推しが燃えた
なんともわかりやすい書き出しだなと思った。
同時にこれ今しか伝わらないかもしれないな、とも思った。
10年、20年過ぎたら、すっかり違和感のある言葉になってしまうかもしれない。
なので、今、読んでほしいなと思った一冊でした。
あらすじ
推しが燃えた。ファンを殴ったらしい。
主人公のあかりは、アイドルグループ「まざま座」のメンバーである上野真幸を“推し”ている。高校一年生の時から応援し続け、ブログも書き続け、ファンの間でも「ガチ勢」として多少名が知れているほどのあかり。
しかし、真幸はなぜかファンの一人を殴ってしまい、炎上する。学校もバイトもうまくいかないあかりにとって、推しこそが自分の救いだったが……。
心の支え、推し。
推しが燃えた。ファンを殴ったらしい。
僕は書き出しがいい作品は基本好きなので、この作品は好きだ。だいたいこの一行で主人公の像も今後の話の大筋もあらかた見えてくるのってすごくないだろうか?
主人公が“推し"がいる人間で、かつその推しに炎上という緊急事態が起こったということ、「アイドルが燃えた」でないあたりも結構最近のワードがわかる若い人だな? なるほどかなりタイムリーなネタだな? ということまでだいたいわかる。
同時にこれ今しか伝わらないかもしれないな、とも思った。10年、20年過ぎたら、すっかり違和感のある言葉になってしまうかもしれない。なので、今、読んでほしいなと思った一冊だ。
そんな書き出しから始まる本作品だが、タイトルと書き出しからお察しの通り、推しが炎上する話である。
主人公のあかりがハマっている上野真幸くんがファンの一人を殴ってしまい、炎上するところから物語は始まる。
あかりは炎上にショックを受けながらも、推しを応援し続ける。そんなあかりが推しを追う日常から、推しを追っている人々にとっての“推し”が何なのかが描かれていく。
“推し”は命にかかわる
推しとはいったい何なのだろうか? ただのファン……と何が違うのか。読んだ感想を交えながら述べていく。
未来永劫、あたしの推しは上野真幸だけだった。彼だけがあたしを動かし、あたしに呼び掛け、あたしを許してくれる
『推し、燃ゆ』 p36
と言っても、“推し”がなんであるかをうまく形容できないので引っかかった一文を引用していく。バイトも学校もうまくいかないあかりにとって、“推し”こそが、生きる糧で、それがあるから何があっても、バイトで怒られても勉強できなくても生きていける。
しかし何というか、ポジティブな、何か、こう、光り輝く存在なのだけど、どうもこう「アイドルのファン」と言うのは、この作品ではしっくりこない。
どちらかと言うと、もっと、生活に根付いているような感じなのだ。
あたしには、みんなが難なくこなせる何気ない生活もままならなくて、その皺寄せにぐちゃぐちゃ苦しんでばかりいる。だけど推しを推すことがあたしの生活の中心で絶対で、それだけは何をおいても明確だった。中心っていうか、背骨かな
『推し、燃ゆ』 p37
ここで書かれている「背骨」が一番しっくりくる。何気ない生活に刺激を与える光り輝く存在……というと違うのだ。
ただただ学校に行くとか、授業に出るとか、バイトやるとか、みんなが息をはくようにさらりとこなしているものに一個一個躓いて泥だらけ、もうコケてそのまま起き上がる気もねえよそのまま殺せ、と言うところに、背中にしゅばっと入ってきて起き上がらせてくれるのが推しなのだ。
僕には推しはいないが、僕も高校時代主人公と似たような感じで、その時の背骨たる趣味としてゲームにゴリゴリにはまっていたからよくわかる。
勉強ができねえ社会に適合できねえ、それで毎日父親から「お前は社会でやっていけない」と言われた、そんな不快な社会から逃げられるのがゲームだった。
それと少し似ている気がする。うまくいかねえ、やってられねえ、はやくにげてえ、という心の穴を埋めるのが、あかりにとって推しなのだ。
じわりと来る、社会不適合の描写
「お金いつ返してくれんの」
『推し、燃ゆ』 p29
<前も言ったけど夏休み中のシフト表出してね>
『推し、燃ゆ』 p38
少しかたくなった声で「すみません、さっきも言ったんですけどこぼしちゃって」と言われた。
「すみません、あのすぐ片付けますんで」「いや片付けなくってもいいんで、おしぼりだけもらえますか、すみませんけど」
店長が「いい、いい、おれがやっとくから、あかりちゃん生持ってって」『推し、燃ゆ』 P48
じわりと刺される。
ちょっとした失敗、そう、ちょっとした失敗なのだ、ただ、その「ちょっと」がとてつもなく刺さる。
笑顔で「前もいったけど」とか「いいよ」とか、言われるのが一番刺さるのだ、社会に適合できない人にとっては。そこには「もうこいつだめだ」というあきらめの目で見られているような気がして、改めて自身の社会不適合に目がいって、ダメなのだ。
こういうちょっとした失敗の積み重ねが、あかりの自信をゴリゴリと削っていき、心の穴を広げていく。そして、その穴を埋めるためには推ししかいない。
そうやってまたさらに推しにハマっていくのだ。推しにハマって生活が崩壊しているのではない。推しがなければとっくに死んでいるのだ。そして推しがいなくてもとっくに生活が死んでいるのだ。元々骨抜きでなんの力も気力もない人間に、推しという背骨を無理やりぶち込んでいるのだ。
いっぱいいっぱいなのだ、生きるのに。
“推し”との距離感
携帯やテレビ画面には、あるいはステージと客席には、そのへだたりぶんの優しさがあると思う。相手と話して距離が近づくこともない、あたしが何かをすることで関係性が壊れることもない、一定のへだたりのある場所で誰かの存在を感じ続けられることが、安らぎを与えてくるということがあるように思う。何より、推しを推すとき、あたしというすべてを懸けてのめり込むとき、一方的ではあるけれどあたしはいつになく満ち足りている。
『推し、燃ゆ』 p62
そこまで生活の軸になっているからだろうか、主人公のあかりはハマりつつも少し離れた目で見る力がある。
推しが触れるアイドルであろうが、SNSを運用していようが、アイドルはアイドルで、空想……とまではいかないにしても、あくまでも夢を見せる存在なのである。
それはやはり、あかりの言うように、「ちょっとしたへだたり分の優しさ」に詰まっている夢なのではないだろうか。
推しは現実に近寄りつつも、絶妙な距離感で、「へだたり」をうまく出していくことで、主人公のあかりのような存在へ安らぎを与える。僕が思うに、そのへだたりがあるからこそ、すべてを懸けてのめり込めるんじゃないんだろうか。アイドルは、ファンがのめり込んだからって引いたりはしない。けれども、「へだたり」はあるから、アイドル側から一気に近づくこともない。のめり込んだからって近づけるわけではない。
だから、全てを忘れるまでのめり込んだとしても、成り立つ関係性がここにあるんではなかろうか。
社会でやってられんという、色んなあれやこれやをぶん殴ってなかったことにしてやりたいほどの大きな力のやり場が、そこに向けられるんではなかろうか。
これだけのめり込んでいると、一見おかしな距離感に見えるが、むしろ、適切な距離感なのだ、推しと主人公の距離感は。
僕は“推し”という言葉についてピンと来てなかったが、本作品を読んで何となくわかってきた。
そういう意味では、“推し”について造詣が深くない人でも、“推し”を知るために読むことができる作品である。
そんな“推し”との絶妙な関係性を描いた『推し、燃ゆ』、気になった人は、“推し”と聞いてピンと来る人も来ない人も、ぜひ読んでほしい。