筋立てには、ロシア自然主義文学の受容が反映されている。『浮雲』に登場するのは、まだ〈車夫〉のいる風景である。一度目のロシア行きから帰国後、朝日新聞社に配属された二葉亭は同紙に「其面影」(1906年10月~12月)と「平凡」(1907年10~12月)を連載する。どちらにも汽車が登場するが、「平凡」の鉄道描写は痛快である。引用は、中学を卒業した「私」が上京する場面である。

 やがて発車の時刻になって、汽車に乗込む。手持無沙汰な落着かぬ数分も過ぎて、汽笛が鳴る。私が窓から首を出して挨拶をする時、汽車は動出して、父の眼をしょぼつかせた顔がチラリとして直ぐ後になる、見えなくなる。もうプラットフォームを出離れて、白ペンキの低い柵が走る、其向うの後向の二階家が走る、平屋が走る。片側町になって、人や車が後へ走るのが可笑しいと、其を見ている中に、眼界が忽ち豁然と明くなって、田圃になった。眼を放って見渡すと、城下の町の一角が屋根は黒く、壁は白く、雑然と塊まって見える向うに、生れて以来十九年の間、毎日仰ぎ瞻たお城の天守が遙に森の中に聳えている。ああ、家は彼下だ……と思う時、始めて故郷を離れることの心細さが身に染みて、悄然としたが、悄然とする側から、妙に又気が勇む。何だか籠のような狭隘しい処から、茫々と広い明るい空のような処へ放されて飛んで行くようで、何となく心臓の締るような気もするが、又何処か暢びりと、急に脊丈が延びたような気もする。/ こうした妙な心持になって、心当に我家の方角を見ていると、忽ち礑と物に眼界を鎖れた。見ると、汽車は截割ったように急な土手下を行くのだ。

(二葉亭四迷「平凡」『東京朝日新聞』1907年10~12月)

 主人公は三十九歳の元文士「私」。作中の師は坪内逍遙で、ライバルは田山花袋。二葉亭自身をモデルにした私小説だが、上京の経緯が違っている。1881年に二葉亭は名古屋から東京外国語大学に上京したが、このとき東海道線は開通していない。当時の鉄道は新宿―横浜間、北海道内を結ぶ札幌―小樽間、京阪神のごく一部に限られた。東海道線の開通はそれより8年後の1889年になる。作品発表時の1907年には開通していたが、そのまま書けば作中年代とは大きなズレが生じてしまう。だから「私は地方生れだ。戸籍を並べても仕方がないから、唯某県の某市として置く。其処で生れて其処で育ったのだ」と語り手によって誤魔化す必要がでてくる。そうすることで自身をモデルにしつつも、鉄道という清新な題材を作品に引き込むことができる。

 上京にまつわる家族のドタバタ劇の可笑しさもさることながら「もうプラットフォームを出離れて、白ペンキの低い柵が走る、其向うの後向の二階家が走る、平屋が走る」「人や車が後へ走る」という表現が美しい。走っているのは汽車のほうだが、語り手は車窓から見える風景をスピード感あふれる言文一致体で鮮やかに走らせる。そのとき車体と一緒に揺れているのは、景色を眺めながら心細さを感じたり、気が勇んだりしている「私」の心である。「平凡」は、花袋らの自然主義文学に対抗して書かれたとよく言われる。しかし、創作上の優れた鉄道描写を見ていると、奇しくも同じ新聞社に入社して『坊っちゃん』を上梓したばかりの漱石への対抗心もあったと思わずにはいられない。

「平凡」から半年後、二葉亭は既に作中に鉄道を走らせていたトルストイやチェーホフ等、彼の偏愛したロシア作家の地へ再び赴くことになった。

【参考文献】
・中村光夫「其面影」「平凡」(『二葉亭四迷伝』講談社,1966年6月)

二葉亭四迷「旅日記 東海道線」 ——みな言うところの心友だ——

「旅日記 東海道線」は、二葉亭四迷のロシア行きの様子を伝える紀行文である。はじめは「入露記」というルポルタージュのようなタイトルで新聞に連載されたが、改題されたように「旅日記」といったほうがふさわしい。『現代日本紀行文学全集 中部日本編』(ほるぷ社1976年8月)に収録されたり、『鉄道紀行文学を楽しむ』(響林社2013年1月)でオーディオブック化される等〈鉄道紀行文学〉としての人気が高い。言文一致体で近代小説の礎を築いた二葉亭は、鉄道紀行文学の開祖でもある。同時代の紀行文では田山花袋の『日本一周』(博文館1914年4月~1916年8月)が有名だが、「旅日記 東海道線」はその先を行っている。本作は新橋駅から「汽車」に乗る場面にはじまり、大阪を経由し、神戸で「船」に乗るところでおわる。言ってしまえばそれだけの話なのだが、旅の高揚感が伝わってくる心地よい紀行文である。

 社命を畏こまって雲の彼方の露都を志し六月十二日雨持つ空の何となく湿っぽい夕弱妻幼児親戚の誰彼、さては新知旧識のなつかしき人々に見送られ新橋より大阪行の客となる。(中略)大阪本杜で打合せを済まして大阪へ着いた日に又大阪を立って後藤男を迎える為に敦賀へ行った。敦賀にはなつかしき人が数名居る、皆謂う所の心友だ。久振りだとかいって此人々にさる旗亭へ招かれて大に飲んだ。十七日午前七時九分大阪発、村山社長素川君等見送られる、三ノ宮で下車すると僕と形影相追随するが如き長田君ステーションで僕を迎えて呉れた。僕の交遊は寧ろ寡いが、有る所は皆親友で皆此の如く信切に世話して呉れる。僕は薄運だと人もいい僕もおもうけれど、此点を思うと必ずしもそうでない。

(二葉亭四迷「入露記」『東京朝日新聞』1908年7月8~14日)

「新知旧識のなつかしき人々」に見送られ、隣席したロシア人「チョールヌイ君」と対話したり「後藤新平」と出会った感銘を大袈裟に綴るなど、とても「社命を畏こまって」いるとは思えない調子で書かれている。特派員としての「社命」にはむろん日露戦争後の現地調査という国家的な役割も含まれていたが、当の二葉亭はそうした役割をいっさい放棄するつもりでいた。もともと不平等条約を締結させたロシアを討ち取ってやろうとロシア語に学んだが、トルストイに心酔するようになったのである。悪政ツァーリズムと闘うロシア自然主義文学は二葉亭をナショナリストにこそしなかったが、後のプロレタリア文学作家らの同文学受容に比すれば思想と筆致の両面でオプティミズムが目立つ。彼が褒めちぎった後藤新平はこのとき南満州鉄道株式会社の総裁に赴任している。二葉亭にロシア文学受容によるヒューマニズムや社会主義の萌芽を読み解く評価もあるが、それはどうにもむずかしい。むしろロシア文学への無垢なる探究心のほうが勝っていたといえるだろう。だからこそ、深刻さの捨象された本作はまるで海外旅行に出かけるような高揚感のみを読者に伝え、名文とされる。とくに「心友」という表現に着目したい。心の友と書いて親友と読ませたのは、二葉亭がはじめてだ。その心友との再会を繋いだのは東海道線である。高揚感に満ち満ちた鉄道の旅はすこしの「社命」も感じさせないばかりか、わずか1年後に遺骨となって還ってきた「薄運」を簡単には信じさせない。

【参考文献】
・志賀直哉、佐藤春夫、川端康成 他監修『現代日本紀行文学全集 中部日本編』(ほるぷ社1976年8月)
・中村光夫「ロシア語とロシア文学」「戦後のロシアへ」(『二葉亭四迷伝』講談社,1966年6月)

3.新感覚派とプロレタリアの車両比較

横光利一「頭ならびに腹」——石のように黙殺された——

 真昼である。特別急行列車は満員のまま全速力で馳けていた。沿線の小駅は石のように黙殺された。

(横光利一「頭ならびに腹」『文藝時代』金星堂,1924年10月)

 この冒頭の一文によって新感覚派は出発したといってよい。いかにも速そうな擬人法の文体が、同時代の文壇を馳けていった。掲載された『文藝時代』の発起人は川端康成。彼もまた「国境のトンネルを抜けると雪国であった。夜の底が白くなった(川端康成『雪国』創元社 1937年6月)」という書き出しの美しさで知られるが、新感覚派のふたりとも冒頭の鉄道描写で知られるのは興味深い。とりわけ横光の場合は創刊号を有名誌にしたことで新感覚派の代表とされる。新感覚派の名付け親は千葉亀雄。同人らが名乗ったわけではないため、その定義は曖昧でむずかしい。一方、小説のあらすじは単純である。列車の中で乗客の目も気にせず歌う「小僧」が登場する。最初はみな笑っているが、堂に入った調子で歌い続けているので乗客の方も小僧を気にしなくなる。とつぜん列車が停止した。線路の故障があったとアナウンスが響く。乗客らは口々に喚くが、小僧はまだ歌っていた。駅員がやってきて〈これから来る迂廻線の列車に乗り換えるか〉〈このまま急行列車のなかで線路の復旧を待つか〉の選択を迫る。さて? 乗客はどちらが早いかを天秤にかけた。だれも賢くないので答えは出ない。するといかにも小賢しそうな男が出てくる。

 そのとき、彼らの中に全身の感覚を張り詰めさせて今迄の様子を眺めていた肥大な一人の紳士が混っていた。彼の腹は巨万の富と一世の自信とを抱蔵しているかのごとく素晴らしく大きく前に突き出ていて、一条の金の鎖が腹の下から祭壇の幢幡のように光っていた。/彼はその不可思議な魅力を持った腹を揺り動かしながら群衆の前へ出た。そうして彼は切符を卓子の上へ差し出しながらにやにや無気味な薄笑いを洩して云った。/「これや、こつちの方が人気があるわい。」/すると、今迄静っていた群衆の頭は、俄に卓子をめがけて旋風のように揺らぎ出した。

(「頭ならびに腹」同前)

 圧巻の描写である。彼の煽動のために列車は空っぽになったが、小僧はいつまでも歌っていた。結局、先に着いたのは自由気ままに歌う小僧ひとりを乗せた列車だった。

 文体と新感覚の定義に目が行きがちだが、もっぱら「鉄道と文学」という視座に立てば、予測不能な事態に翻弄される車内の痴愚を風刺した作品といえる。発表年代に注目すると「頭ならびに腹」の約1年前にあたる1923年9月1日、日本は未曾有の事態に見舞われている。関東大震災。その規模はマグニチュード7.9と推定され、死者105,385人、全焼失家屋293,387戸に至らしめる甚大なものだった。正午の約2分前に起きたため、台所の火が関東全域に延焼したのである。当然、文壇にも鉄道業界にも激震が走った。

 文壇では短編「恐怖」(「大阪毎日新聞」1913年1月)で鉄道恐怖症を表明していた谷崎潤一郎や直木三十五が関西に移住した有名なエピソードがある。

 この地震により、運行中の列車は転倒、駅舎、線路、立橋、トンネル、676㌔の区画に及ぶ鉄道設備が壊滅。新宿駅を中心に日本全域に血管のようにめぐらされた鉄道網は、心臓部のダメージにより機能を停止した。停止した時間の中で人々はパニックに陥り、野蛮化していく。翌日には根拠なき流言が新聞紙面を埋め尽くし、すぐに戒厳令が布かれ、人々は自警団を結成した。だが、その過程に必ず先導者があったことを忘れてはならない。

 隊長らしいのが「敵は今幡ヶ谷方面に見まわれた」云々と号令しているので私はその将校を捉えて「敵とは何か」と質問したら「朝セン人だ」と答えたで私は更に「朝セン人が何故敵か」と問うたら「上官の命令だから知らぬ」と答えた。

(「敵は朝セン人だと上官が命令した」『読売新聞』1923年10月22日)

 このとき上官の命に背いた一兵卒、越中谷利一には除隊処分が下っている。ほか、小川未明の「計らざる事」(『改造』1923年11月)には、芸術家の男が自警団を煽動して一人の青年を追い回す狂気の風景がスケッチされている。震災1年後に発表された「頭ならびに腹」も、こうした時代背景を読み込んだテクストである。横光は列車事故に伴う発作的なパニックを通して、先導者たる資本家に引きずられる乗客と、歌い続ける小僧を対比させた。同時代のプロレタリア文学に通底する構図を持っているが、全てを黙殺して高らかに歌いあげる小僧はマルキストの器におさまらない。小僧は社会秩序とは無縁の存在であり、いっさいの合理性を棄却したダダイストである。この創刊号をひっさげて『文藝時代』一派は、震災以降の遅滞した時代精神や〈既成文壇〉の描いている文学の流行遅れを痛烈に風刺した。

 最後に、新感覚派が鉄道なしには生まれなかった事実と、語り手と小僧だけがこの列車を楽しんでいる事実を再確認しておく。語り手がこれほど魅力的に風景を描写しているのに、乗客らは時間効率ばかり気にしている。それでは鉄道は楽しめない。そもそも急行列車は時間の節約の手段ではなく、石のように黙殺される風景を楽しむためにある。ダイヤルに囚われて急行のスピード感や車窓の風景を楽しめない乗客に、はたして有効な時間の使い途があるとは思えない。

【参考文献】
・内閣府「被害の全体像」(『災害教訓の継承に関する専門調査会報告書』2006年7月)
・越中谷利一「関東大震災の思いで」(『越中谷利一著作集』東海繊維経済新聞社1971年6月)

平林たい子「敷設列車」 ——当事者以外の者の磁力によって動かされた——

 文学も鉄道も過酷な戦時体制の中に糾合され、利用されていくことになる。その代表例が、二葉亭の紀行文に出てきた「後藤新平」を総裁とした「南満州鉄道株式会社」だろう。1906年、ロシアから譲渡された満州に設立された同社は、鉄道と鉱工業を中心に一大コンツェルンを形成していく。このとき線路の敷設工事にあたったのは「苦力」と呼ばれる中国の労働者であった。『文芸戦線』同人で知られる平林たい子「敷設列車」(『改造』1929年12月)は、洮南―昂昂渓間の敷設工事の様子を克明に描き出す。

 十封度もハンマーを振上げて一日犬釘打ちをやった工夫達は体の関節関節が錆びた機械の様に軋む様な気がしていた。

(平林たい子「敷設列車」『改造』1929年12月)

 ボールト(補足、ボルト)掛りは軌条の継ぎ目で背をかがめてボールトを、引っ掛けたスパナー(原文、スナパー)で締めて行くのである。それは、楽に出来得るだけの能力でやっておけばいいというわけには行かなかった。腰が痛む。目が霞む。掌のマメが擦れる。一分間に十米進む先頭の敷設車との距離が少し長くなったと思うとすぐ現場監督が近づいて来る。後から犬釘(補足、スパイク)打ちが追って来る。しかし、犬釘打ちも後の曲線直しに追いつづけられた。そしてまたその曲線直しも水準作業に追いつづけられた。最後の仕上げをやって行く水準作業は後で追うものがないにも拘らず曲線直しとのあいだに伸びる距離をちぢめるために焦った。それらは、皆、そこに働く当事者以外の者の磁力によって動かされた。彼等は大きな磁石の下に吸いよせられた鉄粉の様なものであった。個々の鉄粉達の動きは即ち一つの磁石の動きだったのである。

(「敷設列車」同前)

 特定の主人公のいない蟹工船のような客観小説で、登場するのは線路の敷設工事を行う苦力たち、彼らを監督する日本人たち、夜になると生存競争を始める大量の「鼠」である。鼠は労働現場における〈ラット・レース〉の象徴であるが、この作品ではさらにひとひねり加え、人間の身体を「機械」や「鉄粉」等の無機物にたとえる。一方で、無機物である列車の描写を横光利一のように擬人化する描写が随所に見られる。

・敷設車はもう石炭をたいて競技前の競馬馬の様に出発をあせった。
・短く切断されている列車は、生命を吹きかえした様に、頭の上から煙を放散し、脇腹から蒸気を勢よく吹き出した。
・しかし、列車は髭の様に散る黒煙を吐いて居丈高に出発した。それは充ちあふれる戦闘意志をもった戦闘艦の姿に見えた。

(「敷設列車」同前)

 横光の描く「特別急行列車」は「満員のまま全速力で馳けていた」。一方、平林の描く「敷設車」は「石炭をたいて競技前の競馬馬の様に出発をあせっ」ていた。車両を並べてみるとそっくりそのままの書きっぷりである。この客観小説という手法自体、対立関係にあった〈戦旗派〉小林多喜二「蟹工船」(『戦旗』1929年5月~6月)の模倣であり、文体は同じく対立関係にあった横光の模倣であるから、二重の模倣をやったわけである。ひるがえって、戦旗派の〈リアリズム〉と横光の〈形式主義〉を連結させることで止揚を試みたテクストである。もちろん「敷設列車」は模倣にとどまらず、独自の路線に転じていく。満鉄というジャーナリスティックな舞台を背景に、植民地における支配と被支配の力学的な構造を暴く壮大な作品である。錆びた機械にたとえられる苦力の体を、磁力のように操っているのは誰なのか。むろん苦力を監督する日本人ではない。それは現場監督「江ノ島」が苦力を銃で撃つ場面によくあらわれている。

 ここはどこだ。蒙古か。そして俺は。彼ははじめて、その男を×つ必要が自分自身の内部には何んにもなかった事に気がついた。自分の存在が砂の様に崩れた。そして鉄骨の様に心に残ったものを明に見た。ああそれは自分自身の意志ではない。それは誰かの――たしかにそれは自分自身を雇っている×鉄道株式会社の全苦力に対する意志である。彼は自分に対する恐しい距離の様なものを感じた。彼はひょろひょろと歩き出した。

(「敷設列車」同前 ※伏せ字部分はそれぞれ「撃つ」「M鉄道株式会社」)

 これまで彼は自分の力によるものだと思い込んで、苦力たちを従属させてきた。しかし、苦力を撃ったとき「ここはどこだ」「そして俺は(だれだ)」という根本的な懐疑がうまれ、「ああ」と気づいてしまう。「俺」は雇用主の意志に従属する労働者に過ぎなかった。雇用主の意志が自分の意識にすりこまれ、とっさの行動に現れてしまった。それは働いているうちに内在化されていた満鉄のイデオロギーだった。苦力も、現場監督も、列車でさえ「当事者以外の者の磁力によって動かされ」ていた。
「江ノ島」の知覚した植民地における支配と被支配の関係に、プロレタリア文学で培ってきた労使関係を持ち込むことによって、語り手は社会の力学的構造を炙り出そうとする。現場監督らを支配者ではなく、一労働者として表象したところに平林の鋭い観察眼が光る。その目は彼らの背後で糸を牽く大いなる力を看破し、だからこそ満鉄という巨悪を直接描写せずに現場だけを描いてみせた。これまで、同時代の二大潮流として新感覚派とプロレタリア文学は全く違うジャンルのように読まれてきた。しかし、比較してみると両文学は軌を一にしており、互いの表現を持ち込みながら、どちらが巧く同時代の問題を描出できるか競走していたように見える。

【参考文献】
・加藤聖文『満鉄全史「国策会社」の全貌』講談社,2006年11月
・横光利一「文芸時評」(『文藝春秋』第6巻,1928年11月)
・平林たい子「プロレタリア・レアリズムについての感想」(『新興芸術研究』第2輯,1931年6月)

4.戦後文学の鉄道描写

梅崎春生「蜆」 ——リュックの蜆だ。満員電車だ——

 太平洋戦争で敗北を喫すると、新宿駅前を中心に闇市がひらかれていく。このとき復員や一次産業の壊滅によって首都圏の人口が急増し、日本はハイパーインフレに直面していた。インフレ抑制のため、戦時中より物価に上限を定める〈公定価格制〉を設け、配給制度によって食糧・物資不足を補完していたが、復興途上の生産ラインが追いつくはずもなかった。この穴埋めとして、駅前闇市が機能したのである。闇市が鉄道網に沿って形成されたのは、闇米や闇イモ等の闇物資を運搬するのに列車が適していたからだ。地方に向かう列車は〈買い出し列車〉と呼ばれ、これに乗り込む〈かつぎ屋〉たちは闇物資を偽装して都市まで運んだ。1947年に発表された梅崎春生「蜆」は、〈かつぎ屋〉になった元サラリーマンと、彼の話を聞く男の話で構成されている。

 その夜僕も酔っていたが、あの男も酔っていたと思う。/僕は省線電車に乗っていた。寒くて仕方がなかったところから見れば、酔いも幾分醒めかかっていたに違いない。窓硝子の破れから寒風が襟もとに痛く吹き入る。外套を着ていないから僕の頸はむきだしなのだ。座席の後板に背筋を着け、僕は両手をすくめて膝にはさみ眼をしっかり閉じていた。そして電車が止ったり動き出したりするのを意識の遠くでぼんやり数えていた。突然隣の臂が僕の脇腹を押して来たのだ。/「何を小刻みに動いているんだ」。/とその声が言った。幅の広い錆さびたような声である。それと一緒にぷんと酒のにおいがしたように思う。/「ふるえているのだ」と僕は眼を閉じたまま言い返した。「寒いから止むを得ずふるえているんだ。それが悪いかね」/それから暫く黙っていた。風が顔の側面にも当るので耳の穴の奥が冷たく痒い。僕の腕の漠然たる感触では隣の男は柔かい毛の外套を着ているらしいが、僕は眼をつむっているのではっきりは判らない。暖を取るために僕は身体をその方にすり寄せた。すると又声がした。/「お前は外套を持たんのか」/「売って酒手にかえたよ」/「だから酔ってるんだな。何を飲んだんだね」/「全く余計なお世話だが、聞きたければ教えてやろう。粕取焼酎という代用酒よ。お前もそれか」/軽蔑したように鼻を鳴らす音がした。/「清酒を飲まずに代用焼酎で我慢しようという精神は悪い精神だ。止したが良かろう」/まことに横柄な言い方だが口振りは淡々としていた。そういえば隣の呼気は清酒のにおいのような気もした。/「飲むものはインチキでも酔いは本物だからな。お前は何か勘違いしてるよ」/僕はそう言いながら眼を開いて隣を見た。僕より一廻り大きな男である。眉の濃い鼻筋の通った良い顔だ。三十四五になるかも知れない。黒い暖かそうな外套の襟を立てていたが、赤く濁った眼で僕を見返した。膝の間から掌を抜いて僕は男の外套に触れて見た。/「良い外套を着ているじゃないか。これなら小刻みに動く必要もなかろう」/男は微かに眼尻に笑いを浮べた。しかし笑いはすぐ消えて何か堪える顔付になった。/「この外套、要るならやるよ」/「何故くれるんだね」/「だってお前は寒いのだろう」/「そうか。ではくれ」

(梅崎春生「蜆」『文学会議』1947年12月)

 まず「窓硝子の破れ」という表現に注目したい。車窓の破損は今でこそ列車を停止させる大事故だが、当時はそのまま運行していた。西山正の『サヨナラ国鉄 鉄道の社会史』(毎日新聞社1987年5月)では、混雑のために窓も昇降口になっていた事実が語られている。ひょんなことから立派な外套(コート)を貰った「僕」は、数日後のバス停で外套をくれた男と再び出会う。「この釦は俺の祖父さんが、撃取った鹿の骨だ。九州は背振山よ。六角形してるだろ。いい職人だったぜ。そこらの釦とは違うんだ」と熱心に解説する様子に、外套を手離した彼の後悔を感じ取り「欲しければくれてやるよ」と言い放つ。すると男は「俺は他人の慈善は受けん」「俺は物貰いじゃない」と憤慨しながらも「俺が欲しくなれば、お前から貰うのは厭だから力ずくで剥取るよ」と言い残し、去って行く。一週間後、渋谷駅のホームで寝ていた「僕」は、男の予告通り外套を剥ぎ取られてしまう。男はかなしい表情を浮かべていた。男とまた逢うかも知れないと考えていたら、数日後の駅前広場でやはり出会った。男は外套の上に空のリュックを背負っていたが、外套のボタンがひとつなくなっている。「釦はどうした」と訊く「僕」に、男は「面白い話がある」と言う。
 男の口から、サラリーマンとして真面目に働いた過去、会社が潰れて失職したこと、家族を養うために船橋へ就職相談に行ったこと、そこで外套が必要になり奪ったこと、「贓品」を身に纏うという感覚が心地良かったこと等が次々に明かされていく。そして男は、船橋行きの満員電車で目撃した転落事故の顛末について語りはじめた。男が乗った列車の扉口には「扉が無かった」。闇屋らしい若い女が「そんなに押しちゃ落ちるわ」と悲鳴をあげると、義侠心ある「おっさん」が場所を変わってあげた。

 人がだんだん立ち込めて来た。とにかく身動きができないのだ。始め扉口にいたあの娘な、あれが俺の脇にいたが、曲った俺の姿勢から俺の眼は、女の下半身が一部分見えるのだ。女はやはり人にはさまれて動けないらしいが、どういう加減かスカアトが捲れたままに押しつけられていて、白い腿が俺の眼に見えるのだ。こんな寒いのに女は素足だった。真白い腿だった。電車がカアヴにかかる毎にその腿が緊張する。ぐっと俺は押されて肩でおっさんの胸を押す。おっさんはあえいだ。/――にいさん、ちょ、ちょっと。押さ、押さないで。このリュックを……/そして又ぐっと来た。おっさんはその時は既に真蒼になっていた。俺だってどうすることもできやしない。反対側にかしいだ時おっさんは棒を掴み直して態勢をととのえようとした瞬間だった。突然強烈な反動がぐっと起り、俺も危うく扉口に抱きついた瞬間、力余った俺の肩がおっさんの身体を猛烈に弾いたのだ。あっという間もなかった。血も凍るようなおそろしい瞬間だった。おっさんの指は棒から脆くも外れ、必死の力で俺の外套の胸をはたいた。思わず俺は片手でそれをはらいのけたのだ。おっさんは獣の鳴くような声を鋭く残して、疾走する車体の外へぶわぶわと落ちて行った。俺は全身が燃え上るような感じで扉口にしがみつき、両足でしっかりリュックをはさみ込んでいたのだ。/――落ちたぞ。誰か落ちたぞ。/其処らで声が叫んだ。しかしおっさんが落ちたために、扉口の辺はいくらか凌ぎよくなったのだ。俺はまだふるえが止まらなかった。/――落ちたって何が落ちたんだい。/奥の方でそんなのんびりした声が聞えた。/――人間だよ。/と誰かが応じた。誰だ、誰が落ちたというんだ、ざわめく声の中で、/――誰だっていいじゃねえか。明日の新聞読めば判るよ。/あののんびりした声だった。どっと笑い声が起った。俺の近くでも皆笑った。就中あの女は(おっさんに代って貰ったあの娘だ)キイキイという金属的な笑い声を立てて笑いこけたのだ。あの白い腿が笑いのために艶めかしく痙攣するのを俺ははっきり見た。/お前はその言葉をユウモアだと思うか。/俺は思わん。思わんが俺も笑い出していたのだ。

(「蜆」同前)

 こうして、おっさんのリュックが男の手に渡る。中には大量の蜆が詰め込まれていた。おっさんの正体は、新橋で仕入れた蜆を闇市で捌く〈かつぎ屋〉だった。リュックを家に持ち帰った男は、寝る前に「プチプチ」という不気味な音を耳にする。それはリュックいっぱいに詰め込まれた蜆の発する啼き声だった。男はその声を聞きながら「日本は敗れたんだ。こんな狭い地帯にこんな沢山の人が生きなければならない。リュックの蜆だ。満員電車だ。日本人の幸福の総量は極限されてんだ。一人が幸福になれば、その量だけ誰かが不幸になっているのだ。丁度おっさんが落ちたために残った俺達にゆとりができたようなものだ」と思い、「俺達は自分の幸福を願うより、他人の不幸を希うべきなのだ。ありもしない幸福を探すより、先ず身近な人を不幸に突き落すのだ。俺達が生物である以上生き抜くことが最高のことで、その他の思念は感傷なのだ。釦を握った死体と、啼く蜆と、舌足らずの女房と、この俺と、それは醜悪な構図だ。醜悪だけれども俺は其処で生きて行こう。浅墓な善意や義侠心を胸から締出して、俺は生きて行こうとその時思ったのだ」と決意を語って聞かせる。今日も男は列車に乗って新橋で蜆を買い、闇市で捌いてきたという。最後に外套を売り払うが、奇妙なことにポケットから次々と蜆が這い出てくる。僕はこっそり外套の釦を引きちぎった。あれから男には会わないが、平凡な闇屋になったと思う……。

 凄絶な鉄道事故の描写が印象的だが、半年前には次のような事件が起きている。

 昭和21(1946)年6月4日の朝、「通勤地獄」の典型であった中央線の上り急行電車から、乗客数名が転落して死亡もしくは行方不明になる悲惨な事故が発生した。場所は、東中野ー大久保間、しかも現場は神田上水を橋梁で乗り越し、高い築堤に移行する地点であった。

(中川浩一「史実でつづる通勤・通学輸送」『鉄道ピクトリアル 特集〈通勤・通学輸送〉』鉄道図書刊行会1985年8月)

 現実の事故から着想を得た創作である。作品は、幸福の総量が限られた満員電車を「リュックの蜆」に見立て、自分の生存が全てと悟った男の生き方に戦後の再出発を見定めたものだ。語り手は〈かつぎ屋〉になった男の生き方を肯定するが、正義感ゆえに命を落としたおっさんを笑いものにはしない。彼の生き方は、遺品となったリュックを背負い「闇屋」になった男に継承され、末尾に描かれた釦を引きちぎる「僕」の身体的動作にもトレースされている。人命よりも物質が優先される戦後社会を描いた作品だが、闇物資が流通する過程に様々な人間模様が見え隠れするのが特徴である。「僕」の記憶は語られず、朧化されているが、外套に纏わるエピソードに仮託されている。福岡県に生まれ、鹿児島県〈坊津〉の暗号兵となった経歴を持つ梅崎春生。語り手は「背振山」という九州の地名を登場させ、男の口から外套の由来や来歴を語らせる。この外套の毛が「郷愁を誘うような」匂いと表現され、その「釦」の色や形に惹かれ、「俺のために仕立てたと思う位」「着具合の良い」と感じるのも、「僕」が外套に通じるルーツを持っているからに他ならない。つまり「僕」は梅崎春生に近しい背景を持つ人物であり、「男」とも鏡像の関係で結ばれた存在であると考えられる。反転すれば「男」が「僕」に外套を与えるのは単なる善意の再確認ではなく、やはり「僕」の姿に「郷愁」を嗅ぎ取っていたからということになる。「贓品」となった外套は「男」に贓品のリュックを背負って生きる決意を与えたが、男の語りの中に「僕」の意識が介在している点に注目したい。作品の時系列を整理すると「その夜僕も酔っていたが、あの男も酔っていたと思う」とあるように、「僕」が男の話を語り直しているということがわかる。そもそも、満員の駅構内で何度も邂逅したり、互いの姿を視認できる小説の構造自体が奇跡というべきで、そうした奇跡の連続が重なり合ってふたりの鏡像をより分かちがたいものに仕立てている。

【参考文献】
・石榑督和、青井哲人「闇市の形成と土地所有からみる新宿東口駅前街区の戦後復興過程:新宿駅近傍における都市組織の動態をめぐって その1」(『建築雑誌』日本建築学会,2015年8月)
・紅野敏郎、紅野謙介他編『日本近代短篇小説選 昭和篇2』岩波文庫,2012年9月

野間宏「顔の中の赤い月」 ――破れた硝子窓が彼女の顔をこするのを見た――

 野間宏「顔の中の赤い月」は、1947年8月「綜合文化」に発表された。「蜆」とほぼ同時期に描かれた戦後文学である。主人公の名は「北山年夫」。製薬会社勤めの外交員として、表層的には問題なく進行する日常を送っているが、心の中では絶えず「人間否定」「人生否定」の言葉を反芻していた。彼の「記憶の深層」から迸るトラウマは「フィリッピン」での従軍体験に根ざしていた。それは「古年兵」に打擲されながらサマット山の坂道を〈歩きつづける〉という過酷な旅であった。彼はそこで戦友を見捨てた。

 彼等はそれまで交代兵達が持っていた痩せて腰の辺りの骨のむき出た裸馬の手綱を取って歩き始めた。が既に彼等には馬と共に歩いて行く力がなくなっていた。彼らの脚は十日間ほど取りはずさずつけている巻脚絆の中で感覚を失っていた。そして坂道を一歩ふみ出すためには多大の血液を失わなければならないように思われた。/「何をしやがる。」と分隊長代理の兵長が、後尾にさがってきて、馬の手綱を握っている彼らの手に鞭を放った。/「馬にぶらさがりやがって、馬のくたばってるのが解らんのか。「おめえらの代りはあっても、馬の代りはねえんだぞ。このくそ暑いのに、こっちに一々文句を言わせねえようにしろ。」(中略)「俺は、もう歩けん。」魚屋の中川二等兵が北山年夫の曳いている馬の胴の向うでした。これは既に何回となくそれまでに中川二等兵の繰返してきた言葉だった。そして、その声は、北山年夫の弱りはてた心に食い入った。体力を消磨しつくし、中川二等兵は既に骨の太い自分の図体をもちはこぶエネルギーを失ってしまっていた。/「今度こそ、俺は、もう駄目や。どういうたって、俺はもう歩けん。」それでも彼は尚三十分程、馬に引きずられて歩いていた。(中略)「俺はもう手を離す、もうはなす」中川二等兵のこの声で、北山年夫は戦友の体力が完全につきたことを感じた。この語尾の方が次第に細くなり、最初北山年夫に対して呼びかけようとしていた語調の中から、その呼びかけが失われて、何か自分自身に云いきかせているような、或いは、人生の最後に、彼の意識が彼の全人生をかけめぐっていることを示すような哀れなその言葉は、北山年夫の心の底にとどいた。しかし北山年夫は戦友のために、何事か(ただ、戦友の肩をたたいてやるとか、はげますとかいうような一寸したこと)をしてやる力を持ち合せていなかった。というよりも、もし彼がそのような動作を開始したとすれば、今度は彼が自分の身を支える力を失って、死滅する以外ないであろう。彼は中川二等兵の声に自分の心がさそい込まれて行くのに抵抗しながら黙って歩きつづけた。

(野間宏「顔の中の赤い月」『綜合文化』1947年8月)

 行軍はサマットの山道を「巻脚絆の中で感覚を失って」なお歩き続けた。「彼らの脚」から「多大の血液」を吸い上げるように「赤い月」は輝き、戦時下の非情な光景を真っ赤に照らす。作品のモチーフになっている箇所である。隊列の後方、手綱を引いて歩かされる北山と「中川二等兵」に、もう体を支えて歩く動力は残されていなかった。二人は「馬に引きずられて歩いていた」が、戦場で優先されるのは人命より馬の命だった。これを咎めた「古年兵」は二人を容赦なく「しばき上げた」。この列の中で北山の「戦友」と描かれるのは、同じ「初年兵」の中川二等兵だけである。しかし、北山は無二の戦友である中川二等兵を、サマットの山道で斃死させねばならなかった。それは戦場で二人のあいだにのみ存在した「心の流通」や「心の交換」を断ち、「戦闘の落伍者」として切り捨てる行為だった。軍隊はこの非情な判断を自明のシステムとして組み込み、否応なしに戦闘員に履行させる。北山を苛む「人間否定」はいたましい戦時下の記憶に由来するものだ。
 
 一方、作品のヒロイン「堀川倉子」は〈戦争未亡人〉として描かれる。小説の書き出しは「未亡人堀川倉子の顔のなかには、一種苦しげな表情があった」という堀川の描写に始まり、その「悲しげな表情」は「湯上由子の語ったところによれば、堀川倉子は恋愛を通して結婚し、結婚後三年目に応召した夫を失ったのであった。二人は愛し合い、この上なく幸福であり、彼女はその幸福を戦争のために破壊されたのであった。そして最近彼女に再婚の話が起こっているが、仲々その決心がつきかねているらしいとのことであった」という境涯に根ざしていることが〈第三者〉の言葉で語られる。
 戦後になっても往時のトラウマを刻んで生きる北山と堀川は、互いの存在を意識しながら「暗い」「長い」「廊下」を隔て、同じ「ビルディング」で働いている。北山は、互いの職場を隔てた「廊下」で堀川とすれちがう度に「苦しげな」「表情から放出される美のエネルギー」を感知する。北山の心はその苦しさと美しさにとらわれたが、廊下を歩き渡って接近をはかるようなことはしない。物理的な距離以外にも「暗い」という表現に対応する過去の時間が、「長い」に対応する精神的な距離が、ふたりの間に横たわっていた。更に北山は、彼女の表情を思い浮かべた途端「人間否定、人生否定の言葉が自分の内部から、ぶち上って来る」のを感じる。だから北山は、第三者「湯上由子」を介して堀川と疎通する他よりなかった。三人での会食を契機に、北山と堀川は仕事帰りに時々「コーヒー」を飲む関係に進展していく。帰りの電車内で向き合って立ったとき、北山は堀川の顔にある赤い斑点に、サマットの赤い月を幻視する。

 彼はその左の眼の上にある小さな斑点の存在をはっきり確かめたい衝動にかられて彼の視力をそこに集めた。彼はその斑点をみつめた。しかし彼の心を乱すのは彼女の顔の上のその斑点ではなかった。そして彼は自分の心の中にある斑点のようなものが何を意味するのか、彼には既に判っていた。(中略)彼は堀川倉子の白い顔の中でその斑点が次第に面積を拡げるのを見た。赤い大きな円いものが彼女の顔の中に現われてきた。赤い大きな熱帯の月が、彼女の顔の中に昇ってきた。熱病を病んだほの黄色い兵隊達の顔が見えてきた。そして遠くのび、列をみだした部隊の姿が浮かんできた。ごーっという車両の響きが、北山年夫の体をゆすった。そして「俺はもう歩けん。」という魚屋の中川二等兵の声が、その響きの中から、きこえてきた。

(「顔の中の赤い月」同前)

 堀川の顔の赤い斑点が、表題のとおり「顔の中の赤い月」に変化していく。これは北山の「心の中にある斑点」に結びつく描写であり、二者の関係性を象徴する。赤い月の幻視のあとに続く「俺はもう歩けん」という中川二等兵の断末魔の幻聴に注目したい。作品には「歩く」という動詞や、歩き方についての描写が多用される。

 そして彼は静に眼を開いて歩みつづけた。既に彼の体内からぶち上がってきた暗いあつい思いは、引き潮のように消え去っていった。彼はそのいやな、如何にも処理しがたいその思いの湧き上がってきた、そしてそれが去ったあとも、尚黒い炎か何かのように感情の斑点の残っている自分の心臓の辺りを見つめながら歩いて行った。「如何に俺のこの感情が人間否定であろうとも、この感情は本の一瞬的なものにすぎないのだ。俺はその他の時間には、いつものように、曖昧に人間を肯定して、飯を食い、歩き呼吸している人間だ。」と彼は思った。しかし、これらの物を食ったり歩いたりしている人間が、愛を知らないということはたしかなことであると彼は歩きながら考えた。あの戦闘の場に置かれたとき、やはりこれらの人間は俺と同じようにただ自分を守る以外にないだろう。

(「顔の中の赤い月」同前)

 北山は戦後社会が到来してもなお「心臓の辺り」に焼き付いた「斑点」を見つめながら「歩いて」いる。「曖昧に人間を肯定して、飯を食い、歩き呼吸している人間だ」と自分を責め、「物を食つたり歩いたりしている人間が、愛を知らないことはたしか」だと「彼は歩きながら考え」る。その思考の辿りつく先は「あの戦闘の場」である。北山にとっては「歩く」という行為もサマットを歩いた記憶を辿る反復行為なのである。語り手は、登場人物三者の歩き方を次のように書き分ける。

【湯上由子】
・帰りをいそぐ人々の中を三人は並んで東京駅の方へ歩いて行った。二人に挟まれて真中にいる湯上由子は、職場で夫を失い、小さい子供を三人かかえていたが、三人のうちで一番明るく、彼女の歩みと同じようなしっかりした足どりで人生を歩いているように見えた。

【北山年夫】
・左側の北山年夫は三十を半ばこえていたが、年よりも老けて見えた。そして彼の身のこなしには、長年軍隊にいたものの身に自然にそなわってくる、あの放浪者型の無頓着さと疲労の跡とがあったが、それにもかかわらず、そこには、軍隊生活と戦闘の苦しみをきりぬけてきた人間が内にもっている強さが感じられた。そして彼は兵隊のように長い足を引きずって歩いていた。

【堀川倉子】
・右側の堀川倉子は、その日空色の線のはいつた幾らか明るい色調の春のスーツに着替えて、それが夕暮の光のまだ残っている駅前の広場の中に柔らかくとけ入るように見えたが、彼女は湯上由子の全くこだわりのない開け放れた心に対しても、幾らか自分自身を閉ざし言葉少なく、うつむき加減に、小刻みな歩調で歩いた。

(「顔の中の赤い月」同前)

 湯上は「三人のうちで一番明るく、彼女の歩みと同じようなしっかりした足どりで人生を歩」き、北山は「兵隊のように長い足を引きずって歩」き、堀川は「開け放れた心に対しても」「自分自身を閉ざし言葉少なく、うつむき加減に、小刻みな歩調で歩い」ている。語り手は三者を並列させ、歩調を書き分ける。北山らが〈戦後の日常をどのように歩んでいるか〉という生活上の営みをほのめかす暗喩である。北山は軍隊式の歩き方の癖が抜けない。彼の心はまだに隊列のなかにある。一方、戦争で夫を失った堀川も心を閉ざし、うつむいて歩いている。これほど「歩く」表現に執着して書き込んだテクストであれば、語り手のまなざしは登場人物の「足」に注がれて然るべきである。

「俺は一体、どうしようというのだろうか。」「俺は一体何を求めようというのだろうか。」「俺は彼女に愛を求めようというのだろうか。」「戦争で愛する夫を失った女と戦争で死んだ恋人の愛の価値を知らされた男とが結ばれる……一寸、小説だな」と彼は思った。彼はふと、自分の傍に一つの小さな生命が動いているのを感じた。小さなスカートの下から小さな二本の足を出した堀川倉子の体の内の、どこへ行くにも苦しみをもちはこんで行く一つの哀れな生命の存在を彼は感じた。その生命の奥深くに、じっとおとなしくけもののようにひそんでいる苦しみを感じた。

(「顔の中の赤い月」同前)

 或る日北山年夫が三階の階段を上がっていると、堀川倉子がその中ほどのところで、腰をかがめて、立ちどまっているのに出会った。/「どうしたんです?」/「いま、そこでつまづいて。」彼女はふりむき、彼を認めて答えた。「ちょっと考えごとをしてましたの。」彼は彼女の顔の上に悲しげなものが走り去るのを見た。二人は帰途、一緒になった。(中略)二人は川に沿うて日本橋の方へ歩いて行った。/「もう、足は癒りましたか?」しばらくして彼が言った。/「足?」彼女が髪の毛のふりかかった顔を向けた。「ええ。さっき階段につまずいて、びっこ引いてたでしょう。」/「ええ。すっかり。あたしこの頃、何だか気がめいって。あのときも、何かいろんなことを考えて、ぼーっとしてたのよ。

(「顔の中の赤い月」同前)

「足」への目線や気遣いは、歩けなくなった中川二等兵を見捨てた自責の念から生じるものだが、先行研究では「ところが彼のそういう反省のいとなみにならんで、やにはに女の名が現れる。むろん顔形も現れ、スカートの下からのぞいている小さな二本の足も現れる。何という醜怪な少くも唐突なことだろう(寺田透「野間宏「暗い絵」のこと」『野間宏全集』別巻1976年3月)」、「戦争未亡人堀川信子の孤閨の欲情の苦しみのにおいを感じさせる。それが前半の北山年夫の自己反省の意識の裂け目からいきなり現れるのにぶつかれば、寺田氏でなくとも、何といふ醜怪な少くも唐突なことだろうという感じをいだく(木村幸夫「顔の中の赤い月について」福島大学教育学部論集1969年11月)」と断じられたまま、今日にいたるまで放置されているので、この場で訂正しておきたい。

 最後は、視覚的なプラットホームの描写で締めくくられる。
 

 電車は四谷についた。電車はとまった。ドアが開いた。彼は堀川倉子の顔が彼を眺めるのを見た。彼女の小さな右肩が、彼の心を誘うのを見た。「家迄送りとどけようか、どうしようか。」と彼は思った。「できない。できない。」と彼は思った。「さようなら」と彼は言って頭をさげた。「ええ。」彼女は反射的に顔を後に引いた。そして苦しげな微笑が彼女の顔に浮んだ。彼女が降り、戸がしまった。電車が動いた。彼は彼女の顔がガラスの向うから、車内の彼をさがしているのを見た。そしてプラットホームの上の彼女の顔が彼から遠ざかるのをみた。彼は破れた硝子窓が彼女のその顔をこするのを見た。彼の生存が彼女の生存をこするのを見た。二人の生存の間を、透明な一枚のガラスが、無限の速度をもって、とおりすぎるのを彼はかんじた。

(「顔の中の赤い月」同前)

「蜆」は、満員の車内を閉塞的なリュックの世界に見立て、痛ましい列車事故に戦後の再出発を見定めた作品であった。一方、「顔の中の赤い月」は、戦友を見殺しにした復員兵と戦禍で夫を失った戦争未亡人の交感を「透明な一枚のガラス」で断ち切ってしまう。北山が堀川の顔にサマットの赤い月を見つけ「中川二等兵」の声を聞くとき、堀越もまた北山の軍隊式の歩き方に戦死した夫の面影を見ていたに違いない。ここにも鏡像の関係が成立しているが、「顔の中の赤い月」では互いの「生存をこする」という表現にとどめられる。北山を乗せた電車は彼をサマットの山道に連れ戻し、プラットホームに残された堀川は亡き夫の面影を引きずりながら戦後という荊棘の道に迷いこんでいく。「顔の中の赤い月」は復員兵と未亡人の感傷を交錯させながら、記憶の深層によみがえる虚無的な光景をとらえている。

5.むすびにかえて

 鉄道と文学という題材で、鉄道描写が印象にのこった作品を戦前―戦後の時系列に沿って紹介した。新宿―横浜間の開業式、関東大震災、満鉄、駅前闇市、買い出し列車……、鉄道史と近代文学史は近しい関係にある。鉄道描写はジャンルを選ばないため、時代小説以外にはうってつけだ。空を走らせるとSFやファンタジーの系譜に、車内の人間模様を描くとロマンスやミステリーの系譜になる。オリエント急行から、密室トリックとものものしい描写を抜き取ってしまえば、実にのんびりとした冬のポアロの鉄道紀行になる。鉄道を書けばそれだけで文学になるし、ビデオで撮れば映画になる。

 当初は内田百閒の鉄道紀行文『阿房列車』シリーズ(1952年6月~1956年3月)を紹介するつもりでいたが、自己満足になってしまったので、鉄道史と文学史の方向に切りかえた。鉄道史に関する文献を読んでいると、鉄道カタログには決して載らないような史実に驚かされることがある。現に、鉄道は人の夢や希望を運んだが、それと同じくらい武器や兵士を輸送している。それも戦時下に限った話ではない。よく鉄道史の最後に掲載される〈集団就職列車〉の写真は、過ぎ去りし春の風物詩として国鉄時代のノスタルジーを喚起させる光景である。一方で、無知の涙を流している青年の姿を思い返さずにはいられない。

 鉄道が好きな私は、そうした鉄道の負の面からなるべく目を背けるように生きてきた。後ろめたい感情があっては、純粋に鉄道を楽しむことができなくなってしまう。D51の模型を組み立てながら、戦時中に大量生産された史実を思い浮かべるような事態は避けたいし、東京メトロに乗るときは都合良くオウム事件のことを忘却したい。一種の防衛機制である。それに、趣味につきまとう偽善的なメンタリティーなど、すぐに遮断してしまったほうが精神のために良い。Nゲージのようにたやすく分断できるからこそ、鉄道は盲目的に愛を注ぐ対象になり得るのである。

 しかし、そこに文学という一本のレールを敷けば、そうした史実も受け容れやすいものに変わってくる。それは物語が持っている性質のためである。地下鉄サリン事件の2年後に上梓された村上春樹『アンダーグラウンド』(講談社1997年3月)は、冒頭に地下鉄路線図を配し、千代田、丸ノ内、日比谷線の乗客のインタビューを載せたノンフィクション文学だ。村上作品に頻出する〈地下〉や〈井戸〉といったモチーフは『アンダーグラウンド』によって深化し、後の『神の子どもたちはみな踊る』(新潮社2000年2月)から今日の『1Q84』(新潮社2009年5月~2010年4月)にいたるまで、ひとつの底流をなしている。これを読み進めるためには、暗い地下を避けて通ることはできない。文学作品に限らず、アニメ『輪るピングドラム』(ブレインズ・ベース2011年7月~12月)にしろ、同じことが当てはまるのではないか。1995年3月20日生まれの登場人物たちが「運命の乗り換え」を行うというストーリーは、主人公の両親が新興宗教の指導者的幹部だった、という衝撃的な事実から出発するのである。

 つまり、何かの物語を読むためには、物事のどんな負の面も避けて通ることはできない。そうおもって鉄道記念日にこの記事を書いた。コロナ禍の今日、公共交通機関がまるで狂気の現場のように扱われている。マスク着用を頑なに拒む乗客の心理はわからないが、これをインターネットに晒しあげる乗客の心理は理解にくるしむ。しかし、閉塞的かつ排他的な時勢だからこそ、一冊の本に向き合える時間は以前よりずっと増している。電車に乗って本を読む時間は至福のひとときであり、そこではプライベートな時間が車窓の風景とともに流れる。小僧のように自分だけの時間をどこまでも楽しむことが、今の私たちに最も必要なことではないだろうか。

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2015年、文学修士号取得。 クライアントの意向に沿って商業や美容に関する文書を作成するゴーストライター。生計を立てるためにビジネス文書を作成しながら、生きていくために好きな文学のことを書きたい。