第164回芥川賞候補作品をぜんぶ読む あるいは受賞予測のようなもの

2020年12月18日に、第164回芥川賞候補作品が発表されました。

候補作品は、以下の5作。

  • 宇佐見りん「推し、燃ゆ」(文藝秋季号)
  • 尾崎世界観「母影」(新潮12月号)
  • 木崎みつ子「コンジュジ」(すばる11月号)
  • 砂川文次「小隊」(文學界9月号)
  • 乗代雄介「旅する練習」(群像12月号)

上記5作品をすべて読み、それぞれの作品の周辺情報や感想を紹介します。あわせて、最後には受賞予測を試みたいと思います。

宇佐見りん「推し、燃ゆ」(文藝秋季号)

まず内容の善し悪しを別にして、受賞したときの話題性が抜群なのは宇佐見りんさんの『推し、燃ゆ』だろうなと思います。

要因としては、

  • 前回(第163回)芥川賞受賞者の遠野遥さんと同時に、第56回文藝賞を受賞してデビューしている
  • 現在21歳で、受賞すれば、遠野遥さんに続いて平成生まれ2人目の芥川賞作家となる
  • デビュー作『かか』で、三島賞を受賞している
  • 作品の主題として、ここ数年で定着した「推し」を取り扱っている

などが挙げられます。

特に「推し」という主題に関しては、注目している方も多いのではないでしょうか。「推しが燃えた。ファンを殴ったらしい」という簡潔かつ衝撃的な書き出しも印象的です。

この作品を読んだとき、僕は「生きづらさの系譜」というものを想起しました。僕の読書体験に照らし合わせて見ると、そこには綿矢りさ、本谷有希子といった作家たちがいます。『インストール』も『蹴りたい背中』も『生きてるだけで、愛』も「江利子と絶対」も、若い女性主体が生きづらさを上手くコントロールしたり、あるいはコントロールできなかったりして生きていく物語だな、という印象があります。本作も、高校生の一人称主体・あかりが、「生きづらさ」を抱えながら生活している描写があります。

提出すべき宿題は忘れてくるし、バイト先の居酒屋ではすぐにテンパってしまい、客に「あかちゃん」と揶揄される始末。さらにあかりは、幼い頃から姉と比べられ、「劣等生」のレッテルを貼り続けられています。

しかしこの『推し、燃ゆ』が他の「生きづらさを描いた小説」たちと違うところは、彼女がその生きづらさを明確に「病気」と捉えているところでしょう。あかりは、留年が決定したことを機に高校を中退し、それを見かねた父親に仕事をするように言われます。それに対して、彼女は次のように言い返します。

「働け、働けって。できないんだよ。病院で言われたの知らないの。あたし普通じゃないんだよ」

思えば、2000年代にはこの生きづらさに明確な名前はついていませんでした。しかし2010年代半ばくらいから、「発達障害」という言葉をよく聞くようになったように思います。いや、それまでも耳にしなかったわけではありませんが、最近は「発達障害」という言葉がよりカジュアルに使われるようになった感があります。『推し、燃ゆ』は、生きづらさが病名を獲得した以後の世界を描いている作品なのだ、と気づいたときに、僕は小説の世界が拡張されたような気持ちになりました。

小説の世界は、現実の世界の変化を反映するのに少し時間がかかります。僕たちは当たり前に「スマホ」と言うようになっても、小説の中ではまだ「携帯電話」だったりするし、「LINE」と直接的に固有名詞を使えば良いのではないかと思うところでも、「チャットメッセージ」と言ったりします。そんな中で、「生きづらさ」の正体が「病気」であることが明示されている。これは凄いことなんじゃないかなと思います。

もちろん、生きづらさの正体が病気だと分かったところで何かが大きく変わるわけではないですが、その記述に何か救いがあるような気がしてならないのです。

尾崎世界観「母影」(新潮12月号)

また作品内容とは関係のないところから話を始めるのですが、僕はクリープハイプというバンドが好きで、10年弱くらいずっと追い続けています。特に歌詞が好きなんですよね。このクリープハイプというバンドのボーカルで曲の作詞もしているのが、「母影」の作者である尾崎世界観さんです。

この小説は、よく言う「話らしい話がない」小説になるのかなと思います。言い換えるならば、ダイナミックな物語の展開がない。でもそれは決して悪いことではなく、滞留する物語はむしろ登場人物の身体感覚や思考に目を向かわせてくれます。

 体が熱くて、かゆくて、私はそれをガマンしながら水のにおいをかいだ。においは熱くて、強くすうと花のおくがピリピリする。

 外はもう真っ暗になっていた。ただ立っているだけで、体が黒く汚れてしまいそうだった。

主人公は小学生の女の子。彼女が切り取る世界は、僕たちがどこかへ置いてきてしまったものを丁寧に掬い取ってくれているような気がします。それは、世界との対峙の仕方が未分化で、だからこそ引き出されるような感覚の発露なのだと思います。五感が混じり合っているせいで「におい」を「熱く」感じるし、「外」の暗さが自分に作用して「体が黒く汚れてしまいそう」と感じてしまう。

そういう独特な身体性の発露が、作品の中に50個も100個も出てくる。形式段落の終わりごとに、少女の見えている世界が熱を帯びた形で提示される。読み進めるごとに彼女の感覚を自分の中にコレクションしていけるのがとても楽しい、とそんな気持ちになる作品でした。

木崎みつ子「コンジュジ」(すばる11月号)

僕は2020年の秋から、五大文芸誌(文學界、群像、新潮、すばる、文藝)をぜんぶ買ってみる、という試みをやっています。そのきっかけとなったのが、10月に行われた各文芸誌の新人賞受賞作発表。『文學界』、『すばる』の11月号、『文藝』秋季号の3誌が受賞作を掲載していたので、ここから買ってみようと決意したわけです。

受賞作は計5作。どれも面白く読んだのですが、個人的に一番印象的だったのが、木崎みつ子さんの「コンジュジ」でした。

この作品は、フィクションの作り込みが圧倒的に凄い。主人公・せれなが恋する相手であるリアンは、以下のような人物だと説明されています。

 リアンのフルネームはトーマス・リアン・ノートン。一九五一年二月五日生まれのイギリス人で「The Cups(ザ・カップス)」という四人組バンドのメインボーカルを務めていた。端正な顔立ちと卓越した歌唱力、類まれなるメロディーセンスで多くの聴衆を魅了し、最も偉大なアーティストの一人としても名を残している。

まるでWikipediaの冒頭のような完璧なまとめ。でもこのリアンというロックスターは、もちろん実在しません。彼が生まれてから死ぬまでの偽史を徹底的に作り込んで語るところに、この作品の魅力はあります。そしてその偽史は、一人称主体であるせれなが生きる時間軸を支える屋台骨として機能していくのです。

実父から性的虐待を受けているせれなは、憧れの人物であるリアンを架空の恋人に仕立て上げます。せれなの過ごしている時間軸と、リアンが生きた時間軸、この二つがシームレスに溶け合い、せれなは二重の世界を生きることに。この構造が、物語に奥行きを与えているように思います。

また、せれながリアンへ抱く思いは、『推し、燃ゆ』のあかりが「推し」である上野真幸に抱く思いに似ているところがあるように思います。『推し、燃ゆ』の中で、「推し」は「背骨」であると表現されます。「推しを推すことがあたしの生活の中心で絶対」なのです。どんなに生きづらさを抱えていても、「推し」を推していれば生活をすることができる。そして、性的虐待を受けていても、リアンとの恋人生活を信じ抜くことで生きていくことができる。「推し」とはつまり、信仰のようなものなのだなと思いました。神は死んだけれど、皆の心の中にはかけがえのない「推し」がいる。そういう時代なんだな、ということを感じます。

砂川文次「小隊」(文學界9月号)

候補作5作品の中で、最も硬派だと感じたのが砂川文次さんの「小隊」です。日本とロシアが交戦している状態の現代を舞台とし、その最前線での交戦を描いた作品。硬質と感じるのには、漢語と軍事専門用語を多様する独特の文体によるものでしょう。

 だが、「集合」や「結節」、「認識統一」の名目の下に呼び出しを受け、いざ蓋を開けてみれば先の如き馬鹿馬鹿しい訓練や訓示、別の中隊の服務事故を聞かされたとて、そうではない可能性、つまるところ本当の戦闘が生起する、という可能性が完全に除去されたわけではない。

正直なところ、僕はこの小説に対して、読みはじめの頃は「苦手かもしれない」という意識を持っていました。専門用語がたくさん出てくるので、意味を調べないと何が書かれているのかぜんぜん分からないし、硬い文章も脳に負荷がかかる感じがします。しかし慣れてくればなんということはなく、最後はのめり込むように読んでいました。また、描くためにはこの文体である必要があるのだろう、と合点がいきました。

一人称主体の語りである地の文が硬質であることは、戦地の緊張感を伝えるのに効果を発揮しているように思います。その証左として、戦地ではない平和な日常を想起するとき、ふと柔らかい文体の文章が顔を出します。

いい加減テレビを見ながらだらだらとベッドで横になりたいし、願わくばプレステでバイオハザードとかをやりたかった

生活用品を呼称するのに専門用語は必要なく、「テレビ」「ベッド」「プレステ」といった見知った言葉がならびます。そして、バイオハザード「など」ではなく、「とか」とより口語に近い単語を選んだところに、戦地と日常生活の差を感じます。

本作の主眼は緊張感のある戦闘描写にあると思うのですが、そこに日常を思わさえる描写を散りばめることで、この2つの世界観が表裏一体であることを僕たちに知らせてくれています。

乗代雄介「旅する練習」(群像12月号)

今回候補になっている5作品の中で一番「書くこと」に意識的だった作品は、乗代雄介さんの「旅する練習」ではないかと思います。

本作は、一人称主体が旅の様子を語る地の文的なパートと、それに埋め込めまれた形の描写の練習パートの2種類の文章で構成されています。そして、地の文的なパートには以下のような記述があります。

 実際、この話は日記に書かれた。むしろ亜美の日記によってこの会話を思い出したから私はこうして書いていると言ったほうがいいかも知れない。

ここには、今まさにこの文章を書いている一人称主体「私」の意識が立ち昇ってきています。また、上記にもある「亜美の日記」も(亜美は「私」の姪です)、以下のような断りの後に引用されたりします。

 その夜、亜美がみどりさんの部屋で書いた日記は文が長い上に比較的まともで、明らかに手伝ってもらっているとわかった。誇らしくってその日のうちに見せに来たから、私は無断でここに載せることをためらわない。ちょっと変なところもあるが、それは亜美のものだし、私は二人のやりとりさえ想像しながら、そっくりそのまま書き写さねばならない。それはできる限りのことをした最高のもので、取り入れるだけの価値がある。

この文章は、全てのことが起こった後に振り返る形でかかれている(ということになっている)ということが、説明しているわけではないのに筆致からありありと伝わってきます。小説というのはそもそも語りの時制が不明なものが多く、「誰が話しているのか」という疑いをいつまでも持って進まなければならないのですが、その点この小説には安心感が宿っている、という風に感じます。

本作のラストには賛否もあると思いますし、僕も読了した段階で「いや、これは……」という気持ちが去来しました。しかし、最後まで読んで改めてこの作品を頭から読み直すと、すべての意味が異なって見えてくる。一つひとつの描写がやけに美しく見えてくる。そのためには、この書き方で、かつこの終わり方でなくてはならなかったんだろうな、と思いました。

受賞予想

どの作品も素晴らしいものなのですが、賞の楽しみ方の一つとして「受賞発表前に予想してみたい」というものがありますので、私見を書いておきたいと思います。

最初の方でも書いた通り、話題を作りやすいのは宇佐見りんさんの『推し、燃ゆ。』かなと思います。そして僕の個人的な好き嫌いでいうと、5作品中でこの作品が最も好きです。次いで好きなのは、木崎みつ子さんの『コンジュジ』。

しかし、作品の円熟度みたいなものを考えると、僕は乗代雄介さんの『旅する練習』が受賞するのではないかなと思っています。テーマは現代的でありながら、過度に前衛的ではなく、そして小説としての鮮やかさが際立っている。僕はそういう風に感じます。

皆さんの推し作品はありますでしょうか? 

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